■ 産経新聞とマララさん 平和賞と憲法9条があぶりだした精神の視野狭窄 「木村正人のロンドンでつぶやいたろう(2014.10.13)」より
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ノーベル賞の発表も13日の経済学賞を残すだけとなった。

ノーベル物理学賞の受賞が決まった米カリフォルニア大学サンタバーバラ校の中村修二教授の国籍が米国なのか日本なのか。日本国憲法9条にノーベル平和賞が与えられるのかどうか――。

日本国内ではそんな話で盛り上がったようだが、「失われた20年」がもたらした精神の視野狭窄を浮き彫りにしているように筆者には思えてならない。ひと言で言えば、自意識過剰。

中国にアジア・ナンバーワンの座を奪われ、韓国にも激しく追撃され、一部の日本人は優越感と劣等感に支配されている。感情や願望が優先し、論理的かつ冷静に物事を考えられなくなっている。

日本の退行現象を改めて思い知らされたのが、パキスタンのマララ・ユスフザイさん(17)への平和賞授賞だった。10日午後、マララさんが英バーミンガムの図書館で声明を読み上げるというので、筆者もロンドンから列車で約2時間かけて取材に駆けつけた。
(※ マララさんの動画略、ブログ記事で)
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「平和賞を受賞する1人はパキスタンから、1人はインドから。1人はヒンズー教を信じ、1人はイスラム教を深く信仰しています。(略)私たちはお互いに人間として思慮し、尊敬し合うべきです。私たちはみんなの権利のために、女性の権利のために、子供の権利のために、人間1人ひとりの権利のために闘わなければなりません」

マララさんは共同受賞者であるインドの人権活動家カイラシュ・サティアルティ氏(60)と電話で話したという。

「私たちはインドとパキスタンの間に強い絆が築かれることを求めています。両国が互いに戦闘するよりも平和の対話を持つことを私は望んでいます。私たち2人は両国の政治指導者を平和賞の授賞式に招待します」

マララさんの快活な笑顔は素晴らしかった。温かい家族の和が感じられた。イスラム過激派タリバンの非道な銃弾を受け、死線をさまよったマララさんが守り続ける「言論の自由」。
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9条に平和賞をという空騒ぎ

それにしても「日本国憲法9条にノーベル平和賞を」という空騒ぎは何だったんだ。ノルウェーの国際平和研究所(オスロ、PRIO)のハープウィケン所長が受賞予想の第1位に「9条を保持してきた日本国民」を挙げたのがきっかけだが、PRIOの予想はほとんど当たらないことで有名だ。

いったい日本と日本国民が何をしたというのだ。9条は軍事超大国・米国との日米安保条約とセットになっている。米国の強力な核の傘に守られ、米軍の後方支援に勤しんできた日本だけを取り立てて、平和賞を授与する意味がどこにあるのか、教えてほしい。

尖閣をめぐって緊張が高まる日中関係を改善させるためなら、日本と中国に共同授賞する必要があるが、2010年平和賞受賞者の劉暁波氏も釈放しない中国の何に対して、誰に対して平和賞を贈るというのか。バカも休み休み言ってほしい。平和は双方の努力なくして成り立たない。

最初からあり得ない話を日本国内の憲法改正論争に絡めて取り上げるメディアもどうかしている。東日本大震災のあった2011年にも、福島第1原子力発電所の事故後も残って作業を続けた約50人「フクシマ50」に平和賞が授与されると言い出す人がいて往生させられたが、原発事故を起こした国への授賞は考えられない。

日本は自分のことしか見えなくなってしまっている。世界から昔ほど注目されなくなっているのに、いつまでも注目されていると信じていたい自意識過剰シンドローム。この精神的な視野の狭さはどこから来るのだろう。

(※ 中略、詳細はブログ記事で)
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「日本固有」の論理
科学が常に進歩するように人間の精神や知性、社会は進化し続けると筆者は最近まで信じて疑わなかった。

