● 寺山修司〔アンサイクロペディア〕
一言で表すならば、人生そのものがアングラ文化。後年、その生き方をタモリがリスペクトした。
自分の職業を説明するのが面倒なので、職業を聞かれた場合は必ず「寺山修司です」と回答していた。
幼少時は出身地である青森県内を転々としたあげくに父親が戦死。早稲田大学に進むがネフローゼで中退。その病床で競馬を始め各種ギャンブルを教わる。
1958年、石原慎太郎、大江健三郎ら文化人と青二才の会を結成、安保反対運動に関わる。それにしてもすごい組み合わせだ。
自身の率いる劇団「天井桟敷」の旗揚げ時に「状況劇場」主宰者・唐十郎から中古の花束が贈られたので、意匠返しに状況劇場へ葬儀用花輪を配達。本人は冗談のつもりであったが、ユーモア欠落症の輩により殴りこみをかけられ喧嘩に発展、唐十郎や双方の劇団員とともにタイーホ。
力石徹の葬儀委員長を務める。「われわれは、あしたのジョーである。」
● TERAYAMA WORLD
駈けてきてふいにとまればわれをこえて / ゆく風たちの時を呼ぶこえ

+ ひとつだけ引用
26 : 20[sage] : 04/12/12 01:35:42いろいろと書こうと思った、というか書いたんだが、クリックし間違いで全部消えてしまった(笑)。
面倒だから、要点だけ書き直す。
<>9の寺山理解は、恥かしい大勘違い。
寺山は「書を(一度読んだ書を)捨てよ」と言ったのであって、「書を読むな」と言ったのではなかった。
<>21は、確かに意味が分からない。
<>25さん、「万有引力」はその存在自体が寺山の思想に反していると思うので、
20年前の旗揚げ公演以来見ていません。思い出してもヘドが出る。
<>サブカルオタなんて言葉のない頃からの寺山ファンなんだろうが、
その通りで、寺山本人とも何度も話したことがある。

寺山没後の寺山作品上演には、追悼公演「時代はサーカスの象にのって」の時点から既に様々な批判がある。
当時、朝日新聞の劇評欄で「役者たちが寺山の思い出を語りだす場面では、正直、耳をふさぎたくなった」
と批判されていたけど、自分もまったく同意見。これも、ヘドが出そうな芝居だった。
唐十郎も、万有引力などの現在の寺山作品上演には否定的らしい。

■ 浅川マキ Maki Asakawa - ふしあわせという名の猫 a cat named "unhappy" 〔Youtube〕 歌:淺川マキ / 作詞:寺山修司 / 作曲:山木幸三郎
+ 動画



★ 寺山修司没後30年をしのぶ ファンが献花 「47ニュース(2013.5.4)」より
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 短歌、演劇、映画など多方面で活躍した青森県出身の寺山修司が47歳で死去して4日で30年を迎え、同県の三沢市寺山修司記念館で寺山をしのぶイベントが行われた。寺山作詞の「戦争は知らない」が流れる中、多くのファンが文学碑の前に花を手向けた。
 寺山監督作品でデビューした俳優三上博史さんも駆け付け、短歌やエッセーなど寺山が残した作品を朗読。
 仙台市から来た大学院生の白石冬人さん(24)は「ずっと来たかったので、節目に訪れることができてうれしい」と笑顔。寺山監督作品に主演したことがある同館の佐々木英明館長は「寺山の魅力に、多くの人が触れるきっかけになってほしい」と話している。


■ セイシュン嫌い・・映画メモ「書を捨てよ町へ出よう」 「AV落人の言霊~殉教録~(2005.11.24)」より
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71年 原作監督脚本寺山修司 出演佐々木英明 平泉征 斉藤正治 新高恵子 鈴木いづみ 浅川マキ 天井桟敷 東京キッドブラザース

