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■ ドナルド・キーンは本当に「日本文学と日本文化研究の第一人者」なのか? 「祖国創生(2019.02.25)」より
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Wikipediaには、ドナルド・キーンは「日本文学と日本文化研究の第一人者」と書いてあるが、本稿はそれを否定する目的で出稿したもの。

先日、ドナルド・キーンが死去した。
私は、もともとドナルド・キーンについては好意的なポジションだったが、沖縄でのリベラルな発言を知り、評価を変えた。

―― 参考情報 ――――――――――

アメリカ兵の残虐行為(対日戦)について
http://nihonshitanbou.blog.fc2.com/blog-entry-129.html

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彼は、戦後レジーム維持派の人物であろうとみている。

(※mono....以下略、詳細はサイト記事で)


■ 日本人以上に、日本文化を知り尽くした知の巨人!『和樂ムックドナルド・キーン』発売記念特集! 「INTO JAPAN(2017.7.1)」より
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ドナルド・キーン先生日本美を大いに語る!

日本研究の第一人者として日本文化を世界に紹介し続けてきたドナルド・キーン先生が今年6月に95歳の誕生日を迎えました。日本を愛し、日本を研究して70余年。2011年の東日本大震災直後には、日本を撤退する外国人が多い中、日本に対する感謝の気持ちを表して「今こそ、私は日本人になりたい」と、日本国籍取得を決意されました。

以来、キーン先生は日本人として、『和樂』で発言や執筆をし続けてくださいました。そして今なお、情熱をもって執筆に明け暮れる生活を送られています。『和樂』に寄せてくださった貴重な文章や写真を95歳の誕生日を記念して『和樂ムック ドナルド・キーン』と題する一冊の本にまとめました。その内容をダイジェストでご紹介いたしましょう。

95歳になったばかりのキーン先生。1922年6月18日、ニューヨーク生まれ。コロンビア大学名誉教授。日本文学と日本文化研究の第一人者で、欧米に日本文化を数多く紹介した業績は高く評価され、2002年に文化功労者に選ばれ、’08年には文化勲章を受章。

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知の巨人、ドナルド・キーン先生95歳はどんな人?

今回発売となった『和樂ムック ドナルド・キーン』は、日本文化研究の世界的泰斗で、多くの日本文学を世界に紹介した知の巨人ドナルド・キーン先生の人生、すべての魅力が、一冊に詰まっています。まず第1章は、キーン先生の大研究。近代文学の錚々(そうそう)たる文豪たちとの交流や研究の実績、日本文化をより知るために学んだ伝統芸能の話。さらに趣味の音楽や陶器のこと、チャーミングな日常生活など。とても魅力的。必見です!
数奇な出会いで、しだいに日本に導かれてゆく…
1922年、ニューヨーク市ブルックリンの貿易商の家庭に生まれたキーン少年が、日本の古典文学や思想、伝統芸能の研究、現代作家の翻訳を通じて日本文化を広く世界に紹介し、86歳で文化勲章を受章。ついには日本国籍を取得し、日本人になりました。さて、どのように日本に導かれていったのでしょう。今回発売のムックの第1章では知の巨人になるまでの歩みを愉快なエピソードを織り交ぜながら記しています。

自宅の書斎で机に向かうキーン先生。床には諸橋轍次編纂の大漢和辞典が…。窓の外には、旧古河庭園の緑が広がる。「一日中部屋で仕事をする私にとって、窓から見える木々の緑はかけがえのない財産です」と、微笑む。


