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■ 村上春樹の小説を僕が嫌いな理由:Edge of Europe - コリン・ジョイス 「Newsweek(2018年07月10日(火)18時30分)」より
(※mono....前後略、詳細はサイト記事で)
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村上は、僕がロンドンのバスやニューヨークの地下鉄の中でその作品を読む人を目撃したことのある唯一の日本人作家だ。大江健三郎や谷崎潤一郎を読んでいる人など一度だって見たことはないが、村上を読む人を見掛けたことはたくさんある。世界の多くの読者にとって、村上こそ日本文学なのだ。

日本が好きで、本が好きで、おまけに時々は走るし、神戸に住んだこともある僕にすれば、村上は気に入ってもおかしくない作家だ。実際、僕は彼を好きになろうとしたが、逆に嫌いになってしまった。 (※mono....同意!!)

僕にとって村上の小説はとても長くて、信じられないこと(悪い意味で)が書かれているだけでなく、偉大な文学が持つ意義や洞察に欠けている。村上の読者は感銘を受けているのだろうが、僕はヤギの口から出てくる「リトル・ピープル」や、月が2つある世界を読むと、そこにどんな意味があるのか知りたくなる。何の意味もないのなら、奇妙さ自体に価値があるとされているわけだ。

しまいに僕は、村上の物語に入り込めなくなった。何が起きてもおかしくない世界では、いくら物語が展開してもあまり衝撃を受け得ないからだ。物語の重要な場面に差し掛かり、主人公はどうなるのかと頭を悩ませていたら、彼が10年前の世界に飛んでしまったり、突然2000歳のキツネが登場したり......という経験を僕はしたくない。


■ 村上春樹がノーベル賞落選!良かった!反日言動の数々・「騎士団長殺し」では悪質な南京ステマ宣伝 「正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現(2017.10.5)」より
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https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171005-00020313-nksports-soci
村上春樹氏は今年も受賞逃す ノーベル文学賞発表
10/5(木) 20:05配信 日刊スポーツ

(※mono....引用以下略)


超売国奴の村上春樹が今年も英ブックメーカーなどに「ノーベル文学賞の有力候補」(2番人気)とされながら、またまた受賞を逃した!

「ザマァ見ろ!」だ!

今年2月に発売された村上春樹の新作「騎士団長殺し」は南京大虐殺をステマ(宣伝)する悪質な反日小説だったため、特に今年は何が何でも受賞してほしくなかった!

本当に良かった!!

(※mono....中ほど大幅に略、詳細はブログ記事で)
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村上春樹は、小説の登場人物の台詞として「とにかくおびただしい数の市民が戦闘の巻き添えになって殺されたことは、打ち消しがたい事実です。中国人死者の数を四十万人というものもいれば、十万人というものもいます。」と言わせているが、これは間違いなく「南京大虐殺は事実だ」という嘘の主張をステマ(宣伝)している!

村上春樹は、これまでにも何度も何度も繰り返し、日本の歴史認識や領土の主張を批判し、特ア(支那や南北朝鮮)を利する言動を行ってきた。

今回の「騎士団長殺し」では、小説の中で南京大虐殺を肯定するステマを行っており、日本国民はこれ以上村上春樹を野放しにしておいてはいけない!

もう村上春樹の不買運動を大々的に行わなければいけない時期に来ている!


■ 村上春樹的「ここだけ表現の自由」テクニックの構造 「木走日記(2017.3.8)」より
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[社会]村上春樹的「ここだけ表現の自由」テクニックの構造〜村上春樹さんの大江健三郎化が止まらない! 11:36Add Starblueecho
 さて、村上春樹さんの大江健三郎化が止まりません。

 かつておそらく最も下衆で下品な村上春樹論であるとの多くの罵声と一部の称賛を浴びた当ブログの「村上春樹さんを熱く考察する」シリーズでありますが、ネット上で顰蹙(ひんしゅく)を買ってまいりました、未読の読者はご一読あれ。

(関連エントリー)

2015-04-23 村上春樹発言に見る見事なストラテジー&タクティクス
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20150423
2015-04-07 深遠なるテーマ「村上春樹が大江健三郎化する理由」を熱く考察する
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20150407
2012-09-30 「利(益)は中国に有り」~尖閣で日本政府批判をする無責任なアウトサイダーたち
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20120930


 で、村上氏の新作「騎士団長殺し」(新潮社)が思わぬ波紋を呼んでいるのであります。

(※mono....中ほど大幅に略、詳細はブログ記事で)

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ノーベル賞獲得を目指して、村上春樹さんの大江健三郎化が止まりません。

 巨大なる市場でもある中国人民への迎合を、もはや隠さなくなった村上氏なのであります。


■ 村上春樹って?ハルキストって反吐が出る。 「りんご姫の国防ブログ(2017.3.3)」より
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■百田尚樹 @hyakutanaoki
https://twitter.com/hyakutanaoki/status/835382251378503680
2017年2月25日 15:53

村上春樹氏の新刊『騎士団長殺し』の中に、「日本軍は南京で大虐殺をした」という文章があるらしい。これでまた彼の本は中国でベストセラーになるね。
中国は日本の誇る大作家も「南京大虐殺」を認めているということを世界に広めるためにも、村上氏にノーベル賞を取らせようと応援するかもしれない。


(※mono....中略、詳細はブログ記事で)

 村上氏は反原発の一方の旗頭でもありますね。
「電気が無くても人は死なない」と演説していたのが有名ですが、そのあと自分はハワイの別荘に行ってしまいました。
私は氏のダイヤモンドヘッドにある別荘を知らないのですが、大磯で数度買い替えた一軒家、千駄ヶ谷のマンションなどを見ると、とても山小屋風なランプ生活をしているとは思えません。
多分この本も、さぞや快適な環境で書かれたことでしょうね。


南京大虐殺論争
■ 村上春樹を不買運動しよう!「騎士団長殺し」で南京虐殺を宣伝、ステマ!繰り返す反日言動を許すな 「正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現(2017.2.28)」より
(※mono....本文をいくらか編集して転記します。詳細はブログ記事で確認を。)
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村上春樹の『騎士団長殺し』は南京大虐殺をステマ(宣伝)する反日小説!
不買運動をしよう!



