朝鮮半島の歴史
■ 朝鮮日報が偉大な人物という「李 承晩」 「浮世風呂(2014.9.24)」より
(※ 前後略。韓国の歴史年表など略。)
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韓国には伝統的に韓民族の日本民族に対する優位性の主張ともなる華夷思想があった。それは、日本人を文化程度の低い侵略的な野蛮な中華文明周辺の夷族とみなす、非中華文明諸民族への蔑視の思想である。李承晩はこの伝統思想を目覚めさせようとすることに成功したのである。それが戦後韓国の反日思想の実態である。

没落両班の家に生まれ、李氏朝鮮末期の高宗に対し独立と家の再興を目指すが、悉く失敗し、日本に対し強烈なまでの反日思想をもった。戦前からの,アメリカでのロビー活動を認められ、大韓帝国臨時政府の代表に指名された。その後、華夷思想の回帰をもとに、日本を蔑視し偏向思想教育を行った。小中華思想の申し子のような存在である。学生時代の成績は平均Cであった。民主主義とは、相入れない、異質の政治家である。

李氏朝鮮時代のことをあたかも日本併合時代の出来事として李承晩は学校で教えさせた。現代の若者は併合時代も李氏朝鮮時代も混同して教えられている。ハングルを日帝に奪われたというが李氏朝鮮時代の1504年に燕山君によって公式な場でのハングル使用を禁止された。

更に、ハングルの教育や学習の禁止を行った。(ハングルの消滅)
それが350年間もの間続いた。だから元々無いものを日本が奪うなんて不可能である。

虐殺が繰り返されたというのも李氏朝鮮時代の出来事である。李氏朝鮮では権力争いや裏切り、抗争が絶え間なく繰り返された。併合後に飛躍的に人口が増えているのに虐殺していては辻褄が合わない。よって併合時代の日帝の悪行というのは、正に李氏朝鮮時代の出来事を日帝時代の出来事として徹底的に教育したからに他成らない。

しかし、其れくらいのことを少し調べれば分かるものを、TVなどで間違って主張する知名人や評論家というのは一体何を根拠にのたまうのかと思ってしまう。特に史実を徹底的に調査して時代考証の末に小説を書くはずの、「著名な小説家」と言う存在は、一体何者なのかと疑わざるを得ない。

今日に至るまでの約70年近くの災いの原点がここにある。

李承晩の怨念は、彼ら南朝鮮人の鬱憤のはけ口として今も延々と生きている。

■ 李承晩と朝鮮半島の歴史 「ねずさんの ひとりごと(2011.10.12)」より
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大東亜戦争のあと、朝鮮戦争があったという事実は、多くの方がご存知のことです。
この戦争は、昭和25(1950)年6月25日~昭和28(1953)年7月27日の停戦まで戦闘行為が続きました。
いまでも、南北朝鮮の間に38度線が引かれ、韓国と北朝鮮の両国は戦争状態にありますが、一般に「朝鮮戦争」と呼ばれるのは、戦闘が行われていた上述の期間を指すようです。

さて、その朝鮮戦争ですが、戦闘期間を通じて、韓国では軍人約42万、民間人106万が命を失いました。そして約1千万人が一家離散の悲劇にあった。

大東亜戦争終結後、日本が軍事徴用した朝鮮人たちを国費をもって彼の国に返し、どうしても日本に残りたいと申し出て日本に残留した朝鮮人は、わずか245人です。
そのわずか245人が、戦後65年経ったいま、日本国内に約100万人にも増殖したのは、要するにこの朝鮮戦争が最初のきっかけです。

ひらたく言ったら、朝鮮半島で殺されそうになった朝鮮人たちが、ボートピープルとなって大挙して日本に逃げて来たのです。
昭和25年から昭和28年にかけての日本といえば、まだまだ貧しい国でした。
ほとんどの日本人は、まさに食うや食わずの苦しい生活を余儀なくされていた。
それでも、多くの日本人は身ひとつで逃げて来た朝鮮人たちをかくまい、衣食を与え、ときには経済的援助まで行って来た。
そのおかげで、多くの朝鮮人たちが、日本にそのまま定着して、現在に至っています。

また韓国については、戦後たびたびウォンが危機状態となり、巷に失業者があふれ、結果として職を求めて(このとき女性は売春による荒稼ぎ目的で)日本にやってきた者も多い。
それでも昭和の間は、日本に永住していても、たとえば運転免許証などでは、免許証の一番上の「国籍/本籍」欄に、「国籍:大韓民国」とか表示され、だから免許証をみれば渡来人かどうかがわかった。

ですからサラ金が世に出た当時は、貸付審査に際して、運転免許証を見て、韓国人だとわかれば、融資をお断りしていた。
それがなぜか、お国からの通達で、外国人だからと融資を断ってはイケナイとされるようになり、挙げ句の果てが、どこでどう決まったのか、いまでは運転免許証の「国籍/本籍」欄は、印刷上は空白とされ、警察の保有する特殊な機械を使わないと、一般人には外国人であるかどうかの識別はできなくされている。
実に不思議な話です。

(※ 中略)
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いま、朝鮮半島は、北と南に分断されていますが、実は大東亜戦争が終結した直後、昭和20(1945)年9月6日に、統一朝鮮(北と南の両方がひとつの国になった朝鮮)が樹立されていたのです。
国名を、「朝鮮人民共和国」といいます。

戦前の朝鮮は、日本に併合されていましたから、南北の切り分けなんてなかったのです。
そこには朝鮮総督府があり、その総督府の機能が、そのまま朝鮮建国に結びつく筈だった。
だから朝鮮総督府には、呂運亨(ヨ・ウニョン)という立派な人がいて、朝鮮建国準備委員会を設立し、半島統一国家の建設を企図し、実際に「朝鮮人民共和国」が建国宣言まで行ったのです。

ところがそのまま統一朝鮮が樹立されればよかったのですが、樹立宣言の翌日に上陸して来た米占領軍は、半島に勝手に軍政をひいてしまいます。
そして呂運亨率いる「朝鮮人民共和国」も「朝鮮建国準備委員会」も否認してしまったのです。

実はこの否認にはこれにはもうひとつの理由があります。
それが、後に韓国の初代大統領となる李承晩(イ・スンマン)です。

李承晩は明治8(1875)年生まれの朝鮮の独立運動家です。
生家は、李氏朝鮮の初代王である太宗の長男で世宗の兄である譲寧大君の末裔とされていますから、要するに両班(りゃんばん、朝鮮の貴族)の家にあたります。

(※ 以下長文略、詳細はブログ記事で)














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最終更新:2014年09月26日 21:45