「法の支配」と靖国参拝 - サンフランシスコ平和条約第11条

1/3の朝日が、「『法の支配』を揺るがすな」と題した社説を掲げていた。冒頭にこうある。「安倍首相が最近よく使う言葉に『法の支配』がある。中国の海洋進出を念頭に『力による現状変更ではなく、法の支配によって自由で繁栄していく海を守る』という具合だ」。と、こう切り出し、「法の支配」を常套句にして中国批判を執拗に繰り返しながら、実際には、力づくで秘密保護法を強行採決したり、一票の格差の司法判断を無視したり、最高法規である憲法を解釈で変えようとするのは、「法の支配」に反するのではないかと批判している。新年の社説に相応しい切り口の政権批判であり、指摘も理論的に当を得ていて、政治学的に秀逸な社説だと膝を打たされた。安倍晋三こそ、実は「法の支配」を逸脱した政権運営に終始している。ただ、朝日の社説は、この「法の支配」の論点を逆手にとった批判論法を、安倍晋三の内政に対してのみ逆照射している。視界に入っているのは内政問題だけだ。「法の支配」に着目して安倍晋三の政治に切り返す方法を、さらに一歩突っ込んで、これを外交に向けて立論したらどうなるか。実は、「法の支配」を逸脱しているのは、中国ではなく日本なのだ。このことが明瞭に見えてくる。結論を先に言えば、安倍晋三は国際法に違反している。靖国参拝は国際法違反行為だ。中国政府は、「法の支配」を梃子にして、安倍晋三を論破することができる。

プロレスの四の字固めを裏返しにして逆襲するように、梃子の支点を逆手にとって、リバースをかける形で反論することができる。国際法とは、国家間の合意に基づいて、国家間の関係を規律する法であり、条約と国際慣習法から成る。日本と中国との間の基本法は1978年の日中平和友好条約であり、その基礎となった1972年の日中共同声明である。日中平和友好条約の前文には、「(1972年の)共同声明が両国間の平和友好関係の基礎となるものであること及び前記の共同声明に示された諸原則が厳格に遵守されるべきことを確認し」と文言がある。重い。ブログでは何度も紹介してきたが、その1972年の日中共同声明には前文にこう書いてある。「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」。この重い文言を置くことによって、日本は中国との戦争状態を終わらせ、国交を正常化させることができた。これが、まさに日本と中国との間の基本法であり、国内的に言えば憲法だ。日本と中国との間で締結する政府間協定、民間の団体間や企業間で取り交わす協約や契約も、この基本法が定めた精神と原則に準じ則ったものでなくてはならない。

日本政府は、日本企業は、日本国民は、中国と関係するとき、中国の政府や人々と向き合うとき、1972年の日中共同声明の拘束を受ける。すなわち、「法の支配」を受ける。この国際法を遵守しなくてはいけない。もし守れないのなら、この共同声明の破棄を宣言し、日中平和友好条約の破棄を通告しなくてはいけない。然るに、その法理から鑑みて、首相の靖国参拝の行為はどうだろう。靖国神社にはA級戦犯が合祀されている。靖国参拝が、安倍晋三が詭弁で自己正当化して言うように、「不戦を誓い、平和の国を誓う」行為でないことは、国際社会の常識であり、だからこそ、米国はケリーとヘーゲルに敢えて千鳥ヶ淵に献花させるという行動に出ている。中国政府は、安倍晋三の靖国参拝に対して、「中国とその他のアジアの被害国の国民の感情を踏みにじり、公然と歴史の正義と人類の良識に挑戦した行動」と非難し、また、「侵略の歴史を反省するとした誓約を守」れと糾弾しているが、具体的に、日中共同声明の文面を持ち出すべきで、批判の法的根拠として提示して説明すべきなのだ。秦剛や華春瑩が会見するとき、カメラ撮影する背景に日中共同声明の文言を日本語のパネルで掲示すべきなのだ。これが国際法であり、「法の支配」の中身であることを主張すべきなのだ。

さて、この問題に関連して、もう一つの国際法を紹介して論点を深めたい。それは、1951年に締結されたサンフランシスコ平和条約である。昨年、4月28日に、怪しげな主権回復の日の式典が開催されたことは記憶に新しい。私は恥ずかしながら、これまで一度もサンフランシスコ平和条約の全体を通読したことがなかった。今回、朝日の提起した「法の支配」の論説に刺激され、国際法である日中共同声明が思い浮かび、それでは、日本と米国の間の平和条約ではどうなのだろうと考察が及び至り、初めて全文を検証することを試みた。日本と米国との関係を拘束する基本法と言うと、誰もが日米同盟(日米安全保障条約)だと条件反射的に想起するに違いないが、やはり、正しくはサンフランシスコ平和条約の方を挙げるべきだろう。この条約は、通常、サンフランシスコ講和条約という呼称で表記されることが多いが、英語では「日本との平和条約」 Treaty of Peace with Japan が正式名である。また、この連合国との平和条約が論ぜられるときの文脈は、一般に、日本の戦後の領土について検討される場合が多い。北方領土、竹島、尖閣など、領土問題の歴史が整理されるときに、その常識的前提として条文(第2条)が引用される。だが、領土問題以外にもしばしば名前が上がるときがあり、それが靖国問題の政局のときである。