たとえば9歳のとき、父親が仕事でヨーロッパに旅立つと知ったキーン少年は、一緒に連れて行ってほしいと3時間も泣き続けます。大成功でした。「子供というものは怪我をしたり、欲しいものが手に入らなかったりすると、すぐ泣くものだ。しかし私は、幼児のときさえ一度も泣いた事がなかった」。それが3時間も泣いたので、父親は降参でした。この旅でパリに滞在したとき、父親の友人の娘で同じ年ごろのフランス人の女の子と会話ができず、「それでもなんとか彼女と理解し合いたいと必死になり、唯一知っていた”修道士のジャックさん”を唄った」。これが、”外国語を学ばなければならない”と、初めて啓示を受けた瞬間でした。
キーン先生が18歳のころ、ヨーロッパではナチスドイツが猛威をふるっており、反戦主義のキーン先生にとって最も暗い時代でした。そんなとき、本屋で偶然手にした英語版の『源氏物語』。その美しい世界に一気に引き込まれ、自分を取り巻くいやなものすべてから逃れるためにページを捲りました。そして、もっと日本文学を知りたい、知るべきだという思いが湧いてきたのだそうです。
19歳で日本語を習い始め、日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃して戦争が始まると、海軍に日本語学校があり翻訳と通訳の候補生を養成していることを知り、米海軍日本語学校に入学したキーン先生。日本語の特訓を受けて11か月後にはハワイに派遣され、米軍が入手した日本軍に関する書類の翻訳や、日本兵の日記の読解、日本兵捕虜の尋問や通訳に従事します。捕虜収容所で尋問を通して日本人捕虜と親しくなり、クラシック音楽が聞きたいという捕虜のために音響効果のよいシャワー室で音楽会を開いたり、終戦後には焼け野原の東京に立ち寄って、親しくなった日本人捕虜からの手紙を懐に、消息を家族に伝えてまわりました。

(※mono...以下略、詳細はサイト記事で)



■ ドナルド・キーン 私が日本人になった理由 「PHPオンライン衆知(2013.4.15)」より
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ドナルド・キーン(日本文学研究者、文芸評論家)
私が日本人になった理由』より

