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■ スターリン時代の「粛清」、ナチスの空撮写真で埋葬地を特定 モスクワ 「AFP(2019年1月3日 15:01 発信地:モスクワ/ロシア)」より
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モスクワ郊外の「コムナルカ」地区の森に貼られた、行方不明者の写真。旧ソ連のスターリン政権下で秘密警察によって射殺されたと考えらえている(2018年9月28日撮影)。(c)Andrei BORODULIN / AFP

【1月3日 AFP】ロシアの歴史学者と考古学者のチームが、ナチス・ドイツ(Nazi)の爆撃機パイロットが撮影した写真を手がかりに、旧ソ連時代に独裁者ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)の秘密警察によって射殺された人々の遺体が大量に埋められた場所を特定した。

 モスクワ南西部コムナルカ(Kommunarka)地区にある遺体の大量埋葬地の存在が初めて公になったのは、旧ソ連崩壊の直前、ソ連国家保安委員会(KGB)が文書記録を公開したときだった。そこは、スターリンの秘密警察だった内務人民委員部(NKVD)が、1930年代にモスクワで使用していた3か所の処刑場の一つだった。

 歴史学者らは、1937~41年の間に少なくとも6609人が射殺され、コムナルカの集団埋葬地に遺体が埋められたと考えている。

(※mono....以下略)


ソビエト連邦による戦争犯罪
■ ソ連軍による戦争犯罪…ヨーロッパとの共闘は可能か? 「ぼやきくっくり(2017.8.25)」より
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 少し古い号ですが、正論2017年3月号(2月1日発売)の有馬哲夫さんの、ソ連軍とヨーロッパにまつわる記事を読んで、頭をスコーンと叩かれたような衝撃を受けました。

 今まで日本中心に考えてきて、ヨーロッパ視点で考えたことがほとんどなかったので。

 でも、それは有馬さんも同じだったらしいです。

 有馬さんも日本にいる時は、当然ながら「真ん中に日本列島がある世界地図のイメージ」で世界を見ていて、「情報は得ているものの、ヨーロッパなど視野に入っていなかった」そうだから。

 有馬さんは、この記事を書いた時、ヨーロッパの真ん中スイスにいました。
 すると、日々接する人の影響もあったのでしょうが、ヨーロッパ人、特にドイツ人のものの見方、考え方をするようになったのだと。

 ちなみに、ヨーロッパでは日本の歴史問題(中韓との揉め事)はまったく報道がされず、されたところで、誰も関心を払わないそうです。

 ヨーロッパ人は、ナチス・ドイツのホロコーストや性奴隷化、それにソ連軍による百万人単位の捕虜や民間人の虐殺、占領地の女性に対するレイプの規模の大きさと悪質さを知っています。

※ナチス・ドイツの性奴隷化、占領地の女性に対するレイプについては、かつて拙ブログでも取り上げたことがあります。
2015/2/14:ドイツの何を見習えというのか? ナチス治下の慰安婦の実態とワイツゼッカーの本音

(※mono....中略)
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でも、今回私が衝撃を受けたのはそこじゃなくて、ソ連軍によるヨーロッパでの被害。

 記事では、被害の中身が数字とともに具体的に示されていて、本当に驚きました。

 日本とその周辺(東アジア)の近現代史は、多少勉強して分かってきたつもりだけども、ヨーロッパについてはほとんど無知だったから。

 たとえば、シベリアに抑留された日本の軍民はおよそ64万人で、約1割が祖国に生きて帰ることはできませんでしたが、ドイツの場合は、ソ連軍の捕虜となった約355万人のうち、110万人余りがついに帰らなかった。

 そのほか、戦争中とその後の占領期に、ドイツの200万人以上もの民間人がソ連軍の戦争犯罪によって命を失ったことを、ドイツの歴史研究が明らかにしているそうです。

 その無惨さを、有馬さんはこう表現しています。

【それらを読むと、満州進攻が始まったのが戦争末期の8月9日であり、ソ連軍の占領が南樺太・千島列島以外の本土に及ばなかったことを神に感謝したい気持ちになる】

 ドイツが日本と大きく違うのは、ソ連軍による筆舌に尽くしがたい戦争犯罪が、戦争中だけでなく占領期も延々と続いていたこと。

 ドイツ人は、ロシア人に物理的だけでなく象徴的にもレイプされ、そのトラウマから立ち直ってはいないと、ドイツの研究者は言っているそうです。

 ドイツ人はみな加害者であって、被害者ではないという固定観念は、ヨーロッパではもはや通用しなくなっているのだとか。

 イタリアにも、ソ連軍の捕虜となって悲惨な目に遭った人が多いそうです。

 有馬さんのお父様は、シベリア抑留経験者ですが、あるイタリア人と出会った時にそのことを話すと、彼は「私の父もです」と言って有馬さんの手をとり、目を潤ませたそうです。

