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江藤淳と、彼が著した『閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』を紹介し、彼が指摘した「言語空間」が2020年の現在も1970年代と同じように「閉された」状態であることを指摘します。

私が小学生の時に実際に経験した出来事から、この言論空間からいったん step out すると、占領下で日本に存在したCCD(アメリカ民間検閲支隊)の代理者として振る舞う一般の日本人を通して、言論制限がかかるメカニズムを解説しました。

参考動画として、次の動画もご覧ください。
『GHQ焚書図書開封 第1回』(58分)
https://www.youtube.com/watch?v=Ehj1rHJuWwY ※動画は見れません。

同じGHQによる指示・命令でしたが、江藤淳が語ったのが検閲についてであるのに対し、西尾幹二が語っているのは焚書です。別の活動であったことをこの機会にお伝えし、併せてご覧いただきたいと思います。番組中(14分以降)で西尾幹二は江藤淳と彼の著書『閉された言語空間』についても言及しています。

開始3分のところで、毎日新聞「文芸ジホウ」と聞こえる部分がありますが「文芸時評」の言い間違いです。お詫びして訂正します。

令和2年6月8日追記
上島喜朗さんが、関連の動画を上げていますので、ぜひご覧ください。
○【日教組の正体】2020/05/23
https://www.youtube.com/watch?v=PeXjqHtX05w
日教組の起源、公職追放について語っています。
○GHQ発禁前後の『戦艦大和の最期』を比べてみた2020/06/06
https://www.youtube.com/watch?v=hPT3EuT1ZS0
GHQによって書き変えられた『戦艦大和の最期』について、また「太平洋戦争」という言葉について語っています。
いずれも私、広島領事館がコメントを残していますので、そちらもご覧ください。


東京大空襲
■ 東京大空襲回顧記事に見る「閉ざされた言語空間」 「鎌倉橋残日録(2015.3.11)」より
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3月10日は70年前、東京大空襲のあった日で、新聞ではこれを論じる社説やコラムが目立った。だが、その論調は久しい以前から変わらず、「戦争は悲惨だ、日本はこうした悲惨な戦争に無謀にも踏み込んだ。二度とこういう事は起こしてはならない」というものだ。空襲による無差別殺戮を繰り返した米国の行為を厳しく問う文章は皆無に近い。

たとえば、日本経済新聞の社説「東京大空襲70年が問うもの」。

<70年前のきょう、東京の下町一帯は米軍機による猛爆を受け、わずか一晩で10万人余の死者をだした。被災家屋約27万戸。太平洋戦争における民間人の犠牲のなかでも、沖縄戦や広島・長崎への原爆投下とならぶ最悪の被害だ>

 ここまでは事実を記載しただけのこと。問題はここから先だ。

<戦争というものは、最後には前線も銃後も隔てがなくなる。東京大空襲は当時の日本人に、そんな現実をまざまざと見せつける出来事であった。あの大戦末期の不条理の象徴といえる>

老人や子供など非戦闘員に対する国際法違反の無差別殺戮という米国の不条理な行動を具体的に示す記事はない。そして、当時の日本の政府、軍部の行動を非難する結論で終わる。
(※mono.--中略、詳細はブログ記事で)
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江藤淳氏は著書「閉ざされた言語空間」の中で、こう記している。

<『軍国主義者』と『国民』の対立という架空の図式を導入することによって、『国民』に対する『罪』を犯したのも、『現在および将来の日本の苦難と窮乏』も、すべて『軍国主義者』の責任であって、米国には何らの責任もないという論理が成立可能になる。大都市の部差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、『軍国主義者』が悪かったから起った災厄であって、実際に爆弾を落とした米国人には少しも悪いところはない、ということになるのである>

戦後の日本占領時代、米軍は米国はじめ連合国を少しでも批判するような記事を新聞や雑誌に書くことを許さなかった。徹底した言論弾圧があった。そのことを指摘することすら恐れる今のマスコミの風潮は、その言論弾圧のトラウマ、恐怖が今も続いているためと思える。まさに戦後の閉ざされた言語空間は今も続いている。

現在も米国政府は、日本が当時の米軍を批判することに敏感だ。そのため、大手メディアは当時の歴史について米国を批判したら、どんなしっぺ返しを受けるだろうか、江戸の仇を長崎で討たれないかと、恐れているのだろう。
(※mono.--後略)


