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★■ 堀江敏幸・評 『タブッキをめぐる九つの断章』=和田忠彦・著 「毎日新聞(2017.2.19)」より
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十五年にわたる友情の痕跡

 外国文学の研究者や翻訳者にとって、長年追い続けてきた作家の言葉を母国語に移し、母国語の文学の富に加えるのは、このうえない喜びである。自身の文学活動にとっても、大きな励ましになるだろう。そのような機会に恵まれる者は少なくないけれど、生身の人間とのつきあいとなれば、波長の合う合わないという厄介な問題も生じてくるので、原著者と厚い友情で結ばれた幸福な事例はまれである。まして両者のあいだの個人的な関係をつづった言葉に、他者にも伝わる体温がのせられることは、ほとんどない。

 イタリア文学者の和田忠彦は、その純粋な幸福を手にした例外のひとりである。本書は、二〇一二年三月に六十八歳で亡くなった作家アントニオ・タブッキとの十五年にわたる友情の痕跡をまとめたものだが、タブッキの作品に寄せた、一定の節度を保つ文章が柱になって、合間にインタビューや短篇の翻訳を挟むという、変化に富んだ贅沢(ぜいたく)なつくりになっている。

 初出は新聞・雑誌、展覧会カタログに発表されたエッセイと訳書に添えた解説だから、タブッキの熱心な読者には目新しいものではないかもしれない。ただ、右のような意図にもとづいて組み上げられた各章に、それぞれ「改稿」という但(ただ)し書きが付されていることには注意しておく必要がある。なぜなら、この「改稿」には、たんに文章を整える意味だけでなく、「なにやら年の離れた兄弟のような、歳(とし)の近い叔父のような、そんな身近な存在」と過ごした時間の生き直しが含まれているからだ。論文に手を加えたときに使う用語の堅苦しさはなく、むしろやわらかい親愛のトーンがにじみ出る。

 とはいえ、本書はタブッキの作品と進化を、ほぼ編年で追える案内書としてもじゅうぶん練られている。タブッキは、もともとポルトガル文学の研究者であり翻訳者だった。作家デビューは一九七五年発表の『イタリア広場』。彼のその後の文学に決定的な影響を与えたのは、一九六〇年代のパリ留学中に出会った詩人、フェルナンド・ペソアだった。一九三五年に亡くなっているこのポルトガルの国民的詩人は、自分のなかに、筆名とも分身とも重ならない「異名」という想像上の書き手を抱え、彼らに言葉を預けながら、複数の一つとなり、一つの複数となるような「私」を、絡まりあう記憶と時間のなかで見つめていた。

 こうしたペソアの声に耳を傾けていたタブッキは、一九九一年、不意にポルトガル語で小説を書きはじめる。『レクイエム』と題されたこの「ポルトガル文学」によって、タブッキはイタリア語文学に足場を置きながらふたつの言語のあいだを行き来する、確固たる虚構の存在ともなっていった。ある意味でそれは、『夢のなかの夢』で描かれた、人の夢をその人にかわって、その人以上にその人らしく見る作業に等しかった。

 精緻な研究と翻訳にもとづいているはずの断章群にも、どこか夢に似た雰囲気がある。タブッキの夢をタブッキに代わってよりタブッキらしく見ること。そんな困難を乗り越えてはじめて、自身の言葉に戻って来られるのだとの覚悟が見える。だから、「旅程を想像し算段する行為こそが旅の中核である」ことに気づいていても、あえて出発し帰ってくるために、自身に対して「元気で」と呟(つぶや)くのだ。

 嬉(うれ)しいことに、九つの断章は、タブッキと著者の、「これから書かれるはずのふたりの旅の年代記にむけた覚書のようなもの」だという。年代記の完成を、複数の夢のなかで待つことにしたい。


■ 神智学に満ちているアントニオ・タブッキの世界 ②「インド夜想曲」 「マダムNの神秘主義的エッセー(2016.12.11)」より
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イタリアの作家アントニオ・タブッキ(Antonio Tabucchi, 1943 - 2012)はピサで生まれ、ポルトガルの首都リスボンで亡くなった。シエナ大学でポルトガル語と文学を教えた。

「ユリイカ 6月号 第44巻第6号(通巻611号)『アントニオ・タブッキ』」(青土社、2012年6月)とアントニオ・タブッキ(須賀敦子訳)『インド夜想曲』(白水社、1993)を購入して読んだ。

雑誌には「アントニオ・タブッキ・アンソロジー」と題され、6編の作品が邦訳されて載っていた。タブッキの作品を美しい日本語で読めることはありがたかったが、雑誌に掲載されたエッセイや論文には違和感を覚えた。

