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フェミニストに対する偏見や性の役割が固定化している現状を問題視する女優のエマ・ワトソン氏。これらの問題を解決するには、女性のみならず男性の関与が必要不可欠であると語り、男女平等を目指したキャンペーン「HeForShe」に1人でも多くの人々が参加することを願ったスピーチです。(UN speechより)

【スピーカー】
女優 エマ・ワトソン

【動画もぜひご覧ください!】
Emma Watson UN speech

女性が権利を主張すると、男性が嫌悪感を抱くという現状

エマ・ワトソン氏:今日、私達は HeForShe というキャンペーンを発足します。今日私がここに立っているのは、皆さんの力を借りたいからです。私達は男女差別撤廃を目的としています。その目的を達成する為には皆さんの力が必要なのです。

UN(国際連合)でこのようなキャンペーン運動が立ち上がるのは初めてのことです。出来るだけ多くの男性、そして少年達に性差別撲滅の為に動いて欲しい。そして、この問題についてただ語るだけではなく、目に見える結果に繋げたいのです。

半年前、私はGoodwill Ambassador for UN Womenとして任命されました。フェミニズムについて話す機会が多くなるにつれ、女性の権利を主張することが男性嫌悪に繋がってしまうことが問題であるとひしひしと感じています。女性の権利主張=男性嫌悪、という世の中の意識を変える必要があります。

フェミニズムの定義とは、男性も女性も平等に権利と機会を与えられるべきであるという信念です。つまり、男女は政治的、経済的、そして社会的に平等であるべきであるという考え方です。性の固定観念についてはずいぶん昔から疑問を感じていました。

8歳の時、保護者に見せる劇を監督しようとして「偉そうに威張っている」と批判され、困惑しました。14歳の時には、私はメディアから性の対象として見なされ始めました。15歳の時、女友達の多くが「男らしく」見られたくないから、という理由でスポーツを辞め始めました。私が18歳になると、男友達の多くが感情を表に出さないことに気が付きました。

いつからか「フェミニズム」は死語になった

私は自分をフェミニストであると認識するようになりました。そして、これはとても自然なことに思えました。しかし、どうやら「フェミニズム」とは死語のようです。自身をフェミニストである、と認識する女性の数がどんどん減っています。

当然、私は「強すぎる、攻撃的すぎる、権利を求めて騒ぎすぎる、そして男嫌いな魅力的ではないフェミニスト」な女として疎まれる種類の女性の1人となります。

なぜ「フェミニズム」はこれほどにも嫌悪される言葉になってしまったのでしょうか? 私はイギリス人です。成し遂げた仕事に対して男性と同じ金額の報酬を受ける権利があると信じています。

私自身の身体についての決定権は私にあると信じています。そして、政治の世界には女性政治家が必要であると信じています。社会的にも、男性と同じようにリスペクトされる権利があると信じています。

しかし、残念なことにすべての女性国民がこのような権利を当然のこととして受け止めている国は世界にひとつもありません。私達の国は完全に男女平等である、と言い切ることが出来る国は世界にひとつもありません。これらの権利は人間として当然の権利だと信じています。しかし、このようなことを主張する私は恵まれていることも理解しています。

フェミニズムの問題に男性がもっと関与すべき

私の両親は私が女の子であるからといって、愛することをおざなりにしませんでした。私の通っていた学校でも、「あなたは女の子なのだから……」などと学ぶ機会を奪うことはありませんでした。

私のメンター達も、「どうせいつかは子供を産んで母親になるのだから」などと理由づけて、私のキャリアでの成功を応援することを止めたりはしませんでした。このように育ってきた環境が、今日の私を男女平等について皆さんにお話する大使にしたのです。

このように私を応援してきてくれた人々は、必ずしも彼ら自身が「フェミニスト」であると認識していません。しかし、彼らは世界に影響を与える立派なフェミニストです。このような人々がより多く必要です。

「フェミニズム」なんて……と思う方もいるでしょう。しかし、「フェミニズム」という言葉の重要性を説いているわけではありません。女性の権利についての考え方が重要なのです。なぜなら、私が持っている権利を多くの女性が持っていないからです。統計的に見ると、私はとても恵まれた数少ない女性の1人です。

1997年、ヒラリー・クリントンが北京で女性の権利についてのスピーチをしたことは有名です。残念ながら、当時彼女が問題にしていたことの大半が現在でも問題として残っています。あの時のスピーチを見て1番印象的だったのは、男性オーディエンスは全体の30%以下であったことです。

世界全体人口の半分が男性であるにも関わらず、「女性の権利」「フェミニズム」という会話に男性が参加しない。「フェミニズム」に男性が参加せずに、または歓迎されていないと思っているままでは、この状況が変わることはありません。

ジェンダー・ステレオタイプによって苦しむ男性

男性の皆さん。今ここで、この機会をお借りして正式に「フェミニズム」の世界へご招待します。男女平等は男性の皆さん1人1人の問題でもあるのです。今日、子供にとって母親の存在が必要であるのと同じくらいに父親の存在も必要であるにも関わらず、社会は父親の役割を軽視しています。

