言葉の端々だけ取り上げれば、一見、保守風なこと、ルソーは確かに言ってはいます。そしてジェンダーフリーについても、ルソーは否定的な言葉を残してます。
 しかし、上のような言葉だけ見ると、確かに保守っぽい感じに捉えられてしまうわけですが、ルソーの思想基盤は、そもそも個人主義や自由が一番にあるのであって、一般的な保守層が子供に求めるベクトルとは、その向きが全然違います。要するに子供に頑張らせようとする方向が、私のようなものとはまるで違うわけです。

子供に手を加えるのは悪、文明や社会も悪
早期教育も悪とし、刹那的な人生に導きかねない、ルソーの教育理念

つまりルソー教育の目指す方向、これまで人間の築いてきた社会や社会的な人間の否定であるわけで、これは正に人間の獣化というべきものであり、ここに書いてるような人間獣化計画へも完全に重なってしまいます。

(※ 詳細はブログ記事で。)





東京やジュネーヴで日本人向けの講演をすると、「ルソーは女ったらしなんですよね」、「ルソーのイメージは、あまり人から好かれない自分勝手な人間というところでしょうか」といった意見をよく耳にする。残念ながら、これが最近の日本における支配的ルソー像のようである。D・ロビンソン『絵解き ルソーの哲学』(渡部昇一訳、PHP研究所、2002)や、ウィキペディア日本語版の記述の影響なのだろうか。
ただ、ルソーは確かに矛盾が多く、弱いタイプの人間ではあるが、彼の著作や信用に足る同時代人の証言、研究書などをしっかりと読みさえすれば、否定的なイメージの殆どは誤った思い込みや部分読みの結果であることが分かるだろう。「学会動向」や「ルソートリビア」、「ゆかりの地」などに示したように、世界中に彼を真剣に研究する人々や団体が多数存在し、その滞在を記念するプレートが各地に残され、特にスイスでは地元の誇りとなっていることは、理由のないことではないはずである。
アンチ・ルソーの要因としては、主に三つの事項を理解しておく必要があるだろう。
まず、ルソーは18世紀においてあまりにも華々しく活躍し(権威ある賞の受賞者にしてベストセラー作家、さらには国王の前で演奏までした音楽家)、また独自のライフスタイルを貫いたため(社交界の仕来りや流行には従わず、国王からの年金を断り、さらには田舎暮らしを選んだ)、友人の一部も含め、多くの人々の妬みや反感を買ってしまったこと。また、特に『エミール』や『社会契約論』において、当時の宗教界や政治体制を刺激する言説を提示したため、権力者の目の敵となってしまったこと。そして、フランス革命期、ルソーに影響を受けたとされるロベスピエールなどによって恐怖政治が展開されたため、時としてルソーの思想は全体主義を導くものと解釈されて来たことである。結果、彼に対する誹謗中傷やデマは凄まじい勢いで広まり、それらと共にルソーのイメージは構築され、今日でも、特に英語圏において(フランスへのライヴァル意識も関係しているのだろう)、ルソーの作品は読んだことがなくとも、彼への否定的見解はどこかで聞いたことがあるという状況が生まれてしまっているのである。


■ ジャ ン=ジャック・ルソーは囚人のジレンマを感じるのか? 「池田光穂のウェブページ」より
みなさんの御存知の「囚人のジレンマ」は次のような情況から始まる。(課題化するためと分かりやすくするために一人称に変更している) 君は、過去に犯罪歴のある若者である。ある日、友人と歩いていると警官に一緒に逮捕されてしまった。1週間前の商店へ二人組の覆面強盗事件 の嫌疑である。2人とも別々に形式的な取り調べだけを受けたようだ。どうも有益な物的証拠がなく、捜査は難航しているらしい。ただ2人とも事件現場にいな かったというアリバイを証明する人が誰もいない。そこで、初審の担当検事がやってきて、自白の司法取引について君に次のような相談をもちかけた。
(1)このまま被疑者が2人とも黙秘していたら、2人とも前科があるので懲役2年が求刑されるだろう。
(2)もし友人が黙秘していても、君が自白したら、犯罪の事実を明らかにしたわけだから放免してやろう。もちろん友人は懲役10年が求刑され る。
(3)しかし君が黙秘をつづけて、友人が自白したら、友人は放免、君は懲役10年が求刑されるだろう。
(4)両人が自白したら、その罪にも服さないとならないから、懲役5年が求刑されるだろう。

 私が、ランド研究所の研究者たち(M. Flood, M. Dresher, A.W.Tucker)の考案になる、この重要なモデルにいつも違和感を感じるのは、思考実験においてもなお、人体実験の材料にされる「囚人」たちの道徳 的取り扱いである――仮想思考実験における被験者の研究倫理は可能か?
 そこで、私の小市民的良心が痛む、このような用語法を改め、臨床コミュニケーションの研究者らしく、それを「納税者あるいは健康保険料納付者 のジレンマ」と名付けることにし、次のようなルソーの社会契約論上のジレンマに関する課題を考えた。


■ ジャン・ジャック・ルソー『孤独な散歩者の夢想』 「松岡正剛の千夜千冊」より
ルソーには馴染めなかった。兆民や藤村は好きなのに。
 これが食わず嫌いであったことはずっとのちにわかるのだが、長きにわたって「ルソーは鼻持ちならない」と思っていた。もっと言うなら漠然と「近代悪」とも思っていた。
 なぜそう思ったのか、社会契約論のせいなのか、「自然人」などと嘯くのが嫌だったのか、食わず嫌いなんてそもそもいいかげんのものだから、理由ははっきりしない。少なくともイポリット・テーヌやジャック・マリタンのように、デカルトとルターとルソーを並べて「ヨーロッパを誤導した病める魂」などと裁断したいわけではなかった。もっともっと勝手な印象だった(いまちょっとだけ自己追求してみたが、つまりは何も知らずにルソーを敬遠していたにすぎないことが、よくわかった)。
 それが大きく変わったのは『告白』を読んでからである。びっくりした。この告白は並大抵ではない。

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☆ 「告白(上下)」ジャン・ジャック・ルソー/桑原武夫訳 「デジタル書店:グーテンベルク21」より


個人を無視して、社会を上から見下ろしたような理論は、目先の秩序を守るには役立つかもしれないけれど、結局は人間に逆らうことになる。世界平和を唱えながら内部抗争の絶えない団体や、社会のために働くあまりに自分の健康や家庭を崩壊させる人びとがいる。そういう人たちは自分自身の延長線上にあるはずの社会を、自分とはまったく別な次元においてしまっているのではないか

現代社会には、個人の力では解決できない問題があふれているという人がいるかもしれない。その通りである。平和、飢餓、それに環境破壊の問題は、全体のために解決されなければならないことだし、一人の力ではどうにもならないことである。たくさんの人々の協力する必要性を否定するつもりはない。ただ協力するにしても、全体のために自分を捨ててしまってよいものだろうか

世の中にはいろいろな人がいる。ある人は社会の悪など何も気づきもしないし、ある人はそれが気になって仕方がない。だから何とかしようとする。それは自分が気になって仕方がないからであって、気づかない人には、いくら促しても馬耳東風である。 「自己の問題としての社会思想」とは、社会の問題に対して自分を持ち上げるのではなく、問題を自分に引きつけるということである。社会がどんなに良くなったところで、そこに人間がいなければ、それはすでに社会ではないだろう








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最終更新:2012年11月22日 19:22