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■ 日本の奥の院 その1 「虚空と君のあいだに(2012.2.16)」より

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■ 日本の奥の院 その2 「虚空と君のあいだに(2012.2.17)」より

【※mono.--関連記事のあるブログ↓】
■ タマちゃんの暇つぶし
■ 虚空と君のあいだに
■ Kazumoto Iguchi's blog 2




イラクを叩いて、街と人を粉々にする、これを「勝利」と呼ぶのが西側。 (princeofwales1941)
2018-03-21 16:43:57
●イラク大虐殺を思い出しつつ、ロシア大統領続投を眺める - DEEPLY JAPAN

+ 続き
イラクを叩いて、街と人を粉々にする、これを「勝利」と呼ぶのが西側。NATOと日本を従えたアングロ・シオニスト・アメリカ帝国。嘘、嘘、嘘で理由を作って中東で虐殺を行うために出兵した。ああいうのを「戦争」と呼ぶのは間違ってる。

この景色の前後に、コソボ、リビア、シリア、ウクライナが続いた。それでもやめられない。愛好しているから。

で、ですね。プーチンを叩いたからといってその病が治るわけではないし、逆にこういう「嗜好」がやりやすくなるわけでもない。

また背景事情として、チャイナにデカクなるなといったって人が多いんだからちょっとづつ製造行為、商行為に携わったって大きくなるんだから、それは単に時間の問題に過ぎなかったという事情もある。

そこで、インド人相手に、俺の味方になれといったって、彼らが全面的に西側の僕になることはないでしょう。イランと仲の良い人々が、そしてかつてはソ連に助けてもらったと多くの人々が認識している中で、イスラムを敵視し、中東とロシアの人々の命を命とも思わないアングロを本当に尊敬することになるとはあまり思えない。金儲けも交易も別にあんたらの専売じゃないと思っているだけでしょう。

といったことから考えると、今日のロシアの大統領の勝利は、これらすべての、非・西側の人たちの将来にとって、あるいは部分的にはもっとダイレクトに命と暮らしにとって朗報だと言えるでしょう。

ベラルーシ、カザフスタン等々のロシアの兄弟や仲間の国々、あるいはシリアだけでなく、中国の習近平が真っ先にプーチン大統領の当選の祝したことを、多くの人たちが安堵して見たと思う。

Xi congratulates Putin on landslide victory

「現在、中国とロシアの総合的戦略的協力関係は、史上最高レベルにある。新しいタイプの国際関係の構築の例を作っている」と習さんは言ったそうだ。そしてその新しいタイプの中身として、相互尊重、公正とジャスティス、人類が共有する将来等々の項目が並んでいる。

Currently, the China-Russia comprehensive strategic cooperative partnership is at the best level in history, which sets an example for building a new type of international relations featuring mutual respect, fairness and justice, cooperation and all-win results, and a community with a shared future for mankind, Xi said.



そして、それをイランのメディアが上手にまとめて伝えている。


中国とロシア、イランあたりが倒れないことが、上のような景色を作りださないために重要だと多くの人たちが気づいたことの意味がこのへんで共有されてるなといった趣。

であればこそ、アメリカとイギリスが、何がなんでもロシアの大統領選挙をくさしたいのもまさに自明。
https://blog.goo.ne.jp/deeplyjapan/e/e9d34ab124c10890256b5bd6f15be851

【私のコメント】 (※注:「私」とは『国際情勢の分析と予測』のブログ主。)

アメリカ先住民を叩いて、村と人を粉々にする、これを「勝利」と呼ぶのが西側。
広島と長崎に原爆を投下して、非戦闘員と街を粉々にする、これを「勝利」と呼ぶのが西側。
ベトナムに枯れ葉剤や焼夷弾を投下して、村と人を粉々にする、これを「勝利」と呼ぶのが西側。
イラクやシリアを叩いて、街と人を粉々にする、これを「勝利」と呼ぶのが西側。
西側のイラク攻撃の理由は「原爆を開発しようとしていた」ことに対する制裁だという。そして、その嫌疑は実は虚偽だった。
では、広島長崎に原爆を投下し非戦闘員を大虐殺した国はどのような制裁を受けるのが適切なのだろうか?イラクの何万倍も酷い犯罪行為なのだから、イラクの何万倍もの苛烈な制裁が必要ではないか。本来そのような制裁が必要なのにそれが行われていないから、犯罪国家鬼畜米英は今もシリアで犯罪を続けているのでは無いのか?