「弱いと思われるのが嫌だから」と言って、男性は心が弱っているのに助けを求めようとしません。その結果、イギリスの20歳から49歳の男性は、交通事故、ガン、心臓疾患よりも自殺によって命を落とす方が圧倒的に多いのです。

「男性とはこうあるべきである」「仕事で成功しなければ男じゃない」という社会の考え方が浸透している為に、自信を無くしている男性がとても多くいるのです。つまり、男性も女性と同じようにジェンダー・ステレオタイプによって苦しんでいるのです。

男性がジェンダー・ステレオタイプに囚われていることについては、あまり話されることがありません。しかし、男性は確実に「男性とはこうであるべきだ」というステレオタイプに囚われています。彼らがそこから自由になれば、自然と女性も性のステレオタイプから自由になることが出来るのです。

男性が「男とは攻撃的・アグレッシブであるべきだ」という考え方から自由になれば、女性は比例して男性に従う必要性を感じなくなるでしょう。男性が、「男とはリードし、物事をコントロールするべきだ」という考え方から自由になれば、女性は比例して誰かにリードしてもらう、物事をコントロールしてもらう必要性を感じなくなるでしょう。

男性と女性は別物という考えをやめるべき

男性も女性も繊細であって良いのです。男性も女性も強くあって良いのです。男性と女性というジェンダーを2つの全く異なった両極端のものであるという考え方から自由になり、男性と女性をひとつのものとして考えるのです。私達は私達自身以外の何者でもない、私は私であると受け入れることで、私達はもっと自由になることができるのです。これがHeForSheの考え方です。HeForSheとは自由を求めるキャンペーンです。

男性の皆さん、皆さんのお嬢さん、お姉さん、妹さん、そしてお母様の為に、彼女達がより偏見から自由になれるよう力を貸してください。そして同時に皆さんのご子息にも弱さを見せて良いことを教えてください。それによって、世界は私達が私達自身で居られる場所になるのです。

「ハリー・ポッターの女の子が何を言っているんだ? どうして今このUNでこんな話をしているんだ?」と思われる方もいるでしょう。わかります。私も今ここにいることを不思議に思っていますので(笑)。

確実に言えるのは、私が男女平等について真剣に考えていること、そして状況を良い方向に変えたいと思っているということです。これまで経験してきたことから、そしてこの機会が与えられことで、私には私の考えを皆さんにお伝えする義務があると思い、今この場所にいます。

男女平等を目指すキャンペーン「HeForShe」

エドマンド・パーク(イギリスの哲学者)は言いました、「人々が何も行動を起こさなければ、悪の力が勝つのは当然だ」と。

今回ここでスピーチをすることになり、緊張してナーバスになっていた時、そしてそれ以外でも自分に自信がなくなった時、「私がやらずに誰がやるの? 今やらなくてどうするの? 今やらないならいつやるの?」と自分に言い聞かせます。

「チャンスが訪れたけれども、怖い、不安だ」という瞬間が皆さんにもあるでしょう。そんな時はこの言葉を思い出していただければと思います。私達が何も行動を起こさなければ、女性と男性が同じ仕事をして同じ給与を得るまでに75年もかかるのです。

100年近く待たなくてはなりません。これから16年の間に、まだ子供であるにも関わらず結婚していくことになる少女の数は約1550万人。このまま何もしなければ、アフリカの少女たち全員が中等教育を受けられるようになるのは2086年です。

あなたが平等を重んじる方であれば、きっとあなたは「自分では自覚していないフェミニスト」の1人です。女性の平等を願う気持ちを、皆が必ずしも「フェミニズム」という言葉で表現するわけではありません。

「フェミニズム」という言葉には偏見があります。言葉の表現に差異はあれども、目指すところは同じです。男女平等を目指す活動、それがHeForSheです。皆さん、勇気を出して立ち上がってください。そしてご自身の心に問いかけてみてください、「私がやらずに誰がやるの? 今やらなくてどうするの? 今やらないならいつやるの?」。

ありがとうございました。









■ フェミニズムの弊害 「大紀元(2020年01月12日 15時00分)」より
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永続的な愛をみつけたいのなら、身体的な特徴に従うべきであり、それにさからうべきではない(shutterstock)

以前、私はビバリーヒルズに住むあるバツイチの不動産業者からメールを受け取った。

「親愛なるスーザンへ 貴方に関する記事を読みました。私の娘のことで相談があります。彼女は38歳のキャリア・ウーマン、高学歴(アイビーリーグ卒)で創造力豊か、知的で洗練された、愛情あふれる成功者です。モデルのような体型で非常に魅力的ですが、驚くことに彼女は理想のパートナーを見つけられないのです。私から見れば、彼女は無意味な関係に無駄な時間を費やしてきました。彼女はそれに不満を持っているし、何より子どもを欲しがっているのです。数人のカウンセラーにも相談しましたが、彼女はいまだに独身です。彼女の友人は全員結婚していて子どももいます。彼女がなぜ理想のパートナーに出会えないのか、私にはさっぱり分かりません。アドバイスをいただけないでしょうか」