世の流れが変わってきて、第二次大戦後のリベラルによる情報操作が明るみに出てきたためか、神秘主義者のわたしはいささか被害妄想気味かもしれない。

しかし、通り一遍の解釈、自分たちの仲間と認められない面は徹底して無視、あるいは排除――漂白といったほうがよいだろうか――してしまおうという意志を読みとったように思ったのは、被害妄想気味になる前の話なのである。

自分たちと政治思想的にリンクした時期があったからといって、リベラルはタブッキを自分たちの側に力づくで引き寄せようとしているかのように感じられたのだった(自分がリベラルであるという自覚さえない文学者がわが国にはいるのかもしれない)。

堤康徳のエッセイ「タブッキが追いかけた影」には「世界は大きくて多様である。だからこそ美しいのだ」*1というタブッキの言葉が引用されている。この言葉からタブッキが――リベラルに属していたとしても――いわゆるリベラルとは本質的に異なっていることがわかるのだが……。

リベラルには、多様性を認めないという特徴があるからである。

「タブッキが追いかけた影」にはリベラル的思考の特徴がよく出ているように思うので、さらに見ていくと、広島への原爆投下に関するトリスターノの言葉がタブッキの小説『トリスターノは死ぬ』(2004)から引用されている。


 あの犠牲者たちは不必要だと言われてきた。怪物の頭はすでにドレスデンとベルリンでつぶされていたし、アメリカが日本を屈服させるには通常兵器で充分のはずだったから。だがそれは誤りだ。不必要どころか、勝者にとっては有益そのものだった。あのような方法で新しい主人は自分たちだと世界に理解させたのだからね……。*2

わが国のリベラルは、このようにはいってこなかった。

日本が原爆を落とされたのは日本が悪かったからだとリベラルは主張し、教育し、運動してきた。だから、タブッキのこの引用に相応するような堤の言葉はない。

引用後、堤のエッセイは「トリスターノは、暑い八月に床に伏し、最期のときを待ちながら、八月の原爆の犠牲者に思いをはせる。八月は、タブッキにとって、なによりも死者と深くつながった月なのである」*3という具合に、引用されたタブッキの文章とは無関係に続く。

谷崎潤一郎の墓のある法然寺を訪ねたときのタブッキの文章も引用されており、タブッキは谷崎の墓石に刻まれた「寂」一文字が印象的だったようだが、ここでも堤は谷崎の『陰翳礼賛』を出しに、陰翳美に対する礼賛から電力不足、さらには原発へと論点をすり替え、反原発運動へとつなげる不自然な印象操作を行っている。

(※mono....以下略、詳細はブログ記事で)



■ 時は老いをいそぐ [著]アントニオ・タブッキ 「Book.asahi.com(2012.4.1)」より
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■過去との苦い和解にじませ

 タブッキが亡くなってしまった。三年前に『イタリア広場』、昨年は自作批評『他人まかせの自伝』が出版され、我々日本の愛読者は充実した数年を送っていたのだったが。
 一般にイタリア文学の代表とされるタブッキだが、作品はポルトガル語やフランス語でも書かれる。その意味でタブッキこそ「ヨーロッパ文学者」と呼ばれるにふさわしい。
 実際、九つの短編をまとめた本作にも、“ドイツ訛(なま)りのフランス語”や“クロアチアのリゾート地”、“ニューヨークで回想される、モスクワでの元ハンガリー軍将校と元ソビエト軍将校の邂逅(かいこう)”などが次々と出てくる。
 それらの要素はすべてヨーロッパ史の濃厚な記憶をまといつかせ、悔いをともなった懐古の情と、そうでしかあり得なかった過去との苦い和解をにじませて存在する。
 多種多様なヨーロッパ人たちの声は異なる時制、話法、感情によって語り分けられ、しかし一文ずつ重ねられて短編ごとの小宇宙に同居するが、もちろんそれはタブッキの高度な技術と繊細さゆえである。
 例えば、セリフをカッコでくくらない間接話法の多用によって、同じ言葉が語り手の地の文にも、誰かの発話にも見える。それはまるで複数の勢力による領土の奪いあいのようだ。誰が語っているかをめぐって、せめぎあいが起きるのだから。
 やつれた、生気を失った、すべてが蒸発してしまった、といった単語が鏤(ちりば)められた本作は、あらゆる紛争に倦(う)み疲れたヨーロッパ、特に東欧の荘厳な衰退をたえず連想させる。しかし文のレベルでは読む毎(ごと)に生々しい領土の分裂、再統合がやまない。個人がきしみあい続けるように。
 だからこそ本作は、甘いノスタルジーの衣をまといながら、衝突の力を今なお糧とするヨーロッパの現在そのものではないか、と故人の見事な幻術に重いため息が出る。
    ◇
 和田忠彦訳、河出書房新社・2310円/Antonio Tabucchi 1943〜2012。現代イタリアを代表する作家。




















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最終更新:2017年02月20日 17:05