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☆ 日本精神史(上) 「版元ドットコム(書店発売日 2015年9月10日)」より
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長くヨーロッパの文化と思想を研究対象としてきた著者は、ここ20年ほど、日本の文化と思想の研究にとりくみ、その流れを歴史的に追跡してきました。その成果がついに一書にまとまったのが、本書です。題して、『日本精神史』。
「精神」とはなにか。
ヘーゲル研究者としてスタートした著者は言う。「あえて定義づければ、人間が自然とともに生き、社会のなかに生きていく、その生きる力と生きるすがたが精神だ」。
テキストとして残された思想はもとより、土器や銅鐸、仏像、建築、絵巻、庭園など、あらゆる文化を渉猟し、縄文時代から江戸時代の終わりまでを、一望のもとに描く、まさに畢生の大作です。
ただし、著者は、難解であることを潔しとしません。ヘーゲルのわかりやすい翻訳で脚光をあびたように、あくまでも流麗な文体で、明解に描いていきます。
思想も絵画も仏像も、ひとしく日本の精神の歴史としてとらえ、あらためて、日本とはなにかを問いかける清新な傑作と言えます。

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目次

第一章 三内丸山の巨大建造物
第二章 火炎土器と土偶
第三章 銅鐸
第四章 古墳
第五章 仏教の受容
第六章 『古事記』
第七章 写経
第八章 『万葉集』
第九章 阿修羅像と鑑真和上像
第十章 最澄と空海と『日本霊異記』
第十一章 『古今和歌集』と『伊勢物語』
第十二章 浄土思想の形成
第十三章 『枕草子』と『源氏物語』
第十四章 『今昔物語』と絵巻物
第十五章 東大寺の焼失と再建
第十六章 運慶の新しい造形意識
第十七章 法然と親鸞
第十八章 『正法眼蔵』

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著者プロフィール

長谷川 宏(ハセガワ ヒロシ)

1940年生まれ。東京大学大学院哲学科博士課程修了。大学闘争に参加後アカデミズムを離れ、学習塾を開くかたわら、在野の哲学者として活躍。とくにヘーゲルの明快な翻訳で高く評価される。主な著書に、『ヘーゲルの歴史意識』(紀伊國屋新書)、『同時代人サルトル』『ことばへの道』(以上、講談社学術文庫)、『新しいヘーゲル』『丸山眞男をどう読むか』(以上、講談社現代新書)、『初期マルクスを読む』(岩波書店)など。またヘーゲルの翻訳として、『哲学史講義』(河出書房)、『美学講義』『精神現象学』(レッシング翻訳賞、日本翻訳大賞)『法哲学講義』(以上、作品社)などがある。


☆ 日本精神史(下) 「版元ドットコム(書店発売日 2015年9月10日)」より
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目次

第十九章 『新古今和歌集』と『愚管抄』
第二十章 『平家物語』
第二十一章 御成敗式目
第二十二章 「一遍聖絵」と「蒙古襲来絵詞」
第二十三章 『徒然草』
第二十四章 『神皇正統記』
第二十五章 能と狂言
第二十六章 鹿苑寺金閣と慈照寺銀閣と竜安寺石庭
第二十七章 山水画の神々しさ
第二十八章 茶の湯――わびの美学
第二十九章 装飾芸術の拡大と洗練――宗達と光琳
第三十章 江戸の儒学――伊藤仁斎と荻生徂徠を中心に
第三十一章 元禄文化の遊戯とさびと人情――西鶴・芭蕉・近松
第三十二章 南画とその周辺――池大雅と与謝蕪村
第三十三章 本居宣長
第三十四章 鶴屋南北『東海道四谷怪談』



初めて奈良の仏寺・仏像を見に行ったのは、1974年、34歳の春のことだ。それまでどうして奈良に足が向かなかったのか、振り返っても確たる理由が見つからず、そういうめぐり合わせだったと思うしかない。

前の年にわたしの塾に通う中学3年の男子2人が、卒業記念にと奈良を旅行し、それがなんともすてきな旅だったから今年は是非いっしょに、と強く誘ってくれたのがきっかけの古都訪問だった。

最初に訪れたのが西の京の薬師寺だった。金堂が工事中で、薬師三尊像は入口近くの仮りのお堂に安置されていた。がらんとした空間に無造作に置かれた黒光りする三体の仏像。思いがけぬ出会いに衝撃を受けた。

圧倒的な力強さと安定感と精神性を具えた像を目の前にして、その場を動けなくなった。右に左に移動しつつ1時間ばかり三体と向き合い、目を凝らし思いにふけり、ようやくそこを立ち去る心の落ち着きが得られた。

4、5日の奈良旅行だったが、薬師寺のあとも溢れるほどの仏寺と仏像の魅力を身に浴びて、奈良は、もう一つの古都・京都と並んで、わたしの美意識の核心をなす場所となった。その年以降、いまに至る41年間、春先に欠かさず奈良を訪れることになったのも、美意識の自然な導きによるものだった。

こんどの『日本精神史』では、奈良の寺では飛鳥寺、法隆寺、興福寺、東大寺などを、仏像では百済観音像、(中宮寺)半跏思惟像、阿修羅像、鑑真和上像、東大寺南大門金剛力士像、無著・世親像などを取り上げることになったが、それらを論じる際に自分の思考がある種の安定感とゆとりをもって前へと進むことに、わたしは長年の旅の経験が確かに生きていると感じることができた。

芸術作品とのつき合いは親炙こそが王道だとつねづね思っているわたしは、その実感を心底うれしく思った。

三代丸山遺跡から『東海道四谷怪談』まで

とはいえ、こんどの本のめざすところが、美術、文学、思想の三領域を相手としつつ、縄文の三内丸山遺跡、火炎土器、土偶から江戸晩期の『東海道四谷怪談』に至る精神の流れを大きく展望することにあるとすれば、慣れ親しんだ文物や文献のあいだをめぐり歩いて、それで事が片付くわけにはとうてい行かない。