マスコミ報道の解説などで、屡々、「日本はサンフランシスコ条約のときに東京裁判を受け容れたのだから」という言い回しが登場する。岸井成格もそう発言していた。それが、具体的にどういう意味なのか、私も(法的意味を)確認せず放置していて、きっと、サンフランシスコ平和条約が国会で批准される折に、東京裁判の判決確定の承認を宣言した国会決議でもあったのだろう、ぐらいに安易に思い込んでいた。無知のままだった。そうではなく、事実はもっと直接的で即物的なのだ。第11条にこうある。「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする」。東京裁判の受諾が明確に条文に記されている。この条文(第11条)については、マスコミ論者(関口宏など)は、ぜひともテレビ報道時のフリップにして教示して欲しいものだ。高校の日本史の教課と授業では、この決定的な文言までは教えてくれない。実に生々しい。サンフランシスコ平和条約についての一般理解は、日本が主権回復して国際社会に復帰したという意義と、そして戦後の新生日本の領土範囲が確定(限定)された根拠である。その二つだ。しかし、それと同じほど重要な意義と拘束が、この条約には条文(契約)として明記されていた。それは歴史認識に関わるものだ。

考えてみれば、不正常(戦争状態)だった二国間関係を正常化するときに、歴史認識の問題が問われないはずがない。日中との間では1972年に日中共同声明が合意発表され、日本の侵略戦争であった歴史認識が確定され、侵略した日本の責任と反省が明記されている。日朝の間では2002年の小泉訪朝で日朝平壌宣言が発表されたが、文書にはこう書いている。「日本側は、過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明した」と。日朝平壌宣言も国際法である。破棄宣告なしに政府が維持している以上、日本と北朝鮮の間の基本法は日朝平壌宣言だ。日本は北朝鮮との外交において、14年前に両国で合意署名したところの、この「法の支配」を受ける。米国が、安倍晋三の靖国参拝に対して、「失望」の政府声明を出して牽制したのは、その法的根拠は、二国間の平和条約(基本法)であるサンフランシスコ平和条約に基づく。A級戦犯を祀る靖国神社への参拝は、東京裁判の正統性の否定であり、東京裁判の受諾を明記した第11条に抵触する国家行為だからだ。無論、これは原則論であり、戦後の冷戦下、米国は靖国神社への姿勢を曖昧にして東京裁判の意義をなし崩しにしてきたし、A級戦犯合祀の1978年以降も、「私的参拝」を名目にした首相の靖国参拝に目を瞑ってきた経緯がある。

だが、日米二国間の原則と原点がサンフランシスコ平和条約にあり、両国が友好関係を構築する上での基本の歴史認識が、第11条(東京裁判の受諾)である点は間違いない。前回の記事でも少し触れたが、おそらく、米国の中で、東京裁判と靖国神社をめぐる歴史認識に葛藤があるのだ。日本の軍国主義の復活と台頭に懸念を覚えるリベラル派と、逆にそれを利用して中国を封じ込め、それを利用して軍産複合体のビジネスを繁盛させようとするネオコン派の間で。前者を代表するのが米議会調査局のスタッフで、後者を代表するのがアーミテージやナイやM.グリーンらジャパン・ハンドラーズである。二者の角逐と相克がある。オバマ政権は、左右に揺れながら、安倍晋三の右翼路線の暴走に対してコメントで強弱をつけつつ、例えば、ケリーとヘーゲルに千鳥ヶ淵に献花させる行動に出ている。米国の対日政策は、そのまま対中政策に連動し、米国の東アジア戦略における国益とは何かの定義に関わる。伝統的な構図を単純に描けば、従来、米国のリベラル派は中国に親しく、米国の保守派は日本に親しく、そのバランスが微妙に移動する外交を続けてきた。日中の緊張が高まる中、アジアシフトが米国の国策になる中、中国がG2として台頭する中で、米国はアジア外交の基本理論を再設定しなくてはいけない時期に来ている。そのとき、米国と日本との関係を最初に定義したサンフランシスコ平和条約を、米国はあらためて熟読する必要を迫られるだろう。

中国政府に提案したい。中国国務院外交部は、報道官会見のときに、国際法としての日中共同声明を指摘して、「法の支配」の反論を安倍晋三に投擲するだけでなく、サンフランシスコ平和条約第11条も並べて提示し、靖国参拝が国際法の逸脱であり、戦後の国際秩序への挑戦であることを法的根拠と共に明言すべきだ。日本側は反論できないだろう。マスコミも政府も。



by yoniumuhibi | 2014-01-08 23:30 | Trackback | Comments(0)
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