※ 記事全文コピペ


2014.8.14 07:00 (1/6ページ)[歴史問題・昭和史]

 69年前の8月、日本の敗戦とともに朝鮮半島は北緯38度線で南北に分けられ、その北側には多くの日本人が取り残された。ソ連軍の進駐の中、38度線を突破し、帰国を果たした人々がいる一方で、望郷の思いかなわず、約2万4000人もの日本人が彼の地で命を失った。この手記は、当時14歳の少年が北朝鮮で経験したことを記録したものである。

最北からの難民行

 終戦の時、僕たちの一家は咸鏡北道会寧邑(現在の北朝鮮東北部、中国との国境に接する地域)に住んでいた。8月13日午後7時、避難命令が出た。そして僕たちの新しい戦争が始まったのだ。14歳の僕はその時、それから始まる“冒険”に興奮した。だがそれは、実にみじめな“戦争”だったのである。

 咸鏡北道庁では緊急事態に備えて避難計画を立て、会寧邑の住民は平安南道成川邑(朝鮮半島北西部)に避難することになっていたという。両親と弟、4人の妹、そして僕は豆満江(現・中朝国境を流れる川)沿いに、まず茂山をめざして歩き出した。敗戦を知ったのは、茂山の手前の小さな集落だった。川に洗濯に行った母が、朝鮮人警官にそれを知らされたと告げたとき、朝鮮人国民学校の校長だった父は、「ばかげたデマを信じるな」と激しく叱責した。


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 8月22日夜半に茂山に着いたとき、最後の避難民列車が出たあとで、町には人影はほとんどなかった。延社まで行けば汽車に乗れるという噂を頼りに、炎熱の白茂高原の避難行が始まった。道は黄色く乾き、土埃が舞い、焼けたフライパンの底のように熱かった。わずかばかりの夜具、着替え、4、5日分の食料をかつぎ、地べたをはいずるようにして歩いた。

 僕たち一家と前後して、膝から下がない男がはうようにして歩いていた。つえを2本ついた老女が、にじるようにして歩いていた。この2人は、すぐに追い越されるが、野宿をして次の日、歩き出してみると、僕たちの前を歩いていた。夜も寝ずに歩いたとしか思えない。

 道ばたの木の下に、置き去りにされた老人が寝ていた。布団の上に寝かされているところを見ると、それが、その老人の家族の精いっぱいの思いやりだったのだろう。幼児は泣き叫びながら親の後について歩いていた。親の背中は「ついて来るならついて来なさい。でなければ置いていきますよ」と語っていた。幼児たちは、いつか泣く気力も失って、とことこと後について歩いていた。

 沿道に数々の悲劇を繰りひろげながら、避難民たちは汽車に乗れるという駅を目指して、ただ歩きに歩いた。そして、いつも裏切られていた。


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 延社、楡坪、載徳、吉州と次々と過ぎて城津にたどり着いたのは、会寧を出て1カ月後のことだった。城津ではソ連兵の暴虐に心臓の凍る思いをして1週間を過ごし、待望の汽車にありついた。

 しかし、貨物列車は咸興までだった。そこで保安隊の銃剣に脅され、咸興郊外に追い出されてしまった。元興里の橋の上で、父はついに座り込んでしまった。「元山まで歩けば、姉さんがいるじゃありませんか」という母の言葉に、「もう一歩も歩かないぞ。俺はここに残る。元山に行きたければ、おまえたちだけで行けばいい」と子供のように駄々をこねた。

 雨の河原で野宿して、3日後に咸興日本人世話会の人の案内で、咸興市内に連れ戻され、盤竜台町の民家に収容されたのは9月20日過ぎのことだった。

 本格的な避難民生活が始まった。糊口をしのぐために、ソ連軍将校官舎や朝鮮人農家へのこじき行脚、枯れ木を集めて薪売りの商売などをした。父をはじめ僕たちが病床に伏した後も、母は2歳の妹の昌子を背負って、ソ連軍将校官舎の掃除、残飯を予約していた官舎回りをして、1日忙しく立ち働いて一家を養っていた。

これは俺の墓穴ではない

 10月末に、日本人世話会から勤労奉仕の割り当てが来た。日当は1日5円だという。盤竜台地区の避難民100人が、世話会の役人に引率されて軍営通りを咸興の北の郊外に向かった。僕も雑炊を入れた飯盒(はんごう)とシャベルを持って、町内会長の家の前に集まった。避難民のひがみからか、他人を見下すような傲慢な態度をとる町内会長は、八の字ヒゲをひねりながら、「日当は安いが、きょうの作業は、言ってみれば勤労奉仕みたいなものだから、皆のためにせいぜいがんばってもらおう」と演説した。


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 避難したときの夏服は、汗とあかに汚れてボロ雑巾のようになっていた。こじきよりおどろおどろしい100人あまりの勤労奉仕隊は、敗残兵のように、ぞろぞろと秩序もなく北の方へ向かった。