このメールを書いた人の悩みは、珍しいものではない。今日、多くの女性が同じ問題に直面している。彼女たちは人生の成功者かもしれないが、愛を得られないのである。さらに、彼女たちがたとえ結婚相手を見つけたとしても、それは長い戦いの半分が終わったにすぎないのだ。

戦いの後半戦は、どうやって「夫を保つか」

「夫を保つ」という言い方は、適切ではないかもしれない。なぜならば、離婚を要求するのは男性側だけではないからだ。70%の離婚は妻側からという報告もある。悲しいかな、女性は相手を見つけたとしても、どうすれば結婚を維持できるのかが分からないのである。

(※mono....以下略、詳細はサイト記事で) / ※....記事全文保存〔メンバーのみ閲覧可〕



 昨年の2018年7月、お茶の水女子大学がトランスジェンダー女性の入学受け入れを発表したとき、ただちにツイッターで、トランスフォビックな仕方で懸念や怒りを表明するフェミニストがあらわれた。私はそのようなツイートを見て、非常に暗い気持ちになった。

 第一には、むき出しのトランスフォビアの言葉そのものが原因だ。だが、とりわけ私が暗い気持ちになったのは、次のようなことを考えたからだ――ついに、この手の言説が日本にもこの強度であらわれた、これからこの種のトランスフォビアと、正面切ってたたかわなければならなくなるのだろうか、と(※1)。

(※1 あくまでも私にはそう感じられた、ということであり、日本のフェミニズムの歴史やネット上のフェミニズムの言説に詳しい人は、日本にも以前からあったと言うかもしれない)


 私は英米圏のトランスジェンダー・スタディーズを研究する過程で、「女性だけのスペースからトランス女性を排除しなければならない」と言うフェミニストが1970年代からいること、そのようなフェミニズムのトランスフォビアは終わった問題では全くないことを知っていた。トランスジェンダーの運動や理論において、トランス排除の言説や実践に抵抗することが、重要な課題であり続けてきたことも。

 もっとも夏の時点では、女子大出身者が、やはりツイッターで「トランス女性を女子大に受け入れることで女性の安全が損なわれる」というような想定は非現実的だということを説明しているのを見て、私の不安はおさまった。お茶の水女子大学学長の室伏きみ子氏が記者会見で、学生の反応は非常に前向きで、学生・教職員ともに受け入れに反対の声はないと明言したことも、心強かった。女子大関係者のそのような主張は十分に説得的なものに、私には思えた。

 ところが、正しかったのは最初の直感の方だった。冬になって気がつくと、言説の内容は女子大の問題をはるかに超え、トイレをはじめあらゆる女性専用スペースからトランス女性を排除しなければならない、というものになっていた。しかも、そうした排除は、フェミニズムがフェミニズムである以上、当然の帰結だと主張されていた。トランス女性は〈男体持ち〉か、単に「男性」であるのだから、トランスの権利と(シス)女性の権利は決して両立しない。したがって「女性の権利」を守るフェミニズムは、トランス女性を排除する資格を持つ、というわけだ。

(※mono....以下副題のみ、詳細はサイト記事で)

歴史に学ぶ――フェミニズムによるトランス女性の排除

トランスジェンダー運動/理論の誕生

トランスフェミニズム

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 そして、トランスフェミニズムは、男性/女性というジェンダーのヒエラルキーにおいて、シス/トランスというもう一つのヒエラルキーが、いかに交錯して、トランスに対する差別や偏見を生み出しているかについて考えるよう、私たちに求める。例えば、女性性をジャッジすることには反対するはずのフェミニストが、なぜトランス女性の女性性をジャッジするのか。トランスフェミニズムの考え方によれば、そのようなフェミニストが、セクシズムには反対しながら、シスセクシズムという、セクシズムと関連するもう一つの差別的な思考へと陥ってしまっているからだ。シスセクシズムとは、ジュリア・セラノによれば、「トランスの人々の性自認や性表現を、シスの人々のそれよりも正当でないものとみなすセクシズム」である

キャンプ・トランスの映像資料




★■ 「MeToo」VS.「ドヌーブ」があぶりだした米仏の「深い乖離」--西川恵 「HUFFPOST(2018年01月26日 10時06分 JST | 更新 2018年01月26日 10時07分 JST)」より
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人間は単純な存在ではない。

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 米ハリウッドの大物プロデューサーのセクハラ問題を契機に、米国では「MeToo(私も)」運動が広がっているが、この運動に水を差すように、女優のカトリーヌ・ドヌーブをはじめ芸術家、編集者、ジャーナリストなど約100人の女性が、仏『ルモンド』紙に「しつこい誘いや不器用な口説きを、性犯罪と同一視するのは間違い」と公開書簡を発表した(抄訳は後掲)。これに対して欧米では賛否両論が沸き起こり、文化論争となっている。