deeply japanはその鬼畜米英の傀儡となった日本を激しく批判する。しかし、鬼畜米英の占領下で我々が公然と敵対すれば、彼らは我々全員を平気で虐殺するだろう。日本支配階層の政策はやむを得ない面がある。日本支配階層の本心は、その亡命政権である北朝鮮政府によって公表されている。

しかし、我々は自己嫌悪に陥るべきでは無い我々は鬼畜米英を叫び、1941年12月9日(日本時間)に虐げられた非西洋地域の住民の利益を代表して立ち上がったのだ。我々は、非西洋地域の住民達に対して、どのように行動すれば良いのかを身をもって示したのだ。多くの戦死者、国土の荒廃、苛烈な占領体制と多くの犠牲は出したが、多くの非西洋人が我々の後に続いて戦った。そして、漸くこの大東亜戦争の勝利が近づきつつあるのだ。

今後我々は、12月9日という日を祝日にするべきだ。そして、この日を祝日とすることを世界各国に広めるべきだ。日本はもはや科学技術でも、若者の基礎学力でも、富裕さでも、中国都市部に多くの点で追い抜かれてしまっている。今後もどんどん追い抜かれるだろう。しかし、大東亜戦争を開始したという偉大な歴史は決して失われることは無いだろう。我々はその偉大な歴史故に、今後も末永く偉大な民族、偉大な国家と讃えられ、中国人達の賞賛と敬意を浴び続けることだろう。

(※mono....太字/赤字/下線はmonoseoia)



さて今回は最近ヒカルランドから献本していただいた以下の本

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と最近私がハマっている武田鉄矢さんの「白川静学」の話

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をメモしておこう。

前者の中矢伸一さんという方はどうやら船井幸雄さんが見出したと言っても良いような人らしい。が、すでに「日月神示」の現代語訳者として著名の人である。

さて、前者の本は現代およびこれからの世界情勢の話である。それを岡本天明の神がかりで書いた神書「日月神示」の予言と対応させて論じたものである。

後者の武田鉄矢さんの「今朝の三枚おろし」のテーマとなった「白川静博士」とは、立命館大学の元教授であり、終生、超古代「殷」文明の

(※mono.--中略、詳細はブログ記事で)
/
実は白川静博士が研究された「殷(=商)」の文字は、亀の甲羅や動物の骨に記された「甲骨文字」と呼ばれるものである。これが漢字こと「(東洋の)文字」の土台になった。

この「文字」を後の征服者である「夏(か)王朝」。それを滅ぼした「周(しゅう)王朝」が、殷の「文字」を拝借して統治したのである。

その周の子孫の中から、後々「秦の始皇帝」になる秦氏(はたし)が誕生する。


こういった歴史を民族の風俗、文字、伝説、歌や詩、宗教などなどあらゆる面から考えて、一大「東洋文明」の起源を研究したのである。それが白川静博士だったという。

武田鉄矢さんはその広大さに感激し、白川学を終生学びたいとすら考えるようになった。そういうことを「三枚おろし」で話していたわけだ。


一方、中矢伸一氏の本では、いわゆる陰謀論の世界は知らない人のいない「天皇の金塊」「M資金」というような戦前の日本国の軍資金とその居場所がテーマであり、世界これまでずっとわが国の金を基にして動かされてきたという政治経済の話、そしてその裏事情を論じたものである。

英ロスチャイルド、米ロックフェラー、イルミナティ、フリーメーソン、などなど、陰謀論や陰謀暴露論の世界の中心的エージェント、彼らの背後に存在する本当の「フィクサー」「影の支配者」「奥の院」、これがだれか?

