■ 特集・日本海海戦~天気晴朗ナレドモ波タカシ~ 「時事ドットコム」より
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世界史の分岐点

 およそ100年前、極東の新興国だった日本が、大国ロシアを相手にした日露戦争は、世界史の大きな分岐点となった。

 満州(現在の中国東北部)と朝鮮半島の利権をめぐって対立した日ロ両国は1904(明治37)年2月、日本軍の奇襲から全面戦争に突入する。当時の国力を比較すると、ロシアは人口で日本のおよそ3倍、国家歳入で10倍、貿易輸出額では20倍に達していた。国力の乏しい日本は、短期決戦を目指していたが、その思惑とは裏腹に戦いは1年以上にも及び、戦費はかさんだ。

 日本軍は鴨緑江渡河作戦、遼陽の戦い、旅順攻略、奉天会戦など個別の戦局で優位に立ち、国民は連戦連勝の報に沸いていた。しかし、日本は兵員の増援や武器弾薬の補給に国力を使い果たしてしまい、05(明治38)年の春ごろには財政的に戦争継続が困難なところまで追い込まれていた。そうした中、同年5月27日から翌28日にかけて行われた日本海海戦では、日本海軍の連合艦隊がロシア・バルチック艦隊を一方的に撃滅する戦果を挙げた。日本を東洋の小国とあなどっていたロシア皇帝も戦意を失い、ついに講和を決意した。

 講和交渉の結果、満州と朝鮮半島の利権を手に入れた日本は、帝国主義列強の仲間入りを果たすことになった。また、東洋の新興国が世界最強の軍事力を持つとされたロシアを破ったことは、世界各地の民族主義や民主主義思想に強い刺激を与えた。まず、日露戦争の敗戦で国民を抑えつけることができなくなったロシアの帝政は音を立てて崩れ始め、清王朝も統治能力を失って中国大陸は混迷の渦に飲み込まれた。また、米国は日露の講和交渉の仲介をする中で、力を付けた日本を仮想敵国として意識するようになり、それが後の太平洋戦争のスタートラインにもなった。

開戦前夜

 日露戦争のきっかけは、その10年前の1894(明治27)年に起きた日清戦争だった。

 シベリアから南方へ領土を拡張する「南下政策」を進めていたロシアは、1860年の北京条約で清国に沿海州を割譲させると、1891年からヨーロッパと極東を結ぶシベリア鉄道の建設を始めた。近代国家に生まれ変わったばかりの日本が、「眠れる獅子(しし)」と呼ばれていた大国の清を破ったことは、世界各国に衝撃を与えたが、特にロシアを強く刺激した。

 日本は日清戦争に勝利した結果、清国から多額の賠償と台湾の割譲、遼東半島の租借権を得ることに成功した。ところが、ロシアはドイツとフランスを誘って、いわゆる「三国干渉」を行い、日本に遼東半島の租借権を返還させた。しかも、ロシアは日本が返還した遼東半島をすぐさま租借、念願の不凍港である旅順港を手に入れると、極東への軍事的影響力を強め、満州や朝鮮半島へ進出する意欲を隠さなくなった。

 三国干渉以降、ロシアとの戦争を意識した日本は軍備増強に努め、陸軍兵力を7個師団から13個師団に増強するとともに、海軍は戦艦、巡洋艦6隻ずつを備えた「六六艦隊」を整備した。ただ、軍事費の増大は国民に多大の負担を掛けていただけに、政府もさらなる負担につながる対ロ戦争に踏み切ることには慎重だった。

 国際的には、1902(明治35)年に日英同盟が成立し、世界最大の海軍力を誇る英国を後ろ盾にすることができた。もっとも、英国はロシアの影響力が極東からインドへ及ぶのを懸念していただけで、直接ロシアと事を構える気はなかった。それでも、巨大な海軍力でヨーロッパと極東を結ぶ海上交通路を抑えていた英国がロシアをけん制してくれることは、日本にとって極めて有利な条件となった。