「行き過ぎ」の声をあげたドヌーブ
 この書簡に署名した女性は100人を超え、カトリーヌ・ミレー(作家)、サラー・シーシュ(作家、心理療養士)、ペギー・サストル(ジャーナリスト)、キャシー・アリウ(キュレーター)、グロリア・フリードマン(アーティスト)、ブリジット・ラーエ(ラジオ司会者で元ポルノ女優)ら、社会的に知られた名前が並ぶ。しかし何といっても、あのドヌーブが加わっていることが注目を引いた。

 公開書簡は、米国でのゴールデン・グローブ賞授賞式(1月7日)の2日後に掲載された。同授賞式では「MeToo」運動や、性的暴力に沈黙している時間はもう過ぎたという「Time's Up」運動への連帯が事実上のテーマとなり、女優、俳優らがセクハラへの抗議を表すため、飾り気のない黒いドレスや服で参加。登壇する人たちのほとんどが、スピーチや謝辞でセクハラ問題に触れた。

 だが、公開書簡を単に「MeToo」や「Time's Up」運動への対抗として出された、と見るのは間違いだ。名を連ねた女性たちも、女性の地位向上、労働条件の男女平等などは強く支持している。ただフランスではここ数年、フェミニズム運動が行き過ぎているとして、女性の間からも批判の声が起きていた。

 公開書簡でも触れられているが、過度に性を強調した絵の展示や、性暴力の映画を上映したりすることに反対する声は、米国のみならず欧州各国で起きている。2014年には、ドイツのエッセンの美術館が予定していた仏画家、故バルテュスが撮った若い女性の写真の展示を取り下げた。昨年12月には、米ニューヨークのメトロポリタン美術館に展示されていたバルテュスの少女の絵が、過度に少女の性を煽っているとして撤去するよう求める1万5000人以上の署名が集まった。同美術館は撤去を拒否したが、潔癖さを徹底させようとするフェミニズム運動に対し、敏感にならざるを得ない社会状況が生まれている。

一枚岩ではないフェミニズム運動
「MeToo」や「Time's Up」の運動は以上のような流れの延長線にある、というのが公開書簡に名を連ねた女性たちの言い分だ。では彼女らは、「MeToo」や「Time's Up」の運動の問題点はどこにあると考えているのか。

+ 続き
 1つは、セクハラも、ちょっと行き過ぎた口説きも一緒くたにして告発していくというやり方である。職業の上下関係の中で性的暴力を振るうのは論外だが、男女問題は基本的に個人間の事柄で、口説きに応じたくなければ「ノン(嫌)」とハッキリ言えばすむことだ、と公開書簡の女性たちは言う。

 2つ目は、「MeToo」や「Time's Up」の運動は、女性たちに「犠牲者」「弱者」を演じさせることで、結果的に女性の自立を妨げていると見る。

 3つ目に、米国のピューリタニズムの厳格主義や潔癖主義に潜む危険性だ。17世紀に「汚れたヨーロッパと決別して神の国を造る」と、新大陸に渡って米国を建国した清教徒(ピューリタン)たちの精神は、いまも脈々と生き続け、男性と性の問題を敵視する「MeToo」や「Time's Up」の運動もその一形態と捉える。

 この公開書簡に対しての賛否両論が各国で起きている。米国などでは「女性に対する裏切り」との見方が多い一方で、欧州大陸では理解を示す論調も少なくない。『南ドイツ新聞』は「『MeToo』運動が男性に対する女性の結束した運動でないことを示した点で重要だ」と書いた。

 興味深いのは、英『BBC』の「世代間の対立」という見方だ。これによると、公開書簡に名を連ねた女性の多くが1968年の学生革命による「性の解放」を些かなりともかじった世代で、彼女らにとって「MeToo」運動は「性の解放」に対する脅威と映る。一方、「MeToo」運動を推進する若年世代は、セクハラに対する闘いを女性の権利獲得をめぐる"最後の戦場"と位置付けているという。いかにも米国と欧州大陸の中間に位置する英国らしい視点だ。

 ただ公開書簡が投じた一石は、大きな波紋を今後に起こしたように思われる。フェミニズム運動が決して一枚岩ではないことを示すと共に、「女性はどうあるべきか」「男性とどういう関係性を持つか」という点において、女性の間でも利害の細分化が進行していることを見せつけたからだ。もはや女性vs.男性という対立軸だけでは、フェミニズム運動は見えなくなっている。

ボーボワールの違和感
 ただし、米国の「MeToo」運動にフランスから異議申し立てが行われた、という事実は押さえておかねばならない。なぜフランスだったのかを考えた時、恐らく米国の男女の在り方に最も違和感を抱いてきたのがフランスだったから、と言ってもいいからだ。

 フランスの哲学者シモーヌ・ド・ボーボワールは戦後間もない1947年1月から5月までの4カ月間、米国を旅行した。その滞在日記『アメリカその日その日』(新潮社)には、フランス女性から見た米国の男女関係に対する違和感が率直に綴られている。

