■ 柔道女子、世界選手権惨敗の「当然」 「心に青雲(2013.9.2)」より
(※ 前後略、詳細はブログ本文で)
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 例の体罰指導問題の影響との見立てはそのとおりであるが、マスゴミは正しく事態をつかんでおらず、相手選手の情報不足だの、研究不足だの、くだらない言い訳ばかり。

 今度の世界選手権は、「体罰指導」に叛旗を翻した当事者の女子選手が出場することになっていたのだから、こうなるのは分かりきった話であり、その訳は準備不足だからではない。
 端的には、女子選手が一致団結して、「厳しい指導は嫌」とだだをこねたことにあり、もっと甘やかしてくれと要求したからこそ、厳しさの大きく欠けた世界選手権となったのだ。

 世界レベルの各国の選手は、それはもう大変厳しい環境でしごかれてくる。むろん表立ってはその中味は報道に言うわけがない。適当に、体罰、暴力、そんなものないですよ、楽しく、でも合理的システム的に練習しているだけ、などと言うに決まっている。
 しかし、いくら柔道がスポーツ化したとはいえ、一応格闘技なんだから、これは殺し合いに近い闘いである。

 オリンピックレベルともなれば、どんな競技も厳しい練習になるだろうが、格闘技はとりわけ激しい練習でなければ勝てるわけがない。
 各国の柔道選手は、軍隊とか警察とかで、ばんばん痛めつけられ、それに歯をくいしばって耐え抜いてきた「猛者」である。体罰があるかどうかなんてどうでもいい、それにほとんど同じしごきが日常であるはずである。
 でなければ、メダルは取れない。

 日本女子がこれまで曲がりなりにもメダルを取れていたのは、伝統的にシゴキの練習があり、指導者からの理不尽なまでの体罰があったからこそである。いじめのためのいじめはむろん良いわけがないが、体罰をなくしたら、闘魂がぬるくなって、国際レベルの場で勝てなくなるのは当たり前。

 決して対戦相手の情報が、とか、相手の戦い方の癖の研究が、とかの問題ではない。それが要らないとは言わないが、主たる問題ではない。どうせ、彼らは帰国して、準備不足のせいにして同情をもらおうとするだろう。甘ったれやがって

■ 女子柔道の暴力事件 「たんぽぽのなみだ~運営日誌(2013.2.16)」より
(※ 前後略。)
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ようするに、殴る、蹴る、竹刀で叩くといった暴行を、「指導」と称して、選手たちに対して繰り返していたわけです。
体育会の世界で、いかにもありそうなことと言えるでしょうか。
ほかにも、「死ね」「ブタ」など、ことばの暴力もありました。
手が出るくらいですから、ことばもひどいのは容易に予想できることです。

さらには、打ち上げの酒席には、なかば強制的に出席をさせられ選手たちは指導者に、お酌をして回ることをやらされたのでした。
上下関係が厳しく、暴力が横行するところではいかにもありがちなパワーハラスメントだと思います。

選手15人が匿名で、監督らの暴力やパワーハラスメントを日本オリンピック委員会に告発することで、事態が明るみに出ることになったのでした。

以下の記事に、女子柔道選手の訴えの全文が載せられています。
選手たちが指導陣から暴力を受けて苦しみ、傷ついた様子や、これだけの告発をするのに、どれだけの勇気をふりしぼったかが、伝わってくることと思います。

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■ 女子柔道の暴力事件(2) 「たんぽぽのなみだ~運営日誌(2013.2.16)」より
(※ 後略。文中リンク略。)
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女子柔道の暴力事件が注目されてくると、自民党の橋本聖子議員が告発をした15人の選手の名前を公表しろ、と言ってきました。
いったいなんのために公表をするのかと思います。
自民党内から、名前が公表されないと調査がしにくいという意見が出たのですが、なにがどう調査がしにくいのかと思います。

「橋本聖子氏「告発選手名の公表を」」
(はてなブックマーク)
「女子柔道暴力問題:告発選手、調査進まず 氏名公表巡り混乱」


こうした場合、告発者を守るために匿名にするのが当然です。
名前を公表したら、選手たちはどんな二次加害をされるかわからないし、選手生命に影響が出る恐れもあります。
匿名でさえ、告発には相当の覚悟を決めているでしょう。

名前を公表するというのは、それだけで選手たちに対する脅しです。
名前を公表したら、選手たちへのダメージはもちろん、今後告発する人たちが、出て来ないことにもなるでしょう。


橋本聖子は、「名前を公表しろとは言っていない」なんて、あとからごまかしたように否定をしました。
それでも橋本発言の影響で、「名前を公表しろ」と積極的に主張するメディアも現れましたし、告発した選手たちの名前を公表しようという動きも、実際に出て来たのでした。