ロシア艦隊撃滅に失敗

 1904(明治37)年2月6日、日本がロシアに国交断絶を通告。3日後の9日未明、ロシア旅順艦隊に対する日本海軍の奇襲攻撃で日露戦争は始まった。

 清国から遼東半島を租借したロシアは、半島の先端にある旅順港を要塞化して軍事拠点にすると同時に、満州とシベリアを結ぶ東清鉄道の建設も進めた。また、強力な太平洋艦隊を極東海域に常駐させ、旅順港と沿海州のウラジオストク港に配置した。

 開戦時、ロシア太平洋艦隊は戦艦7隻、装甲巡洋艦4隻、巡洋艦7隻を主力に、海防艦、砲艦、駆逐艦などおよそ70隻を数えた。日本はロシアとの戦争が始まれば、すぐさま陸軍部隊を朝鮮半島に送り込み、ロシア陸軍が展開する鴨緑江まで進出することを当面の目標にしていた。しかし、それを実現するには緒戦でロシア太平洋艦隊を排除し、日本海の制海権を握って朝鮮半島との間の人員・輸送を確実にしなければならない。

 日本海軍は開戦前年の03(明治36)年12月、戦時を想定して主力艦艇を統合運用する「連合艦隊」を編成し、東郷平八郎中将が司令長官に就任していた。対ロ開戦が決まり、出撃命令を受けた連合艦隊は、主力部隊を遼東半島の旅順に、別働隊を朝鮮半島中部西岸の仁川に送り、ロシア太平洋艦隊の撃滅を狙った。仁川にいたロシア艦は巡洋艦と砲艦が各1隻で、連合艦隊別働隊はこの2隻を自沈に追い込むと同時に、陸軍の先遣隊約2000人を仁川港に上陸させることにも成功した。ところが、連合艦隊主力は、旅順港外に停泊していた戦艦7隻、装甲巡洋艦4隻を主力とするロシア艦隊に奇襲攻撃を掛けたにもかかわらず、1隻も撃沈できずに旅順港内へ逃げ込まれてしまった。

 旅順に築かれた沿岸要塞は強力な火力を備え、日本艦隊は港内に突入することはおろか、うかつに近寄ることもできなかった。日本と朝鮮半島を結ぶ兵站線を維持するには、ロシア艦隊を誘い出して撃滅するか、さもなければ旅順港内に封じ込めておく必要がある。いずれにしても連合艦隊の主力艦艇をそこに張り付けておかざるを得ず、旅順のロシア艦隊は日本にとって実にやっかいな存在となった。

旅順閉塞作戦の失敗

 取り逃がした旅順のロシア艦隊に対し日本海軍が最初に試みたのは、港口の「閉塞作戦」だった。旅順の港口は幅が273メートルしかなく、しかも大型艦が通過できるのは中央部の90メートルほどに限られていた。そこに船を何隻か沈めれば、ロシアの主力艦は航行できなくなり、港内に閉じ込めることができる。

 閉塞作戦は、闇夜に紛れて5隻の老朽船で旅順港に近付き、港口で自沈させて乗員はボートで脱出するという単純な手順で計画された。しかし、旅順要塞がそれを黙って見ているはずはなく、生還の可能性が低い危険な任務だった。そこで、連合艦隊の中で志願者を募ったところ、2000人もの希望者が殺到。そこから有馬良橘中佐以下、77人が選抜された。

 作戦は、1904(明治37)年2月24日未明に開始された。闇夜の中、閉塞船隊は自分の位置すら分からない手探り状態で航行を続けたが、何とか旅順港に近づくことができた。しかし、ロシアの旅順要塞の探照灯に照らされて発見され、すぐさま猛烈な砲撃を受けることになった。大混乱となった閉塞船隊は船を沈める予定の港口まで達することができず、作戦は失敗に終わった。

 この時の人的損害が軽微だったことから、約1カ月後の3月27日、閉塞船4隻による第2回作戦が決行された。しかし、ロシア側が警戒を強めていたこともあって、閉塞船はまたも港口には到達できず、乗組員から15人もの死傷者を出すことになった。指揮官の一人だった広瀬武夫少佐は作戦中に壮烈な戦死を遂げ、「軍神」とあがめられたが、ロシア艦隊が健在であることに変わりはなかった。5月2日に12隻もの閉塞船で3回目の作戦が決行されたものの、これも旅順要塞からの攻撃に妨げられて失敗し、港口の封鎖は物理的に困難であることが明らかになった。