(※mono...中略)
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 枢軸国側ではなかったのに、ソ連軍に同様の目に遭わされた国民も意外に多く、それは第二次大戦前後にソ連が占領したバルト三国やポーランドなどの国民です。

 これも最近の研究で、ソ連軍の戦争犯罪が明らかになってきており、特にバルト三国は人口が少ないのに、全国民の数割にあたる十万単位の民間人が犠牲となっているそうです。

 吉田清治の慰安婦狩りの大嘘と違い、ポーランドではソ連軍によって実際に若い女性が多数拉致され、軍用トラックで移送され、施設に監禁され、長期間にわたりレイプされた挙げ句、その多数が殺害されました。

 有馬さんはこう言います。

【ご存知のように彼らは満州でも日本人女性に同じことをした。中韓両国が姑息にも口をつぐんでいるのは、中国と朝鮮の女性も彼らの犠牲になったということだ】

 ナチス・ドイツも似たようなことをしていましたが(虐殺や虐待によりソ連軍捕虜330万~350万人が死亡したとされる)、ソ連軍とは違って、ニュルンベルクで裁かれ、今も戦後賠償を求められています。

 一方、ソ連軍は裁きを受けず、賠償もすることなく、あろうことかドイツ軍を裁く側に回ったのです。

 あるいはドイツはまだバルト三国に比べればまだマシかもしれません。
 バルト三国はむしろ戦後になって「民族浄化」が本格化しているそうです。

 何十万もの国民がソ連の過疎地に強制移住させられ、囚人同様の生活を強いられたばかりでなく、一方で、ソ連は大量のロシア人をこれらの国に「入植」させ、まさしく国を奪おうとしたのだという。

 何だか、中国共産党がチベットやウイグルにしてきたことを思い出しますね。

 そのうえで、有馬さんはこう主張します。

【私がいいたいことは現在のロシアの前身であるソ連が先の戦争でいかに悪逆非道を働いたかということより、ヨーロッパには日本人の心の痛みを理解でき、共通の認識を持っている人々が、われわれが思っている以上に多くいるということだ】

 アジアを全く知らず、日本人と朝鮮人と中国人の見分けもつけられない人々だが、ソ連に対する思いに関してだけは、互いに深く理解しあえるのだと。

 そして、有馬さんはこんな提案をするのです。

【こういったヨーロッパの人々と連帯して、ソ連戦争犯罪被害者同盟を結成し、まずはソ連の戦争犯罪を明らかにし、次いでそれを国際社会に訴え、最終的には、ナチスの戦犯のように、死ぬまで(あるいは死んでも)その罪を追及することができないものか。最低でも犯罪者の名を全世界に公表することはできないだろうか】

(※mono....以下略、詳細はブログ記事で)


ソ連対日参戦
■ 「約束守るべきだった」1945年の旧ソ連対日参戦、正当化論調に異議 KGB元大佐インタビュー 「iZa(2016.8.19)」より
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 第二次大戦後の北方領土問題や「シベリア抑留」の悲劇を生んだ旧ソ連の対日参戦(1945年8月9日)について、ロシアでは当時の日ソ中立条約(41年締結)の効力を否定して正当化する論調が強まっている。ソ連による抑留問題の実態を暴露したソ連国家保安委員会(KGB)元大佐の歴史家、アレクセイ・キリチェンコ氏(79)は産経新聞のインタビューに応じ、こうした見方が誤っていると論破した。一問一答は次の通り。

 --ソ連は45年4月5日、中立条約を延長しない旨を日本に通告した。これをもって、対日参戦に問題はなかったとの主張がある

 「ソ連のモロトフ外相は当時、日本の佐藤尚武大使に条約を延長する意思がないことを表明した。しかし、老練な佐藤大使は、条約が46年4月25日まで有効であることをモロトフに認めさせている。後にスターリン首相がこれを“修正”して対日参戦したということになるが、外相の約束は破られるべきでなかった」

