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■ 中国、ソ連、朝鮮が、終戦と同時に日本人100万人以上をなぶり殺した!! 「高山清洲・世界平和 人類みんな兄弟(2018-08-11 00:49:43)」より
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 日本政府は、中国、ソ連、朝鮮が、終戦と同時に日本人100万人以上をなぶり殺した歴史のあることをも国民に正しく伝えないのは何故なのか?

 吉林省では、終戦後日本人20万人が厳寒の原野に放逐されて全員が凍死しているというのに・・・・・。

 従軍慰安婦の補償だと!!

 日本人女子は、お前等に何十万人も無理やり暴行されて惨殺されているのだぞ!!

 今現在、韓国から売春婦が日本国内に何人来ていると思っているのか?

 日本政府も、何故この事実を韓国に突き付けない!!

 真実を、教えてやればいい!!

従軍慰安婦の真実

(※mono....中ほど略、以下記事は記録のためすべてコピペとする。)

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●北朝鮮との国境の町・通化では、1946年、2千人とも3千人ともいわれる日本人が虐殺された。(通化事件) 日本人がやたらめったら機関銃で虐殺され、死体は河に捨てられて血の河になった。

●「葛根廟事件」=1945年8月14日午前11時過ぎ、興安から葛根廟に逃げていく非武装の婦女子・老人たち1千数百名に対して、ソ連軍の戦車隊が1時間半にわたって砲撃・銃撃を続け虐殺した。

●忘れてはならないのは、日本本土に引き揚げようとする民間の日本人避難民に対し、ソ連軍だけではなく満州人・中国人・朝鮮人らによっても言語に絶する暴行・略奪・殺戮が行われ、それが日本敗戦後の当該地域の責任ある統治機構によって黙認・助長されたことである。

●引き揚げ者の告白(月刊誌「潮」昭和46年8月号)…

◇「2人の子供を背負い、昼間の狙い撃ちを避けて夜通し歩き続けました。年老いた人たちは、足手まといになってはと自ら濁流に身を投げ、幼い子供を絞め殺した婦人も少なくありませんでした」(5歳と3歳の子を持つ主婦)

◇置き去りにされ、狼の餌食になったと思われる子供たちもいた。栄養失調で死ぬ子供が続出した。

◇「これまで親しくしていた満人の友も、匪賊と化して襲ってくる」

◇「日本人は皆殺しだと宣告され、幼児までが中国語で話せと強要されたこともある」

◇「いつのまにか満人の農民に囲まれていた。度重なる略奪に身ぐるみはがされた私たちに、子供を売れと要求するのである。男の子が300円、女の子が500円だという。私は地べたにひざまずいて『助けてくれ、この子は私の命、私の命』と(中国語で)叫んだ」(俳優・芦田伸介)

◇「カボチャ1個と子供を交換した母親もいる。信じられないことだが、事実だった」(俳優・宝田明)


●「ソ連軍も満人や中共軍までが日本の女を要求した。集団の生命を護るために身を犠牲にした娘もあった。子供を養う為に身を売らなければならぬ母親もあった。…ある娘はこんな穢れた身を祖国にもち帰っては申し訳ないからと、両親の勧告をさえ切って、満州の土となるべく帰らなかったという」(壬生照順「真理」第11巻第5号 昭和21年12月)

●「北朝鮮に入ってきたソ連軍は…白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的に拉致された。反抗したもの、暴行を阻止しようとしたものは容赦なく射殺された」(若槻泰雄「韓国・朝鮮と日本人」) 満州も北鮮も情況は全く同じだったと言ってよい。

●「北満の或る開拓村では敗戦の報の伝わると共に、付近の村落から数百の暴徒が蜂起し、一村一物も残らず掠奪されし上、男女悉く丸裸にされた。
…山中を行軍(負傷後、軍服を脱いで逃避してきた兵士)すると、あちこちにいたいけな日本人の子供が捨てられて居る。道には日本婦人の丸裸の死体がゴロゴロ横たわって居る。始めは一々路傍に寄せて車を曳いて進んだが、余りに数が多いので遂には止むを得ず死体の上を曳いて歩いた。樹木にくくりつけて惨殺されていた婦人も少なからずあったとのことである」(若林松太郎「世界國家」創刊号 昭和22年1月)