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■ 女子柔道の暴力事件(3) 「たんぽぽのなみだ~運営日誌(2013.2.18)」より
(※ 後略。文中リンクあり。詳細はブログ記事で。)
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女子柔道の暴力事件についてとてもよい記事があります。
日本オリンピック委員会の理事である、山口香氏のインタビューです。
山口氏は1988年のソウルオリンピックで、女子柔道の銅メダルを獲得し、現在は筑波大学大学院の准教授をなさっています。

「(インタビュー)15人の告発 筑波大大学院准教授、元世界王者・山口香さん」
(はてなブックマーク)

「告発の真相:女子柔道暴力問題 山口香・JOC理事に聞く/上」
(はてなブックマーク)
「告発の真相:女子柔道暴力問題 山口香・JOC理事に聞く/下」
(はてなブックマーク)

この記事は、15人の選手たちが告発にいたるまでの経緯について、くわしいことが書かれています。
また、毎日の記事の「下」では、山口氏は問題を的確に分析して、具体的な対策をひとつずつしめしていて、すばらしいと思います。


■ サムライの国 「夕刻の備忘録(2013.2.10)」より
(※ 太字はmonosepia)
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極論を書かせて頂く。理想論を書かせて頂く。他人事だからこそ言える「お気楽」なことを言わせて頂く。日本代表選手クラスまで巻き込んだとされている「暴力事件」のことである。マスコミ報道のレベルでは、これを「学校教育における問題」からの一連の流れとして報じているようにみえる。例によって、無茶苦茶である。

こうした問題が生じるたびに、繰り返されるのは「如何なる理由があっても、あってはならないこと」という台詞である。これは、「当事者の悲痛な叫び」として世に現れ、マスコミ報道により広く流布される。そして、関係者から一般の我々へと伝搬し、次第に「思考停止」の台詞へと変貌していく。

「あってはならないことがあった、それが問題だ」という言葉で、あらゆることがまとめられ、「ところで何があったのか」とは問われないまま、むしろ事件の真相は闇の彼方へと消えていく。まるで「あってはならないことがあった」から「なかったことにしよう」と誰かが仕組んでいるかのようだ。
(※ 中略。)
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我々は日本代表選手に何を期待するか。単なる勝利か。否である。ましてや何々道などと名前のついた競技においては、一般のスポーツとは異なる「武道」の姿をそこに見出したくて、応援をしているのではないか。絶えて久しい武人の姿を、侍の姿を期待して応援しているのではないか

それが、その侍が「選手は弱い立場ですから……」と同情されている。今回の件に限らず、プロスポーツ界においても、生殺与奪の権利を持つ者に対しては、声一つ挙げない者が多い世の中になってしまった。彼等は自ら侍であることを捨てた。元よりそんな「過大な期待」は迷惑であったのだろう。

極論、理想論、暴論かもしれないが、彼等に「辞める権利」は残っているはずである。「あと少しで日本代表だ、五輪代表だ、ここまで来て何を馬鹿な」「一時の気持ちの高ぶりで判断を誤るな」「監督は何れ替わる、それまで待て」「これに耐えるのも試練の一つだ」。山のように「軽挙妄動」を否定する台詞は出て来る。実際に、こうした台詞を聞かされたこともある。

それが筋を通す道だと主張する者も居よう。それも否定はしない。しかし、敢えて言いたい。少なくとも武道家の端くれならば、意に沿わぬことがあれば静かに辞めるべきではないのか。そういうやり方をする人間が、そういう筋の通し方をする人間が居てもいいのではないか。

「告発が悪い」と言っているのではない。今回の問題に関して、選手側を批判するつもりは毛頭ない。監督コーチ側について擁護するつもりもない。ただ、理想論を掲げれば、本来侍たるべき日本代表選手は、他の競技ならいざしらず、武道家であるならば、理不尽と戦うには先ず己を捨てて辞めることだ。辞めることによって世を回す方法もあるということだ。有力選手が、一人また一人と、ただ黙って代表の座を降りれば、それだけで明るみに出る事案もあろう。

常日頃「命を掛ける」と言っている者が、その職も掛けず、地位も掛けず、貰えるものは貰えるだけ貰おう、というのでは、日頃の決意とやらも疑われよう。もちろん、競技によって、五輪代表の地位には上下がある。サッカー界では、それほど高くは見られていない。また、五輪だけが頼りだという競技もある。しかししかし、いやしくも武道家を自称するならば……である。

モスクワ五輪ボイコットの時、多くいたメダル候補の中で、その最有力と黙されていた瀬古選手が唯一、堂々と不参加を受け入れていた。少なくともマスコミに登場した選手の中では、ピカイチの対応であった

