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 勢いというものは、必ず日常のどこかに、転がっているものだ。ひそんでいるのとも違う、手ぐすね引いているのとも違う、どちらかというと、それは意図的なものでは決してなく、たとえるならいそいで歩く足もとにごろごろと無造作に転がされてあって、俺はいそいでいるから、足もとを見ていない。なにかの拍子に蹴躓いて、それこそ、勢いよく蹴躓いて、ぶざまに両手をつくはめになる。ついた両手がそれもまた、勢いよくセメントを垂らした地面でこすれ、べそをかいたとしても、勢い、で済まされる。運がなかった、不注意だった、だからしようがない、誰にでもあることだよと。
 俺の手に握るは銀貨三十枚。
 訪れる気もなかったというのに、どうしてだか足をむけた孤児院で、ろくでもないガキどもと散歩に行ったり、食事の面倒を見たり、寝かしつけたりする用事を押し付けられた。
 だいたい俺はガキが好きじゃあない。あいつらは耳を劈く、けたたましい、喚声を上げることが大の得意で、おかげでこちらはきんきんと耳鳴りがする。過ぎれば頭も痛くなる。慣れと言うものなのか、それとももともと神経が図太くできているのか、周りの教誨師どもはへいざな顔で、おやどうしましただなんて嫌味をよこす余裕すらある。外耳に大鋸屑でも詰まっているに違いない。そうでなければ、ああまで無感な振りはできないような気がする。いや、やはり鈍いだけか。
 そうでなくたって俺は、ひとと言うものと接することがだめなのだ。得意不得意、そういううわべの話ではなくて、純粋にだめだ。どうしていいか判らなくて混乱する。いやな脂汗がだらだら脇のあたりを流れる。あいつは愛想だけはいいと同期の中で噂されないでもなかったが、どこに目をつけているのかと問いただしたくなった。それでも、ひとの中にいるかぎり、仕事と言うものはこなさなくてはならなかったから、外面だけはおっつかっつ、長じる途中で身に着けて、なんとか取り繕えるようになったけれども、それだっていつなんどき化けの皮がはがれるかしれず、俺は神経をすり減らし、ひやひやとし、ひとと接することがだめな自分を呪いながら生きねばならなかった。
 こわかった。
 人間というやつの感情は、上下左右運動どころか、ゲル状態のぬめぬめとした生物のように変態し、変動し、こちらが気を許すと、針の穴も通さない、逃げ場のない、完璧な包囲網をなして、おのれへ取り込もうと貪欲に這いずり寄る。一度かこまれてしまったらもういけない。どうしたって逃げられない。譲歩する余地はないのだ。食うか、食われるか、存在意義は残酷なものだった。
 だから俺はなるべく、そうした人間の機微とやらに触れないようにこそこそと過ごしてきたし、どうしても、面と向かい合わなければいけない状況のときには、敵意と言うものを歓迎した。敵意は判りやすかった。蔑ろにされることは、むしろ俺にとって慶ぶべきものだった。俺は、ひとにつけ入ることは得意だった。相手のいやがることを察し、いやがる通りにしてやることもできた。
 けれど、ひとに好かれるすべは知らない。
 気に入られるといった風に擬態することはできたから、そうして上の連中の機嫌をのらくらかわしてやってきたけれど、子供特有の、なんでも見透かしているような目、こちらの腹黒さはまるで通用しないのだと最後通牒をたたきつけるような目、見返りをもとめずがむしゃらに突き進んでくる目は、どうしてよいやら判らなくなる。俺のすべてが通じない。
 そうして俺は、だめになってしまう一歩手前で子供らから解放され、ぐったりで貴様の部屋へ転がり込んだのだった。
 他意はない。ガキがいない場所ならどこでも良かった。
