先日、本屋で見かけた「歴史教科書 在日コリアンの歴史(明石書店)」を手にとってパラパラ読んでみると、冒頭に、日韓併合時代の朝鮮民族の苦難として、「土地よこせ」「米よこせ」「人よこせ」「命よこせ」という、おとぎ話が載っていました。
これは韓国本国の韓国人も持っている「正しい」歴史認識と同じものである。
そうした「よこせ」神話の実体を記したいと思います。
④「人よこせ」「命よこせ」神話3 ~徴兵編2~
昨日、本題に入る前に、前置きを書いていたら長くなってしまったため、今日は基本的な前置きだけを記して、早速本題に入ることにします。
日韓の歴史認識において、最も基本的であるにも関わらず、多くの人に欠けてしまっているのが、「かつて韓国人は日本国民だった」ということです。
そして、かつて、韓国人は日本国民として、日本軍に入隊し、日本人と共にアメリカやイギリスや中国と戦ったのである。
僕は、かつて日本国民として日本人と共に戦ってくれた韓国人には感謝している。もちろん、朝鮮人兵士が随分、残虐なことをして、日本軍の評判を落としたことは事実であるが、その辺は多少は目をつぶってあげても良い。
徴兵令という、朝鮮人が「強制」的に日本軍に入隊させられることになったのは、労働徴用令と同じように1944年秋になってからのことである。
もちろん、これを「強制」と記すのは不適当なことだと思える。「強制」というよりは、日本国民としての「義務」だからである。
また、この時期に徴兵令によって日本軍に入隊していった朝鮮人が戦地に赴いていったのかどうかは定かではない。というのも、入隊した後は、まず軍事訓練が行われるからです。同時期に入隊した台湾人の蔡焜燦さん(「台湾人と日本精神」の著者)は、戦地に赴くことなく、軍事訓練学校で敗戦を迎えています。
そもそも、朝鮮人の日本軍兵士は、日韓併合当初からいます。
日韓併合によって、日本国民となった朝鮮人の中でのエリートは東大や陸軍士官学校などへと入学したからです。そのため、日本軍には朝鮮人将軍もいましたし、戦後の韓国で「漢江の奇蹟」と呼ばれる経済成長を成し遂げた朴正煕(パク・チョンヒ、日本名「高木正雄」)大統領も陸軍士官学校を卒業したエリートで、終戦時には中尉となっていた。陸軍士官学校に入るほど、日本国民のエリートであったから、彼には強い武士道精神が涵養されたのであり、「漢江の奇蹟」が成し遂げられたのだろう。
日本から分断された韓国に対し、アメリカはアメリカ国内にいた独立民族主義者である李承晩(イ・スンマン)を初代大統領にして韓国を傀儡化しますが、彼は日本時代のエリートを迫害し、日本時代の落ちこぼれである独立民族主義者を重用したため、当時の韓国は世界有数の極貧国家でした(ちなみに彼が竹島問題の生みの親でもある)。しかし、朴正煕がクーデターによって、政権を奪取すると、日本時代のエリートを重用し、日本との国交を正常化して、日本の膨大な経済援助によって、韓国は急成長を遂げたのです。
朝鮮人は「国民として最も名誉ある任務」である日本軍に入隊することができましたが、朝鮮人よりも15年も先に日本国民になっていた台湾人には許されませんでした。これは台湾人には申し訳ないことです。日韓併合によって日本国民となった朝鮮人は、日本人と出来るだけ平等な政策が執られましたが、「中国」から割譲されて日本国民となった台湾人には終戦間際まで差別的な政策が執られたからです。
日中戦争(シナ事変・1937年勃発)が起き、兵力不足になった日本は国家総動員法が制定された後、日本人には徴兵令が出されましたが、朝鮮人には特別志願制度が敷かれ、志願兵が募られました。
つまり、「強制」ではなく、自ら志願する朝鮮人が日本軍に入隊したのです。
その数は、
1938年、募集数406人に対し、2946人。
1939年、募集数613人に対し、1万2528人。
1940年、募集数3060人に対し、8万4443人。
これほど多くの朝鮮人が日本軍入隊を志願したのである。
そして、1941年に大東亜戦争が始まる。
真珠湾攻撃に成功し(?)、東南アジア植民地支配をしていた欧米国家を次々と撃退していきます。
崔基鎬・伽耶大学客員教授は次のように述懐しています。
「私は東京に住んでいましたが、時々、ソウルや平壌に行きました。その当時の韓国人は日本人以上に日本人でした。劇場に行くと映画の前に戦争のニュースがありました。例えば、ニューギニアで日本が勝った映像が流れると、拍手と万歳の嵐です。私は映画が好きで、日本でも頻繁に行きましたが、日本人は冷静でした。
しかし、韓国ではほとんど全員が狂ったように喜んでいました」
さて、大東亜戦争勃発後、朝鮮での特別志願制度はどうなったでしょうか?