<>そうです。いわゆる南京虐殺事件です。日本軍が激しい戦闘の末に南京市内を占拠し、そこで大量の殺人がおこなわれました。戦闘に関連した殺人があり、戦闘が終わったあとの殺人がありました。

「戦闘に関連した殺人」って、普通は戦争の戦闘で敵兵を殺すことをいちいち「殺人」などとは呼ばない。




<>日本軍には捕虜を管理する余裕がなかったので、降伏した兵隊や市民の大方を殺害してしまいました。


ふざけんな!

いい加減なことを言ってんじゃないよ!

「降伏した兵隊や市民の大方を殺害してしまいました。」というのは、明らかに事実と異なり、悪質な捏造だ!

まず、「市民の大方を殺害してしまった」という事実は全くない!

市民(一般人)の虐殺についてはゼロで間違いない!(後述)

次に、「降伏した兵隊の大方を殺害してしまった」というのも真実とは異なる。

確かに南京では降伏した支那軍将兵の数が多過ぎたこともあり、降伏した大量の支那兵が暴動を起こした際に合法的に殺害した「幕府山事件」はあった!

しかし、幕府山事件は、降伏した支那兵どもが暴れ出したために、日本軍はやむを得ず殺害したわけであり、日本軍の正当防衛、あるいは戦闘再開(延長)となる合法的な出来事だった。

したがって、「降伏した支那兵の不法殺害」についても無かったに等しい。

敵兵の不法殺害については、あったとしても最大で数百人程度であり、村上春樹の小説の中の「降伏した兵隊や市民の大方を殺害してしまいました。」という台詞は事実とあまりにもかけ離れている!

南京戦に参加した畝本正己は、資料、証言を更に整理し検討し、【昭和63年=1988年】に発行した『南京戦史』(偕行社)で、撃滅・処断推定約1万6千人、うち不法殺害の可能性があるのは歩66第1大隊の捕虜処断最大約8百人の一例のみとの結論を出している。

つまり、「捕虜の不法殺害」の犠牲者は、0人~800人というのが結論だ。

「捕虜の不法殺害」について議論となるのは概ね「幕府山事件」のことだが、この「幕府山事件」というのは上述したとおり捕虜が暴動を起こしたことに対する鎮圧だから「捕虜の不法殺害」には該当しない。

「幕府山事件」については『「南京大虐殺」はWGIPのメインテーマです』と題された次のサイトの中で非常に詳しく説明されている。

ごく一部だけ抜粋し、以下に掲載する。

(※mono....以下略、詳細はブログ記事で)


■ 村上春樹本人だけが知らないノーベル賞が取れない理由 「二階堂ドットコム(2016.10.15)」より
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ノーベル文学賞は、ボブ・ディランでしたね(笑)この受賞の報道を耳にして、ノーベル財団は、何が何でも村上春樹にはノーベル賞は与える気はないのだなと感じました。

まだ日本には、村上春樹がノーベル賞をとれると思っている人がいるんでしょうか。それは、絶対にありえないのです。そもそもの原因は、彼の過去の発言にあります。救いがたいほどの「空気の読めなさ」なのですよ。これ以降も彼がノーベル賞を受賞することは万に一つもありません。踏んだ地雷が大きかったのかもしれません。我々もこれを他山の石とすべきでしょう。


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■ 村上春樹のノーベル賞落選が「既定の事実」だったホントの理由 「iRONNA - 黒古一夫」より
(※mono.--前後略、詳細はサイト記事で)
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 欧米以外の国々に暮らす作家がノーベル文学賞の候補者となる条件の一つに、その中心的作品のいくつかが英語をはじめとする欧米語に翻訳されていることがある、と言われている。その意味では、欧米各国語だけでなく中国語、韓国語、ベトナム語、スペイン語、トルコ語など約50カ国語に翻訳され、世界中に何千万人もの読者を持つ村上春樹が、毎年のようにノーベル文学賞の「候補」に挙げられてきたのは、先のフランツ・カフカ賞の後もエルサレム賞(イスラエル 09年)やカタルーニャ国際賞(スペイン 11年)などの国際的な文学賞を受賞していることも考えれば、当然と言っていいかも知れない。