 --ある日本専門家は最近の論文で、41年の日本軍人らの発言や松岡洋右外相の「北進論」を挙げ、日本には中立条約を守る意思がなかったと強調している

 「戦争のことを考えるのが軍人の仕事である。ソ連との戦争に反対する者が陸軍にも海軍にも存在していた。松岡は政府と見解が相いれず、同年7月に更迭されている。誰にどんな『計画』があったとしても、それに意味はない」

 --ソ連の極東戦力が日本の対ソ攻撃を抑止したとも主張されている

 「実際には、日本は41年秋、満州の関東軍からの部隊引き抜きも含め、南方へと兵力を迅速に集中させた。9月にはソ連にも、当時の関東軍の構成では、日本に戦争はできないということが明らかだった。10月末には、スターリンが極東の軍や共産党指導者との少人数の会合を持ち、極東の部隊を西部(対ドイツ戦)に投じることが決まった。日本が攻撃してこないとの確信があったのだ」

 「ほかならぬ極東の部隊が41年11月7日にモスクワの『赤の広場』でのパレードを行い、そこから(西部の)戦闘に向かった。それによってモスクワは攻撃されることを免れたのだ。41年から43年の間に、極東から西部へと完全に訓練・武装された42個師団が振り向けられた」

 --満州からソ連への国境侵犯が頻発し、それが日本の「攻撃意図」の表れだともされている

 「日本はノモンハン事件(39年)以降、ソ連国境を破らないようにということを徹底していた。日中戦争があり、ソ連を挑発して『2正面』で戦うことはできなかったためだ。逆に、関東軍がソ連からの脱走兵や送り込まれた諜報員を収容所に入れていた事実があり、越境はソ連からの方が活発だったのではないか」

 --ソ連はどう対日参戦に向かったのか

 「戦争の前半には、中立条約はソ連にとっても日本にとってもきわめて有利なものだったのだと考える。しかし、独ソのスターリングラード攻防戦(42~43年)の後、ソ連は自らの力を認識し、日本との戦争準備を始めた。国防委員会は対日戦に備え、シベリア鉄道の予備支線としてコムソモリスク・ナ・アムーレ-ソビエツカヤ・ガバニ間の鉄道敷設を決め、それは予定された45年8月1日より数日早く完了している」

 --原爆投下でなく、ソ連こそが第二次大戦を終結させたのだとして対日参戦を正当化する主張も強い

 「満州の実態を見るならば、当時、片道分の燃料しかない航空機が380しかなく、その多くは8月半ばに日本に戻ってしまった。ソ連側は5000機以上も戦闘態勢にあったが、空中戦はほとんどなかった。満州には戦車もたいへん少なく、この頃には完全に弱体化していたというのが事実だ」

 --“公式史観”と異なる見方を公にする理由は

 「私は、日本をソ連の敵国の一つとして研究し始めた。だが、日本の現実を深く知るにつけ、ソ連とその後のロシアが少なからぬ過ちを犯し、それが今日に至るまで両国関係に本質的な影響を与えていることを理解した。むろん、日本も天使にはほど遠かった。将来の悲劇と困難を避けることには意味があると考える」(モスクワ 遠藤良介)

 ソ連の対日参戦 ソ連軍は1945年8月9日、当時有効だった日ソ中立条約を破って日本に対する戦闘を開始し、満州(中国東北部)や樺太(サハリン)などに侵攻。日本がポツダム宣言を受諾し、15日に終戦の詔書が発表された後も一方的な侵略を続けた。ソ連軍が日本の北方四島を占拠し終えたのは、日本が降伏文書に調印した9月2日よりも遅い同5日だった。ソ連はまた、武装解除した日本将兵など約60万人を旧ソ連各地に連行して強制労働を課し、6万人以上の死者が出た(「シベリア抑留」)。

 ◆アレクセイ・キリチェンコ氏 ソ連国家保安委員会(KGB)元大佐、ロシア科学アカデミー東洋学研究所上級研究員。1936年、旧ソ連のベラルーシ生まれ。64年にKGB大学を卒業しKGB第2総局で対日防諜を担当。80年代に研究所入りして日本人強制抑留問題に取り組み、日露間での真相解明に向けた原動力となった。著書に「知られざる日露の二百年」(現代思潮新社)がある。















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最終更新:2022年03月16日 15:41
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