「あらゆる場合にその独立を烈しく要求し、その男性に対する態度が何かといえば攻撃的に出る女性たちが、にも拘わらず、彼女たちは男性の為に着飾っている。彼女たちの歩行を妨げる靴のかかと、あやうい羽根......、すべてこうした装身具は明らかに自分たちの女らしさを強調し、男性の視線を引き付けるべく用意された装飾品だ。実際のところ、ヨーロッパ女性のお化粧はこれほど屈辱的ではない。......私はアメリカの女性の化粧が猛烈に女らしく、殆ど性的といえる特徴を帯びているのにびっくりした」

 ある時、ボーボワールは誘われて、米国人女性2人と、彼女らの1人のアパートで夕食を一緒にする。男のいない女たちだけでの食事は、ボーボワールにとって初めてのことだった。米女性2人は未婚であることを誇らしく公言しながらも、1人は無聊をかこち、もう1人は夫が欲しいと率直に語った。

「マルティーニ酒や立派なご馳走があるにも拘わらず、皆堪えがたいある欠けているもののなかに浸っていた」

「実際のところ、アメリカの女性たちが男性と対等で穏やかな関係にないことは、この2人の要求と挑戦的な態度がそれを示していた」

 米国では男女関係が常に不安定な緊張状態にある、と見たボーボワール。この『アメリカその日その日』が米国で発売されると、米国の女性の間に憤激を巻き起こした。米国の女性作家メアリー・マッカーシーは「マドモワゼル・ガリバーの米国旅行記」と皮肉り、こう書いた。

「マドモアゼル・ガリバーは宇宙船のような飛行機からトンボ眼鏡をつけて降り立ち、少女のように氷砂糖を舐めて、この物質文明に大喜びした」

 男女問題での認識をめぐっては、米仏の乖離はかくも深いのである。

■仏『ルモンド』紙(2018年1月9日)公開書簡(抄訳)

 強姦は犯罪である。しかし、しつこい誘いや不器用な口説きは犯罪ではない。

 米ハリウッドのプロデューサー、ハーベイ・ワインスタイン氏の出来事以降、特に職業の上下関係の中で特定の男性が権力をかさに着て、女性に性的暴力を働いていることに厳しい認識が持たれるようになった。これは必要なことだった。しかし今日、言葉の自由は本来と違った方向に向かっている。(「MeToo=私も」運動は)自由に語るように勧め、(運動に)怒っている人間には黙るよう言い、そしてそれに従わない人間に対しては裏切り者や共犯者のように見なしている。

 まさにここにピューリタニズムの特性がある。女性擁護や女性解放という美名の下、「男性支配における永遠なる犠牲者」という偶像に女性を繋ぎ止めようとしている。

「MeToo」運動はメディアやSNSを通じて告発キャンペーンとなり、個人を公の場で断罪するようになった。断罪された男性たちは釈明や自己弁護する機会を些かも与えられず、性的暴力を振るった者たちと同列に置かれた。

 この即席の裁きはすでに犠牲者を出しており、職場で処分を受けたり、退職を余儀なくされたりしている。では彼らが何をやったのかというと、ヒザを触ったとか、キスをしようとしたとか、仕事の話をしている夕食の最中に"親密"なことを話したとか、女性に性的なことをにおわすメッセージを送った、というだけのことだ。

"(性的に問題のある)ブタ"をギロチンにかけるべしというこの熱病は、女性の自立を手助けするどころか、性の自由の敵や、宗教的急進派、強硬反動派、さらに女性は守られるべき特別の存在であると考える人間たちに奉仕している。

 一方、男性はと言うと、その古くさい考えや、数十年前に犯したかもしれない"逸脱行為"を理由に悔い改めるよう求められている。公の場での告発、私的空間に闖入する自称検事たちと、全体主義とも言える雰囲気が社会を覆っている。

 ピューリタニズムの波はとどまるところを知らない。エゴン・シーレ(オーストリアの画家)の裸体画のパンフレットが非難されたかと思うと、バルテュス(フランスの画家)は幼児性愛者だからと、その絵を外すよう美術館が要求されている。人間とその作品を混同する中にあって、映画監督ロマン・ポランスキーを回顧する映画の上映を禁止するよう要望も出された。ある大学教授は、ミケランジェロ・アントニオーニ(イタリアの映画監督)の映画『Blow-Up(邦題=欲望)』を"女性蔑視"で受け入れられないと断罪した。この修正主義的風潮にあってジョン・フォード(米映画監督)やニコラ・プッサン(バロック時代の仏画家)さえも墓の中で心穏やかではないだろう。

 ドイツ哲学者は芸術的創造に感情を傷つける自由は不可欠だと語った。同様に、私たちは性の自由に迷惑をかける自由は不可欠なものとして擁護する。今日、私たちは性的欲求がその本質において攻撃的で粗野なものであることを知っているが、同様に不器用な口説きを性的暴力と混同すべきでないことも十分承知している。

 人間は単純な存在ではない。女性は職場においてチームを率いると同時に、同じ日に男性の性的対象となって享楽を楽しむこともできる。女性は自分の給与が男性と同等であるよう気をつけるが、メトロで痴漢に遭ったからといって心理的に威圧されては絶対いけない。痴漢は性的貧困の一表現である。