 にもかかわらず、なぜこれまで村上春樹はノーベル文学賞を受賞できなかったのだろうか。村上春樹が『風の歌を聴け』(79年)でデビューして、『ノルウェイの森』(87年)で爆発的な人気を博するようになった直後の1989年に『村上春樹――ザ・ロスト・ワールド』(六興出版刊)を上梓して以来、同じ1970年前後の「政治の季節」を経験した団塊の世代(全共闘世代)に属する作家として、私は同伴者意識を持って村上春樹の作品を読み続けてきた。そして、2007年には2冊目となる『村上春樹――「喪失」の物語から「転換」の物語へ』(勉誠出版刊)を上梓し、今年の7月には35年以上にわたる村上春樹文学を総括し、併せて最近の村上春樹文学の方向性を見失ったような、あるいは行きつ戻りつするような「迷走」ぶりを批判した『村上春樹批判』(日中同時出版 アーツアンドクラフツ刊)を上梓した。そんな私から見ると、村上春樹の「落選」は、大騒ぎするようなことではなく、納得できるものであった。ノーベル文学賞というのは、「人気」ではなく、その文学がどんなメッセージを内包しているかが重要だ、と思っているからである。

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■ 村上春樹はなぜノーベル賞を取れない? 大手紙が指摘していた「いくつもの理由」 「Jcast-news(2016.10.13)」より
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 村上春樹さんは2016年もノーベル文学賞を受賞できなかった。すでに50言語以上に翻訳され、世界中で読まれているのに――。

 なぜ受賞できないのか。いったい、いつになったら受賞できるのか。「万年候補」で終わるのか。そんな疑問や苛立ちにこたえるような、事前の予測記事が今年は目立った。そこでは「いくつもの理由」が挙げられていた。

「才能は十分認めるが......」

 とくに、注目を集めたのが10月4日の毎日新聞の特集記事だ。今年は2年ぶりに、英国のブックメーカー(賭け屋)が、村上氏を受賞候補のトップに挙げている。いよいよ取れるのではないか。担当の藤原章生記者が、ノーベル文学賞が審査されるストックホルムで活躍するジャーナリスト、デューク雪子さん(50)に電話すると、返ってきた答えは、意外にも「難しい」だった。

 雪子さんは「ノルウェイの森」など7冊の村上作品を日本人の母、叡子さんと共訳。ノーベル文学賞を選ぶスウェーデン・アカデミーにも詳しい。

「今のところ、アカデミーの会員たちの好みとちょっと違ってて彼が描く世界の深みを会員がわかっているかどうか。面白さを読み取っていない感じがする」
「アカデミーから漏れ聞こえてくる声は『才能は十分認めるが......』なんです。『......』をはっきりは言わないんですが、何かが望まれている。深みというのか......。軽すぎると思われているんじゃないですかね」
むしろ石牟礼道子さんの方が・・・

 確かに、最近のノーベル文学賞の受賞者の経歴や受賞理由は、「重い」。14年に受賞したフランスのパトリック・モディアノさん(1945~)は、ナチス・ドイツ占領下のパリで、ユダヤ系イタリア人の父と、ベルギー人で女優の母との間に生まれた作家だ。授賞理由は「最も捉え難い人々の運命を召喚し、占領下の生活世界を明らかにした記憶の芸術に対して」。

 15年に受賞したのはベラルーシの女性作家、スヴェトラーナ・アレクサンドロヴナ・アレクシエーヴィッチさん(1948~)。父はベラルーシ人、母はウクライナ人。独裁政権の圧力や言論統制を避けるため、2000年にベラルーシを脱出し、西ヨーロッパを転々とした。受賞理由は「我々の時代における苦難と勇気の記念碑と言える多声的な叙述に対して」。作品『チェルノブイリの祈り』はベラルーシでは出版できなかったという。

 こうした受賞理由を見ると、日本人作家では村上さんより、むしろ「水俣」をテーマとする石牟礼道子さんの方が有力なのではないかと思ってしまうほどだ。
国内では批評家・文壇から厳しい言葉

 現代史と正面から向き合う社会性のある作品。あるいは圧政と闘う文学――。アカデミーの会員たちが「重厚さ」を好むのは、ノーベル文学賞の伝統と、そうした伝統を重んじる審査員の年齢も影響しているのではないかと見られてきた。

 毎日新聞の藤原記者は、スウェーデンの文化ジャーナリスト、クリステル・デュークさん(83)にも取材している。それによると、現在のアカデミー会員は実働16人。平均年齢は69.6歳。まだ年齢は高いが、かつて「老人クラブ」と言われていた時代よりは若返った。この12月には72年生まれの女性作家も入る予定で、「好み」が大きく変わる予感があるという。

 朝日新聞の10月6日の記事によると、アカデミーの選考では、世界中の作家団体や過去の受賞者から推薦を募って対象者リストを作り、候補者を絞り込む。そこで気になるのが、10月2日の朝日新聞「GLOBE」の記事だ。

 「不安な世界をハルキが救う」という特集の中で、担当の太田啓之記者は、「世界的なベストセラー作家としての地位を確立した村上だが、国内では批評家・文壇から厳しい言葉を浴びてきた」と、「内なるハルキ批判」について紹介している。

 ここで批判者として登場するのは、作家・評論家で元東大総長の蓮實重彦さんや日本を代表する評論家の柄谷行人さん。アカデミー側が事前に、内々にヒヤリングしているかもしれない超大物なので、穏やかではない。過去の受賞者の大江健三郎さんが、村上さんをどう評価しているのかなども気になるが、選考過程は非公開なので、わからない。

 同じ特集の中では、村上さんが米国で、敏腕の出版代理人と組んで声価を上げ、ベストセラーを連発していったことも明かされている。このあたりも、「商業主義的な作家」とみなされ、アカデミーの「重厚好み」とはズレがあるかもしれない。

