■ 中島義道『「哲学実技」のすすめ――そして誰もいなくなった・・・…』 「読めないニックネーム(2012.10.9)」より
“いや、幸福を真実と同じレベルで考えてはならない。いますぐに説明するよ。真実をいつでも貫き通すことはたいへん難しいのだ。だが、だからといって簡単に「しかたがない」と呟いていい問題ではない。このことをカントほど考え抜いた哲学者をぼくは知らない。
 ぼくは、三〇年以上カントを読んできたが、やっと最近ここに潜む恐ろしく深い根が見えるようになったよ。カントは殺人鬼に追われた友人を匿い、追手から「どこにいるんだ?」と聞かれたときでさえ、嘘を言うべきではないと断言している。友人を場合によっては殺しても嘘をついてはならないと確信している。友情よりも真理が断固優先すべきであることを確信している。
 この非常識なカントの見解は、予想通りたいへん評判の悪いものであり、さまざまな人が「融和策」を出そうとした。しかし、ごく最近のことだが、ぼくはカントのこの嘘に関する議論は文字通り受け取っていいのではないかと思いはじめた。
 真理とはそれを語るとき、たいへんな害悪をもたらすがゆえに、かえって貴重なのだとまで言いたい気がする。なんの危険もなく、なんの緊張もなく善いことを語るほどラクなことはない。「真実語りましょう!」と号令だけ掛けるほどラクなことはない。こんなこと、昼寝をしながらでもできることだ。“
p.141

自分は殺人鬼に嘘をつくのかって?
つきますよ。
殺人鬼に本当のことを教える気にはなりませんし、友人の命は「殺人鬼に告げる真実」よりも上に位置しています。少なくとも私の上ではね。

殺人鬼が真実を知るってのもなんかいやだ。
しっかしそれにしても
本物の哲学って、原始仏教なみにマゾ的だよなあ。


■ (本)中島義道「ひとを<嫌う>ということ」 「ihayato.news(2012.10.6)」より
いやー、中島氏の本は個人的にドンピシャです。これも刺さりまくりました。名著ですね。
誰か嫌いな人がいる、なぜか嫌われている気がする、なんて方には強くおすすめです。これはもっと若い頃に読んでおきたかった…。


■ 始めて載った「同性愛」の文字!〜哲学者・中島義道さんの記事に感動〜 「伊藤文学のひとりごと(2011.5.28)」より
たった7行の記事に、僕の心はふるえた。

 2011年5月17日(火)の東京新聞の夕刊に載った哲学者、中島義道さんの「震災への『なぜ』今こそ 美談が覆う真実もある」の記事の一節にだ。

 三沢典丈さんという東京新聞の記者が、中島義道さんから話を聞いてまとめた記事だ。
(※ 以下、本文はブログ記事で。)

■ 「「人間嫌い」のルール」(中島義道/PHP新書) 「分け入つても分け入つても本の山(2008.4.20)」より
人生に勝った中島の敗北者を見くだす、この余裕ある意地悪な視線こそ、かのベストセラー作家の魅力である。
この引用部分を読んで「いやあな」気分になる。
もしかしたら自分も「ルージン」になるかもしれないと思うからである。
この不快感がたまらないのである。
読者を不愉快にさせることにかけては中島ギドーの右に出るものはいまい。
かれの書物はよほどしっかりした常識感覚を持っていないと食い殺されかねないほどに毒々しい。
まさにビジネスマナーの対極に位置する本である。


■ 自慢する中島義道 「猫を償うに猫をもってせよ(2006.5.22)」より / 小谷野敦
ところで中島は「喧嘩したあとで仲直りするのがうまい」と自慢している。こないだ私に『後悔と自責の哲学』を送ってきたが、開かずにブックオフ行きである。なのにその前の、私の悪口が書いてある『私の嫌いな10の人びと』は送ってこなかった。送ってきたらいい度胸だと褒めてやったのに(嘘)。


■ 中島義道、裸で歩け 「地獄の箴言(2004.8.29)」より
「新潮45」九月號の連載「罵事討風」で小谷野敦が中島義道と福田和也に嚙み附いてゐる。

 この形式での連載も今回が最後になるようだ。そこで出血大サービス、いつも私の隣で書いている中島義道先生を批判しよう。八月号「明狂死酔」で中島は、世間の人は本当のことを言わない、と言い、あたかも自分は本当のことを言っているかのように喧伝している。だが、中島の言っていることなどというのは、せいぜい苦笑を誘う程度のものでしかない。しかも、福田和也さんのゼミで話をした、と書いている。福田に対して、右翼だか左翼だか分からない二股膏薬のインチキ野郎、などとは決して言わないのだ。「大衆評論家」の加藤諦三は批判しても、いま現在論壇の覇権を握っている人には決して攻撃を加えない。イラク人質三人組に関しても、朝日新聞的な意見を言っていただけである。こんな姑息な処世術を駆使しながら、「ぐれる」なんて、ちゃんちゃらおかしい。