●在留日本人の中でも、最も悲惨なのは満州の僻地に入植していた開拓団の人々である。若い男たちは軍隊に現地召集されて既にいなかったので、老人・女・子供たちは荷物を担いでひたすら南へと歩き続けた。
ソ連軍と暴民はこれに襲いかかり、また略奪暴行、殺戮をほしいままにした。一時に200人以上が殺され、または自害した事件だけでも21開拓団もあり、殆ど全滅したものも7つを数える。

●幸いに日本居留民の多い大都市にたどりついた集団は、手荷物がないのはもちろん、文字通り一糸まとわず、やせこけた体をさらしている男、素足で麻袋に穴をあけ首と手だけを出して、新聞紙にくるんだ赤ん坊を抱きしめている婦人、それはまるで「幽鬼の行列のよう」であった。

●これら難民の収容所では、毎日のように何十人もの人が息絶え、ついには死体を片付ける体力のある者もいなくなった。そして収容所のまわりには中国人がむらがった。日本人の子供を買うためである。しかし、この親をどうして責められようか。もし子供を手放さなかったら、数日のうちにその子が飢え死にすることは明らかだったからである。

●こうして満州では20万余、北朝鮮では2万6千人が殺害・自殺・餓死・凍死・のたれ死したのである。
これは一体、誰の責任なのか。日本軍のせいにする者が多いが、日本軍は既に降伏して武装解除しているのである。この責任は占領軍たるソ連軍にある。ヘーグ条約には占領軍は「公共の秩序維持」「占領地の住民の保護」「その名誉、権利の尊重」「略奪の禁止」その他が詳細に定められている。

●米軍が占領した内地はよかったが、ソ連が担当だった満州は悲惨だった…
彼らは争うようにして日本人を襲った/殺人・強姦・略奪・暴行/日本人の家だけを狙い小銃を突きつけてはやりたい放題/「近いうちにまた連れ戻しにきますから」と言って子供を預ける親がたくさんいた。子を殺すより預けた方がよかった。

●満州では、開拓団単位で集団自決した所が数多くあった。(服毒・ピストルを互いに撃つなど)
   《半藤一利 「ソ連が満洲に侵攻した夏」》


●真っ先に畜舎の馬を放馬して、家の内になだれ込んで、我先にと彼らは着る物、衣類が一番尊かったので、それをかき集めて運び出した。棍棒で我々のけつを殴る。たまらず、着の身着のまま家を追い出された。大頂頭山の麓に再び逃げたが、棍棒を持った原住民が追いかけてきて、上着や靴などを奪っていった。68歳の団長は体中殴られて、足腰が立たないほどだった。

●団長は死に、あとには女・子どもが残された。校長先生の奥さん、副団長の奥さんたちが話し合って、自決の道が選ばれた。「ここで私たちが中国人のおもちゃにされりゃ、日本女性の恥だで、それより、潔く、私たちの命を絶とう」と言った。そのうちに赤ん坊をはじめ小さい子どもの順に、我が子の首を絞めて殺し始めた。他の開拓団では青年男子が銃で子どもたちを殺したというが、私たちは銃などなかったため、おばさんたちのモンペの紐で首を絞めるしかなかった。

●さらに残ったおばさん同士が絞め合って、おしまいに残ってきたのが独身女性など。最後に私と友人の中川が残った。周りはとうもろこし畑だけで、首を吊るにも立ち木がなかった。眉間を殴れば死ぬと聞いていたので、小石を見つけ、互いに眉間を殴り合った。そしたら、生ぬるい血がどろどろ出て、失神してしまった。沖縄のような軍の関与はなかった。

●結局、8月16日の夜中から17日の朝方にかけて、開拓団員と家族73名が集団自決に追い込まれた。気絶した私と中川は、夜が明けてから意識を取り戻した。あたりを見回すと、子どもや婦人の死体は殆どが全裸であった。現地住民が着ているものを剥がしたらしい。
   《久保田諫 「昭和の記憶を掘り起こす」》