 もちろん特集では、肯定的な評価も多数紹介している。ナポリ東洋大の教授として日本の近現代文学を研究し、イタリア文化会館東京館長を務めるジョルジョ・アミトラーノさんは、「村上は世界のどの作家の追従も許さないほど、現代という時代の本質をつかみ取っている」と断言している。

 不安な時代をどう生きるか――。ポップな文体で重いテーマを語り、ドストエフスキーを敬愛していることでも知られる村上さん。その真価がアカデミーに認められるのはいつになるのか。毎日新聞の記事で、アカデミーの若返りを指摘したスウェーデンのクリステル・デュークさんは、村上氏が「近い将来、取る可能性は十分ある」と見ており、いましばらく待つほかないようだ。

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■ 村上春樹がノーベル賞を受賞するべきではない理由 「アゴラ - 神谷 匠蔵(2016.10.13)」より
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2016年度のノーベル文学賞受賞者が本日(日本時間10月13日20時)発表される。

日本からは村上春樹氏が例年通り海外のブックメーカーなどから受賞を期待され、今年に至っては「第一候補」扱いされていると、日本のみならず欧米メディアでも報道されている。

だが、そもそもなぜ村上春樹氏が例年有力候補として名前が上がるのだろうか。答えは単純だ。彼が、今の時点で生存中の日本人の中で、西洋人(=世界中)の間で最も良く知られているアジア系の「人気」作家だからだ。

逆に言えば、「Haruki Murakami」の他にはほとんど誰も知られていないという現実がある。尤も、無論夏目漱石は知られている。三島由紀夫も知られている。場合によっては安部公房も知られている。だが、彼らはいずれも過去の人であり、亡くなってしまっている以上ノーベル賞は受賞できない。

とはいえ、三島と安部公房はともにノーベル賞候補者であったことが判明しているので、海外で知られるほどの作家はノーベル賞に近いというのは、これらの明治から昭和初期頃に活躍した文豪に関しては概ね正しいだろう。

だが、村上春樹は戦後の作家である。しかも主な読者層は若者であり、内容も政治性は薄く、三島に見られるような旧来のインテリ風の格調も、安部公房のような実験性もなく、むしろ通俗大衆小説として第一級であると言うべき作風で知られている。

勿論、通俗性の高い村上春樹の小説は「純文学」としては例外的とも言えるほどヒットし、知名度もほとんど最高点にまで高まった今では飛ぶように売れる。だからこそ世界中でHaruki Murakamiは知られているし、読まれている。

だが、広く読まれていることは、必ずしも深く読まれていることを意味しない。

三島由紀夫や安部公房を読む読者は、ある程度落ち着ける場所で、ゆっくり時間をかけて読むだろう。真剣に集中して読まなければ、その作品を十分に味わえないと、文章そのものが示しているからだ。

だが村上春樹の読者は、電車の中や授業と授業合間など、喧騒の中でも「友達と一緒に」軽い気持ちで読めるからこそ読んでいる、という印象を受ける。それは、最近で言えば「ライトノベル」のような読みやすさであり、面白さである。村上春樹を他の純文学作家と区別する要素を、さらに極端に誇張したのがライトノベルである、と言い換えてもいい。それこそが村上春樹の良さであり、また限界だろう。

そうであるとするならば、村上春樹は確かに日本の文学界に大きな変化を齎したと言える。だが、その功績は「文化的」な功績なのだろうか。村上氏の作品を読むことは、「教養」の涵養に、”Bildung”につながるのだろうか。

無論、権威や教養が文学の全てではない。「最も売れそうな小説」を選ぶ文学賞があっても良い。商業的に成功する作品も立派な小説だし、そこには固有の価値がある。ただ、それしかなくなってしまうのはとても残念なことだと思う。

ノーベル文学賞はどちらかといえばノーベル平和賞と親和的な要素を含む、ある種の偏りを感じさせるものではあるが、それでも商業主義とは一線を画した選考基準を維持している点は評価できるというのが私の見方だ。

他方、村上春樹が象徴しているのは大衆性であり、アメリカ性であり、商業性である。彼は日本の作家であるが、彼の作品の売りは日本の伝統ではない。また西洋の伝統でもない。村上作品のモチーフは、あらゆる伝統の受動的否定である。

村上氏が古い伝統を守る守旧派でないのは勿論だが、かといって古いものを破壊し新しいものを創造するという革新派でもない。村上氏が表現するのは、伝統に対する主体(subject)の優越であり、主体にとっての伝統の無意味さであり、また主体そのもののアメリカ的な空虚さである。社会や政治に対しても、自分の実存に対しても徹底的に無関心を貫き、何にも「意味」を求めることなくただ彷徨う「主体」。この、商業主義が空洞化した現代(アメリカ)人の精神性の在り方を、日本に移植したことこそが村上春樹という作家の功績だ。

だが、ヨーロッパの主流派文化人のidentityはこのアメリカの精神性に対して全力で抵抗することのうちにこそ存する。ヨーロッパが必死に守ろうとしているリベラリズムも、ヨーロッパの文脈ではあくまでアメリカ的な商業主義(あるいはソ連的な権威主義)の暴力に虐げられた「弱者」として表象された人々に救いの手を差し伸べるプロジェクトであり、ノーベル賞が文化面で高く評価するのもこのプロジェクトへの参画度あるいは貢献度であろう。昨年ウクライナ生まれでベラルーシ出身のAlexievich氏が受賞したことなどはその意味で実に象徴的だ。