ロシア、バルチック艦隊を編成

 日本の奇襲攻撃を受けたロシアは、1904(明治37)年4月、ヨーロッパのバルト海に置いていた海軍艦艇で「第2太平洋艦隊」を編成することを決めた。これがいわゆる「バルチック艦隊」で、旅順とウラジオストクのロシア艦隊を増援するため、アフリカ南端を回るおよそ3万キロのコースをたどって極東に派遣されることになった。

 閉塞作戦が失敗した後、連合艦隊は旅順を遠巻きにしながら哨戒を続け、ロシア艦隊主力の封じ込めには成功していた。しかし、主力艦艇を旅順の警戒に専念させているうちに、ウラジオストク港に配置されていたロシア艦艇が日本海だけでなく太平洋岸にも出没し、日本の軍用船や商船を襲撃するようになった。日本海軍は、その対策にも艦艇を振り向ける必要に迫られ、ほとんど手一杯の状況になった。

 バルチック艦隊が編成されても、それを極東まで回航させるには、最短でも半年はかかるとされていた。しかし、極東のロシア第1太平洋艦隊(バルチック艦隊の編成によって改称)が健在のまま、バルチック艦隊の増援が実現すれば、それを連合艦隊が打ち破ることは極めて困難になる。そうなる前に、日本は旅順とウラジオストクのロシア艦隊を撃滅することが必須となり、海軍首脳の苦悩は深まった。

 もっとも、追い詰められていたのはロシア側も同様だった。旅順にロシア艦隊主力をくぎ付けにしたことで、日本は大陸との兵站線を確保し、陸軍兵力の輸送を着々と進めることができた。04年5月には陸軍第1軍が鴨緑江を渡って満州に進撃するとともに、遼東半島にも第2軍が上陸してロシア軍の拠点を次々と陥落させた。6月には乃木希典大将が率いる第3軍も遼東半島に進出し、旅順を陸側から攻略する作戦が始まった。

 8月に日本陸軍は旅順に迫り、陸上から港内に砲弾を撃ち込めるようになった。焦ったロシア艦隊は8月10日、ウラジオストクへの脱出を図ったが、待ち構えていた連合艦隊に捕捉され、黄海海戦が発生した。この戦いは戦艦同士の激烈な砲撃戦となり、連合艦隊旗艦・三笠の主砲弾がロシア旗艦ツェザレウィッチの司令塔に命中、ウィトゲフト司令長官は幕僚とともに戦死した。指揮官を失ったロシア艦隊はちりじりとなり、戦艦5隻、巡洋艦1隻、駆逐艦4隻は何とか旅順港に逃げ帰ったものの、戦艦1隻、巡洋艦3隻、駆逐艦4隻は中国とベトナムの港に入ったところを武装解除され、巡洋艦1隻はサハリンで日本に捕獲された。さらに、旅順の艦隊を迎えに出たウラジオストクのロシア艦隊も朝鮮半島南岸の蔚山沖で日本海軍に捕捉され、巡洋艦1隻が撃沈、残りも大きな損傷を受けて戦闘力を失った。

ハイテク装備の日本海軍

 黄海海戦と蔚山沖海戦で、極東のロシア艦隊を無力化することに成功した連合艦隊は、満を持してバルチック艦隊を待ち受けた。

 その頃の日本には大型の戦艦を国内で建造する能力がなく、連合艦隊の主力艦はすべて外国から購入したものだった。ただ、中古品を買うようなことはほとんどなく、新鋭艦をそろえていた。特に連合艦隊の旗艦・三笠は英国ビッカーズ社製で、軍事技術では世界の最先端を行く英国のテクノロジーが惜しげもなく注ぎ込まれていた。