●満州に155万人いた民間人の死亡者は、17万6千名にのぼった。

●満州の居留邦人は、ロシア人、朝鮮人の略奪・暴行の対象にされ、敦化ではロシア兵の慰み物にされた王子製紙女子社員28人が青酸カリをあおって集団自決した。

●またハルビンの東方、麻山では支那人に包囲されて450人が自決、隣の方正では牡丹江から逃れてきた1万5千人のうち、飢餓と寒さで5千人が死んでいった。

●北満州に残された開拓民27万名の運命は、苦難というより悲劇だった。獣の如きソ連兵による虐殺、略奪、強姦は怖るべきものだった。老人、女、子供ばかりの難民の列に対し、丘の上から機銃掃射を浴びせることもあった。

●絶望の中で数十人、数百人単位の集団自決が相次いだ。父親が泣きながら我が子そして妻を撃ち、最後に自らの命を断つ、というような光景が随所に見られたという。

●8月15日に日本が降伏し、三日後に大本営が全軍に武装解除の命令を出しても、ソ連軍は進撃を止めなかった。軍隊や避難民が武器を捨てた後は、ソ連兵に加え、中国人が暴民化して丸腰の開拓団を襲った。死んだ日本人から衣服を奪う、ということまでした。
      《藤原正彦 「この国のけじめ」》

●満蒙開拓団のなかで、最近まで明らかにならなかった悲劇がある。それが秋田県雄勝郷開拓団の集団自決である。「満洲開拓団雄勝郷の最後」(伊藤正編著)と題した小冊子に、その悲劇の一端が記されている。
〈八月九日、蘇聯(ソ連)の宣戦なるに及び、十七歳より五十歳までの男子根こそぎ動員となり、團内は老幼婦女子のみとなり、悲壮の決意を以てその運営に當たらねばならぬ状態となりました〉

●ソ連軍の侵攻とともに、中国人の満州反乱軍が村を襲った。開拓団には銃や手榴弾、日本刀などの武器もあったが、女子供だけでは太刀打ちできない。
〈八月十九日午後四時頃、多少小康を得たるも、手持ちの弾丸残り少なとなり、且つ疲労甚しく、このまま生きて恥を宙外に曝さんより死して護國の鬼と化さんと、老幼婦女子二百六十餘名、遥か東方を伏し拝み、互に相擁し、相勞はり、あわれ痛ましくも手榴弾により、従容悲愴の最後を遂げたのであります〉

●この集団自決のうち15歳以下の子供が、男子73人、女子66人もいる。雄勝郷開拓団の妻たちは終戦も知らされないまま、戦地に向かった夫の足手まといになるまい、と決意し、命を絶ったのだという。「死にたくない」と泣き叫ぶ子供と無理心中した。なかには逃げ出して行方不明になり、残留孤児になった子供もいる。

        《森功 SAPIO 2015/8月号》


■ 戦後、朝鮮半島で虐殺された日本人17690名 「反日勢力無力化ブログ(2016.1.28)」より
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と言っても軍人ではありません。日本敗戦直後、朝鮮半島で虐殺された一般の日本人の数です。

この中には赤ん坊や女性、子供も含まれています。

在鮮日本軍人のソ連への強制連行や引揚は終戦の翌年四月までに完了しましたが、日本の民間人は

「米ソ協定締結後に送還する」

という理由で戦後三年間も朝鮮半島に抑留されました。

その三年間の間に、朝鮮人、米軍、ソ連軍に全財産を没収された日本人は、家もなく乞食同然に野辺をさまよいながら朝鮮人の暴力や病気、飢餓、寒さなどで次々に死んでいきました。

その遺体は棺を買う金も、火葬する金もないためにコモやムシロで巻かれ土葬されました。

戦争は終わったのに、軍人ではない民間人が抑留され、殺されたのです。

かたや在日朝鮮人は祖国が独立したのに帰国せず、「日本で革命を起こし共和国にする!」と叫んで共産運動に熱を上げていました。その共産運動を奨励したのはGHQです。

これもりっぱな日本人差別、対日ヘイトですね。

(※mono....詳細長文・資料多数につき略、詳細はブログ記事で。)


◆ 朝鮮人による日本引き揚げ民間人強姦大虐殺 「2ch(2013.11.26~)」より
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正論 2005年 11月号

