+ クチコミ検索〔ヤルタ会談〕 #bf
+ ブログサーチ〔ヤルタ会談〕 #blogsearch
+ ニュースサーチ〔ヤルタ会談〕

+ クチコミ検索〔ヤルタ密約〕 #bf
+ ブログサーチ〔ヤルタ密約〕 #blogsearch
+ ニュースサーチ〔ヤルタ密約〕




北方領土
■ 共産スパイによるヤルタ密約が蒸し返され、盛り上がる北方領土奪還機運 「スロウ忍ブログ(2015.8.17)」より
/
戦後70年の節目を向かえ、SAPIOの2015年9月号が「ヤルタ極東密約」について蒸し返している。この密約こそが戦後の北方領土問題の原因であり、日米に潜む真の戦犯(共産主義者)の存在を浮かび上がらせるものである。


米国務省 「北方四島は北海道の一部」との報告書提出の過去

2015.08.17 07:00
SAPIO2015年9月号

 今年5月19日にロシアのラブロフ外相は、北方領土(択捉、国後、歯舞、色丹などの南千島)の返還を求める日本に対し、「敗戦国の日本には返還を求める権利はない」と、これを批判した。ロシアとの北方領土返還交渉が一向に進まぬ背景には、70年間影を落とし続ける「ヤルタ極東密約」の存在がある。米ソの思惑によって結ばれた密約を、社会学者の有馬哲夫氏が解き明かす。そして、その責任は当時の米・ルーズウヴェルト大統領にあると有馬氏は指摘する。

なぜ北方領土がいまに至るまで不法占拠されているのだろうか。それは秘密・個人外交に走ったルーズヴェルトの責任だといえる。

 1944年の米大統領選挙で再選を狙ったルーズヴェルトは、戦争終結のための巨頭会談を選挙戦の目玉にしたかった。そこで、いろいろ贈り物を用意してソ連のヨシフ・スターリンに会談をもちかけた。その一つが日本固有の領土である千島列島のソ連への引き渡しだった。

 しかし、米国務省は、南千島(北方四島)は住民の居住実態からして北海道の一部で、切り離すことができないという報告書をルーズヴェルトに提出していた。ところが大統領がこれを読んだ形跡はなく、千島全島をソ連に引き渡すという極東密約を、米国議会にはからずヤルタ会議で無断で結んでしまった。

 この会議で、文書を用意し、管理する役割を担ったのは国務省特殊政治問題局長のアルジャー・ヒスだが、この国務省の高官はソ連のスパイであることが1950年の米国議会による調査で分かった。つまり、南千島はスパイによって奪われたのだ。

極東密約が無効であり、日本が主権を放棄していない以上、北方領土を日本が要求するのは当然であり、すぐに返還されるべきなのだ。

このヤルタ密約は既に米政府も「無効である」と認めている。また2005年には当時のブッシュ大統領もこの密約について「史上最大の過ちの一つ」と発言している。

(※mono.--以下略、詳細はブログ記事で)


★ ヤルタ密約「ソ連の対日参戦」、独は情報共有、日本は抹殺し侵攻招く 諜報力の違い鮮明 「産経ニュース(2014.8.5)」より
/
 日ソ中立条約を破り、ソ連が満州(中国東北部)に侵攻して9日で69年となる。この半年前のヤルタ会談で、ソ連が対日参戦の密約を結んだとの情報を入手しながらソ連侵攻まで情報を生かせず犠牲を増やした日本に対し、同じ敗戦国ドイツはその情報を最重要扱いとして本国や世界中の在外公館で共有し、戦局に生かそうとしていたことが4日、英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。大戦末期のソ連参戦に対する日独のインテリジェンスの違いが浮き彫りになった。(編集委員 岡部伸)

 英国立公文書館所蔵のブレッチリーパーク(英政府暗号学校)が解読した秘密文書(分類番号KV2/155)によると、ドイツのストックホルム駐在の情報士官、カール・ハインツ・クレーマーは、ヤルタ会談開催中の1945年2月8日と会談後の21日、親衛隊情報部あてに「ヤルタ会談でソ連が対日参戦する政策に転換した」と電報を打った。 

 ドイツでは、この情報が政府内で共有され、国家の指導者の判断材料となる最重要情報に指定されたとみられる。ドイツ外務省は2月14、24日、クレーマー情報をそのまま世界各地の全在外公館に伝え、さらに同月19、21日、3月10日に詳報を一斉通報した。

 この情報は、もともとストックホルム駐在、小野寺信(まこと)陸軍武官がロンドンの亡命ポーランド政府から入手してクレーマーに提供したものとみられ、米国立公文書館所蔵秘密文書によると、クレーマーは、ドイツ降伏後の尋問で「小野寺と活発に情報交換し、45年2月か3月に連合軍の極めて重要情報の提供を受けた」と答えている。