 また、日本海軍は当時のハイテクを積極的に導入し、総合戦力ではロシア海軍に少しも劣るところはなかった。日本海軍がまず重視したのは情報で、その伝達手段の高度化に心を砕いた。

 19世紀までの軍艦は信号旗で情報をやり取りしていたが、それだけでは目視の利く範囲でしか伝達できない。イタリアのマルコーニが1897(明治30)年に無線電信機を発明すると、日本海軍はその2年後に無線電信の研究に着手。1903(明治36)年には国産の「三六式」無線電信機を完成させ、05年の日本海海戦までには連合艦隊の全艦艇と主な監視所に装備し、情報共有と指揮命令の円滑化を実現した。

 また、日露戦争開戦直前には、英国のバー&ストラウド社が開発した最新鋭の測距儀を大量購入し、主要艦艇に配備した。19世紀までの海戦は、帆船時代のなごりで至近距離からの大砲の撃ち合いか、体当たりによって敵艦を損傷させるという大ざっぱな戦いが主流だった。そのため、頑丈な巨艦を多く備えれば有利だが、それには巨額の軍事費が必要になる。そこで日本は、敵艦との距離を正確に測定して砲撃の精度を上げ、手持ちの軍艦の攻撃力をアップさせることでカバーすることにした。バー&ストラウド社製の測距儀は当時としては画期的な高精度を誇ったが、極めて高価なため、お膝元の英国海軍ですら導入をためらっていた。日本海軍は最新の測距儀と乗組員の猛訓練で精密な砲撃能力を身に付け、黄海海戦や日本海海戦では世界の海軍関係者を瞠目(どうもく)させる海戦を展開した。

旅順陥落

 黄海海戦後の1904(明治37)年8月19日、乃木希典大将が率いる陸軍第3軍は、旅順要塞への総攻撃を開始した。

 この時、旅順港内のロシア艦隊は黄海海戦による損傷で身動きできない状態にあったが、時間を与えれば修理も可能で、その脅威を見逃すことはできなかった。また、戦費の大半を外債で調達していた日本政府が、近代要塞の旅順を攻略することで海外投資家に確固たる「戦果」をアピールしようとし、乃木に攻撃を急がせたとの説もある。

 実は、日本が開戦以前に立てていた戦略では、旅順攻略は海軍だけで間に合うと考えていた。このため、陸軍は旅順要塞の攻撃について何のプランも用意しておらず、どんな防御が施されるているかの情報すら持っていなかった。日本陸軍は10年前の日清戦争でも旅順要塞を攻め、わずか1日で攻略しているため、真剣に考えていなかった可能性もある。

 しかし、ロシアは遼東半島を租借後、旅順要塞に近代的な改良を加えていた。要塞の主要部分はコンクリートで固められ、砲台や機関砲の銃座を効果的に配置した上で、鉄条網と地雷原で接近を困難にしていた。日本陸軍の第3軍は、そうした難攻不落の要塞に日清戦争当時と同じ正面攻撃を敢行した。日本軍の砲弾はコンクリートに跳ね返されて要塞内部はびくともせず、突撃した歩兵部隊はロシア軍の砲撃と機関砲の銃弾に次々となぎ倒された。結局、1万6000人の死傷者を出して攻撃は失敗した。

 第3軍は9月19日に第2回の総攻撃を実施。前回の正面突撃で甚大な損害を被ったことから、今度は塹壕を掘り進めて接近し、ロシア軍の砲台や銃座を一つずつ潰していく方法に転換した。しかし、旅順要塞の防御は固く、死傷者約4900人を出したところで攻撃は中止された。

 第3回総攻撃は11月26日からで、攻撃目標を要塞本体ではなく、旅順北西側の二〇三高地に変更した。二〇三高地は標高203メートルの何の変哲もない丘陵だが、その頂上からは旅順港を一望に見下ろせた。そこで弾着観測を行えば、港外からの砲撃でロシア艦艇を沈めることが可能になる。