引揚民間人を襲った 朝 鮮 保 安 隊 の略奪・暴行・殺戮の嵐
(一部抜粋)
「満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、
 今も念頭を去らないいくつかのエピソードがある。
 北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、
 辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。
 そこで見たものは、日本人の娘達が次々にまずソ連兵に犯され、
 ついで 朝 鮮 人 の 保 安 隊 に引き渡されてさらに散々に辱められたうえ、
 虐殺されている光景であった。
         (中略)
「吉州や端川の海岸線にでた人たちに対する
 ソ連兵や朝鮮保安隊の略奪と暴行は、残酷をきわめた。
 夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、17になる娘を父親からひったくるように連行。
 娘は明け方になり無残な姿で、涙もかれはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。
 みなソ連兵を 朝 鮮 人 が案内したのだった。
 部落ごとの保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、金や着物や米などが取り上げられた。
 靴の底や、女の髪のなかから金を探し出すのはふつう。
 一糸まとわぬ姿にされ、取調べられた若い女性もあった。
 城津での惨状は言語に絶した。(中略) 朝 鮮 人 の 男女が数十人の団体でおしかけ、
 干してある洗濯物から赤児の着物まで剥ぎ取って掠奪され、
 あげくは婦人の“提供”を要求されたという」
   博多港から車で40分ほどの二日市温泉郷につくられたのが、「二日市保養所」である。
強姦によって妊娠させられた女性たちには、堕胎手術が施された。
また、性病に感染した女性たちにについても、匿って回復するまで治療が行われた

関連動画
終戦から62年 日韓それぞれの引揚げ01
http://jp.youtube.com/watch?v=bDjPZXw0yHg
終戦から62年 日韓それぞれの引揚げ02
http://jp.youtube.com/watch?v=aXPoy_5OFxY&feature=related

5 :日出づる処の名無し:2013/11/27(水) 18:11:00.43 ID:wedgcQTC
満州にて旧ソ連兵から乱暴され、妊娠させられた女性がいた
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/asia/1216903808/

6 :日出づる処の名無し:2013/11/29(金) 16:51:29.39 ID:JnYRb783
朝鮮人による日本引き揚げ民間人強姦大虐殺
http://www.nicovideo.jp/watch/sm19241525

終戦後、韓国人が日本人を強姦、虐殺
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16593073

ヨーコ物語(竹の森遠く)概要1
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20913142?mypage_nicorepo

■ 朝鮮半島で起きた日本人引き揚げ者大量虐殺事件の調査を 「万国時事周覧(2012.6.23)」より
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 日本人引き揚げ者大量虐殺事件。敗戦後の朝鮮半島で起きたこの惨事を、歴史上の事件として記す教科書は、ほとんどありません。日本国の教科書においてさえも…。

 韓国政府は、戦時中に徴用され、日本国で亡くなった朝鮮籍の人々の調査を実施し、6700体の遺骨を確認したとして、日本国政府に対して、日本政府負担での返還要求を行うそうです。一方、朝鮮半島では、今なお、引き揚げの最中に殺害された日本人の遺骨が眠っております。先日、北朝鮮も、この事件で虐殺された日本人の遺骸が埋めらた場所への墓参を認めるとして、日本国政府との交渉の準備があることを明らかにしました。平壌近郊のこの埋葬所だけで、約2000柱と見積もられているそうです(ソ連兵との共犯であったとはいえ、北朝鮮は、自らの蛮行の証拠を自ら提示した…)。一説によれば、北朝鮮地域だけで、3万50000人ほどの日本人が虐殺されたとされており、朝鮮半島全土では、その倍ほどに上るのではないでしょうか。日本国内で発見された朝鮮籍の人々の遺骨は、皆、お寺に葬られており、そのために、遺骨の数も判明したのですが、平壌の日本人墓地とされる埋葬所は、草むらの中の盛り土に過ぎません。残留日本人が埋めたとされていますので、誰からも弔われることもなく、異国の地で野に朽ち果てた方々もおられることでしょう。

 日本国政府は、朝鮮半島で起きたこの非人道的な大虐殺事件を再調査し、被害者の遺骨収集等の事業を実施すべきなのではないでしょうか。戦後、67年が経過しながら、正確な被害者数も実態も分からず、慰霊もしないのでは、虐殺された日本人の方々は浮かばれません。政府は、早急に、日本人犠牲者の一人一人を確認すると共に、この事件がかき消されないよう、歴史の事実として記録に残すべきと思うのです。












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最終更新:2018年08月11日 16:19