不便があるからちょっと来てくれないか、緊急を要するんだ。
 そんな風に部屋でくつろいでいる時間に電話で簡単に呼ばれて、なにごとかと駆けつけたら、ただの昨日提出した報告書の手直しだった。

「そうでも言わないとお前、のんびりやってきて仕上がるのが明日になるだろう。」
 文句を言ったら返された。それはそうかもしれないけれど、けれどたとえば事故にでもあったのじゃあないかとか、ブチ腐れテロどもの掃討が決定しただとか、もっとこう、おおぎょうな「なにか」を予測して飛んできただけに、背筋を正しての書き物、修正作業だなんて全く身が入らない。
「ハインケル。」
 呼ばれる。
「なんです、」
「終わったら帰っていいぞ。」
 ありがたいお言葉、自分の目の前に数件重ねた報告書、手直ししないとならない個所がどれほどかを知ってそう言ってくれるのだから、いい性格している、としか評価できない。まあ、これ全部自分が書いたものだったけれど。
 自分だって部屋で休んでいたところを駆り出されたわけだし、こんなもの明日にでも持ちこしてうっちゃって、さっさと帰ってもよかった、だのにおとなしく従ったほうが身のためだぞ、と強い口調で言われた。鞭ばかりみせて、飴をださないところがどうにも局長らしいと思うけれど、徹夜の気概で終わらせたら、こないだ提出した数センチにも及んでしまった始末書の束は不問、そう言う意味合いらしかった。
 従わざるを得ない。退路を断たれたのと同じだ。あの始末書の件で、由美江とともに頭っから怒鳴られ処罰されることと、目の下に隈取をつくって明日朝課にでるのとどちらがマシかと聞かれたら、どんなに苦労になるとしたって、誰でもいまの状況をえらぶと思う。こないだの任務はちょっと失敗してしまって、言いつくろえる状況になかったからだ。
 自分を呼びつけた局長は、書架の上の段のほうで明日からの出張の移動中に読むらしい適当な本を探している。ヴァチカン表向きの司教名義で隣の国だったかどこかに行くのだとか言っていたけれど、裏の仕事でこれだけ忙しいのにご苦労なことだと、ひとごとながらちょっと同情した。今日ここへ自分が詰めさせられているのも、彼が明日から数日間留守にするため、出かける前に、いまある仕事をなるべくひとつでも終わらせておきたいと言う、意向なのだろうと思う。たぶん、どれだけ努力したところで、戻ってきたときに机の上に山積みになっている状況は回避できないと思うのだけれど、まあ、それが彼らしいと言えばらしいか。
 手直しする報告書は、めくってみるときちんと修正すべき個所にあちこち付箋やら細い文字で書き込みやらしてあって、そういうのをみるたびに、このひとってほんとうに几帳面というか、神経質だよなとつくづく思う。部下に放り投げるなら、もうそのままなにも手をつけずぶん投げてしまえばよいと思うのだけれど、きっとそれでまた自分が二度も三度も目をとおして、手直し箇所を指摘しなければいけないのが厭なのだと思った。面倒くさいとか、効率が悪いとかではなくて、たぶん純粋に厭なのだ。
 本を物色していた局長がそのまま静かになっていたので、ペンを走らせながら自分が目を上げてちらと確認すると、脚立の一番上、足場のあたりに腰をおろして選んでいたはずの本を開いて読みふけりはじめているのだった。結構な高さだ。そんなところで読んでいないで、下におりてもっと楽な姿勢で読めばいいのに。ちょっと笑ってしまう。
 本当に本に埋もれることが好きなひとだ。
 自分と彼が知り合った孤児院時代から、もう暇さえあれば図書室に籠もって本に鼻を突っ込み朝から晩まで読みふけっていた。それも子供向けの、簡単なイラスト入りのようなものではなくて、当時孤児院に勤めていた教誨師たちが読むような、果てにはそのおとなですら読みづらくて投げ出すような文献のものまで、自分の目からはちょっと気がふれたとしか思えないような読み方で、なんだか気の毒になるほど必死になって読んでいた。読むのをやめると死ぬ、おおげさだけれどそう言いたくなるほどの必死さだった。
 たぶん本人にも理由は判っていなかったのだと思う。