 咸興府の北の郊外に、旧日本陸軍第74連隊の兵営があった。営門には赤旗がひるがえり、連隊本部の正面玄関にはレーニン、スターリンの肖像画が掲げられていた。練兵場の左手、盤竜山の麓に日本人共同墓地があった。そこが勤労奉仕の目的地だった。丘陵の右手の小山は、8月から10月にかけて死亡した約2000人の土マンジュウの墓で埋まっていた。墓に建てられた無数の粗末な墓標は異様でさえあった。

 日本人世話会では、越冬時には約3000人の死亡者が出るものと予測して、地下が凍結しない前に墓穴を掘る計画をたてたのだった。旧墓地の左手の小山をつぶして、新しい墓地が造られるようになっていた。山肌に沿って幅3メートル、深さ2メートルの壕がすでに何本か掘られていた。僕たちはしばらく、前の日に掘られた“塹壕”を眺めた。もし墓堀りだという予備知識がなかったら、塹壕を掘るのだといわれたら、僕たちは容易に信じたに違いない。


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 世話会の役員は、地面に縄張りを示し、「この割り当て分が終わったら、いつでも帰っていいよ。午前中に終わったら、午前中に帰ってもいい」と言った。他地区からも300人あまりの人々が来ていた。「午前中に済ませて早いとこ帰ろうぜ」と青年たちは気負っていたが、ノルマを果たせたのは、夕方4時過ぎだった。作業の間中、皆は、「これは俺が入る穴じゃない」と言い続けた。「誰かが入る穴を準備しているのだ」という神聖な義務感で働いているのだ、と自分に納得させようとしていた。

 日当の5円軍票を握りしめ、寒さに肩をすぼめ、墓穴を掘った無残な思いを打ち払いながら家路をたどった。結局、僕は父と妹のために墓穴を掘ったのだが、その時はそれを夢想だにしなかった。

父のみじめな“戦死”

 咸北(咸鏡道北部)、東満(満州東部)からの避難民は、続々と咸興府に流入し、武徳殿、寮、倉庫、遊郭などに収容され、そこで生き地獄のような生活を強いられていたが、僕たちは幸運にも盤竜台町の民家を割り当てられた。そこでも四畳半の部屋に、僕たち一家と、Kさん夫婦が詰め込まれていた。

 8月末から、ぼつぼつ避難民の死亡者が出ていたが、12月に入ると、飢えと寒さと伝染病で、1日に50人近くも死亡するようになっていた。病気をばらまくシラミがいつの間にか、僕たちの四畳半の部屋に侵入し、まず父が再帰熱で倒れた。続いて僕も高熱におかされ、弟、妹も病床に就いた。


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 僕が第1回目の平熱期を終わり、第2回目の高熱期に入ろうとしていた12月11日の早朝のことだった。窓の外で、木のはじける音がした。窓ガラスが赤い。僕は目をさまし、まだ薄暗い窓の外を見た。窓には白い霜が凍りついている。

 「父ちゃんの様子がおかしい」。湯たんぽを抱えて入ってきた母が、声をひそめて言った。

 父は「フウフウ」と息をあえがせている。時折、「フゥーッ」とため息のように長い息を吐いて静かになる。そして平静な寝息をたてている。だが、しばらくすると、また荒々しい息づかいになる。弟も妹も目をさまし、起き上がり、息をつめるようにして、父を見守っていた。母は額の汗を拭き、「しっかりしてくださいよ」と声をかけている。

 長い長い時間がたったような気がするが、それは30分ぐらいのものだったのだろう。父はやがて、「フゥーッ」と大きく息を吐いて静かになった。皆は恐ろしい予感に襲われたように、体を乗り出して父の方をのぞきこんだ。恐ろしいほどの静寂が訪れた。やがて荒々しい呼吸が始まるはずだった。僕たちは息をつめ、耳をすました。だが、父の唇は動かない。口を半開きにしたままだった。

 突然、母が「ワーッ」と悲鳴のような泣き声をあげた。僕たちにも、すぐに何が起こったのかわかった。妹と弟も泣き出した。父は死んだのだ。

 夜、通夜のため、他の2組の布団は押し入れにしまい、父の遺体を載せた布団だけが敷いてあった。一番あとに発病した3番目の妹、昌子は高熱期に入っていたため、そのそばに寝させられていた。「父ちゃんの体が冷たくて気持ちがいい」。熱にうるんだ赤い顔で、3番目の妹、昌子が突然、言った。それがまた僕たちの新しい涙をさそった。

 父が死んだ翌日から、僕は第2回目の高熱期に入った。葬儀屋がやってきた。熱におかされたうつろな視野の中で、葬儀屋が働いている。父の遺体を筵(むしろ)で包み縄をかけている。窓の外に運び出している。また母と妹、弟が声をあげて泣き出したらしい。焦点のぼけた影絵を見ているように、僕は何の感慨もなく、それを眺めていた。

 父はみじめに“戦死”したのだった。





最終更新:2014年08月14日 10:43