だが村上春樹氏はあらゆる意味で「弱者性」を欠いている。彼は既に有名人であり、売れっ子作家であり、世界でも最も裕福な国のひとつである日本出身であり、投獄された経験もなければ、言論弾圧を経験したこともなく、常に「強者」として、否、弱者(=プロレタリアート)でも強者(=ブルジョワジー)でもない存在(=小市民)として作品を書き、また発言してきた。尤も彼自身は「卵の側に立つ」、つまり弱者の側に立つと宣言しているが、彼自身はどう見ても社会的弱者ではない。村上氏本人の言葉を借りれば、彼は壊れやすい「卵」である弱者を、破壊するのではなく守るような「壁」になろうとしているのだ。もしそういう人物でもノーベル賞候補に上がるのであれば、ハリーポッターの作者J.K.Rowlingはじめ英米の有名作家の大部分が候補に上がらねばならない。

にも関わらずJ.K.Rowlingらではなく、商業的に成功している作家の中で村上春樹が特にノーベル賞候補として注目されるのは、他でもない、彼が「日本人」であるからであり、つまり「アジア人」であるからだ。要するにaffirmative actionの一環である。村上氏はこれまでに海外でも数々の文学賞を受賞しているが、果たして彼が「日本人」でなく、白人のアメリカ人だったらその作品はどう評価されただろうか。村上春樹と同程度に「面白い」作家はアメリカやイギリスには多数存在するが、それでも彼らは「白人」なので目立たない。だが村上春樹は目立つ。アジア人であるから。日本人であるから。日本人であるにも関わらずアメリカ人のような文章を書くから。

それでも私は村上春樹氏に日本人を、あるいは日本人作家を代表してほしいとは思わない。川端康成は日本人のノーベル賞作家として誇りに思える日本的な作家だし、思想的に共感するか否かは別として大江健三郎氏が戦後民主主義世代の作家の代表として評価されたことにも歴史的意義があると思う。だが村上春樹氏にはそういったテーマ性が感じられない。それでも彼がノーベル賞を受賞するのなら、「ノーベル文学賞」の「時代に合わせた」変化に私は驚愕するだろう。

「小説」は単なる売り物、「商品」に過ぎないのかもしれない。エンターテイメントに過ぎないのかもしれない。だが「文学」の価値は商品価値だけなのであろうか。文学の価値は商業的成功に比例するのだろうか。

もしノーベル賞委員会の答えが「No」なら、「Haruki Murakami」にノーベル文学賞を与えるべきではない。

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■ 村上春樹がノーベル賞を取ることは100パーセントない。 「はてな匿名ダイアリー(2016.10.14)」より
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毎年、この時期になると村上春樹がノーベル賞を取るんじゃないか、と話題になる。
で、なぜかハルキストや母校の関係者は本気で受賞を信じて、そのたびにガッカリするわけだが、彼らはノーベル賞の特性をまったくわかっていないと言っていいだろう。
断言するが、村上春樹がノーベル文学賞は絶望的だ。
なぜなら、ノーベル財団が村上春樹に受賞させる理由が、まったくないからだ。
理系の部門と違い、平和賞と文学賞は受賞理由に政治性を重視しているからだ。
平和賞や文学賞は、功労者や優れた結果を残した人に与えられるわけではなく、ノーベル財団から世界へのメッセージ、意思表明に近い。
今回のボブ・ディランに関しては、ドナルド・トランプに代表されるような排他的なナショナリズムに傾きがちな人々に対して、「あの頃の公民権運動や戦争反対に燃えた、反骨の気風はどこに行ったんだ?」というメッセージに近い。ボブ・ディランが良い歌を作ったから受賞、ではないのだ。与えるべき受賞理由、メッセージがあるとノーベル財団が判断したから与えられたのだ。これがジョン・レノンが生きていたら、100パーセント彼に与えられただろう。
莫言やアリス・マンローに与えられたのはアジア文学、女性文学に目を向けましょう、というメッセージだし、それを通した一部の国や差別の現状への牽制である。
これに対して、村上春樹はどうか?彼が受賞したとしても、なんのメッセージにもならないのである。
村上春樹の特徴はその無国籍性や非政治性であり、それが理由で世界的にも売れているのだが、それゆえ、ノーベル財団が彼に受賞させる理由がないのだ。
村上春樹がノーベル賞を受賞しても、世界に対してなんのメッセージにも、牽制にもならない。
それを意識してか、最近の村上春樹は政治的なメッセージを受賞コメントなどで言ったりしているが、どれも抽象的なお題目で、彼が言う必然性がない。彼の国籍や生い立ちに裏付けされた「凄み」がないので、受賞にはほど遠い。
ノーベル賞はアイデンティティと政治性、そして文学性が合わさり、さらにノーベル財団が伝えたいメッセージと合致した人物に与えられる。村上春樹はどれも欠けている。ノーベル賞とは一番遠い人物だと言っていい。おそらく、次に取るのはサルマン・ラシュディだ。
村上春樹はノーベル賞を取ることは絶対にない。彼はただ「すごく人気がある」というだけで、受賞させるほどの理由がない。音楽でいえば「GLAY」や「ラルク」みたいなもので、彼らがいくら人気でも、政治的に権威ある賞を取らないのは当然だろう。


