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■ 無知な千葉県刀剣審査員 「平成の侍 町井勲(2015.7.9)」より



■ 歴史を知らない国の崩壊は必然的に訪れる 「浮世風呂(2015.7.8)」より
(※mono.--韓国の歴史認識関連記事は略、 ここでは「日本刀」関連記事のみ転記
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◆日本刀

韓国系移民が運営する世界各地の武術道場などで韓国古来の剣として使用している。また、刀剣職人のホン・ソッキョンらが、「日本刀はまさにこの技術を我が国から盗み出して伝承している」「我が国の刀剣技術は三国時代と朝鮮時代、日帝時代を経ながら、刀剣職人がほとんど日本に連行されてしまった」「元々、我が国の伝統刀剣製作技術は世界的なものであり、刀剣技術者を無差別に捕えて連れ行ったことはよく知られた事実だ」、「日本には我が国が使った正統技術がそのまま伝授されていて、今でも良い刀がたくさん出てきています」などと主張。「韓国刀の原型を取り戻すために日本に学びにいく」とまで主張している。

★日本刀のルーツ ~それは東北~

2015年05月01日 渓流詩人の徒然日記

日本刀の源流は東北地方の蝦夷(えみし)の刀剣にある。

<日本刀の成立過程>

(※mono.--図略)

上から、蕨手刀→毛抜形蕨手刀→毛抜形刀→毛抜形太刀

古代末期、国内統一を狙う大和朝廷は、九州の反抗勢力は「クマソ」、「ハヤト」と呼び、関東から東北の勢力を「エミシ」と呼んだ。
こうした中央王権の外を見下して呼称する賎視は今でもヤマト王権があった上方では根強く残っており、東日本の人々を「東戎(あずまえびす)」などと呼び野蛮と見なす自己優性意識がある。これらはすべて、中央王権のある地こそが天下の中心であり、それ以外は夷狄(イテキ)であるとする植え付けられた「作られた」発想に基づいている。
己の神のみを唯一絶対とし、他を武力で制圧して征服する。
古代日本の王権は現在のイスラム国の論理と同質の手法で列島を「統一」した。
ただし、出雲など侮りがたい巨大勢力に対しては、武力衝突を避け、「国譲り」の懐柔作で領土と統治権を手中にした。
だが、東北に対しては、アテルイに対して為したように、あるいは平将門を落としたように、狡猾な騙し打ちまでして徹底的な武力制圧を行使した。
それらはすべて「征伐」であり、「正義」の聖戦として敢行されたのであった。

いずれも、己たちヤマトのみが中央であり、他は蛮族であって、征伐の対象である、という中央集権的覇権主義に基づく。

大和政権は、懐柔と謀略と武力によってやがて列島全国を制圧した。
制圧された東北の人々は、古くから産鉄と刀剣生産技術を有していた。
舞草(もぐさ/もうくさ/まいくさ)と呼ばれる製鉄鍛冶集団がそれだった。
彼らは大和朝廷への抵抗に敗北した。
東北の鍛人(かぬち)たちが造った湾刀は、直刀しか持たなかった朝廷軍に甚大なる被害と恐怖をもたらしたが、朝廷軍はすぐに彼らの技術を採り入れた。正確には鍛人を征服して製造させたのだろう。
征服された民は「俘囚(ふしゅう)」と名を貶められた。そして、全国各地に強制集住させられていくのだが、これが後に全国の鍛冶職に影響を及ぼした。
東北の製鉄集団が古く集住させられた地区は安芸国大山にもあり、主として鉄鉱石を原料として鉄を吹いていた。その場所は「別所」と呼ばれた。

平安時代の10世紀中期頃、それまでの俘囚の剣と呼ばれた刀剣を大和朝廷の先兵だった「武士」が積極的に騎馬と共に採用し、それが発展して「反り」の発生をもって後世に「日本刀」と呼称された刀剣の誕生となる。
反りがある日本刀のルーツは東北にある。

東北の地に日本刀のルーツがあることをどれほどの日本人が知っているのであろうか。
ぜひとも多くの人に知っていただきたい。
こうした説明看板は地元にあるのは喜ばしいが、地元の方々もどんどんメディア等に発信して、日本刀の源流がどこにあるのかを広めてほしいと願う。

東北舞草以降、日本刀が成立した平安末期からは時代が開くが、東北からの製鉄集団が集住した地域が広島県内の大山という地域にある。
その地には、南北朝の頃、九州から刀工がやってきて住みついたという伝承があり、名跡は江戸時代に入る頃まで続いた。一族は安芸国大山鍛冶と呼ばれた。

その安芸国大山鍛冶最後の刀工宗重の作を私は愛蔵している。
東北舞草の地と同じように、当地、旧山陽道(古代山陽道)沿いに大山鍛冶の案内看板が昨年暮れに建てられた。
日本刀の文化と知識の普及のためにとのことで、美術刀剣刀心の店主町井勲氏も無償で高度な技術を駆使して大山宗重の刀身の全身写真を看板用に撮影して提供してくれた。