しかし、日本は退化している。精神の退行現象が明らかになってきている。人間には先天的なものと、後天的なものがある。どちらを大切にするかで社会のありようは随分変わってくる。

血のつながりを重んじるのか、それとも社会との契約を尊重するのか。国籍の血統主義への異常なまでのこだわり。政治の世襲にみる血縁、地縁など縁故が優先されるムラ社会の論理。

永田町は、ドイツでいうゲゼルシャフト(打算的な契約関係を特色とする社会)からゲマインシャフト(血縁、地縁などで結ばれた社会)に逆行している。

「日本固有の領土」「日本固有の文化と伝統」を守ろうという声が日本国内では次第に勢いを増してきている。言い換えると相手が折れない限り、交渉の余地はないということだ。

日本と韓国の政治家やメディアからは相手を非難する言葉が洪水のように聞こえてきても、こじれにこじれてしまった日韓関係を改善させようという意思はまったく感じられない。


■ W杯で視野狭窄に陥る日本人 「21世紀中年(2014.6.22)」より
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4年前ほど熱くはなれないが、それでもそれなりにW杯を見ている。胸をすくスーパーゴールはW杯の醍醐味だが、いつも思うのが日本のシュートがしょぼいということだ。

 世界のゴールシーンと決定的に違うのは、ゴールを狙う日本のプレイヤーにまったく余裕がないことだ。日本は大きなゲームになると何故か視野狭窄に陥るようだ。ボールに当てるのが精いっぱいで、後はボールに聞いてくれと言わんばかりのクソシュートばかりが目立つ。これじゃ点が入らなくて当然だ。

 戦力や個々の技術力は明らかに世界に近づいたが、ハートが追いついていないとしかいいようがない。

 今大会、出会いがしらに決まった本田の1ゴールで終わってしまうのか、それともこれぞW杯といった華麗なシュートが決まるのか、コロンビア戦に日本のサッカーの将来がかかっている。グループリーグ突破の奇跡など、正直、期待もしていないし、ドキドキもしない。興味は、まぐれシュートではなく、将来につながる狙って決めるスーパーゴールが決まるかどうかだ。


■ 日本人の視野狭窄 「草莽崛起ーPRIDE OF JAPAN(2011.12.8)」より
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電通は左がかっている、というよりは「民族の血」がさせているのかも知れません。

元電通の実力会長は在日出身者でした。彼は、テレビ局の経営状態を見て、安価な韓国ドラマを日本に輸入することを考え付いたのではないでしょうか。

 時あたかも、日本では「従軍慰安婦の強制連行」や「在日の大半は強制連行」、などというデマが広がっていました。それどころか、日清・日露戦争までを侵略戦争だったなどという自虐史観が日本を覆っていました。いや、今も余り変わりません。

 ですから、どうしようもなかった李氏朝鮮を日本が併合せざるを得なかった歴史などは日本人の多くが理解できません。500年も中国に隷従する前近代的な李氏朝鮮を日本は併合して、近代化したのです。その辺のところは松木氏などの著書の通りです。

一言でいえば、当時の朝鮮は政治も経済も文化的にも、話にならなかったのです。

 そうした朝鮮の歴史を知る朝鮮人は、日本に対する劣等感があったと思います。それを、近年の日本人は、「日本は全てを朝鮮から学んだ」などという輩が出てきたのです。挙句の果てに小学校に元慰安婦を呼んで、「私は日本人に酷い目に遭いましたが、今は許す気持ちです」、などというでたらめを語らせる始末です。
こうして、韓流ドラマという奇想天外なものを受け入れる下準備ができていたところに、電通の仕掛けがあったわけです。

 その狙いはものの見事に当たって、戦前を知る日本人にとっては、考えられもしない「韓流ドラマ俳優の追っかけ」現象まで起きる始末です。一重に、自虐史観の結果です。

要するに日本人が無知で不勉強なのです。一言でいえば、日本人の劣化です。(尾形)












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最終更新:2014年10月17日 19:25