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■ 特攻隊教官一家の自決は教え子との約束だった? 8月に遊佐准尉の慰霊祭 「THE PAGE(2015.7.4)」より
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 終戦直後に家族とともに自決した長野県上田市の陸軍特攻助教官、遊佐卯之助(ゆさ・うのすけ)准尉=当時30歳=の慰霊祭が戦後70年の今年8月18日、同市内の現場記念碑周辺で行われます。遊佐准尉は飛行練習生に「君たちの命が終えるときは自分の命も終える」とかねて伝えており、自決は特攻に送り出した生徒たちを追った「約束の死」でした。
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終戦直後の8月18日に長野で自決

 遊佐准尉は熊谷陸軍飛行学校が上田市の上田飛行場に設けた上田教育隊で1945(昭和20)年8月の終戦まで他の10人近い教官・助教官らとともに九五式練習機などによる飛行訓練の指導に当たりました。同隊からは特攻に10数人送り出したとされます。昭和天皇の玉音放送で敗戦が国民に知らされたのは8月15日。その3日後の同月18日早朝、遊佐准尉は妻の秀子さん(当時22歳)、長女久子さん(生後27日)を伴って現在の同市富士山(ふじやま)にある小さな山「猫山」の東斜面で自決しました。一家の自決現場は翌日、地元の中学生らによって発見されました。

 その後の慰霊碑建立趣意書に記載された医師による死体検案書によると、遊佐准尉は軍刀による割腹自殺で、妻の秀子さんは短刀で、娘の久子さんも推定で親の手によって同様に亡くなったとされています。今回の慰霊祭の発起人代表、村山隆さん(68)=同市下之郷=によると「遊佐准尉は割腹だけではなく、最後に心臓を一突きしたようです」と言います。

 多くの遺書、辞世が残されていました。それによると、妻の秀子さんも自決を供にすることを望んだため、1人長女だけ残すわけにはいかないと家族3人で決行することになったと記されています。また、秀子さんは机の上に「一番好きな山 階段を上って中央の窓から東を見ると高圧線の高い鉄塔がある」と書き残しており、これは自決の場所を暗示したものとされています。

伝えられてきた史実に「新解釈」

 今回の慰霊祭は約20年ぶり。今年の戦後70年を前にした昨年、県外在住の遊佐准尉の遺族から地元に「これまで慰霊碑や墓を守ってくれた人々にお礼をしたいのでその機会をつくってほしい」と連絡があったのがきっかけです。今年5月に市民らによる「戦後70年遊佐准尉並妻子慰霊の集い」実行委員会(※柳沢文雄委員長=同市中之条)を設け、7月26日に事前の学習会、8月18日に慰霊祭と現地見学会、11月には植樹祭などを予定することにしました。約3000枚の予告チラシも上田市内で配布する予定です。

(※)正確には「木」へんに「夘」

 実行委員会の総務担当も兼ねる村山発起人代表が慰霊祭の中心メンバーの1人となったのは、父忠夫さん(故人)が戦時中、上田教育隊があった上田飛行場で軍属として飛行機の整備に当たり、遊佐准尉とも懇意だったためです。自決事件の後、忠夫さんはほかの有志とともに慰霊碑の建立に奔走。戦後の混乱がまだ残り、経済も復興途上のころ50万円もの寄付金を募る活動を続け、1956(昭和31)年に慰霊碑建立にこぎつけます。しかし激戦だった南方からやっと帰還した元兵士らに「俺のほうがもっと苦労している」と寄付を断られたり、右翼と間違えられるなど「父は『大変だった』と漏らしていました」と村山さん。

 忠夫さんが残した遊佐准尉に関係する資料や写真も多数あったため、村山さんは「戦後70年の節目に、自決事件をもう一度しっかり見直し、考えてみたい」と本格的に調べ始めています。村山さんは「これまで伝えられてきたあいまいな点を明らかにしたい。例えば敗戦に悲観しての自決とは少し違うようです」。遊佐准尉は「特攻の花と散る日を待ちしかどときの至らで死する悲しさ(自分も特攻で散る日を待っていたがそのときが来ないまま死ぬのは悲しいことだ)」との辞世を残しています。ところが辞世は終戦の8月15日をまたず1日前の14日に詠まれています。「遊佐さんは戦争の勝敗にかかわらず、自決を覚悟したことになります」と村山さん。

 そのヒントとなるのが、遊佐准尉が新入の飛行練習生に真っ先に話したという「君たちの命が終えるときは私の命も終えるときだ」との言葉だと言います。「日本軍は8月13日に組織的な特攻はやめている。遊佐さんはもう練習生たちを特攻に送り出すこともないと分かって、14日に自決の覚悟をし、辞世をしたためたのではないでしょうか」。

地域で戦争を考えるきっかけに

 そして父忠夫さんの話から、遊佐准尉は鉄拳制裁や怒鳴るなどの指導とはいっさい無縁なヒューマンな教官で、技術力も抜群だったと言います。

 飛行機から降りると「○番目のバルブがおかしいから調べてほしい」と不調個所をズバリ指摘するので、整備担当の忠夫さんは驚いたと言います。

 「軍人というより誠実な教師として『君たちとともに私も命を終える』という教え子たちとの約束を果たしたのではないでしょうか。教え子を特攻に送り出した責任を当然のこととしてわきまえていたのですね。勇ましい殉国とは違うように思います」と村山さん。

 その背景として遊佐准尉の経歴が注目されます。昭和11年、20歳で世田谷陸軍野砲兵連隊入隊以降、満州部隊へ転属、熊谷陸軍飛行学校入校、昭和15年同校上田教育隊転任と各地を経て、この間に上等兵から伍長、軍曹を経て上田で曹長、敗戦1年前の昭和19年に、いわばたたき上げのトップともいわれる准尉に昇任という苦労人。それが人間味ある教官・教師像と責任感につながったのではないかと村山さんは見ます。「高等教育を受けていない点では父忠夫と同じでしたから2人は馬が合ったようです。父は遊佐さん一家の下宿の世話までしたと聞きました」。

 慰霊祭を前に村山さんは「戦後70年、戦争にまつわるさまざまなことが忘れられ、誤った理解がされることもある。客観的な事実に基づいて評価し、戦争というものを地域で考えるきっかけにしないといけません。教え子を戦場に送るな、とあらためて言わなければいけません。満蒙開拓に多くの教え子を送り出した長野県はどうなのかといったことも含めてですね」と話しています。

(高越良一/ライター)

















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最終更新:2015年07月05日 17:16