これがテーマとなっている。

中矢伸一氏によれば、

「奥の院」は、21世紀のこれからは日本が世界天皇を抱いて、日本文明をこれからの世界文明の基礎に据えることにした
という。つまり、そう決断したという主張である。

そして中矢伸一さんは「奥の院」とはだれか?

というテーマで、自分の知らされた範囲でいうと、なんと

超古代の支那の「殷」をルーツとした秦氏である
というのである。

ここに、白川静博士の超古代文明の殷研究や東洋研究と現代文明の「奥の院」とが繋がったわけですナ。

(※mono.--以下略、詳細はブログ記事で)


■ 日本の「奥の院」 : 諸悪の根源、悪の元凶か? 「タマちゃんの暇つぶし(2016.4.26)」より
/
表が有れば裏が有る。裏が有ってこその表で、両者が力を合わせて日本国を盛り立てて行かねばなりません。が、昨今の日本国の原発事故や頻発する災害を眺めていると、裏の「奥の院」が諸悪の元凶と・・・
「奥の院」とは?

今日は竹下さんの論説をご紹介します。↓

[竹下雅敏氏]白龍会の総長・杉山茂丸と黒龍会の総長・永野重雄 〜日本経済の操縦桿を握っていた日銀総裁経験者が属していた組織〜

2016/04/25 8:30 PM

竹下雅敏氏からの情報です。
 私が最初に五龍会の存在を知ったブログの記事を引用しています。書かれている内容は正しいと思います。記事によると、この五龍会を“仕切るのが八咫烏”とのことですが、その通りだと思います。

 これまでの記事で、五龍会の中心である黄龍会の総長が、大日本皇道立教会の会長であった中山忠英だったのではないか。赤龍会の総長は上原勇作で、緑龍会 の総長は上田吉松だったのではないかと説明しました。残り白龍会と黒龍会ですが、下の記事に総長であった人物の名前が出て来ます。

 白龍会の総長は、裏天皇・堀川辰吉郎の後見人の杉山茂丸だったはずです。杉山茂丸は島津の出であることが示されており、元記事には“政治結社玄洋社は頭 山満・平岡浩太郎を社長に仰いだが、隠れた社主が茂丸であったことは謂うまでもない”とあります。ここから、白龍会の総長が杉山茂丸であり、その実質は玄 洋社であったことが理解出来ます。

 黒龍会の総長は、自分の息子の嫁が堀川辰吉郎の娘だった永野重雄のはずです。皇室においても天皇との距離の近さが権力の証ですが、これは裏天皇組織も同 様だと考えられます。“日本財界の重鎮”であった永野重雄と、財福を司る大黒様のイメージを重ね合わせると、永野重雄が“黒”龍会の総長だったというの は、自然ではないでしょうか。

 これまでの記事での内容をまとめると、以下のようになります。
 八咫烏総長:堀川辰吉郎
 緑龍会総長:上田吉松
 赤龍会総長:上原勇作
 黄龍会総長:中山忠英
 白龍会総長:杉山茂丸 
 黒龍会総長:永野重雄

(※mono.--以下略、詳細はブログ記事で)