 ロシア側もそれは十分に理解しており、二〇三高地の攻防は歴史に残る激戦となった。一進一退の状況が続いたが、12月5日、日本陸軍第3軍は約1万7000人の死傷者と引き替えに二〇三高地を占領。それ以降、旅順港への正確な砲撃ができるようになり、同11日までに港内のロシア軍艦は全滅した。艦隊の全滅を目の当たりにしたロシア兵の士気は著しく低下、要塞本体の抵抗も急激に弱まり、05年1月2日、旅順のロシア軍部隊はすべて降伏した。

皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ

 旅順陥落後の1905(明治38)年2月22日から3月10日にかけ、満州の奉天(現在の遼寧省瀋陽市)近郊で、ロシア軍32万人、日本軍25万人が参加した史上最大の会戦が行われた。ロシア軍に戦術ミスが重なり、日本が勝利したようにも見えたが、日本陸軍に予備兵力はもちろん弾薬もほとんど残っておらず、退却するロシア軍を追撃する余裕はなかった。その後、戦線は膠着状態に陥ったものの、ロシア軍が反攻に出てくれば支えきれないのは確実で、日本はできるだけ早く戦闘を収束させ、有利な条件で講和に持ち込むことを狙うしかなかった。

 そうした中、前年10月にバルト海に面したリバウ港を発したロシア・バルチック艦隊がアフリカ南端の喜望峰を回り、極東に近づいていた。戦艦8隻、装甲巡洋艦3隻、巡洋艦6隻、装甲海防艦3隻、駆逐艦9隻と大型艦が中心で、旅順が陥落したため、ウラジオストクを目指していた。一方の日本海軍は、哨戒艦艇や監視所に無線電信機を装備し、さらに陸上拠点を海底ケーブルでつなぐという通信ネットワークを構築。バルチック艦隊が日本海、太平洋のどちらを通過しても、捕捉できる体制を整えていた。

 そして5月27日未明、対馬海峡を哨戒中の仮装巡洋艦・信濃丸から「敵艦隊ラシキモノ見ユ」との電文が発せられた。朝鮮半島の鎮海湾で待機していた連合艦隊の東郷平八郎長官はすぐさま出動を命じると、東京の大本営に「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直チニ出動シ之ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ波高シ」と打電した。連合艦隊がバルチック艦隊を確認したのは、対馬東方海域に差し掛かった午後1時39分のことで、旗艦・三笠のマストにはZ旗が掲げられた。この旗は「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」を意味した。

距離8000mで「敵前大回頭」

 1905(明治38)年5月27日午後1時39分にロシア・バルチック艦隊を発見した連合艦隊は、砲撃戦を仕掛けるため、単縦陣(各艦が一列縦隊で航行すること)で進んだ。
 連合艦隊の陣容は、戦艦が三笠、朝日、敷島、富士の4隻、装甲巡洋艦が春日、日進、出雲、磐手、浅間、常磐、八雲、吾妻の8隻、さらに巡洋艦16隻、旧式の2等戦艦2隻、駆逐艦21隻のほか、龍田、千早といった攻撃力はないが速力のある通報艦も混じっていた。バルチック艦隊は、戦艦がスワロフ、アレクサンドル3世、ボロジノ、アリョール、オスラビア、シソイ・ウェリキー、ナワリン、ニコライ1世の8隻、装甲巡洋艦がナヒモフ、ドミトリー・ドンスコイ、ウラジミール・モマノフの3隻、装甲海防艦がアブラクシン、セニャーウィン、ウシャーコフの3隻、巡洋艦がアウロラ、オレーグなど6隻、駆逐艦9隻のほか、戦闘力のない特務艦も後方を進んでいた。戦艦の数はロシア側が多く、火力の点では連合艦隊が不利と言える状況だった。

 午後2時5分、両艦隊の距離が8000メートルになった時、連合艦隊の先頭を進む三笠に座乗した東郷司令長官は取り舵(左折)を命じた。これがいわゆる「敵前大回頭」、別名「東郷ターン」で、艦隊は単縦陣のまま三笠に続いて左186度の急カーブを切った。連合艦隊に前方を遮られたバルチック艦隊は、隊形を単縦陣に改めると、ゆるやかに面舵(右折)を切り、両艦隊は同方向に併走する形になった。三笠と敵艦隊が6000メートルまで接近したところで、東郷は砲撃開始を指令した。