江藤淳
■ 江藤淳教授の逝去から14年~評論<閉ざされた言語空間>を思い起こす昨今 「陸奥月旦抄(2013.7.11)」より
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 評論家・作家の江藤淳氏が平成11年(1999)に逝去されて既に14年になる(享年66歳)。今回の参議院選投票日の7月21日は、彼の命日でもある。

 何冊か同氏の著作を読んだが、中でも力作<海は甦える>(1983年完成)は印象に残る小説だ。山本権兵衛を中心とする明治軍人の生き様を丁寧に描いた内容であり、山本を日本海軍建設の父と位置付け、彼を敬愛する心が込められていた。

 1970年代末から江藤氏は、米国で調査研究を行った結果を基に、<忘れたことと忘れさせられたこと>(1979)、<一九四六年憲法~その拘束>(1980)を発表し、占領軍総司令部(GHQ)が強制した凄まじいまでの検閲、言論統制、内政干渉などの実態を紹介した。それらは、<閉ざされた言語空間~占領軍の検閲と戦後日本>(1989)で内容が更に深められた。

 私は、これらの著作によって、「ウオー・ギルト・インフォーメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)の実態を具(つぶさ)に知った。このプログラムは、三つの段階に分けられて昭和21年(1946)1月から徹底して実行されたのである。

 ダグラス・マッカーサー元帥は、気位の高い米国陸軍軍人である。1942年3月、日本軍の破竹の進撃に負けて、フィリピンのコレヒドール島から命辛がらオーストラリアへ敗退・逃避すると言う屈辱の事態に遭遇、彼の日本軍に対する恨みは骨髄に達した。日本が敗戦の憂き目に会った時、彼はその恨みを徹底的に報復することに専念した。日本帝国陸海軍の即時解体は当然のこと、米国も批准している「ハーグ陸戦規則」に違反しながら、報復は次の形で具体化された。

○「ウオー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」の完全遂行(1946.1~占領終了まで)
○「占領憲法」の強引な押し付け(1946.2~1947.11.3)
○極東軍事裁判(東京裁判)(1946.4.29起訴~1948.11.12判決)への強制指導と干渉

 サンフランシスコ講和条約が発効(1952)し、日本が再独立した後も、上記プログラムは、我が国独特の「自虐史観」として生き残った。それは日教組の戦前思想否定教育と相俟って、日本人の幼稚化を加速した。

 櫻井よしこ女史の著作、<「眞相箱」の呪縛を解く>、小学館文庫、2002は、NHKを主体とした「ウオー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」の具体例を詳細に述べている。

 検閲システムは占領軍の手を離れたが、マスコミ各社の「自主規制」の形となって変貌し、言葉狩りや偏向報道が現在もなお緩やかに続いている。更に、改変が事実上不可能な「占領憲法」の墨守により、伝統的な日本精神は骨抜きにされた。

 多くの日本人が、「閉ざされた言語空間」を読み、我が国全体を今なお覆っている閉塞的、そして不毛な精神的状況を見なおして欲しいと願う。偏向した一部マスコミの在り方は、インターネットの普及で疑問を持たれ、変えられつつある。憲法改正も、これから5年間の内に日本人の意識改革を伴って実現する可能性がある。私は、自虐史観からの脱却と自主憲法制定を強く希望する。

 さて、江藤氏最晩年の頃、彼は文藝春秋や諸君!に政治評論を幾編か書いておられたが、当時の橋本龍太郎・自民党政権に対して厳しい批判を含むものが続いた。ペルー日本大使館公邸占拠事件(1997.12)では、橋本首相(当時)の国家観喪失を完膚なきまでに糾弾した。同時に軽薄な言葉を発する政治家たちにうんざりしていたようにも見えた。

 1998年12月に妻・慶子さんを亡くされ、ご自身も体調不良が続き、それらが契機となって生きる意味を失い、鎌倉の自宅で自裁されたのであった。その遺言は、

 「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。平成十一年七月二十一日 江藤淳」

であった。

 保守の優れた論客、福田恆存氏が他界されたのは、平成6年(1994)であった(享年82歳)。マッカーサー占領国憲法を懺悔の悪文として批判して止まない福田氏の逝去に、私は一抹の寂寥感を覚えたのだが、御活躍中であられた江藤氏の死を知った時は、些か愕然とした。