■ 地底人の謎について(3) 「日本と世界の情報ブログ(2014.4.1)」より
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(3)カール・ハウスホッファーと緑龍会
 カール・ハウスホッファーは、地政学者である。地政学とは地理的条件が国際関係を左右すると考える学問である。例えば、東アジアの場合、中華を自認する中国が超大国となり、多くの民族が流入しても背後が海である朝鮮では混乱が絶えず、島国である日本の場合は、中国の影響を受けながらも、独立を保つことができたと考える学問である。カール・ハウスホッファーの弟子にルドルフ・ヘスがいる。ヘスは後にナチスの副総統となり、ハウスホッファーはヘスを通じてヒトラーと出会うことになる。1923年に、ミュンヘン一揆に失敗したナチスの党員は、逮捕されて収監されるのだが、この時、ハウスホッファーはヒトラーと面会し、地政学によるドイツの国際的位置づけを話したという。ドイツに必要なのは強大な軍事力であると悟ったヒトラーは、獄中で「わが闘争」を書き上げる。この「わが闘争」が、後にナチス・ドイツのバイブルとなったのである。
 ナチスが政権を握ると、ハウスホッファーはミュンヘン大学の教授になる。彼は、御用学者であるとともに、政治的なブレーンでもあった。ドイツが強国となるためには、軍事力を拡大し、周辺諸国を支配していくほかはない。ヒトラーはオーストリア、チェコスロバキア、ポーランド、フランスを次々と併合、もしくは侵略していく。だが、ハウスホッファーがヒトラーに伝えたのは、地政学だけではなかった。日本の神秘思想を伝えたのである。ハウスホッファーは、日本滞在中に、政治的秘密結社「緑龍会」に入会している。緑龍会に入会できた白人は彼を含めて3人しかいない。日本の神秘思想に触れたことで、やがてドイツとの同盟が実現し、かつナチス・ドイツに強い影響を与えた。ハウスホッファーは、緑龍会に忠誠を誓っていた。緑竜会では、課せられた使命に失敗すれば、自決することを求められていた。1945年3月10日、彼は、ドイツ軍の敗戦が濃厚になった時、妻と共に服毒自殺をしている。(切腹による自決だったとも噂されている。腹部に刃物による躊躇い傷が残っていたからである。)
 緑龍会のほかに黒龍会、赤龍会、白龍会、黄龍会が存在する。五龍会の色は、すべて道教や風水で言う四神になぞらえている。北「玄武」の黒、東「青龍」の青=緑、南「朱雀」の赤=紅、西「白虎」の白、中央の「麒麟」の黄に由来する。五龍会は京都の御所を中心にして、それぞれ北、東、南、西、中央に本部が置かれた。五龍会は決して政治の表舞台には出てこない。徹底した秘密組織である。そして、仕切るのが八咫烏である。内田良平の黒龍会は、五龍会の黒龍会ではない。しかし、無関係ではない。大アジア主義を掲げる黒龍会を通じて、八咫烏は密かに国際的な戦略を実行していく。ドイツ大使館の付武官として来日したカール・ハウスホッファーの才能を見抜いた八咫烏は、伝令の烏天狗を派遣する。烏天狗は巧妙に京都の緑龍会に招き入れる。ハウスホッファーは別核扱いを受けた。八咫烏にとって、秘中の秘である「八咫烏秘記」の一部をハウスホッファーに見せるのである。「八咫烏秘記」とは、日本は勿論、世界の本当の歴史が記されている膨大な資料である。そのうちの数巻ではあるものの、極秘の書物に触れた外国人はハウスホッファーただ一人である。結果、彼は、いかに日本が恐ろしい国かをはっきりと認識したのである。来日以前からインドやチベットで諜報活動を行っていたハウスホッファーは、「八咫烏秘記」に記されていたことを理解することができたのである。日本が、古代イスラエルの奥義を継承する国であることを確信したのである。真実を知ったハウスホッファーは、いかに日本が恐ろしい国であるかをドイツ政府に訴える。ドイツは、日本と同盟を結ぶ必要があると要人に説いて回ったのである。これが、後の三国同盟となって実現する。五龍会の人間がドイツに渡っている。その人数は7名であり、そのリーダーは掟を破った八咫烏、仮面の男だった。裏切り者の八咫烏は、逆説的に預言を成就すべく行動を開始したのである。


