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● 士農工商〔Wikipedia〕
士農工商(しのうこうしょう)とは、儒教において社会の主要な構成要素(官吏・農民・職人・商人)を指す概念である。「四民」ともいう。日本では、近代になり江戸時代の身分制度を意味すると捉えられるようになったが、1990年代頃から実証的研究が進み、誤った認識であることが理解されるようになった。

明治維新は日本人の心の崩壊の序曲だった

+ 続き
 明治維新後、新政府は近代化を早急に押し進め、日本の最重要課題として軍事力と経済力の高揚を掲げた。明治4年には、岩倉具視を団長とする欧州視察団が日本を旅立ち、欧米の文化や制度を六百数十日かけて視察している。大久保利通、伊藤博文、木戸孝允ら、政府の最高首脳らが揃って海外に出かけ、欧米の方式を目の当たりにした。このままだと、小さな島国の日本は西洋のエネルギーに呑み込まれてしまうのではないか。視察に出かけた首脳らは、行く先々で危機感を覚えた。結果的に、政府は富国強兵の導入を決断する。欧米列強に敗れない国家を作るには、西洋科学文明を早急に取り入れるべき、と判断したわけだ。
 西洋の文明を取り入れるとなれば、まず洋学=実学を学ぶ必要がある。そこで、これまで親しんできた蘭学の代わりに、イギリス、ドイツ、フランスの洋学を取り入れることにした。江戸時代の日本人の精神形成に深く関わっていた儒学(朱子学)も捨て去った。また、江戸中期から盛んになっていた日本独自の国学も遠ざけてしまった。
 ただし、いちばん大きな壁は、西洋文明の背後にあるキリスト教の存在だった。蘭学、儒学、国学を捨てることはできても、キリスト教文化をそのまま導入するのは容易ではない。そこで、明治政府が行なったのは、キリスト教文化の代わりに「万継一世の天皇制」を思想文化に充てることだった。具体的には、神仏習合の結びつきをといて「神」と「仏」をバラバラに分離し、“神社の統廃合”を行なった。聖徳太子の手による神と仏の習合は、ここでついにエンドとなる。
 これに伴い、各地にあった多くの神社が壊され、大きな神社などに統合されていった。しかし、生活のごく身近にあった神社が姿を消すとなると、住人にとっては一大事である。それまで神社は地域のコミュニティーとして機能しており、村の文化の拠点となっていた。村人たちは何かというとそこで寄り合い、子供が生まれれば神主さんに頼んで子供の命名もしてもらえた。つまり、近くにあるだけで安心を得られる「心のより所」が地域の神社だったのだ。その場所が突然なくなってしまえばどうなるか? 精神的支柱がいきなりそがれてしまうわけで、その喪失感は計り知れない。
 喪失したのはそれだけではない。神社は村の水田にとって“鎮守の森”としての役割を果たし、災害から守ってくれる神様として存在していた。その森が壊されれば、“生態系破壊”という悪循環が起こってしまう。森の木々を伐採することで自然のリズムが乱されてしまったわけだ。
 神社の統廃合は、単に神社という形がなくなるだけではなく、「人心破壊」と「生態系破壊」という、多大な損害をもたらした。心と環境の破壊が同時に行なわれたのだ。博物学、生物学者として知られる南方熊楠は、いち早く鎮守の森を破壊することの危険性を指摘したが、当時の官僚にはエコロジーなどという概念はなく、聞き入れられなかったという。
 小さなコミュニティーの崩壊、さらには「廃藩置県」による藩という最大のコミュニティーの破壊は、人々の心に大打撃を与えたはずである。しかも……。神仏分離の結果、神道はその後“政治的祭祀”として用いられるようになり、仏教は“葬式仏教”となり、徐々に形骸化していく。神仏がバラバラになり、日本人の心から離れていった。
 さらに、家庭の弱体化が追い討ちをかける。神仏が心から離れ、儒教という世俗的道徳が消え、神社や藩というコミュニティーが消え、頼みの綱の家庭という居場所まで壊れていけばどうなるか。
 明治維新の功罪を考えたとき、決して肯定も否定もできないが、精神性の堕落の根本的な原因はやはりここにある。富国強兵策が精神性の退化のスピードを早めてしまったことは確かなのである。

