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■ ブログ『国際情勢の分析と予測』のコメント欄より
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Unknown (Unknown)
2018-03-22 23:49:41
敗戦を境に身一つで海外から帰還した引揚者たちの戦後の暮らしとは。全国には引揚者に起源をもつ商業施設、公営住宅、福祉団体が数多く存在し、餃子、ラーメン、明太子などすっかり馴染み深いメニューも引揚者が伝えた食文化です。ベスト電器、ゼンリンなど有名企業の創業をはじめ、引揚げ当事者たちの語るエピソードは枚挙に暇がありません。満州朝鮮からの引揚げ家族、樺太引揚者とサハリン残留朝鮮人、パラオ引揚者など。

近代日本は、台湾、朝鮮、満洲、関東州、サハリン(南樺太)、千島列島、南洋諸島といった地域に侵出し、現地の社会を支配した。これらの地域には日本の統治・行政機関が置かれ、多数の日本人が日本列島から移住して移住者の社会を形成していた。しかしながら、一九四五年八月一五日の日本敗戦で、日本はこれらの地域での支配権を失い、現地に居住していた日本人は、日本列島に帰還することとなった。こうして帰還してきた人たちのことを「引揚者」という。引揚者の数は、厚生省(当時)によると、約660万で、これは約330万の陸海軍軍人・軍属と、ほぼ同数の民間人を合わせた数字である。

敗戦直後、「内地」に引き揚げてきた引揚者たちは、全国各地に散らばっていった。その行き先は、もともと生まれ育った村や町、何らかの縁故があった土地である場合もあれば、何の縁故もない都市に流入してゆくケースもあった。あるいは、「戦後開拓」といって新たに開拓地に入植して農業を始めた人びともいる。

引揚者たちは、それぞれの転入地において戦後の生活を始めたが、引揚者の存在は、それまでその土地には存在しなかった新たな社会空間を生みだした。それはたとえば、引揚者マーケットなどと呼ばれる商業空間であり、引揚者住宅であり、引揚者援護施設であった。また、引揚者たちは、新たな文化を持ち込んだり、生みだしたりもした。

この場合、注目すべきは、こうした引揚者によって生みだされた社会空間や文化は、今日のわれわれの日常生活の一部を構成するに至っているという点である。引揚者に関わる社会空間の中には、引揚者マーケットは駅前のショッピングセンターへ、引揚者住宅は市営住宅や県営住宅へ、引揚者援護施設は老人福祉施設へというように、姿は変えながらも、系譜的なつながりはそこに見出されるという形で今日まで存在し続けているものが少なからずある。食文化も、餃子、ラーメン、明太子など、今日のわれわれの生活の中に定着している食べ物には、引揚者によってもたらされたものが含まれている。

そして本土決戦に備えて地下に身を隠した日本人達は、敗戦後にやって来た、これら引揚者を利用して、彼らに土地や仕事を与え地上を動かす際の手下とした。それが開拓農地や朝鮮部落民、闇市の元締めなどである。地下に潜む日本軍は多量の隠匿物資を持っていたから、敗戦後の困窮に困る事は無かったのだ。


★■ 「これは俺の墓穴ではない」 引き揚げ者が見た“地獄” 終戦直後の朝鮮半島で何があった? 「産経ニュース(2014.8.14)」より / 全文コピペページ
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 69年前の8月、日本の敗戦とともに朝鮮半島は北緯38度線で南北に分けられ、その北側には多くの日本人が取り残された。ソ連軍の進駐の中、38度線を突破し、帰国を果たした人々がいる一方で、望郷の思いかなわず、約2万4000人もの日本人が彼の地で命を失った。この手記は、当時14歳の少年が北朝鮮で経験したことを記録したものである。

最北からの難民行

 終戦の時、僕たちの一家は咸鏡北道会寧邑(現在の北朝鮮東北部、中国との国境に接する地域)に住んでいた。8月13日午後7時、避難命令が出た。そして僕たちの新しい戦争が始まったのだ。14歳の僕はその時、それから始まる“冒険”に興奮した。だがそれは、実にみじめな“戦争”だったのである。

 咸鏡北道庁では緊急事態に備えて避難計画を立て、会寧邑の住民は平安南道成川邑(朝鮮半島北西部)に避難することになっていたという。両親と弟、4人の妹、そして僕は豆満江(現・中朝国境を流れる川)沿いに、まず茂山をめざして歩き出した。敗戦を知ったのは、茂山の手前の小さな集落だった。川に洗濯に行った母が、朝鮮人警官にそれを知らされたと告げたとき、朝鮮人国民学校の校長だった父は、「ばかげたデマを信じるな」と激しく叱責した。

(※ 以下略、詳細はサイト記事で)

■ 闇に葬られる終戦後の日本女性の悲劇・・・二日市保養所など 「韓流研究室(2013.5.27)」より
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1946年、満州からの日本人民間人の引き揚げが開始されてから、博多港に上陸した日本人引き揚げ者は約1年半で139万人に上った。

ソ連兵や北朝鮮の保安隊兵士に強姦されて、妊娠させられた多くの女性が存在した。
上陸寸前、絶望して博多湾に身投げした女性も多かったそうだ。

妊娠した女性の中絶手術が厚生省博多引揚援護局二日市保養所で行われた。
(※ 以下詳細はブログ本文で。)
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「北朝鮮に侵入せるソ連兵は、白昼、街道にて、
 通行中の婦女を犯す。
 汽車の通らぬため歩いてくる途中、1日数度強姦せらる。

 2人の娘を伴う老婦人は、かくして、上の娘は妊娠、
 下の娘は性病に罹る。

 元山か清津にては(ソ連軍に)慰安婦の提供を強いられ、
 (引き受け者の)人数不足せるを(補うものを)
 くじ引きにて決めたり、日本婦人の全部は強姦せらる。

 (慰安婦を)強要せられ自殺せるものも少なからず。」
...................................
「要するに、満州・北朝鮮におけるソ連軍の日本人虐待は、
 口ではいい表せないほどひどいものだった。
 暴行と強奪は日常的だった。そして残虐な行為を犯した。

 ・・・とくに野獣のように乱暴なやり方で女を奪い、
 抵抗するものは片っぱしから殺した。
 ソ連軍の兵士たちが日本の女にしたことは、
 いまでもぞっとするほど残虐なものだった」
...................................
終戦直後の混乱期にはソ連兵や現地人(韓国人、朝鮮人)ら
による略奪、そして強姦が平然と繰り広げられていた。
中田さんの父親は年頃の中田治子さんのことを
案じて止まなかった。
当時18,9だったから坊主にして、
兄の服を着たり、男の子の格好をするように言われた。

そんなある日の夜、自宅に男たちが押し掛けます。
中田さんは隣の家に身を寄せ、静かに時を過ぎるのを
待ちました。
何か棒を持っていて入ったのか、
ガサガサ探している音が聞こえた。

「隠れていてよかった・・・
 あの時、(朝鮮人の男達)に見つかって
 (強姦されて)いたら・・・
 舌を噛み切って死のうと覚悟していました 。」
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