■ これから述べるのは、日本近代史の実相である。 「紀州文化振興会」より
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 これから述べるのは、日本近代史の実相である。明治維新を企画・推進した極く少数の人士が、治世の最重要事として厳重に隠蔽したため、後代の政治家は素より、専門史家すら全く知ることなしに、今日まで見過してきた歴史の秘事である。因って、教科書史学の説く所とは根本的に異なるが、十数年来、日本近現代史の裏面を探求してきた私(落合)が、世に隠れた事実に導かれて、終に此処に至ったもので、特定の史観すなわち先験的な歴史思想を史実に当て嵌めたものではなく、史実の探求と偽史の訂正を積み重ねてきた結果、辿りついた論理的帰結である。
先人が史実を隠蔽し偽史さえ敢えてしたのは、素より治世上の理由である。それを此処に敢えて公開するのは流石に躊躇されるが、通説に迎合すれば真実を歪めざるを得ず、世に虚偽を伝える偽史に加担してしまう。因って、一大決意の下に公開することとした。巷間自ら理解の及ばない歴史の真相を聞かされると、「陰謀史観」なぞとして闇雲に退ける向きが多いが、その種人士には以下をお読みにならぬよう願う。
日露戦争により日本の国力を目の当たりに観た愛新覚羅氏は、満洲族の将来を賭けて日本に接近を図った。漢族の自立が眼前に迫る中、その後の満洲政策を諮るために、西太后は忠臣袁世凱を代理人として折衝に当たらせたが、明治皇室も政体桂太郎内閣も敢えて之に応対せず、愛新覚羅氏との折衝に当たったのは、孝明帝の血統を継ぐ堀川辰吉郎を奉じる京都皇統勢力であった。明治元年、維新政府は徳川氏の江戸城を東京城と改称し、新たな皇居と定めて新帝明治天皇が住することとなったが、先帝孝明天皇の血を継ぐ一部皇統は秘かに京都に残り、公卿・社寺・公武合体派など幕末以来の諸勢力の輔翼を受け、東京皇室と維新政体が直接関わることが難しい特殊な国事に当たることとなったのである。
京都に残った皇統の中核は、俗姓堀川を称する辰吉郎で、その後見人に杉山茂丸(一八六四~一九三五)が選ばれて以来、杉山の拠る玄洋社が辰吉郎の支援勢力として台頭した。その背景は、玄洋社の母胎黒田藩が幕末に薩摩島津氏から藩主を迎えて血統を変じ、島津氏の別派と化していたからである。茂丸は龍造寺の男系杉山姓を称したが、実は島津重豪の九男で黒田藩主となった黒田長溥(一八一一~一八八七)の実子で、島津重豪の実孫でもあるから、島津斉彬・久光兄弟の父斉興とは従兄弟の関係にあった。長溥が実子茂丸を龍造寺系杉山家に入れ、藤堂家から長知を迎えて黒田家を継がせた深謀遠慮は、無論教科書歴史の所説とは全く異なるが、これを理解せざれば日本近代史の真相を得られない。
維新後、在野志士を志した黒田藩士が結成した政治結社玄洋社は頭山満・平岡浩太郎を社長に仰いだが、隠れた社主が茂丸であったことは謂うまでもない。辰吉郎は杉山茂丸を傅役として福岡で育てられた後、上京して学習院に通う。皇族・華族の子弟教育を専らとして、平民の入学を初等科に限った当時の学習院に、辰吉郎が入学したことは、その貴種たる一証である。
長じた辰吉郎が、わが国の皇室外交と国際金融政策を秘かに担う次第こそ、明治史の秘中の秘で、これを知る者は今や杉山家の周辺にさえほとんどいないが、その観点から史書を渉猟すると、痕跡は随所に散見される。一例は、明治三十二年日本に亡命してきた清国人革命家孫文を支援するため、辰吉郎が孫文の秘書となり行動を共にした事である。孫文が、常に身辺に伴う辰吉郎の正体を日本皇子と明かすことで、清人間における信用を高め得たのは、素より元洋社の計らいであった。