 男性のパワハラは別にして、私たちは男性と性に憎しみを抱いてはいない。性的関係を持とうという口説きに対してノンと言う自由は、口説く自由なくしてはあり得ない、と私たちは思う。そしてこの口説く自由に対して、私たちは被害者の役割に閉じこもるのではなく、違ったやり方で対応しなければならない。

 私たちの中には娘を持つ女性がいるが、娘たちが(性の問題に関して)心理的に威圧されたり、罪を感じたりすることがなく人生を謳歌できるよう、いろいろなことを教え、自覚を持たせていくことが賢明だと思っている。女性の体にかかわる事故は、事実としてしんどいことかもしれないが、必ずしも尊厳を踏みにじるものではないし、犠牲者として耐え続ける必要はない。なぜなら私たちは体だけに単純化できないからである。私たちの内心の自由は不可侵だ。そして私たちが享受するこの内心の自由とはリスクと責任がつきものなのだ。

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■ ゴールデングローブ賞、黒いドレスを選ばなかったモデルがその理由を語る 「ELLE(2018/1/10)」より
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セクハラ行為への抗議の姿勢を表明するため、女優も男優も黒い衣装で出席した今年のゴールデングローブ賞授賞式。でも中には華やかなドレスで出席した人も! その1人、モデルのバーバラ・メイアーが理由を説明している。


花柄のドレスでゴールデングローブ賞の授賞式に出席したバーバラ・メイアー。インスタグラムで理由を説明している。

「多くの女性たちが今夜、『Time's Up』のムーブメントを支援するために黒いドレスを着ることになる。これはとても重要で素晴らしいイニシアチブだと思うわ」と言うバーバラ。

「でも私はカラフルなドレスを着ることを決めました。もし今夜の授賞式を自分たちの権利のために立ち上がる強い女性によるゴールデングローブ賞にしたいのであれば、もうセクシーなドレスを着てはいけないとか、ファッションを通して私たちのキャラクターを表現する楽しみを人から奪うことは間違っていると思うから」と説明。

(※mono....以下略、詳細はサイト記事で)

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★■ 作家アトウッドさん、「MeToo」運動に懸念 「悪いフェミニスト」と反発され 「BBC-news(2018年 1月 17日)」より
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カナダ出身の作家、マーガレット・アトウッドさんが、性暴力の被害を告発する「MeToo(私も)」運動の行き過ぎを懸念する論説をカナダの新聞に寄稿し、ソーシャルメディアで論争が起きている。アトウッドさんは自分が今や、「女性に対する戦争」を扇動する「悪いフェミニスト」と攻撃されていると書いた。女性を「産む機械」として扱う近未来の独裁国家を描いたアトウッドさんの小説「侍女の物語」は、ドラマ化が米国で大ヒットして社会現象となっている。

+ 続き
米エミー賞や ゴールデングローブ賞を多数受賞 しているドラマ「ハンドメイズ・テイル/侍女の物語」の原作者、アトウッドさんは2016年秋、ブリティッシュ・コロンビア大学(UBC)の教授だったカナダ人作家がいじめやセクハラで非難された際、同大学が適切な事実確認の手続きをとらず解雇したのは問題だと、 他の作家などと共に抗議の公開書簡 に署名した。問題の作家、スティーブン・ガロウェイさんは疑惑を否定。刑事事件の訴追もされていない。

13日付のカナダ紙グローブ・アンド・メールに寄稿したアトウッドさん は、セクハラ疑惑をかけられた作家に対する一方的な処罰に抗議したことで、自分は批判されており、「今や私は『女性への戦争』を展開しているらしい。女性を嫌悪する、強姦に協力する『悪いフェミニスト』として」と書いた。

アトウッドさんは論説で、「そもそも女性は人間で(中略)犯罪行為も可能だ」、「(女性は)間違った行為のできない天使ではない」と前置き。その上で、性暴力被害を告発し連帯する「MeToo」運動を、「破綻した司法制度の症状」だと呼び、「女性やその他の人による性的虐待の苦情は、既存の制度・組織(企業を含む)を通じて公平な審判を受けられなかった。だから被害者は、インターネットという新しい道具を使った。空から星が落ちてきた。とても効果的で、大勢の目を一気に覚ました警鐘と受け止められている。けれども、では次は?」と、運動の行き過ぎに懸念を示した。

「自警団的な司法、裁判なき非難は、司法の不在に対する反応として始まる。革命前のフランスのように制度が腐敗しているか、あるいは米国の西部開拓時代のように司法そのものが存在しないか。そして人は、自分で何とかしようとする」とアトウッドさんは書き、さらにこうした「司法」による「正義」は、集団リンチや犯罪組織の出現につながると警告した。

「もし司法制度が効果的でないからと、司法制度を迂回するなら、何がその代わりになるのか。誰が新しい権力ブローカーになるのか。私のような『悪いフェミニスト』ではない。私のような者は、右派にも左派にも受け入れられない」