 見られて困るものもない、とられて弱るものもない貴様のがらんとした殺風景な部屋は、俺が孤児院にいた時分からなにも変わらず、ただ数冊、子供向けの本がベッドや床に散っていた程度だった。拾いあげ揃えてやる。飾りのいっさいない、色気のない部屋だ。普通の学校の教師の部屋であったならきっと、壁にガキの書いた下手な絵が貼りつけてあったり、輪飾りやら紙の花があってもおかしくはない。しかしここは孤児院だった。
 親のない子供たちにとって、「特別」は麻薬よりもたちの悪い言葉で、どいつもこいつも好きな教誨師の特別な人間になりたがって目を光らせて観察していた、だから院へ勤める職員らは、絶対に誰かひとりを特別扱いすることはない。自分の部屋に、ひとり分の絵を貼ることはできなかったし、ひとりが作った紙の花を飾ることもなかった。それは特別をつくるから。許されていないことだったのだ。
 俺は知っていた。いつからか気付いていた。
 俺の手に握るは銀貨三十枚。
 貴様は部屋に戻っていない。どうせこわい夢を見たと駄々をこねるチビどもをなだめすかし、そいつらがきちんと寝つくまで側についていたりするんだろう。知っているか先生、ほんとうに怖い夢を見たら、泣き声なんて出ないんだぜ。
 虎視眈々と特別になりたがるガキどもは、貴様の慈愛だか博愛だかいうやつを、すぐに勘違いしておのれのものにしたがる、留めたがる、いつまでも一緒にいてほしい、枕元でずっとお歌を歌っていてね、嘘泣きに付き合えば付き合うほど、ずぶずぶ深みにはまって、今はまだいい、けれどそのうちどうしたって抜け出せない、憂いの沼地にぶち当たる日がきっと来る。
 貴様がいたらいたで気に食わないくせに、部屋にいないと知ると、なんだか苛々とした。見回した机の上に、貴様からはどうやっても想像できない、貴様が晩酌するのか?ワインが三本立ててあって、何気なく手にとる、ひっくり返す。銘柄を眺め、俺は仰天した。
 翼を広げ、大空を舞う鷲のラベル。
 なんでこんなもんがこんなところにあるんだ。司教司祭の薄給じゃあ生涯かかっても手に入れられそうもない、貴様の部屋にあることがすでにおかしい、まさか任務先からとってきたということは考えにくいが、俺も、話はともかく実物を初めて目にした。
 赤ワイン。口にしてしまえば、そこいらのマーケットで簡単に手に入る廉価なものとたいした違いはないのじゃあないか、俺の好奇心が三割、残り七割は、このコルクを押し上がっているのを見たら、貴様はきっとぶったまげた顔をするだろうなという、ただのいやがらせだった。
 止める人間はいない、貴様はガキの枕元で子守り歌でも歌っているに違いない。
 こういうのはなにごとも勢いだ、ざまあみろと言った態、俺はいやらしい笑みを浮かべながら、さっさと栓を抜き、グラスなんて洒落たものは貴様の部屋にはなかったので、代わりにふせられたマグへなみなみと注ぎ入れ、ひとり乾杯し、悦に入った。
 つまみはなにもなかったけれど、これほど香りが良いものに、チィズもクラッカァも必要はない、あった方が逆に邪魔に思えた。褒美と言うやつでもいいじゃあないか。数年ぶりの休暇をとった、そうして殊勝に半日ガキの子守りをした俺への。
 しばらくひとりで楽しんで、半分ほど空けたところへ、ようやく子供らが全員寝たのか、貴様が部屋に戻ってくる、扉を開け、マグをかたむける俺と詮の抜かれたワインを目にして一瞬足を止め、目をすがめたがそれだけで、俺が期待していたようなリアクションは一切なされず、貴様はちっとも仰天せず、がっかりもせず、俺のほうが落胆するはめになった。
 期待した俺が莫迦だったかもしれない。
「飲んだぞ。」
 言うと貴様が肩をすくめる。それで俺は、一旦足を止めたのは俺がワインを飲んでいた行為に対してであって、高額なワインが空けられたことに対しては、うわべだけでなくしんから、貴様が執着を覚えていないことに気がついた。
「汝、ひとりで酒船を踏むか。」