要するに京都皇統は、清朝倒壊後の満洲の宗主権保全を図る愛新覺羅氏(西太后没後、その中心は、光緒帝の実弟で宣統帝溥儀の実父の醇親王載灃)と、満洲族支配からの漢族独立を図る革命家孫文の双方を支援したのであるが、両者の目的は同じく満漢分離の実現にあり、両立は本来可能であった。漢族の自立革命によって成立した新国家中華民国は、孫文の掲げた民族自立主義を実際に貫徹しなかった。即ち、中華民国は漢族の純粋民族国家でなく、漢族主体の多民族国家(中華思想に拠る合衆国)になったが、これは当時の国際政治の現実がもたらしたもので、あくまでも結果である。
ともかく愛新覺羅氏と京都皇統の密約は具体化し、杉山茂丸らの苦心の結果、辰吉郎は明治四十三(一九一〇)年紫禁城に入り、内廷の小院に住んだ。その間、辰吉郎が喫緊の要地たる満洲をしばしば探訪したのは当然で、情報誌『月刊みち』紙上に、安西正鷹が「辰吉郎は満洲の覇者張作霖と昵懇になり、その長子学良と義兄弟の盟を結んだ」と述べているが、否認すべくもない。辰吉郎は、国民党ナンバー2として終始蒋介石を支えた張群の長子に娘の一人を嫁がせたという(中矢伸一『日本を動かした大霊脈』)が、孫文の死去後も国民党との関係が途絶えなかった一証であろう。また、他の娘は富士製鉄(現社長新日鉄)の創業者で日本財界の重鎮となった永野重雄の子息辰雄の室に迎えられた。前首相鳩山由紀夫の父鳩山威一郎(大蔵事務次官・外相)が辰吉郎に親炙した事も、辰吉郎の出自を黙示する。
それもさることながら、特筆すべきは、辰吉郎が世界各国で、ことに王室内部にその子供を残した秘事であろう。欧州各王室は婚姻政策に拠って緊密に結びついているが、国體を慮って王室連合加入を躊躇う東京皇室に替わって、辰吉郎が裏面で実践したわけである。これぞ皇室外交の真髄と謂うべきである。
明治維新は、西南雄藩の下級藩士を中心とする志士たちが、日本社会の近代化国際化を目指し、政体の変改を希求して推進したものである。薩長土肥の何れの藩においても、維新志士たちの拠ったイデオロギーは「楠公精神」で、楠木正成が後醍醐天皇を助けて鎌倉幕府を倒した「建武中興」に政体変改行動の模範を求めて、その再現を図ったが、彼らの目的を政体変改だけに限るのは、いかにも表層的理解である。
楠木正成の思想は、南朝皇統を正統とする名分論にあったから、楠公精神を標榜した志士が目指したのは、江戸幕府打倒と王政復古による単なる政体変改でなく、南朝(大覚寺統)の復活と北朝皇統との交替にあった。皇統の交替は「国體」の変改を決して意味しない。皇位相続の問題は、国體観念に影響しないのである。そもそも日本の国體は、日本列島に人間が住み着き社会を成して以来、徐々に醸成され連綿と受け継がれてきた観念で、国家社会の在り方の根本を規定する。有史以来「政体」には幾多の変動があったが、国體に変改はなかった。つまり国體の観念は「日本」と一体不可分で、国體が厳として存する限り日本は存続し、日本が在る限り国體がそれを支えているのである。
後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒し、天皇親政の「建武新政」を建てたが、この新政体は歴史の展の法則たる封建制の進行には逆らえず、間もなく崩壊して足利氏が室町幕府を開く。開府に当たり皇室の信認を必要としたのは、国體の下で当然であるが、幕府将軍に就いた足利氏は、両統迭立の先約に背いて、持明院統(北朝)のみを皇室とした。これに対して大覚寺統は、吉野など天嶮に拠って南朝皇室を立て北朝と対立したので、茲に両統が並立する事態を招く。鎌倉時代に皇室の内紛から生じた両統の対立は、幕府の仲介により迭立(たすき掛け相続)を合意したが、貫徹できないために此処に至ったので、固より変則事態ではあるが、国體自体を損壊するものではない。
