アメリカに対しては迎え撃つ作戦をとり、インド洋の兵站を遮断すれば連合国側の作戦はどうなったかわからない。英国軍もインドに孤立して動けなくなったであろうし、北アフリカ戦線やソ連への補給も止まってしまっただろう。さらに関東軍をそのままにしておけばソ連は多くの軍がシベリアに釘付けになったはずだ。
ガダルカナル戦およびソロモン海戦で極めて特徴的なことは、日本軍に戦略というものが全く存在しなかったことだ。山本長官はソロモン海戦においても南雲忠一中将、草鹿龍之助参謀長、原忠一少将、さらにのちのレイテ沖海戦で「謎の反転」を演じた栗田健男中将などの無能な司令官を投入し、日本艦隊の消耗を加速させた。その分、アメリカ側の被害は最小限で済んだのである。
山本長官はソロモン海戦でも「大和」「武蔵」などの大型戦艦を攻撃隊に加えることなく、戦力の小出し投入を行なった。このため戦艦「大和」はついに「大和ホテル」と呼ばれるありさまであった。
ガダルカナルの空軍基地からは、山本長官の指揮下にあるすべての空母や戦艦など58隻からなる大艦隊と艦載機を駆使して全力投入していれば、奪還は可能であったのみならず、ソロモン海域全体で大きな勝利を手にすることができたはずであった。
疑問だらけの死体検案書
昭和18年4月18日、ブーゲンビル島ブインの航空基地視察のためと称して山本長官は午前6時ラバウル東飛行場を一式陸攻で離陸した。宇垣参謀長らを乗せた二番機もほぼ同時に離陸したが、これを護衛するのは第204航空隊の零戦わずか6機だけであった。
この日、山本長官はなぜか正式な連合艦隊司令長官の軍服ではなく、生まれて初めて着る草色の略装である第三種軍装を身にまとい、護衛機の数を増やすことにも強く反対したという。
山本長官の前線基地視察スケジュールの情報は事前に暗号電報で前線基地に予報された。連合艦隊司令長官の詳細な行動予定が、視察の5日も前に前線基地に伝えられるのは異例のことだった。
ショートランド第11航空戦隊の城島少将は、不用心な暗号電報に憤慨したと言われるが、ご丁寧にもこの暗号電報を受け取った現地指揮官ひとりは、わざわざ儀礼的に低レペル暗号の無電で関係先に知らせたともいう。
米軍はこの暗号を解読して山本長官搭載機撃墜計画を練ったとされるが、むしろ山本長官自身ないしはその側近が、事前に何らかの方法で米軍に詳細な行動予定を知らせていたというのが真相だろう。山本長官はすべての役目を終了し、ルーズヴェルト大統領との約束に基づいて姿を消すことにしたのである。
山本長官を乗せた一式陸攻は高度2500メートルでゆっくりと飛行、6機の護衛戦闘機はその500メートル上空を飛行していたが、ブーゲンビル島南端のブイン基地上空にさしかかったところ、ガダルカナル島ヘンダーソン基地を飛び立ったミッチェル少佐の指揮するP-38米攻撃機28機が午前7時33分、正確に山本長官機と出合った。ミッチェル隊はP-38の航続距離からしてわずか10分間という許容時間で攻撃を開始、山本長官機を撃墜したのであった。
右エンジンに弾丸を受けた長官機は火災を発し、黒煙を吐きながらジャングルの中に落下していった。2番機はモイラ岬沖の海上に不時着、宇垣参課長ら3名は助かったが、長官機は翌19日午後2時頃陸軍の捜索隊によって発見された。
山本長官の遺体は機外に投げ出された座席に腰かけ、軍刀を握りしめたままであったとされているが、その死には深い謎がつきまとう。
大本営発表の「死体検案書」(死亡診断書)と「死体検案記録」(死亡明細書)によれば、死亡日時は「昭和18年4月18日午前7時40分」である。傷病名は「顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創」であり、末尾には「右証明ス 昭和18年4月20日 海軍軍医 少佐 田淵義三郎」として署名捺印がある。
ところが墜落現場を最初に発見した浜砂陸軍少尉は次のように証言している。
「長官はあたかもついさっきまで生きていたかのような風貌で、機外に抛出された座席上に端然として死亡していた……その顔面には創はなかったし、出血の痕もなかった。その発見は墜落後実に30時間前後も経った頃である」