心を揺さぶる日本兵の日記

――日本にいらっしゃる前に、日本兵の日記を読まれたそうですが、どのようなものだったか伺ってもよろしいですか?
 はい、戦時中、私は通訳もしましたが、主な任務は翻訳でした。ただ、多くの書類は意味のない書類で、まことに無味乾燥たるものでした。ある部隊が所有するインクの数とか、筆がどの程度あるとか。そんな時、他の人が避けていたものに行き当たりました。それは小さな黒い手帳の山です。
 避けられていた理由は、悪臭が立ちこめていたからです。その手帳は日記でした。死んだ日本兵が所持していたもので、悪臭は血痕から湧き出ていたのです。
――血がついていた?
 全部に血がついていたわけではありません。
 私はなるべく血を避けながら読んでみました。しかし、軍事的な情報などは一切ありません。人がまだ内地にいる頃には、「軍紀旺盛なり」などと勇ましい言葉が使われていましたが、出征後、船に乗って南洋の島を目指す最中に隣の船がアメリカの潜水艦に撃沈されたりして、戦争の現実に直面すると日記の調子が変わってきます。
 ようやく南の島に到着してもホッとするのは束の間で、ここから本当の苦難の日々が始まる。木々が青々と繁った美しい島でも水はないし、食糧もない。
 さらにはマラリアに苦しめられ、その上、毎日アメリカ軍の爆撃にさらされる。私はこの時点ですでに日本兵に同情を抱くようになっていました。
 もともと戦争に反対していた私ですが、いよいよ戦争の終結を願うようになりました。祈っていたと言ってもよいほどです。
 戦争や殺戮には、絶対反対でしたので。
 とにかく、兵士の日記を読んだことで、新たな関心が湧いたと言えます。日記の最後のページには、アメリカ兵に向けて英語のメッセージが残されている場合もありました。
 「この日記を見つけたならば、戦争が終わってから私の家族に送ってください」という具合に。
 そして住所一式が書いてあったりしました。彼等は自分の最期を何とか家族に知らせたかったのです。私はそれらの日記を秘かに取っておきました。
 しかし、私が沖縄戦に参加するためにハワイの本部を出た後、誰かがそれを没収したのです。その後、どうなったか今も不明ですが、まことに残念でした。
 このような個人的な経験を通じて、日記は日本人にとって非常に貴重なものだと悟りました。私は後年、日本には日記文学というジャンルさえあると気づきます。古くから『土佐日記』『紫式部日記』『和泉式部日記』など、そして現在まで。
 戦時中も毎年元旦にすべての兵士に日記帳が配られ、書くように奨励されたほどです。
――それは日本兵に、ですか?
 はい。全員に真新しい、何も書いていない日記帳が配られたのです。アメリカとは正反対でした。アメリカ軍は日記を書くことを厳重に禁じていました。
 万が一、敵の手に渡った場合、情報が筒抜けになることを怖れたのです。日本軍の場合は、そんな懸念は一切ないままに白紙の日記帳が元旦に配られていました。
 日本には日記の伝統が強かったこともあるでしょうが、兵士の思想を監視する意味合いがあったのかもしれません。
 とは言え、日記のほとんどには機密事項も書かれていないし、大した内容があったわけではありません。
 ただ、私は初めて日本人の心に接したと思いました。食糧もない極限状態に置かれた人が南の島で迎える元旦の心境が書かれていたり、あるいは豆が13個しかない、それを3人でどう分けるかといったことも吐露されていました。日記の中には最後まで闘争を誓う人もいれば、戦争そのものに疲れ果てた人の告白、あるいは敵であろうとも人は殺せないと書いた兵士もいました。
 あらゆる告白がありましたが、ある意味でどんな文学よりも私に深く訴えました。
――やっぱり人間が追い詰められた時の本当の気持ちを書いている……。
 死に直面した、あのような状況では人は嘘をつけない筈です。家族にも知らせ得ずに過ごした最後のひとときの言葉を私は読んだのです。
――その時、日本人とはどういうものだと思われましたか?
 一言では言えません。開戦の段階では、日本はフィリピン、インドネシア、ビルマ(現、ミャンマー)などで勝利を得て、国民は喜んでいたのですが、段々戦局が悪化してからは全てが変わったわけですから。
 私自身、この時点では日本人をよく知っていたわけではないので、どう思っていたかという質問には、十分に答えられません。
 戦前の時点では、私は15、6歳でしたが、当時のアメリカには、日本に対して相反する2つの違うイメージがありました。
 まず、恐ろしい軍国主義の国であること、そして桜の美しさに代表される雅な国、という印象です。それらは矛盾しており、中国に侵略して人々を苦しめる悪の国であるとの認識と美の印象がどうしてもつながらなかったのです。
 また、当時はアメリカに普及していたオモチャのほとんどが日本製でした。もっとも今と違って、日本製は安物の代名詞で、安価ではあるが、すぐ壊れる、という意味で使われていたのですが。
 アメリカ人の限られた知識の中には、傘をさした芸者と太鼓橋のイメージもありました。
 文化に目を向けると 2、3の俳句が紹介されていて、非常に短い詩歌だと知られていました。
 日中戦争から真珠湾攻撃の前後には、アメリカ国内でも日本に対するいろいろなプロパガンダがあり、中には事実もありました。ただ、人の世界のことですから、日本人だけが悪かったとは一概に言えないでしょう。
 話は飛びますが、東日本大震災の混乱の中でも、略奪や犯罪行為がほとんどなかったことで、世界の人々は日本人を見直したと言えます。
 地震や津波、原発事故の後にも略奪を始めとする反社会的な行為がほとんどなかったことは日本の民度を世界に示したと言えるでしょう。

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ドナルド・キーン
日本文学研究者、文芸評論家
1922年アメリカ合衆国ニューヨーク生れ。コロンビア大学在学中に太平洋戦争が勃発し、海軍の日本語学校で学ぶ。戦後ハーバード大学、コロンビア大学の大学院を経て、英国ケンブリッジ大学に留学、同大で教鞭をとり、コロンビア大学教授に。
古典から現代までの日本文学に精通し、戦後のアメリカにおける日本文学理解を飛躍的に高めた。三島由紀夫、安部公房ら戦後に活躍した作家と親交を深め、翻訳、紹介を通じて現代日本文学の世界への普及にも貢献。故・司馬遼太郎との対談で、キーン氏は「日本人はいまだに自分たちは世界の一員であることを、表面的には認めても、生活の上では感じていないのではないか」と指摘している。
著書『百代の過客』(朝日新聞社、84年)、『世界のなかの日本』(中央公論社、司馬遼太郎との対談集、92年)ほか。




















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最終更新:2019年02月26日 13:22