 貴様が言う、じゃあすこしは怒っているのだろうか。
「わたしとことを共にするものはあるか?」
 俺がこたえると、おかしかったのか貴様がちいさく笑う。
「ああ、――それゆえわたしは泣く。わたしの目よ、わたしの目よ、だ。」
 次に声をたてて貴様は笑って、部屋にひとつしかない書き物机の椅子にどっかと座る。そうしてやはりひとつしかなかったマグを俺の手から奪って、中身を流し込んだ。流し込み、いい味だなと言った。
「判るか。」
「判りますよ。普段の水のようなものとは大違いです。」
 俺はベッドへ腰掛けている、ぶらぶらと足を揺らした。別にひとつきりない椅子へ、この部屋の戻ってくるだろう主へ遠慮したわけではなくて、ただ足の長さがいびつな椅子が座りにくそうに思えたのと、木枠組みだけのそれはすこし寒そうに見えたからだった。そうすると、ほかに腰を下ろす場所と言えば、床にべったりと尻をつけるか、ベッドの二択しかないわけで、俺は遠慮なくベッドへ上がりこんでいた。ベッドと言ったって、教会支給の、どこにでもある規格品、貴様が寝る分には随分狭いだろうなと思える、一人用の寝具。固いスプリングと、毛玉だらけの毛布。端のほうは擦り切れ、丁寧に繕われていた。
 ワインの出所を尋ねると、信徒からもらったとの返事だった。三本木箱に揃え、渡されたという、普段使いのものにしてはずいぶん念入りなことだと、院に戻り同僚に見せると仰け反られたと言った。
「飲んでもらおうと思っていたんです。持っていこうと思ってそこに置いたまま、毎度忘れて渡しそこねていた、」
「俺に?」
「自分は、そのあたりで売られているものとの区別がさっぱりつかない。」
 せんごろと言っていることが、まるで正反対だ。からかっているのかと思う。思いながら二本目を景気良く開けた。これだけ飲んで引っくり返ってしまったら、明日の朝にひびくなと思わないでもなかったが、これも勢い、だった。
「どうせ同じワインなのだから、ミサに使おうとしたら、ロナウドやマルコやルチオから泣かれました。」
「じゃあ、あいつらに飲ませればよかっただろうに。」
「青くなって断られました。」
 じゃあ俺はもとより貴様の中で、渡して断る人間のリストには入っていなかったのか、たしかに目の前に差しだされたとしたら、いったいどうしたことだと思わないでもなかったが、受け取るか、受け取らないかの二択で言うなら確実に受け取ると思った。自分の懐がいたまない酒ほど、うまいものはないと思っている。カトリックにおいて神、という言葉は唯一絶対のものであったけれど、いまだけはバッカスに感謝してやってもいい。
 暖房もない部屋は、ワインを呷っても次第に外気が忍び入り、じっとりと冷えこんできて、俺はちいさく身震いする。日のあるうちに帰る予定でいたから、上着を持たずに来てしまった。このまま冷えたら風邪をひくかもしれんなと思っていると、俺を見ていた貴様がおもむろに立ちあがり、上着を脱ぐと、なにをするつもりだと眺めていた俺のほうへ投げてよこす、そうして代わりにマグを奪い、中をぐいと干した。
「自分はシャワーを使ってきます。局長はどうします、」
「ああ、」
 投げてよこしたカソック、これは俺に羽織れという意味合いかなと見やっていると、貴様が言ったので俺は手を振る。長居をするつもりはなかった。
「ホテルをとる。」
「泊まっていけばいいでしょう。」
「どこに?部屋は空いていないだろ。」
 行き場のない子供のほうりこまれる最終地点は、いつでも飽和状態だ。空いているベッドはない、余分な寝具もない。それに、客間だとかいう洒落たものもない。俺は知っている、なぜなら俺はここにいたことがあるから。名前だけ体裁をととのえた応接間に、埃と手垢の染みついた長ソファがあるにはあったが、スプリングがあちこち莫迦になって、あんなところで寝るなら犬小屋で寝ても大して変わらないように思う。筋をちがえてくれと言っているようなものだ。指摘してやると、それもそうですねと貴様が頷いた。