安芸国大山鍛冶が自称したところの「筑州刀工左の末裔」というのは本当のところは確証がない。
ただ、安芸国大山の地では、古代において、東北から製鉄鍛冶集団が移住して来たとの伝承があり、製鉄遺構も発見されている。

意外なところで、日本刀のルーツである東北の舞草鍛冶と安芸国広島の繋がりが発見できて、昨年暮れには言い知れない感慨深いものがあった。

備後国三原の刀工群は地元三原の人たちも意外と知らない。
知らなくて当然だろう。
戦国末期に海上に城が築かれるまで、現在の三原には町も地面もなかったからだ。すべて海だ。「三原派」と呼ばれる刀工は古三原はもとより、戦国末期の銘に三原の名を冠した刀工であっても、現在の三原の地ではない別場所で作刀していた。地面がないのだからこれは確定事項だ。洋上で刀など造れない。
つまり、「三原」という地名は、現在の三原城がある場所のピンポイントではなく、周辺地域もしくはまったくの別場所であったことが成り立つ。
江戸期に新地として登場した現在の三原の地では刀工群が盛んに刀を鍛えたという歴史はなかったのだから、現在の地元三原市民が日本刀「三原鍛冶」なるものについて知識がないのもあたりまえのことなのだ。
真実としては現三原には三原鍛冶の歴史がないのだから、祭りのように地元に根付いた意識などは形成されない。
逆に形成されていたらおかしい。それは捏造だから。

だが、事実として旧山陽道を眞良(しんら)から西に下った安芸国大山(ここにも古代の馬駅-うまや-が設置されていた駅だった)には刀工集団大山鍛冶が現実に存在していたのである。古文書などの刀剣書だけではなく、証拠となる天正八年紀の大山宗重の作を私は持っている。
大山鍛冶は単なる伝承ではなく実在し、その物証は保存された日本刀という歴史遺産の形で現在まで輝きを失わずに残っている。

その大山鍛冶は、備前鍛冶のような研究が進んだ有名な刀工集団ではないにせよ、備後国から安芸国にかけての地域での唯一の刀工群であるのであるし、東北から移住した古代産鉄民との接点の可能性もあるのであるから、もっと学術界、刀剣界で注目されてもよいように個人的には思量する次第なのである。

日本刀のルーツ東北との接点。
刀剣を巡る列島縦断の歴史ロマンを感じる。



■ どっちが強い!?日本刀と西洋の剣のガチ対決がバカバカしいwww【動画】 「Aol news(2015.6.1)」より
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日本刀と西洋の剣、どちらが強いかガチで対決する動画が「馬鹿馬鹿しいけど面白い!」と話題になっている。
https://www.youtube.com/watch?v=EDkoj932YFo


世界の武器を紹介する『Lock N' Load With R. Lee Ermey』の<刀剣>エピソード動画で、日本刀と西洋の剣が対決。ほぼ同時代に生まれた「サムライの刀」と「騎士の剣」の威力を比較検証している。

まず、武術研究家のボブ・グッドウィンが日本刀と長剣の歴史や戦闘での使用方法について説明する。日本刀は、15世紀に日本の武士が使用した刀剣で、長さは約36インチ(約90センチメートル)。片刃で刀身が反っていて、一度の動作で鞘から抜いて切りつけるのに向いている。長剣は、15世紀にヨーロッパの騎士が使用した刀剣で、長さは約40-50インチ(約1.2メートル)、重量は約4.5ポンド(約2キログラム)。両刃で直線的なので、柄頭で殴りつけたり、刀身で切りつけたり、剣先で突いたりと、様々な使い方ができる。

まずはキャベツ、ココナツ、氷の塊を使って、2種の刀剣の切れ味を試す。どちらも野菜をスパッと切る鋭い切れ味を備えている。しかし氷の塊になると、日本刀は真っ二つに切ってみせたが、長剣は切ることはできなかった。次は、革製の鎧を着用したボディを使って切れ味を試してみる。長剣では革製の鎧に痕をつけて打撃を与えることはできたが、日本刀は斜めから袈裟斬りをすれば革製の鎧を切り裂くことができるほどの切れ味を見せつけた。

そして最後は、金属の鎧を着用したボディを使って検証。長剣は金属の鎧を切ることはできず、突き刺すことで小さな穴を開けるのがやっとだ。しかし日本刀は、金属の鎧に切り傷を付けて、さらに深くまで突き刺すことも出来た。以上の結果から、いずれの対決においても「日本刀が優れている」と証明されたようだ。

この動画は1000万回以上も再生され、コメントは7万5千件以上も寄せられていることからも、<刀VS長剣>への意外な注目度の高さがうかがえる。ネット上では、「日本刀が優れているのはわかりきってるよ」「刀は最強!」「それでも俺は長剣を選ぶ!」「ダメな長剣だったに違いない」と、まだまだ議論が盛り上がっているようだ。


















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