 それにしても、コーヒーのはいったマグを片手に、あんな不安定な姿勢で、わりとこのひとが死ぬときは、事故だとか事件に巻き込まれたとかそう言うのではなくて、本棚の角に当たって死んだとか、書籍が落ちてきて下敷きになって死んだとか、ろくでもない、他人が聞いたら笑ってはいけないと判っているのに笑ってしまうような、たとえば、ピーナツを放り投げて食べたらそのままおかしな具合に気管に入ってしまって窒息死したとか、そうした死にかたをするんじゃあないかとも思った。
 そんなことを思っていたら、局長がなんの気なしに足を組み替えたはずみにわ、だとか言ってバランスを崩す、自分も慌てて立ち上ったけれど机に阻まれて、ああ、なんて言っている間に彼はひっくり返って、脚立の上から落ちた。
 どさどさと数冊の本と、ついでに手にしたマグの中身もぶちまける。
「だ、だいじょうぶですか。」
「くっそ、」
 側に寄ったはいいものの、どう手を付けるべきか、下手に抱き起こして頭でも打っていたら、そんな風に心配していたのだけれど、局長は悪態をつきながらひとりで起き上がり、コーヒーにまみれた顔をぬぐう。悪態をつけるぐらいなのだから、そうまずい具合でもないのだろうとほっとした。
「あー……糞。」
 ぶちまけたマグの中身はまだだいぶん入っていたらしく、顔だけじゃあなくて、頭もシャツもコーヒーにまみれていて、髪からしたたる茶色の水滴と、肌にぺたとはりついた感触が気持ち悪かったのか、彼は舌打ちをして苦々しい顔になる。
「タオルとってくれ。」
 言われて指さされた方へ目をやると、応接用のソファの背にタオルがかけられていて、それが結構無造作に置かれていたのでしわくちゃで、はらうと埃が舞った。
「これ、いつのです。」
「先週だったか?先々週だったか?雨に降られたときに拭いて、そのまま、」
 差しだすと受け取った彼は、うつむき髪をぬぐいながらこたえる、わりと手入れしているらしい髪のように見えるのに、むれたまま乾いたにおいのするタオルで拭いて気持ち悪くないのかとか、そんなことを思う。
 彼は見た目がかなりととのっているし、シャツだとかパンツだとかに、糊のかかったものを着用することが多いから、初対面の相手にはとてもこざっぱりとしたなりの、きちんとしている風に見られやすいけれども、実際は案外がさつで、てきとうで、無造作だと言うことを彼に近しい人間は知っている。仕事の書類に関していえば、それはもう微に入り細を穿つような徹底ぶりなのだけれど、それ以外だとそんなに細かなことにこだわらないと言うか、外から帰ってきて病的なほど丁寧に丁寧に手を消毒しているかと思ったら、ずいぶん前に使ったまま洗っていないマグカップに、「あ。」とか言いながら、新しくコーヒーを淹れてしまってそれを飲んでしまったりだとか、たぶん本当の潔癖症の人間からしたら卒倒しそうなことを平気でする。綺麗好きなのか、そうでないのか判らないようなところがある。
 波の幅がひとより大きく揺れていて、理解されないと言うか。
「それ、脱いでしまったらどうです。」
 べたべたになったシャツをぬぐって、染みにいやあな顔をしていた局長へ言うと、そうだな、とすこし考えた風になって、それからおもむろに釦に手をかけ、さっさとシャツを脱ぎ始める、ここで脱いだって着替えはないわけだし、どうせ自分がいま修正している報告書があがるのを待っているだけで、本を読むほど暇なら一旦部屋へ戻って着替えてきたらどうかと言おうかとも思ったけれど、結局自分がそう言うことはなかった。明日の朝一番に出立すると言うようなことを言っていたし、このところ根をつめて仕事をしていたから、部屋へ戻ったらそのまま寝てしまうのを嫌っているのかもしれない。たぶん、ここで寝なくたってどうせ機内で寝られるのだから、そんな風におもっているのかもしれないし、そうだとしたらいま選んでいる本なんて、寝てしまえばどれも同じようなものなのだろうけれど、たとえば落ち着かないだとか、なにかこだわりでもあるのかもしれない。
 羽織るものもなかったので、どうぞと言って自分の上着を差しだした。
「半裸で部屋に戻る訳にもいかないでしょう。」