 急の飛び込み参加だったのだ、夕食を一食多く作り、出されただけでもずいぶんなもてなしと言わざるを得ない。いつだって経営が火の車なのは今も昔も変わらないはずだった。タクシーを拾うつもりではあったが、いまからヴァチカンに帰るのは億劫だ、それにここからいったい何キロ離れていると思っている。持ちあわせがないわけじゃあないが、無駄にばらまく趣味もなかった。
 ほどほどにしろよ、そう言って、いよいよ最後の三本目へ栓抜きをぶち込んでいる俺へ向かって貴様が言って、それから部屋を出て行った。ふざけている。俺はたいして酔っちゃあない。
 いい酒は悪酔いしないだなんてよく言うが、本当のことかもしれない。それから俺は三本目のイーグルをマグに注ぎ入れながら、机の上に並べて置き去りにしたままの貴様は、そうして並べておいた間中、どうしたこころもちであったのだろうと思った。受け取ったワインの金額は孤児院が半年、ゆうに回せる金額だった。新しい毛糸のセェタァや手袋やその他冬に入り用なものを全員分、用意したって釣りが戻ってくる金額だった。塩味をすこしきつくして、そのかわりキャベツを減らすような、いじましいスープをつくらずともいい金額だった。
 きっと貴様は莫迦莫迦しかったんだろう。割れず、飲めず、呆れ果て、途方にくれてここに並べておいたんだろう?
 じゃあここで、俺が全部飲んで空にしてやればいい。全部飲んで終いにしてしまえ。なにも無かった、マーケットのワインも、お高いワインも、結局胃の腑におさめて数時間後にゆきつく先は変わらないのだ、そう思った。
 なんだか視界がまわる気がしたので、俺は背後へ手を突き天井を見上げる。雨漏りの染みの浮いた天井板は、子供の部屋も貴様の部屋も違いはない、このかたちがひとの顔に見えるだとか言って、ガキの時分は同室のやつらがぎゃあぎゃあ騒いだもんだ、こわい、とか、眠れない、とか。おめでたい想像力の豊かさだった、そんなことで大騒ぎをして、毎日毎日、自分たちの世話でへとへとになっている大人へ甘える、媚びる、すがりつく、俺なら真っ先にブチ切れてやった、いい加減にしろと怒鳴り散らしてやった、だのに世話をする職員たちは、怒らない、いやがらない、どうしましたと微笑み、大丈夫ですよと頭をなでる。だから俺は、かたはしからペンキで塗りつぶしてやった。けがれない白色で覆い、騒ぎのもとを一切合切ないものにしてやった。
 いい気味だった。おまえらの大好きな先生は、これでもう呼べない。
 うらぎりものとやつらは言った。なにがうらぎりものだ。仮令そうだとしたって、おおいに結構と俺はこたえた。
 俺の手に握るは銀貨三十枚。
 がく、とついていた腕が崩れて俺はベッドへ転がる、大の字になる、誰も見ていない。ここでは行儀のわるさを咎められない。
 天井の染みと、天井の梁がぐるぐる回る、目を閉じてもまぶたの裏まで回りやがって、そういえば回転木馬に乗ったのは一度きりだったなと俺は思った。あとにも、先にも、一度。孤児院のガキをそんな金のかかる場所に連れてゆける経費はなかった、だから俺が行ったのは、俺の成績だか見た目だかを気にいった、どこかの金持ち夫婦と一緒で、連れてゆく中途から、いちいち孤児院の暮らしとくらべられることが、俺はたいそう面白くなかった。院ではこんな場所に連れてきてくれないだろう、なんでも好きなものに乗るといい、なんでも買ってやろう。だからわたしたちに感謝することだ。わたしたちがお前を養子に選んでやらなければ、お前はあの薄汚い孤児院にいたままだったのだからね。