 「右翼だか左翼だか分からない二股膏薬のインチキ野郎」の仲間には、宮崎哲彌や坪内祐三も入れるべきだと思ふ。さて小谷野が批判した中島の八月號の文章を引張り出して讀んでみると、確かに非道い。こんな件りもあつた。(※ 以下、ブログ本文を。)

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☆ 以下、上記ブログのコメント欄から

 中島氏の著作をお読みになったことがおありでしょうか?氏の著作の内容を踏まえれば恐らく、ここで中島氏が言いたいのは「現代日本人は、お決まりの質問にお決まりの答えが返ってくることを望んでおり、本当のところ言語によるコミュニケーションなど望んでいない。それは私にとって無意味で不愉快だ」ということです。セックスは例の一つにしかすぎないのでは?氏の論は、正当であるかは別として常に論理としては通っていますよ。
 ここで「なぜ外で服を着るのか」などと言う論点のずれた問いを発しても、「警察に捕まるから」程度の答えしか返ってこないでしょう。
 あなたの論の結論「中島は裸で歩け」はどういう論理により導かれるのでしょうか?私には論理が飛躍しているとしか思えません。氏は性をオープンにしろ、なんてここでは一言も言っていません。ただ、マスコミにおける下品に性的ゴシップの許される空間と「マジメ」な空間は、極めて曖昧な、いわゆる日本人的な「察する」という習慣によってのみなされており、病的に言語によって現象を把握しようとする氏は、「察する」文化を否定していると思われます(著作を踏まえると)。
 最後にもう一度言います。氏は性の解放を助長する言葉など一言も言っておりません。ゆえに「中島は裸で歩け」という結論は誤読に基づく詭弁に過ぎません。

投稿: ハザマ | 2004年9月 8日 (水) 19時11分

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中島氏の著作をお読みになったことがおありでしょうか?

「哲學の教科書」と他に一二册讀んだだけです。それらの本ではこれほど非道くはなかつたと思ふのですが。

氏の著作の内容を踏まえれば恐らく、ここで中島氏が言いたいのは「現代日本人は、お決まりの質問にお決まりの答えが返ってくることを望んでおり、本当のところ言語によるコミュニケーションなど望んでいない。それは私にとって無意味で不愉快だ」ということです。セックスは例の一つにしかすぎないのでは?氏の論は、正当であるかは別として常に論理としては通っていますよ。

それなら、セックスの話は的外れな「例」でしかありませんね。現代日本人がAと云ふ行動を取つてゐる事を批判したいのならば、「現代日本人以外の人間はAと云ふ行動などしない」と云はねばならない。ところが、中島氏のゐたオーストリアの人間も、スイス人もアメリカ人もイラン人もマレーシア人も、誰も公の場で「無性にセックスしたいです」などと云ひはしません。

ここで「なぜ外で服を着るのか」などと言う論点のずれた問いを発しても、「警察に捕まるから」程度の答えしか返ってこないでしょう。

それなら中島氏から批判された「現代日本人」は、「世界中の誰もそんな馬鹿な眞似はしないから」と一斉に答へるでせうね。

あなたの論の結論「中島は裸で歩け」はどういう論理により導かれるのでしょうか?私には論理が飛躍しているとしか思えません。氏は性をオープンにしろ、なんてここでは一言も言っていません。ただ、マスコミにおける下品に性的ゴシップの許される空間と「マジメ」な空間は、極めて曖昧な、いわゆる日本人的な「察する」という習慣によってのみなされており、病的に言語によって現象を把握しようとする氏は、「察する」文化を否定していると思われます(著作を踏まえると)。

だから、「察する」文化であらうがなからうが、公の場で「セックスしたい」なんて口走る奴は、ただの馬鹿です。現代日本人論とは何の關係もありません。現代日本人の特性でも何でもない事に絡んでみせて、現代日本人を批判したやうな氣になつてゐる中島氏も只の馬鹿です。

最後にもう一度言います。氏は性の解放を助長する言葉など一言も言っておりません。ゆえに「中島は裸で歩け」という結論は誤読に基づく詭弁に過ぎません。

私も性の解放についてなんぞ一言も書いてをりません。現代日本人を論じるのにセックスしたい云々などと書くのは的外れだし、その的外れな理屈を當て嵌めれば、中島氏は裸で歩かざるを得なくなると書いた迄であります。

(※ 以下、コメント欄でやり取りが続く。)






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最終更新:2012年10月09日 19:57