 ほぼ全員男、のヴァチカンで、同じ男の上半身を見たところでどうなるわけでもないけれど、十三課課長としての体裁と言うものもあるだろうと思う。
 うん、と受けとろうとこちらを向いた局長の胸板のあたり、中心よりだいぶん左へずれたところに不器用に引き攣れた、小指ほどの幅と長さの傷痕があって、何気に目に留まり、それ、残っているんですねと自分は思わず呟いていた。
「え?」
「傷。」
「……ああ、」
 自分が言うと彼は一瞬すっと無表情になり、それからすぐ能面を苦笑にかえた。
「昔、それで自分、騒ぎましたよね。」
「……大騒ぎされたな。」
 彼も思いだしたのか、苦笑いがすこし深くなる。
 孤児院にマクスウェル少年がつれてこられたとき、自分はすでにもうその場所にいて、周りと馴染んで生活していた。年齢的には彼のほうがいくつか上ではあったけれど、同じ初等部の上級生として面倒を見てやってくださいと、当時の孤児院にいた神父さまたちから頼まれ、先輩面をして世話を焼こうとし、先走った張り切りをことごとく彼にへし折られ、意気消沈し、何度か取っ組み合いのけんかにすら至った。しばらく経つうちに、彼が必要以上に他人の干渉をのぞまないこと、ひとりでいるところへ邪魔をされるのを嫌うこと、彼から話しかけるのはよいがこちらから話しかけられるのが苦手なこと、などを理解して、それからはほどほどの距離感を置いて自分も彼に接するようになり、そうするとお互いにびくびくとした、不器用ながらの接触も次第に増えて、自分たちは傍から見ると珍妙な、いつでも距離を測りかねているような、そんな親密の度合いになった。
 それでも、いっとうに信頼されていたのだと思う。
 自分と彼は取っ組み合いのけんかをしたけれど、それはほんとうに自分と彼だけの関係のことで、もともと彼は口の方が先に出て、しかも相手をとことん叩き潰す言いぶりをするので、上級生たちからは目をつけられ、おとなたちの目の届かないところで、何度かひどい目にもあっていたようだった。
 ひどい目にあっていたにもかかわらず、彼は決してそれをおとなたちに話すことをしなかった。上級生から口止めされていたわけではなかったと思う。たぶん彼なりの自尊心や自負心のようなものがあって、告げ口をすることは彼の誇りにおいて耐えられなかったのだ。子供じみた意地っぱり、そうなのかもしれなかった、けれど自分はどうしたって貫き通そうとするその彼なりの意地に、ある種の尊敬のようなものをいだいていて、だから彼が殴られたり蹴られたりして怪我をし戻ってくる度に、こっそり医務室から救急箱を拝借して、絆創膏を貼ったり、化膿止めを塗ってやったりしていた。
 最初はその手当すら彼はいやがっていたけれど、一度蹴られたところが熱を持ち、そのときは結局神父さまの知るところとなって、個別に呼ばれて事情を聴かれたりして、それがたいそう煩わしかったらしく、以降はおとなしく手当をさせてくれるようになった。
 えらくなってやる、が彼の口癖だった。
 いまはまだ無理だ、あの上級生を黙らせる力がまだ僕にはない、でもきっとすぐにでもえらくなって、絶対に見返してやる、僕に頭をさげなければ生き残ってゆけないほど、僕は絶対にえらくなってやる、手当てをするときに彼は必ず目をぎらぎらと光らせ、そんなことを言った。
 自分は実物を見たことはなかったけれど、物陰にひそみ獲物を狙う、牙と爪をもつ獣はこうした静かで爛々としていて物騒な目をしているのじゃあないかと思っていた。
 それでいて、いまにも泣きだしそうな目だとも思った。
 ある日、いつになくひどくやられて戻ってきたとき、顔以外(腫れると目立つので、やつらは服で隠せる場所以外は決して手を出さない)、どこもかしこもめちゃくちゃな状態で、青あざどころか、黒かったり黄色かったり橙色に変色してあるところもあって、さすがにこれは限界じゃあないかと、自分はおののいた。このままエスカレエトしていったら、そのうち弄り殺されてしまうのじゃあないか。意地にもほどがある、けれど彼は黙ってベッドの毛布にもぐりこみ、体を縮めて痛みに耐えるのだった。
 いつものように救急箱を無断拝借して部屋へ戻り、それまでの腕や脛だけにとどまらない、腹部におよぶ暴行の痕へ青くなりながらせめて湿布しようとしていた自分は、彼の胸にのこった奇態な傷跡を見て、とうとうわあと後ずさった。