 一方、日本では、参謀本部が同年2月中旬、小野寺武官からの緊急電報を受信しながら、ソ連仲介和平工作を進めていたため、握りつぶされたことが明らかになっている。

 その後もベルリンの大島浩大使が同年3月にドイツのリッベントロップ外相から知らされ、同22日付で外務省に打電。同年5月以降ベルンやリスボンの在欧武官からもソ連参戦情報が寄せられたが、ソ連頼みの終戦工作にこだわり、終戦間際にソ連の駆け込み参戦を許してしまった。

 作家で元外務省分析官の佐藤優氏の話 「崩壊直前ながら、ドイツはインテリジェンス・サイクルが回り、しっかりした分析、情報共有ができていたのに対し、参戦を決めていたソ連に仲介和平の望みを託した日本は、目前の和平工作で頭がいっぱいになり、ソ連参戦情報をノイズ(雑音)と受け止め、抹殺したのだろう。日本は国家として情報を分析、判断する能力が低かった。日本版NSCが発足した今、良き教訓となる」と語っている。

ーーー
ヤルタ密約 
 1945(昭和20)年2月4日から11日、ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、ソ連のスターリン首相がソ連領クリミア半島ヤルタで会談し、ソ連がドイツ降伏3カ月後に対日参戦する見返りに北方四島を含む千島列島、南樺太、満州に日本が有した旅順港や南満州鉄道などの権益をソ連に与える密約を交わした。ヤルタ密約を根拠にソ連と後継のロシアは北方四島を不法占拠し続けており、北方領土問題の原点とされる。


☆【書籍】 消えたヤルタ密約緊急電―情報士官・小野寺信の孤独な戦い― 「新潮社(波 2012年9月号より)」より
/
死活情報を発信した者、抹殺した者  手嶋龍一

 北海道の天塩山系で猟師に従って鬱蒼とした針葉樹林帯に分け入ったことがある。この山麓のどこかにヒグマはきっと潜んでいると手練れの猟師は自信ありげだった。
「果たしてヤマ親爺を仕留められるか。あとは俺の腕と運次第だよ」
 機密の公電を追ってインテリジェンスの森にひとり分け入る本書の著者は練達のハンターを彷彿とさせる。英国立公文書館と米国立公文書館は第二次大戦の情報文書の機密指定を次々に解いている。だからといって獲物がすぐに見つかるわけではない。鍛え抜かれた情報のプロフェッショナルだけが標的を射止めることができる。
 大戦中に欧州の地から打電された枢軸国日本の公電は、連合国側にとってダイヤモンドの輝きを放っていた。ベルリン発の大島浩駐ドイツ大使電はヒトラーの胸中を窺わせる決定打であり、中立国スウェーデンの首都ストックホルムから打たれた小野寺信駐在武官の機密電も国家の命運を左右するものだった。英国の諜報当局は渾身の力を注いで、暗号が施された小野寺電を読み解いていった。
 ソ連はドイツ降伏の後、三ヶ月をめどに対日参戦する――。小野寺信は亡命ポーランド政府のユダヤ系情報網から、ヤルタ会談の密約を入手した。それは杉原千畝が亡命ユダヤ難民に与えた「命のビザ」への見返りだった。その情報を東京の参謀本部に打電したのだがヤルタ密約電を受け取りながら、あろうことか参謀本部の中枢が抹殺してしまったと著者は断じている。和平工作をソ連に委ねていた彼らにとって「ヤルタの密約」こそ日本の敗北を決定づける不吉な宣告に他ならなかったからだ。
 小野寺信はスウェーデン王室を頼りに終戦工作も進めていた。日本は天皇制の存続さえ保障されれば降伏する――ポツダム会談に臨むトルーマン大統領に伝えられた情報の背後にはスウェーデン国王グスタフ五世の影が動いていた。さらに全体主義国家ソ連は新たな領土への野心を隠していないと警告し、ソ連を頼むことの愚を説き続けた。だが大本営の参謀たちは、貴重なインテリジェンスのことごとくを無視し、スターリンの外交的詐術に思うさま操られていった。ヤルタ密約をめぐる小野寺情報を日本の政府部内で共有していれば、広島、長崎への原爆投下を回避でき、ソ連の対日参戦、そして北方領土の占領を防ぐことができていたものを――。本書の行間には著者の無念が滲んでいる。
 貴重な情報が、決断を委ねられた指導者に届かない。インテリジェンス・サイクルの機能不全は国家を災厄に突き落とす。フクシマ原発の悲劇を目撃した読者なら、ヤルタ密約を抹殺して愧じない官僚主義の奢りがいまのニッポンにも受け継がれていると嘆息することだろう。