 極めつけとなった太平洋戦争の敗北

  日本人の心の変遷をたどっていくと、ここに至るまでには「明治維新」に加えてもう一つ重大な転期があったことがわかる。それこそが、「太平洋戦争の敗北」である。この戦争は日本の都市、人、財産を破壊し尽くし、精神性の荒廃のスピードを早める決定打となってしまった。
  敗戦直後の日本は、物資を使い果たして世界の最貧国に近いほど経済的に落ち込んでいた。とにかく食べ物がないし、着るものさえままならない。そこに戦地から生還した兵士が次々戻ってきて、食糧不足、モノ不足に拍車がかかった。これまでに体験したことのない赤貧状態の中、それでも日本人は希望を捨てず、経済復興を目指して驚異的ながんばりをみせた。生き残った人々を路頭に迷わせてはならないと歯を食いしばり、世界的にみても奇跡的な復興を成し遂げた。
  本来、勤勉、真面目、学習熱心というのが日本人の資質である。その優れた資質が存分に発揮されて今日のような経済大国になり得たのだが、心の成長はままならなかった。モノを豊かにすることに目を奪われているうち、精神も“物質化”が進み、日本人の中味ががらっと変わってしまったのだ。
  明治維新が精神性の荒廃の序曲であったことは確かだが、募末・維新の名残があった頃はまだ良かった。日本全体が貧しかった頃は、心の中に豊かさの貯金が残っていたのだろう。しかし、戦後の復興の中で、その貯金は一気に吹き飛んだ。
  さらなる大打撃は、戦勝国によって強制的に与えられた「民主主義」が精神を混乱させたことだろう。物質的な混乱と精神の混乱。ついに、貯金は底を突いた。
  心の豊かさの貯金も、なければ次世代に引き継ぐことはできない。だからといって、大人たちはモノを享受することに精一杯で「精神面の教育をどうするか?」を考えるほどの余裕はなかった。そのため、戦後生まれの子供たちは、物質至上主義を当たり前に見て育ち、当たり前のように経済活動の中に組み込まれることになったわけだ。

★なわ・ふみひとのコメント★
  “凜”とした国日本の破壊を目的として、世界を支配する勢力が仕掛けた「幕末~維新」と「太平洋戦争」という2つの巧妙な“罠”によって、ついに日本人の心は崩壊してしまうことになったのです。いまその“罠”の存在に気づく人が少しずつ増えつつありますが、主要なマスコミが世界支配層の管理下にある中では、大半の日本国民が目を覚ますことはないでしょう。ここまで来てしまっては、残された日本再生(地球再生)の方法としては、やはり大本神諭や日月神示に述べられているように“神一厘”の仕組みしかないと言えそうです。その仕組みが発動するためには、気づきを得た日本人がわずかであっても、まず自ら“日本人魂”を取り戻し、日々の“身魂磨き”に精を出すことが大切だと思っています。






(帰ってきた)ネズミさん@XNezmy
藩の裁量次第だった訳だが、信用取引で経済は活性化していた。これによって余裕が生まれ、当時の世界各国の都市標準を上回る人口を賄えていた、それも皆お伊勢参りで人生を謳歌してだ。

ハイパーインフレなど起きてはいない。逆に優生思想のナチスこそ国策で国を富ませていた訳だが?

(帰ってきた)ネズミさん@XNezmy
最悪なのが優生思想である。

機械化で生産力は余りまくっており、それを埋める為に消費を活性化する、この発想は独占資本主義にあるものだ。その為に生産材を与えず、消費だけさせる発想だ。ここまでは良い、だが、

生産材を奪っておき、役立たずの消費者が不要、と言うのが優生思想だからだ。


■ &blanklinl(これは凄い! 江戸時代末期の貴重な映像記録が存在した!「幕末の風景」){https://www.youtube.com/watch?v=4FL6rEdBU3U}


■ 無宿が一番したでした 「二階堂ドットコム(2019/05/22 21:13)」より
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明治時代
■ 死刑に、出来ないワケ。 「我が郷は足日木の垂水のほとり(2018年12月15日)」より
(※mono....前半の『東名あおり運転死亡事故』関連記事は略)
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明治になって、庶民が看破したように、治まるめい(明)と、庶民はあざけった。二百数十年の泰平な世が江戸時代。かわって、明治以降は、昭和にいたる、百年ちょっとの間に、日清・日露そして第一次、第二次大戦と、どれだけの戦が続いたことか。それも、これも其の原因は、国家に取憑いた金貸しの、『戦争で大もうけ』 の戦略があったから。サヨク諸党の反安倍主義。これに一定の国民が賛同を示してもいる。それには、安倍政権にも、そうした金貸しの私益の為の。戦争の臭いがする。この事だと思われる。