 赤くただれた痕。気が動転して、このままでは彼はきっと死んでしまう、そう思いこんで、マクスウェルの声を背中で聞きながら自分は廊下を走り職員室へ駆け込み、そこでのんびりと休憩していたアンデルセン神父の姿を見止め、走り寄りしがみついて訴えた。
 穴が、と自分は言った。
 マクスウェルの胸のここに、穴が開いているんです。
 たちまち真顔になった神父は、自分の肩を掴み、マクスウェルが怪我をしたのですかとたずねた。こわい顔だった。
 判りません。よく判らないんです。
 泣きじゃくって自分は言う。
 血が出ていたかどうかも、判りません。でも、大きな穴がここに開いていて、それに、ほかにも、全身、たくさんの。
 聞くや否や、上着を打ち払って身をひるがえした神父、慌てて自分もあとを追う、走りながらいままで黙って隠してきた自分が、黙っていろと言ったマクスウェルが、暴行を加える上級生どもが、いっぺんになさけなくみっともなく、そうしてかなしく思えて、わあわあと泣きながら自分は部屋へ戻った。
 部屋へ戻ると毛布から顔だけを出し、部屋の入口をきついまなざしで睨んでいる彼がいた。入口にはアンデルセン神父が立っている。
 どうしました、神父が言った。怪我をしているそうですが。
 なんでもありません。マクスウェルがこたえる。怪我なんてしていません。べつに、どうでもないんです。
 ですが、このあたりに、穴が開いていると。
 ――ああ。
 聞いたマクスウェルが笑みを浮かべる。嘲笑だった。
 古傷ですよ。前にできたものです。いま開いたってわけじゃあない。
 そのとき笑んだ彼の表情。入り口を見ていた、だから自分も、神父も視界におさまっていたはずなのに、その目にはなにもうつっていなかった。どこか別の場所、別の人間へ向けられた、底知れない嗤い。絶望なんてなまやさしいものじゃあなかった。自分はちいさく悲鳴を上げる。
「あれ、結局どうしたのだったか。」
 受けとった自分の上着を羽織り、局長がこちらをみて言う、鋭さは増したけれど荒んだ色はずいぶんましになった。
「大騒ぎになったことはおぼえているんだが、最後どうなったか記憶がすっ飛んでるな。」
「……たしかアンデルセンが、局長の毛布を剥いだんですよ。」
 もう無理矢理、四の五も言わさずに剥いで、全身をあらわにさせて、そうして上級生からの「歓迎行為」があきらかになったのだった。
「そうだったか。」
 そんなこともあったのだったかなあ、どんな痛み屈辱をうけたとしても昔話だ。えらくなってやるとおのれに言い聞かせていた少年は、その言葉通りえらくなった。
「局長、聞いてもいいですか。」
「ぅん?」
 あのとき結局どうした傷痕だったのか、聞くことができなかった。あとから考えてみると、全身のあざとは違ってかさぶたもなく、綺麗なものだった。古傷だと少年は言ったけれどその通り以前にできたものだったのだろう。忘れていた。もうずっと気になっていたはずなのに、いま見て思いだすまで忘れていた。
 記憶なんてそんなあやふやなものだった。
「その穴どうして開いたんです。」
「ああ、」
 聞いた彼が薄く笑った。冷淡なものではあったけれど、あの時の少年が浮かべたものよりずっと良かったのでほっとする、自分たちはおとなになった。おとなになる過程で、着くとはなしに身に着いた、ずぶとさや無神経さと言うもの、蒸れたタオルで頭を拭いてしまえるほどにはオブラァトで覆えた、後には引けない意地と言うもの。
 くさいものには蓋をする器用さを知った。
「母親がな。」
 ボタンを留めないまま開いた前身ごろ、その間に手を差し入れ、彼が傷跡をうっすらと撫ぜ微笑む。
「母親?……局長の?」
「いや。産みの母親じゃあなくて……本妻の方。」
「ああ。」
 聞いたことがあった、彼の母親は妾妻であったと、認知されないままに大きくなり、母親が亡くなり、行き場を失い父親の屋敷へ引き取られた。