「極端で過激な時代には過激派が勝つ。過激派のイデオロギーは宗教となり、自分たちの考えをそっくりそのまま真似しない者は誰だろうと、背教徒や異端や裏切り者とみられる。中間にいる穏健派は、抹殺されるのだ」とアトウッドさんは書き、「女性に対する戦争とは異なり、女性同士の戦争は常に、女性のためを思わない連中を喜ばせる。今はとても大事な時だ。無駄遣いされないよう願っている」と結んだ。

ソーシャルメディアでは、この論説に対して賛否両論が続いている。

アトウッドさんの支持者は、思慮深い論考によって、広く受け入れられている通説に異論を唱えたと賞賛している。

しかし強く反発する声も多く、アトウッドさんがUBCでの問題を17世紀末の米マサチューセッツ州セイレムで相次いだ魔女裁判と比べたことや、力のある立場にいる男性友人を支援したことなどを、大勢が批判している。



(※mono....上記の引用記事はこの『韓流研究室』さんの記事を読んでのもの。なお、多数の引用および解説がなされている。)




■ 女性の自己防衛は強姦防止効果があるのに抵抗が強いのは何故か 「苺畑より(2015.6.21)」より
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最近フェミニストの間では大学構内で強姦が蔓延しているという神話がまことしやかにささやかれている。囁くというより喚かれているといった方が正しい。女子学生は大学在学中の四年間で強姦にあう可能性が20%以上もあるという似非調査が幅を利かせているのだ。実はこの調査は嘘八百というかものすごくひどい調査なのだが、ま、それはそれとして置いといて、女子生徒を強姦魔から守ろうと自衛教室を設けその効果について調査した大学がある。その結果、自衛は非常に役立つという結果が出た。ところが何故かフェミニストたちからは自衛を奨励するどころか批判する声の方が多く聞かれる。

ニューイングランドジャーナルオブメディスンに発表された調査によると、女子大生に性犯罪の兆しに気がつく訓練及び性的攻撃に抵抗する術に関する徹底した訓練を施したところ、次の年、この訓練を受けた女性は受けなかった女生徒に比べ46%近くも強姦にあう可能性が減ったというもの。

この訓練の中で一番効果があったのは、女生徒たちに性犯罪が起きる状況を避ける術を教えたこと。つまり、どういう状況が危険であり、どのように状況がエスカレートするのを防ぐかという知識を与えたことにある。

女性の人権向上を建前にしているフェミニストたちが何故この訓練に関して批判的なのかといえば、性犯罪防犯の責任をすべて女性に託しているということにある。襲われた時にどのように自分を守るかということを教えるのは、強姦は起きるものなので女性はそれに備えるべきという前提があり、男性に強姦をしないように教育するということが欠けているというものだ。これは病気に例えるなら、病原を取り除かずに病状だけを治療するようなものだというのだ。

こういうことを言う人に聞きたいのだが、じゃあ、あなた方は出かけるときに家の鍵をかけないのかと。

はっきり言ってだ、野蛮なイスラム社会じゃあるまいし、アメリカの大学に通っている男子学生が強姦が悪いことだと知らない訳はない。大学生にまでなって学校で「強姦は犯罪です。やってはいけません」なんて教えられなきゃ態度を改められないような人間は文明人の資格はない。そういう状況であえて強姦に及ぶような不道徳な人間にはそんな教育は意味がないだろう。

しかし、女性が自分の態度を改めて強姦を防ぐということは、強姦魔に「私ではなく、別の子を強姦してよ」という言うようなものであり、強姦を減らすことには役立たないという意見もある。だが、女子大生たちが自衛に非常な神経を払い自衛訓練なども受けていれば、大学構内における強姦の数を減らすことは出来るはずだ。「別の子」が居ないような学校になることに勤めればよいではないか、何故それがいけないのか?

フェミニストの言うことは洋の東西を問わず個性がない。これはずっと以前にカカシが出会った自衛は害あって益なしと唱えていた日本のフェミニストたちの言ってたことと全く同じである。

無論我々はフェミニストたちの建前を信じてはいけない。彼女達の本当の目的が女性を守ることにあるなどと間違った考えを持つと彼らの行動の意味が理解できくなる。だいたい現代フェミニストたちはフェミニズムより社会主義のファシストだ。彼女達の本当の目的は人々をコントロールすることにあるのだ。

(※mono.--後略、詳細はブログ記事で)


■ どんどん異様な事実が明らかになるバージニア女子大生の狂言輪姦事件 「苺畑より(2014.12.11)」から
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先日も紹介したバージニア大学の女子大生ジャッキーが2年前に同大学の男子生徒7人から暴力的に輪姦されたという話しだが、事件があったとされる当日の真夜中にジャッキーから呼び出されて彼女から直接話しを聞いたという三人の友達の証言がジャッキーの供述と全く違っていることがわかった。また、ジャッキーが当日デートしたとされる人物の実在性まで疑われており、この輪姦話はどんどん異様な展開を見せている。
(※mono.--中略、詳細はブログ記事で)
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大学構内強姦が多いという嘘

この間も紹介した別の事件、リナ・ダナムも件でもそうなのだが、別の記者がちょっと関係者にインタビューするだけで、事件がどんどん崩れていくのに、元の記者が全く取材を怠るということはいったいどういうことなのか?