 そう言えばあすこに勤めていた神父を見たかい?ええ、見ましたわ。ずいぶんくたびれた靴を履いていた、着ていた外套もあちこち糸くずだらけで、よれよれで、みっともなかった、まったくシケた男だった。ほんとう。貧乏とはお気の毒なことですことね。そうだ、だがああいった輩がいるから、わたしたちが余計に立派に見える、見え立たせてくれる。水がどろで汚れていれば汚れているほど、花は美しく見えるのだからね。まあ。では感謝しなければいけないのかしら。
 ふざけるな。
 ふざけるなふざけるなと俺は、せっかく買った、買ってもらった、買いあたえられたおもちゃを叩きつけ、あ、あ、あ。お前、いったいなにをする。とってつけたような悲鳴、怒声、俺は駆け出す。どうしてこんなところに来て俺は浮かれていたんだ、どうしてこないだの家庭よりはましだなんて思えたんだ、どうして先生がそんな風に言われなくちゃあならない、あのひとたちは、あのひとは、自分の靴を買うことをよして、俺たちの靴を買ったのだ、外套は繕えばまだ着れるから、そうして俺たちにマフラーをそろえてくれたのだ、木馬がなんだ。コースターがなんだ。遊覧船や観覧車がなんだ。そんなもので腹は膨れない、寒くてひもじい思いをしているガキどもを、ワイン三本、この金があったら一体どれほど満腹にできるか、羽を広げ悠々と大空に鷲が一羽、ちがう。それはただのラベルだった、貴様が投げてよこしたカソック、ほつれた毛布、捧げられた赤い花冠、跳ね除け、ばらばらと飛び散る、なぜか花びらは銀色だった。三十枚。
 目が覚めると辺りは真っ暗だった。俺はいつの間にやら寝ていたようだ。
 慌てて起き上がろうとして、俺は、俺の体が、がっしりと固定されていることに気がついた。暗闇の中でまじろぐ。なにも見えない。鼻をつままれるどころか、目の前に銃口をつきつけられても、まったく見えない、感じとれない、だがあたたかでおだやかな、奇妙な闇だった。
 俺はまず、ここはどこだと思い、すぐに昼間孤児院へ来たことを思い出す。そうだ、そうして遠出の散歩へ連れてゆかれ、それからかえって夕食をとった。よそから来た俺がいることで、普段以上にはしゃぐガキをなだめ、寝かしつけ、それから部屋へやってきた。
 ふう、と耳の裏側に当たる息がある。気がついた。生ぬるいもの。体温をもった生きものが呼吸する、吸って、吐いて。おだやかなくり返し。寝息だった。
 誰の、と考え、俺は今日一番にぎょっとして起き上がろうとした、とんでもない事態だった。だのに動かない、動けない。
 貴様の腕が俺の腹のあたりで組まれている。抜け出すにはどうやったって力任せにその腕を振り解くしかない。だがそうしたら貴様はきっと起きてしまう、そうしたら俺はどう対処してよいものやら、いぎたなく酔いつぶれ、貴様のベッドを占領した?もうすぐにでもホテルへゆくだの言っておいて、みっともなく寝こけて、きっと貴様は何度か俺を起こそうと努めたにちがいないのに、俺は起きなかったのだった。全くみごとに酒に呑まれた。勢いで飲んだ。あれだけ高価なもの、別に今日いちどきに飲まなければならない理由もなかったのに、俺は飲んだ。四分の一くらいは貴様も口にしたかもしれないけれど、それでも三本のうちのほとんどを俺が飲んだ。
 そうして寝こけたのだ。
 まいった、俺は狼狽する。どうしたら一番体よく振る舞える?今さら貴様に張らなければいけない体裁など、あってもなくても同じようなものかもしれない、ひとはそう言うだろう、しかし俺にはたいした問題だったのだ。
 ふ、とまた貴様の寝息が俺に当たった。熟睡している、もしかすると貴様にもすこしは酒は効用したのだろうか、そうだ、すこし飲んだから。深い眠りだといい。
 たのむから目を覚まさないでくれと俺はしんから願った。
 俺はうろたえる、ぎこちなくあけめ闇の中に逃げ場を探し、どうか俺の思いちがいであるといいと思う、なぜなら貴様の遠慮会釈ない寝息が、ふうふうと俺の耳の後ろからうなじにかけて吹きあたって、俺はいったいどうしてこんな風に、後ろからしっかりと抱きかかえられて横になっているのか、どうして無理にでも跳ね除けて部屋を出て行ってしまわないのか判らなかった。なぜなら貴様の腕はひどく重たいからだ。重たくて、俺一人ではどうにも動かせそうにないからだ。