とにかく、紳士然とした金融家の裏には、借金取り立ての、暴力団が隠れている。この『自由』経済の蔭には、危ない人たちの裏社会がある。最後は暴力だとか、脅迫で事をおさめる。とくに戦後世界では、朝鮮進駐軍の係累たちが、ケーサツとか裁判所、そして検察にも色濃く、取憑いている。

(※mono....後半略、詳細はサイト記事で)




■ 江戸は眠っていたか 「短足おじさんの一言(2017.2.23)」より
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 「国際派日本人の情報ファイル」というメルマガがある。
http://melma.com/backnumber_256_6480697/
ここに大変興味深い記事があった。
【江戸は眠っていたか】、これがその記事タイトルで、何故江戸が眠っていたかというと
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たつた四杯で夜も寝られず」
こんな狂歌で言われるように、江戸幕府は泰平の世にすっかり平和ボケして居眠りしていた、だから黒船=蒸気船=上喜撰4杯夜も眠れない。こんな話である。

(※mono....「黒船来航図」画像略)

この記事を見てみると、『驕れる白人と闘うための日本近代史』 松原久子著より となっている。
そこでこの松原久子氏の著書を買ってみた。

原著は松原久子氏が1989年にドイツでドイツ語で出版したもので、それを2005年に邦訳したものである。しかし内容は大変面白く、日本人が押し付けられた自虐史観とは大いに違う所がある。

その中で上掲メルマガで紹介している「江戸幕府は居眠りなんかしちゃいませんぜ」というくだりを紹介したい。

(※mono....中略)

■何と「蒸気機関」等の国産が始まっていた
 そういう事情だったので、ペリー司令長官が例の黒船、すなわち東インド艦隊を率いて現れる十年前にはすでに溶鉱炉は操業し、鍛造工場や鋳物工場が建設され、大砲を製造することができる旋盤とフライス盤の開発が始められていた。蒸気機関はオランダの設計図に基づいて造られ、固定した動力装置として次々に工場に設置されたり、エンジンユニットとして船に取り付けられ始めていた。

 残念なことに、日本がヨーロッパの技術を早急に取り入れた動機は、ヨーロッパ人の独創性を讃美したからではなかった。そうではなくて、むしろその動機は、欧米列強の隠れた意図に対する不安と不信感にあったといわねばならない。そしてその不安と不信感が日本人をかくも大急ぎにさせたのであった。

■「平和ボケ」していなかった幕府
 その不安と不信感がいかに正当であったか、そして再三江戸湾に姿を現す欧米の船団に対する幕府の極度な慎重さがいかに理に適っていたか、中国の悲劇が明らかにしてくれる。

(※mono....以下略、詳細はブログ記事で)





■ 本当に、明治以来の南朝天皇は役に立たない。 「二階堂ドットコム(2016.5.6)」より
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大正天皇の時代に関東大震災、昭和天皇の時代に東海地震と敗戦、そして平成には災害続きか。
北朝最後の孝明帝の子孫ってどうなってるんでしょうね?

平成を改元し、遷都の上大仏でも作らないとダメでしょう。

ちなみに、江戸時代の最強は金持ってる農家。「士農工商」は古い支那の言葉で、身分を表すものではなく、世の中の職業を表したものと言われています。

町名主や庄屋の言う事を聞かなかったら、人別帳から外れて非人になってしまったようですね。必ずしも、武士が全ての権力を持っていたわけではない例です。

公家や僧侶、神官、穢多非人は特殊領域で、差別とは違うものです。実際「穢多頭」や「非人頭」はそこらの大名より金を持っていました。武士が何でもかんでも偉ければそんな奴らは生まれなかったでしょう。ちなみに、いまは偉そうにしている奴の多い職業である「医者」も、死人を扱う穢れ者という扱いで、社会的地位がやたら高いわけでもありませんでした。

ただ、武士以外は教養が無かったらしくて、行政機関には武士でなければ無理だったようです。今で言えば、IT成金のバカ息子はまともな教育機関に入れなかったようですね。

サヨクも右翼も、江戸時代は差別に満ちたダメな時代にしたいらしいですが、最近の研究で差別の少ない時代だということがバレています。時代劇がインチキすぎるんですよね。


■ 「士農工商」という身分制度は存在しなかった?教科書から消えたと話題に 「IROROI(2016.5.2)」より
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「士農工商」という言葉が教科書から削除されているとネット上で話題となっている。

もともと身分を表す言葉ではなかった?
かつて、日本の教科書や書籍などには、江戸時代の身分制度を表す言葉として「士農工商」という言葉が載っていた。

最近の研究でこの「士農工商」という身分制度が存在しないことが明らかになり、今は教科書からも削除されているとネット上に投稿され、衝撃が広がっている。

「士農工商」という言葉は、もともと中国の古典で「すべての職業」「民衆一般」という意味で使われていたという。

2000年頃から教科書から消えた
「士農工商」という言葉は、いつ頃教科書から消えたのだろうか?