必要とあらば、なじみの薄い分野に乗り出し、不慣れな対象に向き合わねばならない。例を挙げれば、写経や『今昔物語集』や「蒙古襲来絵詞」などがそうで、おのれの知識不足と思考の不如意を思い知らされて、なんども原資料に当たり、構想の組み変えを図ったりもした。

その一方、もともと関心があり、折に触れて思いをめぐらしてきた作品について、いざ論の対象として本腰を入れて取り組んでみると、いままで気づかなかったおもしろさや深さが見えてくる、という幸運な例も少なくなかった。

絵でいえば「一遍聖絵」や与謝蕪村の南画がそうだし、文学でいえば『伊勢物語』や世阿弥の能楽論が、思想でいえば「御成敗式目」や伊藤仁斎の『童子問』がそうだった。

そうした魅力の発見は一通り原稿を書き上げたあとも続いて、校正の仕事といえば神経の尖るしんどい作業となるのが通例だが、「一遍聖絵」を扱った22章や、能楽論を扱った25章では、初校ゲラでも再校ゲラでも、もとになる絵や文章に改めて当たり直す作業にしばしば心楽しさや新鮮さを覚えたのだった。

日本の精神の流れをたどる

さて、わたしの採用した精神史の方法について述べておかねばならない。

日本史上に名の残る美術品、文学作品、思想書を大きく見わたし、そのなかから、作品としてすぐれた出来栄えを示していること、時代を語るにふさわしい内容を具えていること、という二つの条件を満たすものを厳選し、その一つ一つをおおむね年代順に論じつつ精神の流れをたどる、という方策を取った。

取り上げた文物・文献は百数十点に及ぶが、大切なのは、それらを相手とするとき、時代の精神を体現する史料として対峙する、という姿勢と、作り手の思いのこもった完成度の高いすぐれた作品として鑑賞する、という姿勢とをともども堅持することだった。

一方の面を文物・文献の史料性と名づけ、他方の面を作品性と名づけるとすれば、自分の対象との向き合いかたが作品性に傾きやすいことが執筆途中から意識され、史料性に意を用いるようあえて自分に言いきかせる場面が一再ならずあった。

ともあれ、十数年の労苦がこうして一つの形を取ったことをいまは素直に喜びたい。場面場面で自分一個の作品評価や社会的・文化的価値判断の表明を辞さなかったから、読者の側に異見や異論も多いことと思う。

執筆中も、原稿の一部を読んでくれた友人・知人の異見・異論が考えを進める上で大きな刺激となった。異見や異論の喚起をもふくめて、この本が精神のゆたかさへと人びとを導くものとなってくれたらと思う。

読書人の雑誌「本」2015年9月号より


■ 風穴が空くような生き方を探して 「MAMMO.TV」より
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長谷川 宏さん(哲学者)
長谷川宏さんは在野の哲学者、翻訳家として有名だ。哲学研究とともに学習塾を主宰しているが、合宿や演劇祭を行なうなど、たんに受験を目標にした教育を行ってはいない。「基本的に放っておく」という姿勢をもつ長谷川さんだが、それはたんなる放任でもなさそうだ。教育や哲学に対する思いを尋ねた。

先生はヘーゲル(注1)の研究と翻訳で知られていますが、埼玉県所沢市で長年に渡り塾を経営されています。夏には塾生以外も参加しての合宿も行われるなど、地域でも有名な塾のようですね。

塾は40年近く、合宿は35年ほど続けています。合宿は長野県の諏訪の奥にある廃校となった小学校の校舎で10泊11日の日程で行なっています。参加者は小中学生が20人くらいで、高校生と大学生、社会人を合わせれば50人くらい。塾生に限らず、噂を聞きつけて参加する人もいます。
トイレは汲取だし、風呂はドラム缶で焚きます。おもしろいことに風呂焚きに魅入られる子どもが毎年必ず現れます。かまどの下の炎の熱さをものともせず、へばりついて火をじっと見つめている。
ほかにも、蜘蛛が巣をつくるのを半日ずっと見ている子もいたりします。ちょっと不思議な時間の過ごし方になりますね。
都会と田舎の対比というと通俗的でおもしろくないけれど、合宿の間は最大限に個人の自由を尊重する…。この言い方もなんだか説教臭くて嫌なんだけれど、ようするにこちら側としてはなるべく干渉しない。自分たちで楽しさを見つけるしかないようにしています。


火や蜘蛛の巣をじっと見つめる。取り憑かれたような態度に、独自の世界観が立ち上がる様子を垣間見るようです。それにしても効率や経済性を尊ぶ価値観を持つ人からすれば、もっと教育効果を上げられる手法があるだろうと考えるかもしれません。

炎も蜘蛛の巣も、その教育上の効用を説明するのは難しいし、そういうやり方に合わない子もいます。それは仕方がない。ただ、およそ日常にない生活感覚を味わう不思議さを感じた子は、毎年来るようになりますから、多少は心の洗浄になっているのかなと思います。そのせいか、合宿の参加については、子どもよりも社会人のほうが熱心かもしれない。
集団生活の鉄則として、何も強制しないし、大人が「ああしろ、こうしろ」と言いません。何にせよ本人が「やる」と言わない限り、基本的に放っておく。そういう中で過ごしていると、各々が勝手な動きをし出して、それがおもしろい。危険なこともありますよ。たとえば、2階の屋根くらいの高さのところを鬼ごっこで走り回ったりする。

(※mono.--以下略、詳細はサイト記事で)















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最終更新:2015年09月11日 17:30