自分と、エンリコ・マクスウェルの仲、根底にながれる奇妙な友情と言うのは、結局のところしくじった釦のかけちがいのように、何度も何度も間違って、かけ間違ったゆえに途中からどうでもよくなり、あきらめとも虚脱とも似ているけれども違う、しかしああもうこいつでいいや、そんな風な受け入れ、言葉でうまく説明できない。ただいっとうに彼に用いられているのが、自分だった。
 使い勝手がよかったのかもしれない。
 周りに控えている十三課の夫夫は、人並み外れた戦闘能力の持ち主でありながら、みなかたよった癖があり、もちろん癖と言うのだからかたよっていて当然なのだけれど、なお癖と言うものが強烈な個性となってぎらぎらと光り目立ってしまうのだから、護衛にむかなかったと言うのもあるのだろう。
 けれど、もしかするとそんな理由めいたものはなくて、削いで削いで、周囲を削ぎ落した彼が機関のなかで孤立し、使用するにもなにも駒がない、そんな具合で行き詰まっているのを見、ほんとうに手間のかかるやつだなと言う相憐れむものを感じ、ほら、だとか言って、徐に自分の体を触らせてみせたのがきっかけだったのかもしれない。股ぐらに勢いで手をいざない、どうだどちらもあるだろうと言ってやると、瞬時に理解したのかえらくショックを受けた態になり、それから一日おいて護衛についてくれと頼まれた。
 生まれたときより自分はそう言う体であったのだし、「そう言う」風な人生しか送ってきたことがないから、今さら男だの女だの言うつもりはないけれど、それでも自分の体のことを孤児院時代知っている人間は数人で、機関にはいってからはほぼゼロだったから、秘密を開示したのはあなただけですよとそう言う意味合いにもなる。あなたを信頼して、自分は自分の身体的特徴をさらしたのだ、あなたは弱みを握っている、あなたは自分よりも優位に立っているわけで、だから自分をどうどうとこき使える立場にある。
 どうだ、これで安心して背後を任せられるだろうと。
 実際自分はそう言うつもりで教えたのだし、彼も正しく受け取ったようだった。
 するどい人間なのだった。
 もちいる理由が、利用か使用か、はたまた信用かは、彼自身にさえ判りかねているところがあったから、いまでも不明なままだし、この先ずっと明らかになることはないように思う。ただとにかく、もちいることのできる人間が側にいる、という意味では彼はようよう安定したようだった。
 ややこしい人間なのだった。
 十三課機関のなかにも、自分と同じようなフェルディナントルークス孤児院出の人間は何人かいたけれど、彼のような出世をなした人間、というのは、自分が知っている限りでは他にいない。たとえば自分や院時代から気の合った由美江などは、普通にあそこで初等部、中等部と過ごし、それからひとよりは上回っていた攻撃意欲を買われて戦闘員として訓練され、機関に就いたけれど、当時から頭の回転のよかったマクスウェル少年は、中等部半ばで神学校へ飛び級し、それ以降たがいに連絡も取らず、生きているのか死んでいるのかすら知らず、次に会ったのが十三課に派遣されてから、しかも派遣されてはじめの任務を失敗気味に終えたときで、最初からできのいい事務局員とヘマをした現場担当と言うややこしい立ち位置にあった。
 なんだお前か、というのが第一声だった。
 その声を聞いて、わりと自分は忘れられたように思っていたけれど、彼のなかで一応のところ存在はしていたのだなと、おかしな安心をしたことを覚えている。
 彼もあの頃はまだ、異例の若さで十三課へ配属され、どうにもがちがちになって融通の利かないようなところがあったけれど、さすがにいまでは百戦錬磨、古狸どものあいだで世間の荒波なんてものに揉まれ揉まれて、たとえば意味深な目をした管理教区の大司教が、隣の席につき、やたらと彼の太腿あたりを撫でまわし、神の愛、だとかいうご高説を垂れ流しながら鼻の下を伸ばしていたとしても、にこやかに対応できるだけの面の皮の厚さは手に入れた。
 まったくそれは完璧な、たとえば笑んでいる瞳の奥に瞋恚を熾火のようにちらつかせていても、それと感じさせないだけのペルソナで、対応し慣れていると言うか、まあ太腿を撫でまわされるのに対応もなにもないようなものだけれど、それでもいきなり銃口を突きつけないあたり、成長したなあとしみじみせずにはいられない。
 いまの場合、わりと飲まされて突きつけられない、突きつけることに発想が至らない、と言った風なのかもしれないけれど。