名分論に立って室町時代以来の北朝専立を改め、南朝の復活を目指す動きは、江戸幕藩体制にも潜在していた。元和元年、大坂夏の陣により徳川氏が覇権を確立するや、徳川家康は「元和元年八月應勅」と銘打った『公武法制』を定めた(『南紀徳川史』)。
其の第十二条に、「尾州大納言義直と紀州大納言頼宣両人は将軍と並んで三家と定める。これは将軍が万一傍若無人の振舞を致し国民が迷惑する時は、右の両家から代りが出て天下政道を治めるためである。このため両家は、諸賦役を免除されて官職従三位を賜り、尾州は六十二歳、紀州は六十六歳で大納言を賜り、国中の諸侯は将軍に準じて尊敬致すべきこと」と定めている。つまり、徳川御三家とは本来、幕府将軍家及び将軍職の直接継承資格を有する尾張家・紀州家の三家を指すもので、水戸家は入らない。
その理由を第14条に、「水戸宰相頼房は副将軍を賜るが、その意味は、将軍が国政を誤った時には老中・役人をして評定せしめ、水戸家の指図を以て尾州・紀州の両家から適任者を選び、将軍相続を奏聞することにある。万一両家に其の任に応ずる人が居ない時は、いずれの諸侯からでも天下を鎮めるべき器量を選んで奏聞すべきである。ただし奏聞者は水戸家に限るものとする」と規定しているが、之により恰も「神聖ローマ帝国における選帝侯」の立場に就いた水戸家では、二代藩主光圀以降、将来有り得べき将軍選定作業に備うべく、ひたすら歴史研究に勤しむこととなった。蓋し、水戸藩が彰考館の開設と「大日本史」編纂を始めた所以である。
『南紀徳川史』の編者堀内信が、「『公武法制』の原本はある秘本より抄出したものだが誤字が多い。秘密だったために転々筆写して来たものと思われる」と謂う通りで、『公武法制』は江戸幕府の極秘法規であった。政体たる幕府将軍職の変更手続きを明定するその内容は、、時の国家憲法そのものであるが、憲法史上これを論じた学者を見ないのは、極秘に扱われてきたために、明治以後今日まで、憲法学者がその存在を知らないからであろう。
ともかく、その内容を漏れ聞いた雄藩が、将来有り得べき幕府将軍の選定に備え、秘かに対応策を巡らせたのは当然である。対応策の主柱は、南朝皇胤を秘密裏に確保し保護することにあった。蓋し、幕府将軍職に就くのに天子の信認が不可欠なのは、国體により自明であって、そのために雄藩は自前の天子候補の確保を図ったのである。
その天子候補が悉く南朝皇胤であったのは、選帝侯たる水戸家が大義名分論に立ち、南朝正統説を宣揚したからである。水戸徳川家が会津藩に匿わしめた熊沢氏は後亀山系信雅王の後裔で、熊沢蕃山の外祖父もその系統であった。彦根井伊氏が擁した三浦氏は宗良親王系、防長毛利氏が保護した地家氏(大室氏)は名和氏に護良親王の後裔が入ったものと推量される。仙台伊達氏が擁した小野寺氏は長慶天皇系である。また紀州徳川家が、護良親王が調月村井口左近家に遺した子孫縁類を探索して召抱え、異例の厚遇をしたのも同じ意図であろう。
維新を推進した薩長土肥の四藩では、長州藩が元治元年に楠公祭を挙行し、薩摩藩も同年楠
公社の創建に掛かり西郷隆盛らが奔走した。肥前藩では副島種臣の実兄枝西神陽が楠公義祭同盟を始め、土佐藩では武市瑞山が土佐勤王党を興して楠公精神を追慕した。維新の大業漸く成り、明治政府は国家を挙げて湊川神社を祀り楠木正成を顕彰したが、南朝皇統復活についてはどのようになされたか。これに関しては巷間数多の著書が出ており、インターネットにおいても盛んに論じられている。教科書史学とは氷炭相容れざる内容であるが、要約すれば、護良親王五代孫を始祖とする地家作蔵の子の大室寅之祐が、長州藩の計らいで孝明帝皇太子祐宮睦仁親王と入れ替わったと謂うものである。細部は正鵠を得ないにしても、最表層よ