■ 村上春樹『職業としての小説家』を読む - 神からの啓示、音楽とフィジカル 「世に倦む日日(2015.11.6)」より / 魚拓
(前半大幅に略)
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「しかしごく一般的に申し上げて、中年期を迎えるにつれ、残念ながら体力は落ち、瞬発力は低下し、持続力は減衰していきます。(略)そしてまた体力が落ちてくれば、(略)それに従って、思考する能力も微妙に衰えを見せていきます。思考に敏捷性、精神の柔軟性も失われてきます」「僕は専業作家になってからランニングを始め(略)、それから三十年以上にわたって、ほぼ毎日一時間程度ランニングをすることを、あるいは泳ぐことを生活習慣としてきました。(略)一年に一度はフルマラソン・レースを走り、トライアスロンにも出場するようになりました。(略)そしてそのような生活を積み重ねていくことによって、僕の作家としての能力は少しずつ高まったし、創造力はより強固な、安定したものになってきたんじゃないかと、常日頃感じていました」(P170-172)。単純な話だけれど、ここにも重要な神からの啓示がある。そう思う。私は、昨年末からランニングを始め、1日2キロの短い距離を走っている。この件はまた別に書きたいが、今、私ぐらいの年齢の者が重く考えていること、毎日の憂鬱になっている問題は、あの「下流老人」の情報であり、その恐怖だろう。「下流老人」の破滅に怯える貧乏人は、とにかく、自分のため家族のために健康を維持しなくてはいけない。でも、生きるため、稼ぐため、生きた証を残すためには、体力を駆使して自らの労働のアウトプットを高めないといけない。それには健康な心身が必要である。

われわれは、日々そのことに悩んでいる。不安におののいている。村上春樹が『職業としての小説家』で読者に与えた啓示は、すなわち、「下流老人」の恐怖の中で生き抜くわれわれに、希望のヒントを与えるものだ。救いの道標となるものだ。だから、私はこの本を特に薦めるのである。




大江健三郎
■ 深遠なるテーマ「村上春樹が大江健三郎化する理由」を熱く考察してみる 「BLOGOS - 木走正水(2015.4.7)」より
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固い時事ネタが続きましたので、今日は軽めなコラムということで、肩の力を抜いて読み流していただければ幸いです。
 BLOGOSの記事で、作家の村上春樹さんが「原子力発電所ではなく、核発電所と呼びませんか?」とネットで呼びかけていることを知りました。
(※mono.--中略、詳細はサイト記事で)
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まあ、確かに「原子力発電所」は英語で"Nuclear power plant"ですから直訳すれば「核力発電所」ですから、「核発電所」を呼称としてもよろしいかもですが、そんなこといったら、広島や長崎に投下された「原爆」も「原子爆弾」="Atomic bomb"でありますが、よりリアルに「核爆弾」="nuclear bomb"でもよろしいのかとなります。

 でも、日本語では「原子力発電所」のほうが略して「原発」ですから「原爆」に語呂があってよりおどろおどろしいと思うのですが、いかがでしょう。
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さてBLOGOSのコメント欄でも批判的意見が大半なのですが、最初のコメントで「こうして村上も大江化するわけだ」との指摘があり、思わず我が意を得たりと、膝を叩いて、お茶吹いてしまいました(苦笑)

 今回はこのコメントをパクらせていただき、この深遠なるテーマ「村上春樹が大江健三郎化する理由」を熱く考察したいのであります。

 ・・・
 実は当ブログでは「村上春樹の大江健三郎化」は6年前から注目していたのであります。

 思えば「村上春樹の大江健三郎化」ですが、ここ最近顕著なのでありますが、ひとつのきっかけは、六年前の村上春樹「エルサレム賞」受賞スピーチに見ることができます。
(※mono.--中略)
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それまであまり政治的主張を公(おおやけ)にしてこなかった村上氏の政治的主張を自ら発信するという「大江健三郎化」の始まりであります。
(※mono.--以下中ほど長文略、詳細はサイト記事で)
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 大江健三郎化を目論む村上春樹の狙いはズバリ、ノーベル文学賞獲得のためだと、当ブログは考えます。

 今回は 深遠なるテーマ「村上春樹が大江健三郎化する理由」を熱く考察させていただきました。

 え? どうでもいいって?

 長文失礼しました(汗


■ 村上春樹が「相手」についてまったく無知と嘲笑されている 「ダークネスDUA(2015.4.20)」より
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(※mono.--記事転載不可ブログのため、本文詳細はブログ記事で)


■ 秒読み段階に入った「村上春樹の大江健三郎化」 ~ 村上の「無限謝罪論」を批判する 「私的憂国の書(2015.4.18)」より
(※mono.--前略、詳細はブログ記事で)
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 さて、そんな朝鮮族が拍手喝采を送っているのが、作家の村上春樹だ。「世界で最も影響力のある100人」に選ばれたと持て囃されるこの人物は、最近、反原発と歴史問題に関する発言で取り上げられることが多くなった。朝鮮紙がこぞって伝えているのが、村上が東京新聞だか共同だかのインタビューで語った、特亜への「無限謝罪論」である。


村上春樹氏「相手国がもういいというまで日本は謝るしかない」 (中央日報)
日本の世界的な作家、村上春樹氏(66)が「日本は相手国が『もういい』というまで謝るしかない」と強調した。

 村上氏は17日に報道された共同通信のインタビューで、「歴史認識はとても重要だから、しっかりと謝罪することが大切だ」とし「相手国が『すっきりしたわけじゃないけれど、それだけ謝ってくれたから、分かりました、もういいでしょう』というまで謝るしかない」と述べた。続いて「謝ることは恥ずかしいことではない」とし「細かい事実はともかく、他国に侵略したという大筋は事実だから」と付け加えた。