東京書籍のHPには、近世諸身分を単純に「士農工商」とする捉え方はなかったことや、武士以外の身分については上下・支配関係はないといった見解から、平成12年度から「士農工商」という記述をしなくなったと書かれている。

また、士農工商を使わなくなったことに関連して、平成17年度の教科書からは「四民平等」の用語も使用しなくなったという。

ネット上に驚く声が続々
「士農工商」という身分制度が今の教科書には載っていないという投稿を受けて、ネット上には反響が殺到。

(※mono.--中略)

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他にも教科書には多くの変更点が
教科書の記述が変更されたのは、「士農工商」だけではない。

以前は「村人」と記述されていた身分は、平成9年頃から「百姓」と表記されるように。「百姓」は「一般の人々」という意味で、百姓身分には漁業や林業に従事する人々も含まれるという。

十七条の憲法や冠位十二階を制定したとされていた「聖徳太子」は近年、「聖徳太子(厩戸王子)」や「厩戸王子」と表記。

「いい国(1192年)つくろう鎌倉幕府」という語呂合わせが有名な鎌倉幕府の成立は、近年1192年でないという説が有力になっており、現在では「いい箱(1185年)つくろう~」という語呂合わせが使われている。

「島原の乱」と言われていた大規模な百姓一揆は、近年「島原・天草一揆」と言われるように。

かつては「マニュファクチュア」と表記されていた「工場制手工業」も、最近では日本をイギリスと結び付けて考える必要性が薄れてきたことから、教科書に表記されないようになった。

他にも、日露和親条約が結ばれた年号が1854年から1855年に変わったり、ルーズベルト大統領が「ローズベルト」と表記されるようになった。


◆ 【日本に士農工商が無かった】という嘘をまた付くんですか? 「OKWAVE(2016.5.2)」より
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japanway
お礼率 38% (761/1982)
【日本に士農工商が無かった】という嘘をまた付くんですか?

どこまで日本史を美化させていくつもりですか?

朱学があって士農工商という文化はない?

おかしくないですか?

身分制度はあったでしょ。

日本にみな平等だった時代などない。

みな平等だった時代から朱学の教えが伝来して身分制度が出来た?

身分制度があったから稲作文化が出来たんでしょうが。

普通に考えて日本に士農工商文化は無かった。みな平等だったって誰がこんな嘘の日本の歴史教科書を信じますか?

明治時代に一度大々的に書き換えてさらに書き換えてもう日本を美化しまくった歴史教科書を作ってこれが歴史と言えますか?

それだったらもう朱学は伝来していなかったとなりますよね。

おかしくないですか?

矛盾している。士農工商制度があったという方が辻褄が合う。
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質問者が選んだベストアンサー
2016-05-02 21:29:34 回答No.4

IDii24
レベル14
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平等とは言ってません。士農工商という順番の階級が無かったということなのです。全国民という意味で士農工商という表現が使われたということなのです。
穢多非人はこの中に入っていません。ということは国民では無い差別されていたということなのです。
ということで士農工商は階級として学校では教えません。穢多非人は差別になるのでだいぶ前から教えていません。ということで学校では実態を教えて無いのが現実です。
そりゃ昔から士農工商ってわりには農民はお侍にめちゃくちゃやられてる時代劇ばっかりで、変だよなーって思ってましたよね。商人は逆に「お前も悪じゃの~」って武士とつるんでたり。一方では武士が傘張りしてたり。ぜんぜん士農工商じゃないじゃんと思いませんでしたか?その通りなんですよ。士農工商は階級制度じゃなかった。でも差別はあった。ってことです。

f272
レベル14
ベストアンサー率 42% (2424/5760)
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カテゴリマスターとは?
士農工商と言う制度はなかったと言う人はいても身分制度がなかったと言う人はいませんよ。侍が支配階級であって,その他は支配-被支配の関係になかったと言うだけのことです。
また,士農工商であらわされる身分以外にも天皇,公家,僧侶,神官,えた,非人という身分があって,士農工商という言葉で表すのは適切でないと言うことです。
みな平等だったなんてことは誰も言っていませんよ。