いきなり真っ黒な画面が長々と続いて観客は待たされる。こんな映画、誰も見たことなんかあるはずがない。
「何してんだよ?映画館の暗闇の中でそうやって腰掛けて待ってたって何も始まらないよ。スクリーンの中はいつでもカラッポなんだよ。ここに集まってる人達だってアンタ達と同じように、何かに待ちくたびれてるんだな。なんか面白いことはないかってさ」
観客を挑発する主人公。最初から自分の化けの皮を剥がしてみせる映画。
「まあ映画館の暗闇の中でカッコ良く堕落しようなんて思ってるんだったら、そんな行儀良く座ってたって駄目だよ」
堕落・・・こんな言葉が自然に語られていた七十年代。
「失敗したって誰もアンタの名前なんか知らないしさ。誰も俺の名前なんか知らないし。まだ新聞の見出しに一度も名前なんか出たこともないし。だって名もなく貧しく、汚いしさ・・・」
(※ 中略)
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僕は寺山修司の良き読者ではない。監督映画を五本見ているだけで、本で読んだのは「ポケットに名言を」という引用集だけ。短歌にいたっては、ひとつも知らない。
彼に漂う永遠の青春の匂いとやらが相に合わないのだ。
僕は青春映画は嫌いだ。セイシュンの甘えが、嫌いだ。

”息を殺してる なにかを待っている ケモノのように 檻を出て 今すぐ大声で ほんとは伝えたい あなたへの メッセージ ・・・・なぜ なぜだ 嘘つくなよ 夕日の沈む頃 どこからか NO NO なにも聞こえない なにも そんなものごまかしさ ごまかしさ 馬鹿にすんなよ くたばっちまえばいいんだ、くたばっちまえ、くたばっちまえ!”

しかし叫びなら好きだ。絶叫なら好きだ。反逆なら好きだ。
そのためのリング。そのためのボクシング。ストイックな闘い。ケモノのように。
だったら魅かれる。くたばっちまえ・・・今でも一緒に、吼えられる。
(※ 中略)
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この映画は、映画というものを否定して出来ている。映画文法を無視し、観客を無視し、出演者も無視し、スタッフ達の紹介も無視して、映画は終わる。
映画なんて、映画なんて、映画なんて、としつこくアジりまくって、すべての人々を挑発する。
映画なんか見てないで、映画なんか作ってないで、外へ出よう、町へ出よう。
しかし、出て行った先に見えるものは、果たしてどうだろうか?
この映画の中の世界と、どれだけ違うだろうか。この映画みたいに、カメラはブれ、ピントは乱れ、色彩は狂い、音声はがなり、人間共は、どいつもこいつも、名もなく貧しく、汚らしく・・・・最後の最後まで怒りを失い、ラストには揃いも揃って黙り込み・・・。
こんな世界、こんな映画みたいな世界、それが現実か、それが外の世界か、我々の生きる町という、スクリーンなのか。
(※ 後略)


■ 寺山修司全歌集:沖積舎 1982 ISBN:480601012X 「松岡正剛の千夜千冊(2001.11.5)」より
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 寺山さん、初めて便りを書くのに、もうあの津軽訛りを聞くことはできません。いや津軽訛りではなく、青森訛りでした。
 寺山さんは警察官のお父さんの転勤のたびに弘前、五所川原、青森、八戸、三沢というふうに転々としていましたからね。その青森の恐ろしさについて、寺山さんは「下北半島は、斧のかたちをしている。斧は、津軽一帯に向けてふりあげられている」と、『わが故郷』の冒頭に書いていた。
 だから青森転々訛りとでもいうべきなのでしょうが、あの寺山さんの喋り方に、当時のぼくたちは参っていたのです。寺山さんも、その訛りを放棄しようとはしなかった。
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ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし
マッチ擦るつかのまの海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや
わが拇印むらさき色に濁る日を断崖にゆく涜るるために
燭の火に葉書かく手をみられつつさみしからずや「父」の近代
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 あの訛りには、寺山さんの「祖国」や「拇印」や「父の近代」が呻いているんですね。
 そういえばあのころ、「やっぱり日本の芸術は土方巽の秋田弁と寺山修司の津軽弁で変わってしまったよね」と、そんなふうに、ぼくの周辺の連中たちはひそひそ話をしていたものでした。
(※ 後略)












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最終更新:2013年10月07日 21:42