 7月21日の参議院選では、自民党の優勢が繰り返し伝えられている昨今だが、仮に自民党主体の政治的安定多数は得られても、憲法改正の発議を行う体制確保にまでは行かないであろう。「マッカーサーの呪縛」はそれほどまでに強固で、恐らく泉下の江藤氏も「国の栄辱と独立自尊精神は何時になったら回復するのか」と慨嘆しておられるに相違ない。

(参考)

江藤淳:<閉ざされた言語空間~占領軍の検閲と戦後日本>、文春文庫、1995

櫻井よしこ:<「眞相箱」の呪縛を解く>、小学館文庫、2002

江藤淳:<国家とはなにか>、文藝春秋社、1997

福田恆存:<日本を思ふ>、文春文庫、1995

関連ページ⇒閉ざされた言語空間

■ 【『閉された言語空間』】 / 傷跡深い占領時代の言論統制(産経新聞2002年6月21日掲載) 「岡崎久彦 「百年の遺産-日本近代外交史(69)」」より
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江藤淳氏は平成十一年、「いまや残っているのは江藤淳の形骸(けいがい)に過ぎない」という絶望的、自己否定的な言葉を残して自殺しました。

 しかし、その十年前、平成元年に彼が世に問うた『閉された言語空間』こそ後世に残る彼の事業です。

 その冒頭、江藤氏は、文芸評論家として毎日文芸作品を読んでいるうちに、自分達が住んでいる「言語空間が、奇妙に閉され、かつ奇妙に拘束されている」もどかしさを感じ、そのルーツを探って辿(たど)りついたのが、占領時代の言論統制だったといっています。

 私自身も、三十年来日本の安全保障を論じてきましたが、最もしばしば受けた批判は「それは間違っている」という批判でなく、「そんなことを言っていいのか」という警告でした。私に「いいのか」と訊(き)かれても、返事のしようがありませんが、警告した本人は、明らかにそういうことを言わない自己統制をしているわけです。私の感じたのは、安全保障論の禁忌(タブー)でしたが、江藤氏の感じたのは、「日本人のアイデンティティーと歴史への信頼を崩壊させようという意図」です。

 文学者にありがちな短絡(たんらく)や思い込みはあるのでしょうが、日本を根こそぎ変えるというケーディスなどの意図が言論統制政策に当然反映されていたと考えれば、正確な指摘かもしれません。

 占領軍の検閲は大作業でした。一カ月に扱った資料は、新聞、通信三万、ラジオ・テキスト二万三千、雑誌四千、その他出版物七千にのぼり、四年間で三億三千万の信書を開封検閲し、八十万の電話を盗聴したといいます。

 そのためには、高度の教育のある日本人五千名を雇用しました。給与は、当時、どんな日本人の金持ちでも預金は封鎖されて月に五百円しか引き出せなかったのに、九百円ないし千二百円の高給が支給されました。

 その経費は全て終戦処理費ですから、占領軍は、日本国民の税金で金に糸目をつけずに優秀な人材を集めたわけです。

 今はそういう人達の過去は隠されていますが、敗戦の窮乏(きゅうぼう)の中で恥を忍んでこの作業に従事したのでしょう。

《日米の憲法違反》

 そもそも検閲は極秘作業でした。何時(いつ)開始され、何時終わったかも公表されていません。それは当然です。それはポツダム宣言第十項の「言論、思想の自由の尊重」の違反です。また、これに従事する米国民にとっては合衆国憲法違反、日本人にとって新憲法違反です。

 したがって、検閲が存在するということに言及すること自体が、真っ先に検閲の対象となり、これが予想外の大きな影響を生み出します。

 戦前、戦中の日本の検閲は、削られた部分が××の伏せ字となっていたので、その前後の文脈から推測すれば、おおよそそのいわんとするところはわかりました。検閲される方も、自分の考えを譲る必要はなく、昂然(こうぜん)と、削りたければ削れといってもよかったわけです。

 しかし占領下の検閲では、文章の基本的な構想、その背後の発想まで変えないと論理的な文章になりません。それを拒否すれば、文筆を業とする者は生活の資を失います。

 それを毎回するということは思想の改造を強いられることです。

 歴史家ダワーは、「日本人は、すぐにその新しいタブーに従って自ら検閲することを覚えた。誰も最高権力に勝てないことを知っていて、敢(あ)えて挑戦しようとしなかった」「勝者は、民主主義と言いながら、考え方が一つの方向に統一されるように工作した。あまりにもうまくそれに成功してしまったため、アメリカ人などは、それが日本人の特性であると考えるに至った」と言っています。