同様の証言は陸軍軍医・蜷川親博中尉も行なっている。蜷川中尉は長官機遭難現場近くの歩兵第23連隊の次級軍医として勤務していた。このため、中尉は救難捜索行動に参加し、長官死体の検視も行なっている。
にもかかわらず、山本長官の秘蔵っ子と言われた渡辺中佐参謀は、事故のあと19日、ラバウルより現地に急行、20日夕刻掃海艇上に運び込まれた長官の遺骸を検死して大本営と全く同一内容の証言をしている。渡辺参謀の証言内容とは「20日夕の時点で顔面貫通機銃創と背部盲貫機銃創は共にあった。4月18日、機上での戦死は間違いない」というものである。
前出の田淵軍医は「私が検死した時点では顔面に創はあった」「姐(うじ)の侵蝕とは考えられぬ」とし、さらに重要な証言「死後の作為が加えられたかどうか判らない」と言いながらもその可能性を強く示唆している。
戦死が狂言であったこれだけの証拠
山本長官の「死」は明らかに狂言であろう。その穏された真相は次の如くであると推測される。
1.山本長官は太平洋戦争前半における帝国海軍崩壊のためのすべての役割を完了した。
2.そのため急遽姿を隠す必要が生じ、側近の宇垣纏中将(連合艦隊参謀長)や渡辺中佐
(参煤)と共謀し、あらかじめ暗号をアメリカ側に漏洩した上で長官機撃墜の一大ペテン
劇を演出した。
3.当日、山本長官はわざわざ草色の第三種軍装を身にまとい、ジャングルを逃亡の際目
立たぬよう略装にした。
4.米軍機攻撃の際、いち早くパラシュートで脱出、地上よりかねて打合せの場所からガダ
ルカナル島米軍基地へと逃亡した。
5.捜索班が事故機を発見したとき、長官の身替りとされた男(恐らくは風貌の似た人物)を
座席に縛りつけ毒殺した。
6.従って発見時には顔面の創も背部盲貫機銃創も存在しなかった。
7.その後、山本長官を「機上死」であると捏造するため、遺体に拳銃か鋭利な刀物で人工
的な死後損傷を加えた。
事実、田淵軍医が検死をしている最中に長官のワイシャツを脱がせようとしたが、渡辺参謀から突然大声一喝され、「脱がすな、これ以上触れてはならぬ!」と怒鳴られ制止されているのである。人工的な死後損傷であったとする証言も数多く存在するが、これらのすべては黙殺され、渡辺中佐の命令下、虚偽の「死体検案書」と「死体検案記録」は作成され、「機上壮烈なる戦死」という大本営発表となるのである。
戦後、「山本五十六を見た」という多くの証言
ここで「運よく」助かった宇垣纏中将とは何者かを知らなければならない。
三国同盟締結の折は賛成派に回ったため山本長官にうとんじられているとも言われたが、どういうわけか昭和16年8月、連合艦隊参謀長に任命され、山本五十六大将を直接補佐することになる。以後、連合艦隊の旗艦「大和」上の司令部内で山本長官の影武者に徹して常にその意向を尊重し、補佐してきた。
あれほど傲岸不遜な宇垣がなぜ山本長官に寄り添い続けたのか。そのわけは宇垣がユダヤ・フリーメーソンに入信したことにあろう。
山本・宇垣のコンビは真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル、ソロモンと呼吸を合わせ、日本海軍の崩壊に尽力した。
ブーゲンビル上空で山本長官逃亡の手はずを整えたのも宇垣である。宇垣もしっかりと生きのびており、昭和17年11月には中将に進級、昭和20年8月15日の終戦詔勅渙発を知るや、沖縄の沖合に蝟集する米艦隊めがけて突入すると称して部下の操縦する飛行機に搭乗、そのまま行方を絶った。日本の敗戦を見とどけて姿を消したと言うべきか。
戦後、山本長官の姿をどこやらで見かけたと証言する人もおり、太平洋戦争を敗北に導いた功労者の多くは「世界支配層」ユダヤ・フリーメーソン陣営によって手厚く保護されるのである。
【検証】
多くの検証説が存在し、謎ばかりで、反論も肯定もあり結論が出されていない。死亡説有り生存説有り。
どれを取りあげても対比のために両説を取り上げねば成らず、ここでは省略させていただく。ぜひ、「山本五十六」で検索願いたい。
ハーバード大学留学の経歴。
1919年(大正8年)から1921年5月5日までアメリカに駐在しハーバード大学に留学している。
大正末から昭和の初めにかけては再び渡米し、日本大使館付武官として2回目の米国在勤をしている。米国在留中に五十六は中佐に昇進、アメリカの産業やヤンキー精神に強く瞠目するが、五十六がフリーメーソンに入会したのもこの頃と思われる。五十六は在任中にアメリカで石油および航空軍備について強い影響を受けた。