 わたしの酒が飲めないのかねなんてお決まりの台詞、どこの世界でも善意のふりをして、おしつけがましい上司面、もうすこし酔わせてしまえば崩れた姿が拝めるのではないかと言う下心。
 いえもう結構ですとことわる彼の動作は鈍い、ああこれは明日にひびくのだろうなと思い、他人事ながら溜息をついた。
 バルトロメイ管理教区大司教の還暦の祝いだとかで、そうした表舞台、絶対にお呼びがかからないはずのユダを冠する十三課課長にまで手が回ったのは、単純に彼の容姿が管理教区大司教の好みにあっていたからだと思う。
 実際、局長は結構目立つのだ。
 それはたとえば髪が金色であるとか肌が白いだとか鼻筋が通っているとか、そうした見かけのつくりだけではなくて、彼から発する十三課に多い強烈な癖と言うようなもの、研ぎ澄まされたぎりぎりに細い芯、落ちそうで落ちない、ぬきまくったジェンガがゆらゆら揺れていてはい、お次にと回されたときのひやひや感、見ちゃあいられない、そうした焦燥のような気が急いてどうしようもなくなってしまうような、そうした癖、なのだった。
 もちろん、もともと持っている見た目も含む。
 危うい。それが彼を表現するいちばんしっくりくる表現かもしれない。
 危うい。
 だから自分は局長の背中あたりにつきながら、ほんのわずか蜘蛛の糸一本でつながっている、風に煽られくるくる回る木の葉をつついて落としたい大司教の気持ちも判らなくはないと思ったし、そんなもの判ってたまるかという気持ちもあった。
 そう言えばまったく関係ないけれど、ジェンガと言えば、たしか何代目だかまではおぼえていないけれど教皇を輩出した町だったような、だとかどうでもいいことまで思い、ようやく別の誰かに呼ばれ、席を離れた大司教をさいわい、長々と溜め息を吐いて肘を突き、額をおさえた局長へ大丈夫ですかと自分は声をかけた。
 うん、と頷く彼の目はだいぶ普段の剣呑さを欠いていて、まあデキャンタアジュの間もなくひと瓶一気飲みに近いことをすすめられたらそうなりそうなものだけれど、風に当たる、言ってふらと立ち上り開いたままのテラスへ向かった。
 風が冷たい。黙ったまま五分ほど風に吹かれていると、だいぶんすっきりした顔になって彼は首をまわした。
 肩が凝った、と言う。
 好色を含んだ視線で弄られるのが判っていて、それでも懇親会だか祝賀会だかの会場へやってきた局長と、それにあえて触れず知らぬふりをとおす護衛の自分と、おかしな具合で並んで空を見上げた。
 水でも持ってきてやればよかったかな、そう思っているとあのうとうしろからちいさな声がかかり、ふりむくと小柄な女性が、憧慕を満身で表現しながら真っ直ぐに彼を見つめているのだった。
 これをと水の入ったグラスを差しだし、これはどうもと彼が受け取るところへ、以前からお慕いしておりましたと彼女は暗がりでも判るほど真っ赤な顔になって口早に告げる。一瞬口を噤み、ひと呼吸考える素振りだった彼は、
「――ありがとう。私もあなたのことを愛しておりますよ。」
 まったく見事なまでの豹変ぶりだった。自分は内心舌を巻く。
 ヴァチカン教区司教としての顔を、須臾の間に取りもどした彼はにこやかにそうかえし、胸の前で十字をきった。これ以上干渉するなと言うやんわりとした拒絶。完璧だった。
 女性が目を瞠り、それからようやくわたしはこれで、と頭を下げ去った。話をまじえることのできたうれしさと、寸時に拒絶された驚きをいっしょくたに含んで、見やった自分はそれから彼に視線を移す。
 宵闇に見える花壇の向こう側へ、彼が受け取ったグラスの中身を放った。
 毒見もなしに受け取ったものを口にするのがありえないというよりは、ただ苛立ちをぶちまけているように見える。
「愛しておりますよ?」
 口元をゆがめてかれがくり返し、くつくつと喉を鳴らして笑う。向け慣れてきただろう称賛と憧憬、彼を綺麗だとひとは言う、そうだたしかに彼はきれいだ、あの狒々爺がにたにたと薄ら笑いを浮かべ近づいてくるほどにはきれいだ、けれど綺麗なもの自身は、生まれたときよりそれがおのれの顔なのだった。それはたとえば自分の端から「どちらもあった」ということと似ていて、ほかから見るから特殊なだけで、生まれもった顔や、体癖や、生殖は、本人に選択の自由はない。自分は、他人からお前の体はおかしいと言われるまで、自分がおかしいと認識することはなかった。それが普通で当たり前のことだったからだ。言われてはじめて、ああ自分はほかと違うのだなと気がついた。おのれの体が、変態と言われるものだと言うことを知った。