《占領後も維持、増幅》

 そしてそれが七年続いた後、アメリカ自身は左翼的な考えを捨て去ってしまいました。ところが、今度は日本の左翼の言論、教育により、それが維持、増幅されたため、いまだに占領初期の政策に迎合することが戦後日本思潮の底流となっていることは、江藤氏が鋭く感じ取った通りでしょう。

 検閲の対象は広範囲にわたります。占領政策批判、東京裁判批判、新憲法制定の経緯などはもとより、米英ソ中朝鮮について、戦前からの全ての行動の批判、戦後の日本の悲惨な世相、占領軍の放恣(ほうし)な行動批判等々にとどまらず、冷戦等外部世界への言及も含まれました。

 ダワーは「連合国はいかなる罪も犯していないという神話は非現実的、超現実的な世界を生み出した。

 日本人は、米ソ同盟はすでに崩壊したこと、中国が国共に分裂したこと、アジアで反植民地闘争が再び起こっていることなど知らない時間のひずみ(タイム・ワープ)に閉じ込められ、第二次大戦の勝者のプロパガンダを繰り返し聞かされるだけだった」と書いています。

 それはまさに、戦後半世紀の安保論争で痛切に感じられたことです。国の安全というのは、国際軍事バランスの中で相対的なものですから、まず国際情勢の分析が先にくるべきものなのに、日本国内の議論は、外の環境に目をつぶって、過去の戦争の悲惨さと憲法の条文だけで議論していました。日本の宿弊である情報軽視の戦後の源流もここにありましょう。


■ 『閉ざされた言語空間』とマスゴミ 「神州の泉(2013.1.8)」より
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 もちろん、神ならぬ限られた身で、戦後にマスメディアが報じたすべての報道を知るわけもない。成人し、一応社会に身を置くようになってから耳目に流入した報道を、ざっくりとした印象で言ってみる。戦後のマスメディアは、政官業(=政治家、官僚、大企業)トライアングルという、既得権益維持勢力に都合よく加工された報道しか流していなかった。この流れに加え、東西冷戦後は、アメリカの対日経済戦略にとって都合のよい報道姿勢が主体になり、マスコミが垂れ流す政治や経済報道は、米官業(=米国、官僚、大企業)トライアングルという、既得権益複合体に完全に乗っ取られてしまった。

 この傾向は橋本政権辺りから顕著になる。第二次橋本内閣が提唱した『金融ビッグバン』の掛け声は「フリー」「フェア」「グローバル」であったが、これは関岡英之氏が世に知らせた「年次改革要望書」の基本思想と合致していて、グローバル・スタンダードを押し付ける国際金融マフィアのお題目であった。思えば、この辺りから新自由主義の第一波が到来し、日本収奪の仕掛け(仕込み)が始まっていた。その仕込みが1994年から、通奏低音的にプロットされていた“年次改革要望書”であった。

 昨年6月に逝去された反骨の「ヤメ蚊」弁護士、日隅一雄氏が、2008年にマスコミを真正面から斬り込んだ『マスコミはなぜ「マスゴミ」と呼ばれるのか』(現代人文社)の序章には「年次改革要望書」とマスコミのことが書かれてあった。日隅氏は、「(2008年を基点にして)数年前からインターネットでは年次改革要望書なるものの存在と、その存在が報道されないことが話題となっている。」と前置きし、続けてこう書いている。

 「この年次改革要望書は『日米規制改革及び競争政策イニシアティブ』に基づいて、日米両国が相手に対して、年に一度、規制緩和について要望する文書だ。このうち、米国側の要望書については、そこに書かれてある要望事項が数年後に次々に実現されてきたという実態がある。つまり日本は米国政府の要望に従って規制緩和を進めてきたという一面があり、年次改革要望書は、その事実を明確に示す「証拠」だともいえる。しかし、新聞、テレビなど主流のメディアが取り上げたという話は聞かない。まるで、この年次改革要望書は、主流のメディアにとっては存在しないものであるかのようだ。」(P11)