■ 教科書から消えたもの 士農工商 「こはにわ歴史堂のブログ(2014.4.25)」より
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☆「士農工商」が身分の序列を意味する言葉ではない
ということを知っておかなくてはなりません。

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同様に、「四民平等」という表現も、「みんな平等」という意味でしかなく、

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江戸時代の中期までは、「脱藩」は臣下の身分で主を見捨てる、という行為であることから重罪とされましたが、後期になると各藩も、財政難のところが増え、下級武士が「武士をやめます」「浪人になります」というのを咎めるどころか、むしろ歓迎していたところもあるくらいです。

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かつての教科書には「武士の特権」というのが明記されていました。
しかし、申しましたように、お金を払うと名字も帯刀も許されている例も多いため、とりたてて「名字・帯刀」が特権だった、と強調する意味もなくなっています。

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「切り捨て御免」

というのも、徳川吉宗の時代に、公事方御定書などに記されるようになりましたが、実際、うっかり「切り捨てる」と、厳しい詮議を受け、何らかのお咎めがあったこともあり、武士たちは安易に刀を抜きませんでした。
以前に説明しましたように、「警察官が安易に発砲することを禁じられている」ということと、よく似ています。
街中で、抜刀して武士どうしがケンカする、というようなこともほとんどなく(そんなことをす藩士がすれば、藩のとりつぶしにもつながる可能性があり)、「刀」は武士の象徴的なモノとなっていきました

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さて、農民に関する説明も、しだいに変化してきました。年貢なども、

「四公六民」「五公五民」

という比率が明示されていましたが、中学生の教科書からはほとんどなくなってしまいました。
もともとこれは、幕府の直轄地(天領)に適用されたレートであって、全国の他の藩の農民には適用されていないことなので、

年貢の比率などは、各藩などによって異なりました。

と、わざわざ説明されるようになっています。

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時代劇でよく登場する「悪代官」もほとんど存在していません。
むしろ、良吏が多く、村々をよくめぐり、農民の話を聞き、いろいろな農民の申し出を吟味して、生活が成り立つように、“配慮”しているケースが多くみられました。
現代でも、社長と従業員の関係を「主従関係」として説明すると違和感がありますよね?
従業員の生活が成り立つようにいろいろ考えて、自分の給料を下げても雇用を守ろうとする社長さん、いらっしゃいますよね?

日本は、マルクスが説明するような、階級闘争、奴隷的支配などはほとんど無く、そのように日本の近世を説明してしまうと、当時の社会の実態を見落としてしまいます。


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農村における代官と農民の関係は、「親子」「家族的」な関係であるところも多かったのです。
実際、大政奉還後、戊辰戦争が起こって、旧幕府の直轄地の天領に官軍が攻めていったとき、農民たちの多くが「御代官さま、お逃げください。」と、代官の家族をかくまったり、代官を逃がす手引きなどをしたりしています。また、捕えられた代官の助命嘆願などを、村をあげて官軍にうったえている地域もあるんですよ。(このあたりは、拙著『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』に詳しく説明しています。是非、お読みください。)

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「一揆」

という言葉に関しても、今後、記述が変わってしまうでしょう。

「一揆」というと、農民が年貢や負担の減免を求めて「武力蜂起」したかのように(あたかも封建支配に抵抗した民衆運動であったかのように)説明してしまいますが、「一揆」とは「心を一つにした」という意味で、現代の「労働三権」とほぼ同じようなものだったのです。

団結しても
団体で交渉そても
団体で行動しても
あるいは代官所に陳情に行っても

記録の上では、みな「一揆」と記されているんですよ。

「一揆」は合法的に認められている行為で、抗議集会やデモ行進のようなもので、ちゃんとルールが決められていました(もちろん、現代でも、そういう行為の最中にハメを外して暴力的な行動に出てしまう場合もありますよね? 一揆もそういうときもありました)。

支配者の「悪」や「横暴」もあったでしょう。
でも、それを言うなら、被支配者の「愚」や「卑劣」だってたくさんあったにきまっています。

一方的に「支配者は悪」「被支配者は善」という考え方、見方は、一つの偏見である、と、考えてほしいところです。




















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最終更新:2024年03月19日 10:07