普段は、「試合のためにやっているのではない」「五輪のためにやっているのではない」「単なるスポーツではない」「精神修養の一環である、武道である、人の道である」と説いていた人達が、涙ながらに国の対応を批判していた。「四年間、この日のために苦しい練習に耐えてきた」と訴えていた。試合のためではない、と毅然と言っていた同じ人がである。

どちらが侍か。どちらが国の代表として我々が誇るべき存在か。スポーツに政治を持ち込むなという。ならば、政治が持ち込まれたスポーツからは辞退するというのも一つの方法だろう。しかし、これを選ぶ者は少ない。今はほとんど見られない。それが勝利至上主義でなくて何だろうか。「選手の立場は弱い」と言われて、平気でいるような武道家では、国を代表する資格などないではないか。

サムライジャパンだ、サムライブルーだ、と意味を持つ漢字に耐えきれない連中が、無意味なカタカナに逃げながら、なおその音の響きに酔い痴れる。精神的に弱いことが売物の代表選手とは、一体如何なる存在なのか。侍ならぬ、サムライの国とは、自ら弱者であることを表明するものが代表となる国なのか。
(※ 後略。)

■ まともな奴はオリンピック目指そうとは思わない 「ネットゲリラ(2013.2.6)」より
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体育関係者なんて、みんな、根性腐ってるから。スポーツやると馬鹿になるというのは定説なんだが、根性も腐る。強い者には媚びへつらい、弱い者をいじめる体質。人間として最低なのが、スポーツマンです。しかも、長年スポーツだけをやってきて、程よく腐った人間性が養われたような連中が、「指導者」となって現役をいびり倒す。引退した元選手なんざ、競技をメシの種としか見てない。体罰騒動で失職した柔道コーチなんて、どうすんだろねw 馬鹿だから、他の仕事出来ないしw


■ 民主主義の終わり:明治維新前・阿片戦争前へと戻る日本と中国 「国際情勢の分析と予測(2013.1.31)のコメント欄」より
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近代も終わる (フッ、安物なのに、rich maltって…)  2013-02-04 21:02:49

私も、妄想します。

近代とは「近代国家を建設して、国民総動員体制で国家の生き残りを賭けた戦いをする時代」と説明できますから、国家間の闘争の出来ない時代が出現しつつある事を思えば、近代の終わりと言えます。

柔道は、明治政府の意向により、国技として、近代における国家の生き残りをかけた戦いを勝ち残るための国民を作り上げる使命を帯びていることから、近代の終わりと共に、今、死すべき時が来ていると思われます。

しかし、国技を死なせるわけには行きませんので、「死にたくなければ、変質せよ」と言う格言に従って柔道を変質させることで、少年期にそれに親しむ生活を送ることによって「近代の次の時代」に対応できる国民を育てる役割を担わせる事が出来ます。

今回の体罰騒動を受けて、日本柔道連盟が明確に勝利至上主義を廃して「スポーツとは、人間形成の場であり、交流の場である。」と意見を表明すれば、国際柔道連盟、JOC、IOCに多大なる影響が出ます。

どうやら、指導国家日本が、近代が既に終わった事を全人類に告げる為に、近代を象徴する「国家や個人の闘争」に一区切りを付けて、新たな価値感を表明する時が来たように思います。

私は、日本柔道連盟とJOCの意見がIOCに反映される事で、自分の立場しか考えずに暴力によって他国の領土を不法に占拠している「犯罪国家、南朝鮮」の選手が行った「プラカード事件」に対して、わざと今月まで温存しておいたIOCの裁定の道筋が決定すると予想します。

そうなると、話し合いに応じない不良国家の南朝鮮には、今年中には竹島問題でのキツイ「体罰」が待っているように思います。


■ 柔道界が世界の谷亮子を挟んでプロレス化 「やまもといちろうBLOG(2013.2.1)」より
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角界に続け! とばかりにスキャンダラスな話題を振りまいております我が国の柔道界ですが、なんでも暴力指導を巡って告発が天を轟き、呼び出された空に舞う龍が東京五輪を粉砕せんばかりの勢いとなっております。

 何が一番面白いって、谷亮子です。

谷亮子議員 監督留任は「賢明な判断」
http://www.nikkansports.com/sports/news/f-sp-tp0-20130131-1079064.html
園田監督辞任 暴力も「死ね」も認めた
http://www.nikkansports.com/sports/news/p-sp-tp0-20130201-1079346.html

 同じ日刊スポーツであるにもかかわらず、谷亮子が監督のことを庇った直後に監督が暴力沙汰を認めて自ら辞任という、まさに流れ落ちる滝のような予定調和でありまして、虹まで出ている感じで美しいです。
(※ 後略)








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最終更新:2013年09月02日 22:26