(てしま・りゅういち 作家・外交ジャーナリスト)


■ ヤルタ密約67周年に想う 「kanekokumao.jp(2011.2.11)」より
/
  ヤルタ密約67周年に想う   金子 熊夫          

 本日、2月11日はヤルタ会談の67回目の記念日である。クリミア半島の保養地ヤルタで、米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相、ソ連のスターリン書記長の3巨頭が会談した歴史的な日である。
そこで、ドイツの占領政策やヨーロッパの戦後処理、新しい国際連合の枠組みなどの基本方針が合意された。この3カ国にフランス、中国を加えた5カ国を、拒否権を持つ常任理事国とする安保理体制もここで決まった。その意味で第2次大戦後の国際政治の原点であり、それは基本的には67年後の今日も厳然として存続している。
 ヤルタ会談でもう一つ重要なのは、言うまでもなく、この会談の最中にルーズベルトとスターリンが対日戦争の進め方について密談し、「密約」を結んだことだ。当時、ルーズベルトは病身で、記念写真を見ると死相が漂っている(事実僅か2か月後の4月12日に死去)。老衰して往年の覇気を失っていた彼は、対日戦をできるだけ少ない犠牲で一日も早く終わらせたかった。勿論この時点では原子爆弾が完成するかどうか確信は持てなかった。
そのため彼は、ソ連がドイツ降伏後2,3か月以内に参戦し背後から日本を攻撃することを強く求めた。だが、日ソ中立条約の有効期限内(1946年4月まで)であることを理由にスターリンが躊躇する振りをすると、ルーズベルトは参戦の「餌」として、スターリンの要求を大幅に呑んだ。すなわち、スターリンは、ドイツ分割占領方式にならって、日本占領についても、日本の東半分、少なくとも北海道の占領を認めてほしいと注文を付け、ルーズベルトは概ね黙認したとされる。
ところが、その5か月後、待望の原爆の完成で急に状況が変わった。後任大統領のトルーマンは、ポツダム会談の開幕直前にニューメキシコ州での原爆実験成功の電報を受け取るや、もはやソ連の応援は不要と判断したが、時すでに遅く、ソ連は広島原爆の3日後、8月9日未明に日本に宣戦布告、ソ連軍は大挙して満州に侵入た。
日本は8月14日にポツダム宣言の受託を通報し無条件降伏をしたが、ソ連軍は、それにお構いなく進撃を続けた。そして、東京湾内の「ミズーリ」艦上で重光全権が降伏文書に署名した9月2日までの僅か2週間の間に、ソ連軍は樺太と千島列島を一気に占領し、あと一歩で北海道上陸というところで、米国にストップをかけられた。その「埋め合わせ」としてスターリンは日本軍将兵約65万をシベリアに連行抑留し、強制労働させた。それ以後の日露関係の不快な歴史は今ここで詳述するまでもない。
今日ロシアが北方領土4島を占領したまま、頑として返還しないのは、まさにヤルタ密約があるからで、日本が関わり知らぬ協定なのに、「日本は戦争に負けたのだから、文句を言うな」というのがソ連、現ロシアの一貫した立場だ。悔しかったらもう一度日露戦争をやって、勝つ以外にないが、それができないから困るのである。この辺の心情を日米開戦時と終戦時の外相東郷茂徳は辞世の句でこう吐露した。
「いざ児等よ戦う勿れ 戦はば
勝つべきものぞ 夢な忘れそ」

さて、その北方領土問題だが、ソ連崩壊直後の苦境時という絶好のチャンスを取り逃がした今となっては、4島返還の可能性はまずない。一方ロシアは「実効支配」の実績を着々と積み上げている。ここで意地を張って臥薪嘗胆、百年河清を待つよりも、発想の大転換を図ってはどうか。
例えば、長年の懸案だった日露原子力協定がようやく昨年末国会で承認され近く発効する予定だが、この機会に日露協力して、北方4島の1つに高レベル放射性廃棄物処分場を造り、共同運営するというような構想を考えてもよいのではないか。もし火山層など地質的に不適当なら、代わりに樺太(サハリン)でもよいだろう。
日露では、このほかの様々な原子力分野の協力が考えられるが、とくにロシア側は、今後アジアで原子力進出を図る上で日本の協力を必要としており、日本にも様々なメリットが期待できる。相手が欲するところで協力することが最も効果的なはず。急がば回れということもある。




















.
最終更新:2015年08月18日 17:55