 村上氏が異例にもインタビューに応じてこのように強調したのは8月の戦後70年談話(安倍談話)で「侵略」 「植民地支配」「お詫び」という言葉を避けようとする安倍首相に覚醒を促したと解釈される。

 また村上氏は「日本が経済大国で、韓国も中国も途上国という時には、その関係の中でいろんな問題が抑え込まれていたが、韓国、中国の国力があがってその構造が崩れ、封印されていた問題が噴出している」と診断した。
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 私は村上春樹の作品には興味がなく、読んだこともないのだけれど、作家というものは言葉を大切にすべき職業であるはずだ。村上の語った言葉は、上辺をすくっただけの一般論に過ぎない。「他国に侵略したという」という「他国」とは、一体どの国を指すのか。支那を指すのか、条約で合意した日韓併合も含むのか、それとも東南アジア全域を対象とするのか。

 「相手国が『すっきりしたわけじゃないけれど、それだけ謝ってくれたから、分かりました、もういいでしょう』というまで謝るしかない」というご高説も、現実を直視していない。こと支那と朝鮮に限っては、相手がすっきりすることなど、未来永劫ないのだ。日本はこれでもかというほど、謝罪を繰り返してきている。慰安婦問題など、朝鮮側から「これ以上、問題にしない」という言質を取りながら、「謝罪したらちゃぶ台返し」という歴史がある。彼等としては、日本を永久に戦犯国という立場に置いておき、日本から金を巻き上げることを今後も正当化することが目的であり、彼等には日本を赦すという着地点はないのだ。
(※mono.--後略、詳細はブログ記事で)


■ やっぱり、怪しかった村上春樹  桑田佳祐・孫正義路線? 《拡散自由》 「BBの覚醒記録(2015.4.18)」より
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2015年4月17日、韓国・国民日報によると、作家・村上春樹氏が「日本は過去の侵略の事実を認め、相手国が納得するまで謝罪するべきだ」と述べたことが、韓国で話題となっている。

村上氏はこのほど、日本メディアのインタビューで、日中韓の関係について、「細かいことはともかく、日本が他国を侵略したことは事実。歴史認識はとても重要だから、しっかりと謝罪することが大切だ。相手国が納得するまで謝罪するべきではないか」と指摘した。

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侵略とは具体的にどこを侵略したのでしょう。
謝り続ければつけあがる特亜。
際限はありません。それに日本人が韓国人や中国人にされたことは、無視?

あの、日本人ですか?

拙ブログでは以前から、この作家に疑義を呈しています。「組織」が背後にある、と。
韓流の組織買いの気配も感じます。
むろん、その国家性の希薄さ、根無し草(デラシネ)の雰囲気を好む
実質的読者もいますが。
ただ、発売日におけるテレビのステマっぽい煽りなど、ひところの
韓流ゴリ押しを思わせます。

「組織」はこの人にノーベル賞を取らせ、日本批判・毀損、そして
平和憲法護持の、講演行脚を目論んでいると思います。

過去記事
池田大作か村上春樹か 祖国売り渡す男
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/6d84bc7dbd86bd68f805256b5740a166



読む自由はありますが、買えば反日支援となること、韓流スターへの貢ぎと同じ構図で、
恥ずかしい日本人だな、と解った人たちからは無言の軽蔑を受けていることは
承知しておきましょう。

孫正義や、桑田佳祐の反日と同じ臭い。バックにある組織がついている気配も共通。

(※mono.--以下主に”桑田佳祐”関連記事略。詳細はブログ記事で)


■ 村上春樹が言う、日本の「戦争加害者としての発想」 「私的憂国の書(2014.11.5)」より
(※mono.--前後は大幅に略されています。詳細はブログ記事で)
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 このインタビューのキモは、太字にした部分、「日本人には自分たちが加害者でもあったという発想が基本的に希薄だし、その傾向はますます強くなっているように思います」だろう。その結論を導き出すために、村上は、凡例として原発事故と戦争責任を持ち出し、地震が悪い、津波が悪い、戦前の軍閥が悪いという言い訳を基に、誰も責任を取らない日本の「無責任社会構造」をつくり上げている。

 原発事故の件はここでは置くが、「終戦後は誰も悪くないということになってしまった」という彼の着眼は、戦後民主主義信望者の歴史の見方である。これはある意味において正しい。だが、村上春樹の結論は、日本人の戦後の歩み方を的確に捉えているとは思えないのだ。彼は戦後の日本人にも贖罪意識と反省を促し、戦前も悪なら戦後も悪を忘れてはならないという姿勢を示唆する。即ち、村上は、戦前は絶対悪であるという戦後民主主義の基本的思想の枠組みから一歩たりとも出ていない。それを決定づけるのが、「自分たち(日本人)が加害者であった」という断定だ。

 では戦後日本人は、村上の言うように、贖罪意識も持たず、反省もしてこなかったのか?全くの逆である。日本人ほど謝罪し、日本人ほど日本人自身を否定し、聯合国が自分たちの利益のためにつくった窮屈な戦後秩序の中でつつましく生きてきた国民はいない。支那や朝鮮に対する謝罪と賠償の歴史を見れば明らかである。ドイツはナチスに全責任を負わせ、ドイツの戦後を形成してきた。ドイツのような国家形成の道を、日本は取らなかった。自国の歴史も知らず、日本人の生き方を否定することは止めてもらいたい。