「笑える対応だった。坊主憎けりゃ袈裟まで、ほんとうにそんな感じだったな。やることなすことことごとく気に入らなかったようで、まあ、いま思うと、あれは神経衰弱とか精神分裂とかそうしたたぐいだったんだろうが。……ある晩かっとなった彼女が、暖炉の火箸を、こう、左脇に、な。」
 とん、と彼が親指で傷跡の上を突いてみせる。
「……刺されたんですか。」
「そう。あの女、心臓って言うのはこっち、左にあると勘違いしてやがった。こんな端に中心臓器があるものか、ちょっと考えればそれぐらい判りそうなものだろう。」
 殺したかったんだろうな。彼の言う。
「真ん中のこのあたりを狙ってくれれば本懐を遂げられたろうに、おかげでこっちはびっくりするし、痛いし、死ねないしで散々だった。」
 言えるものなのだろうか。聞いて、しまったと自分は内心ほぞを噛む。興味、出来心で聞いてよい類のものではなかった。
「昔の話だ。」
 感傷が顔に出たのか、自分をうかがった局長がぽんぽんと自分の肩を叩き笑った。それから自分の腕を嗅ぎ、ああ畜生コーヒーくさいとぼやく。タオルの悪臭には耐えられても、コーヒーの香りは我慢がいかないらしい。それがどうにも彼らしくて、つられて自分も笑った。
 ふたりで向かいあわせ、ふふと笑っていると、こつこつと数度入り口のドアがノックされ、いらえを待たずに内側へ開いた。室内に漂うコーヒー臭と、向かい合い、にやにやとする彼と自分をみとめて、入室した大柄な体が訝しそうに足を止める。
「噂をすれば、だ。」
 まだおかしそうに肩を揺らしながら、局長が立ちあがり、床に散った本を拾いあげながら、できたかとそんな風にかるい様子でたずねた。それを聞いて自分は不意に、どうして彼が私室へ戻らずにこの部屋に居座っていたのか、自分が仕上げる報告書をのんびり待つあいだ、手持ち無沙汰にコーヒーを何杯も飲んで本を選び、よせる睡魔をこらえながら、無理をしてまでここにいた理由、それが理解できたような気がした。
 アンデルセン神父を待っていたのじゃあないかと思う。
「どうしました。」
 怪訝な顔のまま神父は彼へ歩み寄り、手にした数枚の紙を手渡す。ああ、と渡されたそれへ目を走らせながら、
「ハインケルと昔話で盛り上がっていた。」
 彼はそうこたえた。
「昔話……、」
「私の聖痕のありがたい由来を聞かせてやっていたところだ。」
「拝聴しました。」
 首をひねる神父へ、自分はおおぎょうに頷いてかえす、
「凄絶な過去だったので絶句していたところです。」
 でも聖痕はないですよ、言うとそうかと彼がこたえる。聞いてああ、と合点したらしい神父が、胸の、そう言った。このひともまた少年にのこされた傷跡の意味を、あのとき知ることになったのだろうと思った。
「そう。」
 まあこれでいい、アンデルセン神父の報告書へ向かって彼は頷き、それから徐に顔を上げ、やけにぎらぎらとした目付きになって、しくじるなよ、そんな風に呟いた。その目付き、底知れぬ嗤い、あのときの少年が見せたものと同様のもの、自分は息をのんだと言うのに、受けた神父は顔色ひとつ変えず、
「しくじる、?」
 静かにたずねる。
「あの女はしくじった。貴様が私を仕留めるときは必ず心臓、ど真ん中を突き刺すことをしくじるな。」
「……私がしくじるとでも?」
 伸ばしたアンデルセン神父の中指が、彼のむき出しの肌の上、体の中心線の丁度真上をとんと刺し、ここだな、たいそうおだやかな声で告げた。
 動作、指でわずかにふれた肌、自分はその声を耳にした途端、どういうわけかぎくとして、あまりにおだやかに過ぎたのでおそろしくなって、思わず目を伏せる。いっそ闘争をむき出しにした咆哮のほうが百倍ましに思えた。
「そうだ、」
 いらえた少年は、真っ向から視線を受けたようだった。気がふれている、ああまでおだやかで物騒な視線を向けられて平気でいらえる局長も、まるでやさしい風のアンデルセン神父も、そうしておかしいと思っている自分も、まとめてふれているに違いなかった。
 そうだと彼はもう一度言う。そうしてうれしそうに笑った。
 
 
 
(Dies irae :怒りの日)

 

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最終更新:2020年08月08日 23:15