大正7年に五十六は帰国、10年から12年半ばまで海軍大学の教官に任じた。その後9カ月の欧州視察旅行を終え、大正13年3月帰国。そして1年3カ月後、五十六は三たび渡米。アメリカの日本大使館付武官となった。戦前の海軍でこれほどアメリカと縁の深い軍人は他にいないのではないか。
山本五十六が骨の髄まで親米派となる過程は、このようにして造られたのである。
当時の日米の国力の差が10倍以上あることなど、誰よりもアメリカの国内事情に精通していた人であった。
また軍内で、戦争を可能に見せるため会議に提出するアメリカのデータを過少に書き換えることまでしていたのである。その後、軍上層部全員が反対する中、真珠湾攻撃を立案、決行する。しかも決定打を打たずに退却という不審な行動。その動きは悉くすべてアメリカの利益になるようなものばかりであった。
生来の博打好きで在米大使館付武官在任中はラスベガスを頻繁に訪れていた事実
(弱みを握ってくださいというような性癖だ。)
米空軍の生みの親とも言えるミッチェル准将と付き合いがあり、大艦巨砲時代の 終焉と航空戦力主流時代の到来を120%確信していたにも拘わらず、開戦の5年も 前に海軍次官に就任しているのに、大和型戦艦の建造計画を中止しなかった。信濃が大和型戦艦から空母に計画変更されたのは1942年になってからだ。
大艦巨砲時代の終焉と航空戦力主流時代の到来という巨大な流れを考えれば、真珠湾攻撃は大失敗であった。
山本五十六は、誰がみても無謀なこの作戦に最後まで固執し反対を押し切って実行した。しかも、真珠湾に停泊している老逐艦だけを攻撃し決定的な打撃を与える前にさっさと引きあげている(精鋭艦は沖に逃がしている)。
真珠湾に集結していた米太平洋艦隊は、主なもので戦艦が8隻、重巡1隻、軽巡3隻、そして駆逐艦5隻で、総計17隻であった。
不思議なことに空母レキシソトンはミッドウェーに飛行機を輸送中であり、エンタープライズはやはり飛行機を輸送しての帰路で不在、サラトガはアメリカ本土西海岸にいたために無事であった。
被害を受けた戦艦はいずれも1910~1920年代に就役した旧式艦であり、しかも攻撃し易いようにわざわざ真珠湾に沿って一列に並べて停泊してあった。戦艦アリゾナは撃沈、他の艦は転覆、海底沈座、大破、中破、小破などの被害を受けたが、真珠湾は海底が浅く、海底に沈座した戦艦等はいずれも引き上げが容易で、短期間のうちに修理、再就役し、太平洋戦争中期からは攻撃力を発揮したのである。
こうしてみると真珠湾攻撃というのは一種の茶番劇であったことがわかる。
米内光正は海軍大将の立場で日中戦争を拡大する工作を行い、米軍の原爆投下を天祐(天の恵み)であると言ったのだ。到底許せない。
戦後GHQの意図にそって、マスメディアが誕生させたのが、「日本悪玉論」イコール「陸軍悪玉論」であり、その裏返しとして生まれたのが「海軍善玉論」という奇妙な現象である。ミッドウェー以降の3年あまり、,南東方面の戦闘という基地航空の愚かな自滅作戦、マリアナ沖の七面鳥撃ちと言われたマリアナ沖海戦と、栗田艦隊の敵前逃亡のレイテ沖海戦をのぞけば、海軍に戦闘らしきものはまったくない。
しかし、戦後、その海軍の善謀敢闘物語が、元海軍軍人により続出した。戦果欺瞞報告の海軍軍人のウソつき体質は、戦後にまで尾をひいてしまったのである。そのウソつき体質に、マスメディアがつくりあげた「海軍善玉論」が加担したのだから、結果は明らかだった。あの連戦連敗を、かくもよく戦ったかのような大ウソを、あたかも真実であるような社会風土がつくられてしまったのである。
マスメディアは、談合さえすればなんでもできるのである。開戦が事実上決定した1941年10月16日、内閣を投げ出した近衛に代わって組閣し、作戦指導になんの権限もなかった東条英機に、開戦と敗戦のすべての罪を着せることも、民族の歴史も文化も崩壊させることも可能である。
帝国海軍の大戦果。マスメディアの反日報道。これらは、ウソの代名詞である。
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