最近何故か左翼リベラルフェミニストの間で、大学キャンパスにおける強姦問題が注目を浴びている。何故彼女たちが大学キャンパスを標的にしたのかわからないが、実は大学構内で起きる強姦は構外よりもずっと少ないという統計が出ており、大学キャンパス内で起きる強姦事件は全体の0.3%くらいなのだそうだ。だが、フェミニストたちは大学内は女子学生には危険な場所だ、男子学生や大学側は女子大生を虐待しているという自説を推し進めるのに余念がない。

だから、リナ・ダナムの大学時代に保守派共和党学生にレイプされたという嘘や、ジャッキーの7人の大学生に輪姦されたという妄想が、裏づけもせずに大々的に報道されてしまうのだ。

最近ダナムは自分が話した「バリー」という名前は仮名で実在の人のことではないと認めた。だが、実在する保守派共和党クラブ員だったバリーという男性が受けた被害は、今更ダナムが謝っても取り返しが付かない。彼女の場合は確信犯だ。彼女はそういう男性が存在することを知った上で、読者が誤解して彼を強姦魔だと思い込むことを狙っていた。だが彼の姿形をとっぴょうしもないものにすることで、後で別人だ仮名だと誤魔化せると計画していたのだ。これも大学内における強姦の話を推し進め、保守派共和党員の名誉を傷つけることが最初から目的だったのである。

(※mono.--以下の太字はmonosepiaによる)
ジャッキー自身も左翼リベラルのフェミニスト活動家であり、彼女の話を書いた記者も過激派だ。

左翼リベラルにとって事実などどうでもいいのである。自分のはちゃめちゃな説が通せれば嘘だろうと妄想だろうともってこいなのだ。

だからこういう奴らには絶対に騙されてはならないのだ。

しかし一番頭にくるのは、こういうふうに強姦されたと嘘をつく女がいくらも居ると、本当に被害にあった女性たちがはた迷惑をこうむる。実際に被害にあった人たちが信じてもらえなくなるからだ。

常に思うのだが、フェミニストこそ女性の敵である。

■ 慰安婦問題はフェミニズムで脱線した 「池田信夫blog」より
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今夜のアゴラ読書塾は『未完のファシズム』の片山杜秀さんと話した。彼が慰安婦問題で注目したのは、90年代には強制連行が焦点だったのが、2000年代にはフェミニズムが入り込んできて、強制だろうとなかろうと(賃金をもらっても)売春は性奴隷だという話にすり替わってしまったことだ。
これは私も驚いた。メルマガでも書いたように、NHKが放送した「女性国際戦犯法廷」は、弁護人もつけないで昭和天皇に欠席裁判で有罪判決を出す恐るべきイベントだったが、このときの罪状は強姦罪だった。いうまでもないが、慰安婦は売春であって強姦ではない。ここまでめちゃくちゃになると、もう反論のしようもない。
(※mono.--以下略、詳細はブログ記事で)

■ 男はタネ、女は畑・・・人はタネ、社会環境は畑 「日本の面影(2013.12.3)」より
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(※mono.--詳細はブログ記事で)

■ フェミニズムの間違い 「ロンドンで怠惰な生活を送りながら日本を思ふ 「NY 編」(2012.3.13)」より
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早慶女子で増える「一般職」 「女子を捨てない」働き方

早稲田大学や慶応大学といった難関大学の女子学生が「一般職」に殺到している。
「一般職」というと、コピー取りやパソコンへの入力作業などの定型的で補助的な業務で、転勤することがない職場で働くことが多い。「総合職」に就いて、男性と肩を並べてバリバリ働けると意気込んでいた、かつての女子学生とは意識が違ってきたようだ。

という記事を発見した。何を皆さんは感じるだろうか?

頭のいい女性ほど分かっている。何が働くことの喜び。人生の喜びかと。男性のようにストレスにさらされてガムシャラに働くことに価値観を置かない人が増えているのかもしれない。それでなくても女子力を磨け!でも仕事もしろと現代の女性は大変だ。そんなあり方への反動かもしれないし、男に戦いを挑めという前世代の非現実的なバカげたフェミニストへの冷めた気持ちもあるかもしれない。

アメリカでも女性の労働市場への参加が頭打ちになっているという。そして、より高学歴の男性と結婚している高学歴の女性ほど働くことをやめているという。日本で高学歴の女性に専業主婦志向が広まっていると言われるのと同じかもしれない。

フェミニズムの押し付ける理想の女性像・社会像はあまりに闘争的でステレオタイプだった。

でも、一部の女性にそんなことを言わなくても古来女性は労働力として労働に従事してきたのである。抑圧された面もあろうが、江戸時代などもそうだが女性の権利や奔放さは現代よりも担保されていた面もあるんじゃないだろうか?
(※mono.--以下略、詳細はブログ記事で)











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最終更新:2024年04月12日 14:02