 美しいだとかそうでないだとか、べつの人間の基準で判断される。一切本人の意思は働かない。
 それはときに、ひどく残酷なことだ。
 ハインケル?彼が自分を呼び、
「はい、」
「胸元にぶらさげた十字架はあの女にとっていったい何のまじないだ?」
 吐き棄てた。
「……ネックレスなんじゃあ、ないですかね。」
「だったら真珠でも五重ぐらいにして巻いておけばいいんだ。」
 豚に真珠を投げ入れるようなもの。おそらく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたに噛みついてくるであろう。
 マタイだったかな。聖書の一句がふとよぎる。
「さそりの針。」
 彼は言った。
「蛇に唆されるのは、決まって女。女だ。男と見ればしなをつくって言い寄り、万年発情する雌猫どもめ。」
 嫌悪感。いま訪れた女性へ半分。彼自身に半分。老人どもの視線に這い寄られ、舐めまわされることを百も承知で彼は出席した。弱味をにぎり、甘い汁を吸い、利用し尽くすために彼はあまんじて視線を受けた。
 彼は女性にやさしい。あくまでも礼儀を失さない程度の、型枠通りの他人行儀なやさしさではあるのだけれど、女性はそれを好意を受けとる。勘違いする。やさしさ、と表現したけれど、それはやさしさとは呼ばないのかもしれない。慇懃でやわらかい物腰。
 基本的には女性が嫌いなのだ。女が嫌いというよりは、総じてひとが嫌い、なのだろうけれど。ひと。彼自身を含めたすべてにたいして。
「でも、うらやましいですよ。」
 やぶへびかなと思いつつ、自分は思わず口をはさむ。
「うらやましい?」
「好かれると言うのは、一種の交渉技術だと思うので、」
 使える。だから彼はそれを利用する。おのれのもつ容姿を最大限に生かして、誘蛾灯へひきよせられる羽虫を次々に射止め、撃ち落とす。透徹とした綺麗さだ。莫迦なと彼はせせら笑う。
「怖気がたつ相手にばかりすり寄られたって、なにがうれしいものか。」
「そういうもんですかね。」
 人並み外れて頭がよく、そのうえ知識をつめ込んで、若くしてヴァチカン機関の長のひとつの席に入った。着々と機関内部を自分のものとし、おまけに見た目は生粋のもの。どこまでものぼりつめたいらしい彼の上昇志向はとどまることを知らないけれど、一般的に言えば彼は「見込みのある」、盤の上の勝ち手だ。
「だって局長、のぞんだおおよそのものは手に入る立場でしょう。」
 うらやましいと自分は素直に言った。老人の相手をし、苛立った上司をいたわる冗談のつもりでもあった。
「それは過大評価だろう。」
 案の定、言われた彼は苦笑を浮かばせながらも悪い気はしていないようだった。自分は肩をすくめる。
「自分にはそう見えますよ。片思いはつらいです。」
 自分たちは神僕だった。愛だの恋だの、いまさら口にするような青さはどこかへ飛んでしまったけれど、神僕であると宣誓するより以前、中等部時代や神学校の寮生活では、若い分、誰それが可愛いから好きだの、誰それと誰それの仲はあやしいだの、恋人にするなら断然誰それだの、付いて離れては子供じみた噂に盛り上がり、にやにやしていたものだった。馬鹿馬鹿しいと興味のない素振りをしながら、わりと誰もが真剣で、雑誌の切り抜きをこっそり学生証の裏に入れておいたり、どうにかして仲良くする方法はないかと頭を悩ませたりもした。
 無節操だった、そうしてその無節操さを楽しんでもいた。
 くだらないことを聞きますが、思いだしたついでにふとした興味が湧いて、自分は彼にたずねていた。この、なんでも手に入るような人が味わったことがなさそうなもの、
「局長って、望んでやまない、手に入れたいのに叶わないものってありました?」
 どうしたって彼がいだくはずがないような下世話な問いだった。
 けれど自分が口に出した一瞬、酔ってすさんでいたはずの彼が真顔になった一瞬、しんとした顔、それから数秒間をおいてからある、と彼はちいさくこたえた。
 あるのか、と軽いおどろきとおかしな落胆とともに、自分はなんとか取り繕い、それからそうですか、と上滑りないらえをかえした。
 ゆらゆらと危ういところで揺れるジェンガ。最後のひとつを抜き取ってめちゃくちゃにくずしてしまいたいこころもちがなんとなく、判るような気がした。
 


(Amaor crusis :十字架の恋人)

 

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最終更新:2020年08月08日 23:16