 東郷は敵艦隊まで8000メートルの地点で回頭を命じたが、この距離はロシア戦艦が装備する主砲の射程内。単縦陣で旗艦が回頭すると、後続艦も同じ地点で回頭しなければならない。敵艦がそこに照準を合わせて砲撃してくれば、後続艦が次々と着弾点を通過することになり、命中の可能性が高くなる。実際、ロシア戦艦は距離8000メートルで散発的に砲撃を始めたが、命中弾は1発もなかった。東郷はロシア艦隊の技量を見切り、この距離では命中しないと判断して、あえて危険な敵前回頭を選んだのだ。

 東郷の目的は、両艦隊を併走の形に持ち込んだ上で、戦艦の主砲だけでなく、装甲巡洋艦や巡洋艦にも装備されている中口径砲が届く距離まで接近し、大量の砲弾を敵艦隊に打ち込むことだった。砲撃開始を命じた距離6000メートルは、バー&ストラウド社製の最新測距儀を使って照準すれば、連合艦隊の各艦が正確な砲撃をすることができる間合いだった。東郷の目論見通り、連合艦隊が砲撃を開始してから、およそ30分で海戦の勝敗はほぼ決した。多数の命中弾を受けたバルチック艦隊の主力艦は次々と炎上、戦闘力を失って海をただよい始めた。

勝負を決めた砲弾

 連合艦隊の砲撃開始から30分で、バルチック艦隊の戦闘隊形は崩れ、ちりぢりになって逃げ惑った。1時間もしないうちに、ロシア戦艦スワロフ、オスラビアが沈没、アレクサンドル3世とボロジノも航行能力を失い、夜までに転覆・沈没している。その後は、敗走するロシア軍艦を連合艦隊が各個撃破する形で戦闘は進んだ。
 5月27日の砲撃戦は日没とともに終了し、駆逐艦や水雷艇による夜襲を含め、翌日までおよそ10回の海戦が展開された。連合艦隊はバルチック艦隊のうち19隻を撃沈、5隻を捕獲したほか、自沈、座礁が各1隻、9隻が中立国の港に避難して武装解除され、目的地のウラジオストクにたどり着けたロシア艦は、巡洋艦1隻と駆逐艦2隻に過ぎなかった。一方、連合艦隊の各艦も損傷は受けたものの、主力艦で戦闘不能になったケースはなく、沈没したのは小型の水雷艇3隻だけだった。

 海戦史上でも珍しい一方的な結果に終わったのは、接近戦に持ち込んだ東郷の戦略によるところが大きいが、連合艦隊が放った砲弾の大半が榴弾(りゅうだん)であったことも大戦果につながった。艦船同士の砲撃戦は、鉄のかたまりである徹甲弾(てっこうだん)を命中させ、鋼鉄製の船体に損傷を与えるのが普通の戦法だった。ところが、連合艦隊は命中すると破裂して火炎と破片をまき散らす榴弾を多用した。

 榴弾は鋼鉄の船体を貫くことはできなかったが、甲板上の構造物や乗組員に大きな損傷を与え、火災も引き起こした。また、ロシア軍艦は乾舷(水面から甲板までの距離)が低いため、榴弾が甲板に開けたたくさんの穴から海水が浸入し、沈没が早まったケースもあった。また、日本の榴弾に爆発力の強い「下瀬火薬」と、鋭敏な「伊集院信管」が用いられていたことも、ロシア側に予期せぬ被害を与えた。

 日本海海戦の一方的敗北の結果、ロシア側は戦意を失い、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの勧告に従って、日本との講和交渉に入った。講和条約では、朝鮮半島での優先権や遼東半島の租借権、サハリン南半分の割譲、沿海州の漁業権など日本に有利な条件が盛り込まれた。ただ、日本側が既に戦争を続けられる状態ではなかったのも確かで、日本海海戦の大勝利がなければ、どう転んでいたかは分からない。

最終更新:2017年05月15日 13:34