り数層下のレヴェルの歴史事象が顕れたわけで、当否の判断は諸賢に俟つこととする。
 明治四十三年の教師用教科書の改訂に関して浮上した南北朝正閏問題が、明治末期の朝野を
揺るがしたのは、翌四十四年の大逆事件裁判で、幸徳秋水被告が南朝正統論と明治皇室の関係
に言及したためである。尤も、問題の根底には世俗的勢力争い、すなわち両皇統の配下の末端
における角逐があったものと考えられる。とかく分業体制は末端における競合を避けられない
から、東京皇室と京都皇統の二元制の下で、実行勢力の間に軋轢が生じるのはやむを得ない。
大正三年、中山忠英が大日本皇道立教会を創立して初代会長に就任した。忠英は、天誅組を首謀したが、亡命先の長州で十九歳で暗殺された中山忠光の遺児である。同会は、南朝を正統として、その皇道に沿う教育を行う主旨を掲げたが、真の目的は南北朝の融和で、つまり東京皇室と京都皇統の末端に於ける親和を志すものであった。大隈重信初め大物華族が歴代会頭に任じたが、創立者の中山忠英が急死したために、その業績は不発に終わり、昭和五年十一月十八日を以て創価教育学会に変身する。即ち後の創価学会である。
明治三十七年の日露戦争に際しては、玄洋社員が企画した満洲義軍を称する特別任務隊が、大本営参謀福島安正少将の承認を得て、ロシア軍の後方を撹乱した。満洲義軍は、軍事探偵と特別任務(特務)に止まらず、清人有志との提携をも図り、大本営幕僚花谷仲之助少佐(陸士旧制六期・三十八年四月中佐)の指揮の下に活躍した。軍人・通訳五十五名に加えて、玄洋社員十四名が参加した満洲義軍は、明治三十七年六月には遼東半島安東県に入り、現地馬賊に呼びかけて四個隊を編成したが、その数は最盛時には五千人を数えたという。
当時の現地馬賊の頭目には日本人が多く、「江崙波」こと辺見勇彦、「天鬼」薄益三、「鉄甲」根本豪などの名が巷間の馬賊書を賑わすが、彼等は満洲軍総司令部附橋口勇馬少佐(陸士旧制六期・三十八年三月中佐、のち少将)の指揮下に入り、配下の満人たちを率いて活躍した。
満洲一円の緑林(いわゆる馬賊)に日本人が多かったのは、満洲を対ロシアの地政学的最重要地とする国家的見地から、玄洋社が国事のために送り込んでいたのだが、同じく緑林でも、王文泰について知る人は稀である。王文泰は、後に大本教の開祖となる出口ナヲの次男として明治五年に生れた本名出口清吉である。正に丹波大江山衆であるが、実は公卿嵯峨家の出自と謂われる。嵯峨家は、当主実愛が王政復古に尽力した上、嫡子公勝の室に中山忠光の遺児ナカ(南加)を迎えており、伏線が感じられるが、仔細は窺う由もない。
日清戦争後の台湾島平定に際し近衛上等兵として出征した清吉は、凱旋の帰途輸送船内で蒸発するが戦病死として扱われたので、母出口ナヲに弔慰金が支給された。五年後の義和団事変で、王文泰と称する日本人軍事探偵が顕著なる功績を挙げたことが「京都日出新聞」で報じられたが、それが出口清吉であった。その後満洲で緑林に投じた清吉は、三歳下の張作霖と出会い、頭目仲間として行動を共にする。清吉の活動が辺見勇彦らのように詳しく伝わらない理由は、辺見らと異なり日本陸軍に所属しなかったからであろう。清吉は、張作霖と歩調を合わせて満洲義軍に加わらず、日露開戦時には旗幟を鮮明にしなかったが、これにも理由があるものと思われる。












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最終更新:2018年03月21日 21:51
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