1941年、募集数3208人に対し、14万4743人。
1942年、募集数4077人に対し、25万4273人。
1943年、募集数6300人に対し、30万3294人。
朝鮮人は日本軍の快進撃に、「アジアを欧米植民地支配から解放する!」という大東亜戦争の理念に熱狂したのである。
それまで、日本軍に入隊することが許されなかった台湾人にも、朝鮮人から遅れること4年の後に、ついに特別志願制度が敷かれます。
その結果は?
1942年、募集数1020人に対し、42万5961人。
1943年、募集数1008人に対し、60万1147人。
1944年、募集数2497人に対し、75万9276人。
朝鮮人をも上回る志願者の数である。
これは、それまで朝鮮人より下に見られていた台湾人の日本に対する愛国心の発露である。上述の蔡焜燦さんは、日本軍への入隊が、これまで朝鮮人に許されて台湾人に許されないことが悔しかったと述懐しています。そして、ついに台湾人にも特別志願制度が敷かれ、「よし、俺もやるぞ!」と台湾人は日本の三等国民ではない、日本人と同様の愛国心を持っていることを証明したい!という気持ちの現れである。
「遠隔地ナショナリズム」という言葉がある。つまり、中央から離れていることがコンプレックスとなるが故に、「日本人よりも日本人となろうとするナショナリズム」である。こうした心境は、前代・後桃園天皇から血筋の遠かった第119代・光格天皇にもあったのか、光格天皇は多くの伝統行事を復活させ、より天皇らしく振る舞った。
今は国が分かれてしまったが、僕は、かつて日本のために戦ってくれた朝鮮人&台湾人には感謝している。
靖国神社には2万1000人の朝鮮人と2万8000人の台湾人の戦死者が英霊として祀られている。8月15日の終戦記念日には多くの台湾人遺族会の台湾人が靖国神社に参拝に訪れる。
が、何故か、朝鮮人遺族の姿が見られないのはどうしたことか?
特攻隊による死者は6000人に及ぶ(神風飛行隊だけでなく、魚雷特攻を含む)。
実はこの中に、10数名の朝鮮人がいる。
その中の一人を夫に持っていた朝鮮人女性が戦後、韓国の小学校の校長になったそうだ。出征前の夫と共に、夫の出身の小学校の校庭に桜の木を植え、奇しくも、その小学校の校長になったそうだ。
その話を聞いたソウルにいた日本の新聞記者(朝日か毎日だろう)が取材をしました。
そして、そのニホン人記者は、その校長に対し、「日本の軍国主義が御主人を騙して、申し訳ありませんでした」と言い出したそうだ。
それを聞くなり、普段は謙虚な校長が激怒したそうです。
「私の主人は騙されるような人ではありません! 自分の意思で出撃したのです! 帰ってください!」と。
それは怒るだろう。
その校長は、「あなたのご主人は日本のために立派に戦ってくれました。我々日本人はご主人を靖国神社に祀り、英霊として崇めております」という言葉を期待したのであろうが、この左翼記者は、「あんたの旦那は、簡単に騙される馬鹿だった」と言ったのである。
今の韓国人&ニホン人は、かつて韓国人が日本国民として日本軍の一員として、日本人と共に戦ったことを知らない。
韓国の歴史教科書によると、韓国人にとっての第2次世界大戦とは、韓国人が日本と独立戦争を戦ったそうである。
呆れてしまう、「正しい」歴史認識である・・・。
ただ、何人かの韓国人と話していて思うのは、韓国人にとっての「正しい歴史認識」とは、真実かどうかは問題ではなく、韓国人が創作した歴史こそ「正しい歴史認識」であり、中華思想で以って、その「歴史認識」に言いがかりを付ける日本人はけしからんといったもののように感じることがあります。
つまり、日本人は「正しい歴史認識」とは史実に沿ったものと捉えますが、韓国人にとっては、韓国人が創った「歴史」こそが正しいものと思っているのかもしれません。
真実というものに対する意識が、たぶん希薄なんでしょう。
日本敗戦の際には、日本人同様、多くの台湾人が意気消沈となり、落胆して虚脱感に苛まれたそうである。
ただし、朝鮮人だけは日本敗戦を機に一変したのである。
それまで、「俺たち朝鮮人も日本国民だ!」と過剰に主張していたにも関わらず、日本敗戦となった瞬間に・・・。