 これは2004年に関岡英之氏が書いた「拒否できない日本」(文藝春秋)を読まれた方なら誰でも知っていることだが、マスコミは1994年から日米双方に取り交わされてきたこの要望書の存在をまったく取り上げていなかった。形式は双務的だが、規制緩和要求度合いのバランスを見れば、完全に非対称、片務的であり、日本の市場を一方的にこじ開ける内政干渉指令書以外のなにものでもなかった。米国大使館に常時公開されていたにも関わらず、マスコミはこんなものは最初からなかったかのように沈黙していた。

 マスコミは、アメリカが日本に対し、さまざまな分野を横断的に規制緩和しろと要求していた事実を国民にはいっさい啓蒙せず、米国の要望が実現した時に、あたかも自然発生的にそうなったかのようにそれを無機的に報道した。本来ならば、国内産業や貿易などに重大な影響を与える規制緩和の発端部分で、国民にその是非を問いかけるのがマスコミの役割である。つまり毎年一度送りつけてくる要望書の内容を、テレビや新聞は、民間や学界から有識者を招いて、喧々諤々の討論をして、国民に十分な検討をさせるべきであった。

 国民にとって、影響の大きなこと、重要なことほど、マスコミはけっして伝えないのである。それは福島原発事故報道に激越に表れた。日本のマスコミは国民の命に係わることさえも既得権益利益誘導の下位に位置づけるのである。このように、マスコミ報道の不作為は、原発、政治、経済において犯罪の域に達している。金融ビッグバンが行われた当時もマスコミの反日的で不誠実な報道姿勢は目立っていた。

 当然ながらマスコミは、それまでの護送船団方式や談合など、日本特有の商習慣を、その歴史的経緯や国内的な要因を完全に無視したまま、アメリカの言うがままに、一概に“悪”と決めつける報道に徹した。国益を考えるマスコミならば、フリー、フェア、グローバルに潜む、国際金融マフィアの凶悪な意図を見抜き、国民や金融機関に警告することが当然なのだが、彼らはアメリカに阿諛追従し、国益を無視した日本市場のこじ開け策の片棒を担いだ。

 マスコミは、小泉政権にいたって、年次改革要望書の大実践として、構造改革と称する『米官業への利益誘導』政策が導入されたことをひた隠しにして、「聖域なき構造改革」「官から民へ」などと、こけおどしの大言壮語を追いかけ、国民の思考を煙に巻いた。このときの郵政民営化報道が象徴するように、マスコミは完全に米官業の広報機関と成り果てていた。経済に限らず、政治、外交、原発、ありとあらゆるジャンルで、マスコミは国民を向かず、米国(国際金融資本)、官僚、大資本のために、強烈な偏向報道を繰り返している。

 今は立ち入らないが、我が国の偏向報道メディアの淵源は、GHQ占領時代にさかのぼる。江藤淳の「閉ざされた言語空間」(文藝春秋)を読んでいただきたい。敗戦直後から日本は7年間、熾烈な言論統制を受け続けてきた。この時の洗脳圧力があまりにも強すぎたために、日本人と日本のマスコミは、自ら『閉ざされた言語空間』というベールを日本に掛けてしまった。単純にアメリカが悪いということではなく、日本人の自主検閲・自己規制が宿痾(しゅくあ)と化してしまったことが、この問題の病根の深さを示している。この状態を負け犬という。

 アメリカはこの事実さえも日本人に知らせないできた。さらにたちが悪いのは、日本社会の上層部(エスタブリッシュメント)が、自らこの事実を歴史の闇に葬ろうとしていることだ。これに何の反応もせずに対米隷属だけで飯を食っている、戦後日本の法曹ムラは先祖棄損を恥じない連中である。彼らに日本人の誇りがどこにある。

 しかし、稀に日隅一雄氏のような突然変異体が法曹ムラに生まれ出て、戦後日本のモンスターと化したマスコミに噛みつくことがある。彼自身は意識していなくとも、「閉ざされた言語空間」に噛みついた立派な日本人の一人である。日隅氏には生きていて欲しかったと切に思う。『マスコミはなぜ「マスゴミ」と呼ばれるのか』は凄い本である。

 「閉ざされた言語空間」の超克なくして、対米隷属からの脱却は絶対にない。










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最終更新:2020年08月19日 16:53