 貴様の呼吸があたるたび、段々にぞくぞくとして、俺はのけぞる、体の芯の横、指ひとつ分ずれたあたりをすっと上に向かってのび上がる感触。悪寒に似ている。しかし次々と脳天へ向かって突き抜けるさまはどうだ。は。食いしばったはずの俺の口から息が漏れた。酔ったのだな?己の吐く息が、熱い気がする。それに貴様のにおいが実に不快だ、がっちりと組まれた腕、俺はそろそろと指で貴様の腕をなぞる。頭からずた袋をかぶせられたように、俺の体は表も裏もにおいでいっぱいになって、だのに抜け出せない、ちがう、抜け出そうとしていないのか、抜け出さないのか?そうじゃない、動くと貴様が起きてしまうから、ようやく眠りにありついた貴様を、起こしちゃあ気の毒だと俺は思ってやっているのだ。
 そうして貴様の腕の中は特別な空間にちがいなかった。そのむかし、強烈に特別な空間へ至りたかった愚かなガキがいた。何度ともなんてよくばりは言わない、たった一度でいい、あの腕にぎゅうと抱きしめられたらどんなこころもちか、餓え飢えて願っていたのに、近付くこともできない莫迦だった。
 けれど孤児院に、ひとり用の特別はないのだ。
 ベッドはひどく狭い、だいたいもとの大きさからしてひとり用のところへもって、貴様の体がばかでかいので、狭いことこの上ない。互いにからだを横にしたって、わずかでも身動けば転がり落ちてしまう、俺は身を固くしてじっとこらえた。ひとり用のベッドの上の、ひとり用の空間の中でじっとこらえた。
 転がり落ちてしまった方が、実際楽だったろう。
 貴様がやすらかにくり返す、吸う、吐く、吸う、それがたまさか長い吐息になって、俺の耳朶をかすめる。あ。固くいましめていたはずの俺の口から、ちいさく声が漏れた。糞。俺はかっとなり、ますます体を固くする。顔の前に指を持ち上げ、人差しのつけ根あたりをきつく噛んだ。それがどうにか俺に許された動作で、ほかは力が抜けてまったく動きやがらない。それに動くとどうにかなってしまいそうだった。ぎちぎちと噛み付いたおのれの指の感触ですら、ほんとうは快い。
 俺が声を漏らしたはずみで貴様がうんと唸って、俺の首元へ顔をうずめた。においを嗅ぐ犬の動き、俺はおおぎょうに反応する。小刻みにびくびくと震える、畜生。俺は舌を噛み切って、いっそ死のうとすら瞬間真剣に考えた。どうして俺はこんなところに甘んじている?かっかと顔が熱い。
 抜け出してしまえ、心の奥でべつの俺が言う。判っている、けれど俺は貴様の右腕と左腕のあいだにとらわれていた。ことさらにとらわれてしまいたいのだった。どうかしている、ほんとうにどうかしている。気が触れたとしか思えない。まったくに愚かな、醜状たる独占欲。
 望んでいたのか否かと問われたら、俺はだめだった、とこたえるだろう。全く答えになっていないとしても、わりと本心だ。だめだった。俺は貴様の腕を蹴りあげて、起きあがることすらできやしなかった。吐きかけられるぬるい体温、ぬるいか?ほんとうにそれはぬるいと言えるのだろうか?先より熱をもって感じる、熱く吹きこまれる呼気。はっ、はっ、獣のように俺は舌を突きだしびくびくと仰け反る。体のがわが硬直し、芯からどろどろに融けてゆく。くそ、くそと俺はちいさく毒づいた。貴様のにおいと貴様の呼気、浅薄、あさはかな俺、ちがう、俺はそのとき、おのれのなかにあさましい俺を見た。どうかしている?どうにかなってしまいたかったのだ。
 酔っている、ああ、そうだろう。
 きつく瞑ったまぶたの裏に、花びらが四散する。使いこんで人の手あかのついた、くすんだ鈍色。
 俺の手に握るは銀貨三十枚。