「お前ら日本人は負け犬だぁ!! 俺たち朝鮮人はずっと独立したかったんだ! 俺たち朝鮮人はもう日本国民じゃないから、日本の法律を守る必要はなくなった!」と無茶苦茶な主張をして、日本各地で殺人・略奪・強盗・強姦といった悪事の限りを尽くし、駅前の一等地を日本人から奪って、現在でも駅前の一等地にパチンコ店を開いています。
この辺の、朝鮮人の豹変ぶりは、台湾人の揚素秋さん(「日本人はとても素敵だった」の著者)や蔡焜燦さん(「台湾人と日本精神~日本人よ胸を張りなさい~)」の著者)の本にも記されています。
揚素秋さんは、「私は急に威張り散らすようになった朝鮮人を見て、すっかり朝鮮人が嫌いになってしまいました」と記します。
台湾人として日本軍の訓練学校で終戦を迎えた蔡焜燦さんですが、日本軍は武装解除を要求されていたため、上官に「朝鮮人は信用できない。武器の管理は台湾人に任せる」と命じられたそうです。
朝鮮民族の大きな特徴の一つが、事大主義である。
つまり、大きい(強い)者には仕え、利用できる者、自分の役に立つ者に対しては、自発的に服従するが、「強い国」が敗戦国になり、利用価値をなくしてしまっては豹変して平気で裏切ります。「川に落ちた犬は棒で叩け」を実践します。
やりたい放題に戦後日本社会を傍若無人に振る舞った朝鮮人ですが、日本が戦後復興を成し遂げると、途端に自らを「被害者」と訴え始めました。
日本内地においても、このような有様である。朝鮮半島にいた日本人はどれほどの苦難に遭ったものか。朝鮮半島にいた日本人は襲われ、身ぐるみ剥がされて日本内地へと帰国しようとします。もちろん、女性は朝鮮人にレイプされている者も大半なので、帰国港には産婦人科医がスタンバイして、朝鮮人にレイプされた日本人女性の中絶手術が行われました。
それから、「親日派のための弁明2(金完燮著)」に、こんな話が載っていました。
『公務員として慶尚道地域に赴任していた和夫さん一家は当地の地主となったが、小作人から最低限の小作料しか取らず、貧しい小作人がいると喜んで食べ物を与えるなど、近所の朝鮮人からも大変慕われていたそうです。また、周囲に孤児がいると連れ帰って面倒を見ていたため、いつの間にか施設孤児院のように増えていったそうで、実の子と同じように面倒を見ていて、その孤児からも「お父さん」「お母さん」と呼ばれていたそうで、中には東大に留学した子もいたそうだ。ところが、日本が敗戦すると一変した。これまで面倒を見てもらってきた孤児たちは、まず和夫さんをシャベルでめった打ちにして、鎌でズタズタに引き裂いていった。逃げる「お母さん」を集団で強姦した後、めった刺しにして、内臓を掻き出して撒き散らしたそうです。幸い、実の一人娘(小学6年生)はその場にいなかったそうですが、孤児となった彼女は食べ物を求めて近所を訪問しますが、朝鮮人の誰からも見向きもされず、その9日後に橋の下で痩せ衰えた死体となって発見されたそうです』
著者も言うように、この話が事実かどうかは定かではありません。
著者への情報提供者は、「韓国人というものがあまりにも情けなく、えいっと死んでしまいたくなる時がある」と良心を持ち合わせています。
まあ、充分あり得る話だと思いますね。
メディアは隠蔽したがりますけど、現在でも残忍な犯罪の犯人は、実は在日系だったりすることが多いですし、詐欺関係はほとんどそうじゃないですかね。まあ、最近は日本人の朝鮮化によって、影響を受けるニホン人も多いようですが。
さて、上述の和夫さんが「息子」たちに殴り殺される前に、投げかけた最後の言葉は、
「私がお前たちに何か間違ったことをしたかい? お前たちはみんな私の子供たちだし、私はお前たちの父親だ。お前たちの祖国が独立することは、私も日頃から強く望んでいたことだ。踊りたくなるような嬉しい日に、なんだって凶器を持って私のところに詰め掛けてきたんだい。私はお前たちをこんな風に教育した覚えはない。本当に悲しいよ、朝鮮の子供たち。私は愛情を注いで育ててきたが、結局、日本人と朝鮮人は交じり合うことはできないということなのかい? お前たちが望むんなら帰ってやろう」
だったそうです。
朝鮮の独立を強く望む日本人。実はこう思っていた人は多いのです。特に朝鮮半島で懸命に働くエリート層の日本人は、「朝鮮を立派に強い国にして、独立させてやる」と思っていた人も多かったそうです。
ちなみに、ソウルなどの都市部では、敗戦後も日本人と朝鮮人の関係は割と良好だったみたいですよ(一部を除いて)。
次回は、皇民化運動について語ります。とりあえずは「創氏改名」辺りを。