■ 村上春樹氏がノーベル賞受賞の賭け屋の予想で1番人気を祝して・・その文体の秘密を解いた! 「わらし仙人の読書三昧日記(2013.10.7)」より
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もうそろそろ・・日本の誇る文学者がノーベル賞を受賞しそうです。

それなら・・先走って受賞祝いをするのも・・悪くはありません。(笑)

実は・・10万冊の本を読破したわらし仙人ですが・・村上春樹の本は5冊購入してますが・・まだ読んでおりません。いつでも、読もうと思うんですが・・2-3ページ読んだら次に進めません。(涙)前から・どうして村上春樹の本を読めないのかが悩みの種でした。
(※ 中略)
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わらし仙人が最近読んだ本の中に・・村上春樹の文体は日本人を超える文体であると書かれてました。つまり・・古来からアル島国根性の国民性を捨て去って、新しい日本人を作ろうとしている風に見えます。日本人の閉鎖的な考えや個人の無いあやふやな集団的な考えを・・排除した文体です。

では、この日本人の作家でありながら、日本的な思考を排除した文体を確立して、むしろ日本人よりも外国人に受け入れられやすい文体はどこから来たのでしょうか?それは、おそらく村上春樹氏の生い立ちにその秘密が隠されていると思います。もっと深く考えて見ると・・村上春樹は日本人をその島国根性から開放しようと画策したのではないかと思います。で・・最近は、その企画が見事成功しているのかも?
(※ 後略)

■ 村上春樹「ボストンへ」への失望 「ザウルスでござる(2013.5.4)」より
(※ 前中後略)
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さて、その彼がボストン爆弾テロ事件についてのエッセーをアメリカ人に向けて書いたらしいので、気になって読んでみた(原文の日本語版が見つからなかっので英語版だった)。正直言って失望したと同時に、そこに日本人の典型的な発想を見た。
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あれだけ疑惑のある大きな事件について書くのである。それなのに米国政府の怪しげな公式説明だけを自明なこととしてほぼ受け入れたかたちで書いている。つまり、

1)未解明部分もあるが、チェチェン人兄弟の仕業である。(これを言っておけば、米国政府ににらまれることはない)
2)自分も含め無辜の市民が深く傷ついた。(役者たちの名演技を大いに“称賛”するくらいの皮肉を書いてほしかった)
3)報復は解決にならない。(イスラム教徒のチェチェン人が先に攻撃したという暗黙の前提)
4)トラウマの克服には時間がかかるが、痛みから目をそらしてはならない。(“被害演出説”の拒絶、つまりマスメディアへの全面的信頼)
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村上春樹は“被害者に寄り添う”のが信条のようである。純粋で、だれにも文句をつけられない姿勢であるかのようである。日本人は得てしてそういう独り合点の“聖域”に安住したがる。しかし、“被害演出”の“被害者”に寄り添うことはその演出に加担することになるという点に気づいていない。見せかけの“卵の側”に寄り添うことによって、誰にも非難されないところにいると勝手に思っている。君の“聖域主義”のパラダイムではもうとらえられない時代にとっくに入っているのだよ。

ボストン爆破事件についてのエッセーであるというので、もっとひねりのある、でっちあげやアメリカ政府を当てこすった内容を期待したのだが、とんだお門違いであったようである。彼が老成したのかもしれない。わたしに成長がないのかもしれない。いくら読み進めてもユーモアもなければ、アイロニーも風刺もない。ボストン爆破事件という、まともな知性の持ち主であればどう考えてもウラがありそうなテーマで書きながら、このエッセーには権力との緊張関係が微塵も感じられない。かつて同時期にフーコーを研究した人間がこれほどまでに権力になびいているのを知って複雑な思いである

■ 村上春樹の「好き」「嫌い」はどこで分かれるのか? に関する一考察 「(チェコ好き)の日記(2013.11.2)」より
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「村上春樹の小説がどうも好かん」という方に、たまに出くわします。

一方私は、けっこうな村上ファンです。長編小説はすべて読んでおり、短編小説も一部をのぞいてほとんど読んでいます。エッセイもたくさん持っています。

ただし、村上ファンであることを公言するとアンチ村上派に鼻で笑われるので、最近は「村上春樹が好き」であることを、あまり表立って言わないようにしています。
(表立って言えないので、ブログに書いています……。)

村上肯定派も、アンチ派も、この方の小説に関しては、いろいろと言いたいことがあるもよう。

アンチ派の意見として代表的なのは、Amazonの『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のレビューで★1の評価をつけている、ドリーさんのようなものでしょうか。
Amazon.co.jp: ドリーさんのプロフィール: レビュー

このドリーさんのレビューは大変面白くて、ファンである私も、思わず吹きました。

しかし、そんなアンチ派の声を聞いた上で、肯定派がいったい村上春樹の小説をどう読んでいるのかについて、一度語っておいてもいいのではないかと思ったわけです。なぜアンチ派の語る「ムダにオシャンティーな言い回し」や、「あざとくて薄っぺらい登場人物」を、私たち肯定派は、すんなり読むことができるのか。

村上春樹の小説の「好き」「嫌い」は、いったいどこで分かれるんでしょうか?

『ノルウェイの森』から入った人は、高確率でアンチになる
私のまわりのアンチ村上派に、「いちばん最初に読んだ村上の本は何?」と聞くと、高確率で返ってくる答えが『ノルウェイの森』です。
(※mono.--以下略、詳細はブログ記事で)










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最終更新:2018年07月11日 14:51