 たまらなかった。とうとう、大きく動いた拍子に、俺はベッドからはみ出す、膝をつき転がるように貴様のいましめから抜け出す、ぶかっこうにおののきながら、俺はすこしでも距離を稼ごうとし焦り、手さぐりでドアノブをたどり、がたがたと足の長さの不揃いな椅子を倒した。物音に気付いただろう貴様、なにごとかと目を開けたであろう貴様、闇の中だからなにも見えない。お互いの表情はうかがえない。よかった。真のくらやみでよかったと、心底思った。
 貴様が声を発する前に、俺は部屋をでた。
 着替えもせずに横になっていたものだから、シャツがひどく皺になって、みっともないことこの上ない。もつれた髪を手櫛でまとめ、無造作にうしろで縛る。どくどくとうずくこめかみをおさえ、すこしはすっきりするといいのだがと思う、思いながらおだやかに静まった廊下を歩く、うっすらと開けられた子供部屋、漏れる複数の寝息。やさしい夢でも見ているんだろう、場違いに、ぐしゃぐしゃになっているのは俺ひとりだった。
 玄関へ辿りつくころには、すこしはましな気分になっていて、鍵を開け、外へ出る。たちまち木枯らしが容赦なく吹き抜け、俺は身震いしたけれど、今はそれがありがたいとさえ思った。
 身を縮こまらせ、表通りへ歩き、タクシーに手を上げた。どちらへ、問われて俺は手近なホテルの名を舌先にのせかけ、いいやと訂正する。どうせホテルへ向かったところで眠れるはずもない、俺が感じた戦慄、望みを絶たれたおそれ、払拭せずにはいられなかった。どこでもいい、酒を飲めるところ。
 あびるように飲んで、飲んで、前後不覚まで飲みつぶれて、それから眠ってしまおうと思った。胃の腑が引っくり返るほど吐き尽くし、ゲロまみれになり、路地裏のごみ溜めにすり寄って、まるで死体のように人事不省に陥ってしまおうと思った。そうでなければとてもじゃあないが俺は生きていられない、おそろしくてどうにかなってしまいそうだ、今この後部座席のドアを開け、わあと喚声をあげながら橋から川下へ投身してしまいたい、いっそしてしまえたらどんなに楽だったか、してしまおうか。
 必要なのは勢いだ、ノブへ手をかけ、力を込めかけてまたゆるめ、衝動的になる右手を左手で押し殺して、結局俺は窓の外を見た、ぽつぽつと灯る夜間灯、廊下へながれた寝息と同じ、やすらかなもの。
 てのひらで顔を覆う。
 そうでなければ怒声か、嗚咽か、どちらでもないなにかが俺の口を衝きかねなかった。俺のうしろで吐かれた貴様の呼気、いつしか熱のこもっていたそれ、長くゆるいものから徐々にスタッカァト。ふきこまれる。体の芯が疼く。貴様のにおいと熱が伝導しかける、磁力を発するコイルのように、ひきこまれ俺は動けない、動きたくない。
 貴様はきっと寝ていたんだろう、ガキどもに振り回され、くたびれきって深い眠りにしずみ込んでいただろう、なぜなら貴様の両手は、俺の前で組まれたまま一切動くことはなかったから、だからあれは、どうしたって俺の勘違いに決まっている、思いちがいさせた自意識過剰、男ならだれだってあり得るただの生理現象。
 身動いたはずみで触れた貴様の下肢、体の中心部、まさか、俺を相手におったてただなんてことは、どう考えたってありえないことだった。
 顔を覆う、きつく覆う、酒を飲みたい。はやく酒を飲んでぐだぐだになってしまいたい、この際、わけが判らなくなるものであれば酒じゃあなくてもいい、とにかく早くどうにかなってしまいたいのだ、俺は。
 運転手を急かすひと声すら現状は発せず、俺は身をがちがちに固くし、黙りこくって目をつぶり、ただ早くどうにかなれるように、ひたすらなにかに向けて祈った。
 俺の手に握るは銀貨三十枚。




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最終更新:2020年08月08日 23:14