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☆■ コラム:「失われた20年」の次は「英国病」か=河野龍太郎氏 「ロイター(2013.12.16)」より
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河野龍太郎 BNPパリバ証券 経済調査本部長(2013年12月16日)

公的債務の圧縮方法は理論上、増税や歳出削減による財政調整、中央銀行が財政赤字を穴埋めするマネタイゼーションによるインフレ醸成(金融抑圧)の二つしかない。

中央銀行ファイナンスによる追加財政を続ければ、日本経済はいずれ完全雇用に達し、デフレ脱却の道筋が見えてくる。しかし、インフレ予想の醸成に成功すると、長期金利が大幅に上昇、財政危機のリスクが高まるため、政府・日銀にとって長期金利の安定が至上命題となる。長期金利を低位に維持するため、インフレ率の上昇にもかかわらず、ゼロ金利政策や長期国債の大量購入を継続せざるを得ない。つまり、日本経済は金融抑圧の道をたどる。

問題は、金融抑圧の下で、モデレートなインフレを維持できるかということである。
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今回は、金融抑圧の採用によって実際に高インフレに陥った戦後の英国の事例を分析する。戦後の英国はなぜ高率のインフレとなったのか。結論から先に言うと、金融抑圧が採用された結果、公的債務残高の対国内総生産(GDP)比の圧縮に成功した一方、拡張的な財政政策が続けられたことに加え、非効率な歳出構造や肥大化した政府部門(国有企業)が温存されたためである。

<失敗に終わった国債価格支持政策>

政府の傘下にあったイングランド銀行(英国の中銀、以下BOE)は1945年10月、主に第2次世界大戦に伴う軍事費増大によって膨れ上がった公的債務の利払い費抑制と円滑な借り換え、景気下支えのために、長期債利回りを超低水準に誘導する国債価格支持政策を導入した。

具体的には、BOEの大量購入で、財務省証券(Tビル)の金利を1.0%から0.5%へと押し下げるとともに、3%近辺で推移していた長期金利(15年債)を当時としては超低金利水準である2.5%へ誘導しようとした。利回りが低くても、長期債の価格下落は回避されるという暗黙の保証を与えることで、投資家が中長期債を保有するようになれば、スムーズな借り換えが可能になると、政府・BOEは考えたのだ。

BOEの国債価格支持政策と併せ、政府は長期金利を2.5%に誘導するため、新たに発行する国債の利回りを5年は1.5%、10年は2.0%と定め、さらに民間の債券発行についても政府の規制の下に置くこととした。しかし、多くの投資家は2.5%の利回りしか得られない長期債投資に二の足を踏む。結局、政府は中長期債による借り換えをスムーズに行うことができず、むしろ短期借り入れを増加させるだけに終わった。

国債価格支持政策が失敗に終わった最大の要因は、インフレが加速する中で、拡張的な財政運営が続けられ、46―47年にかけてマネーと信用の急激な膨張が生じたことだ。当時、広範な価格統制、配給制度が続けられていたにもかかわらず、インフレ率は46年の3.1%から48年には7.7%へと加速したため、中長期債の売り圧力を吸収することが困難となり、47年秋には長期国債価格支持政策を放棄せざるを得なかった。

ただし、その後もBOEによるTビル・中長期債の購入は続き、マイナスの実質金利が継続したため、51年にインフレ率は前年の3.1%から9.1%へと大幅に加速、金融引き締め策の必要性が高まった。しかし、公的債務は依然として高水準で、利上げを行えば、利払い費の増大を通じて政府の歳出は膨張し、公的債務は一層膨らむ。金融政策は「財政従属」に明らかに陥っていたのである。

利上げを行わずに金融引き締めを行う方法として、当時、流動資産比率規制が存在していたが、銀行は流動資産であるTビルを大量に保有していたため、仮にBOEが流動資産比率の下限を引き上げたとしても貸出の抑制には必ずしもつながらなかった。

物価安定と国債管理のジレンマを抱える中、政府とBOEは、51年11月に大規模な「Serial Funding Operation(連続借り換えオペレーション)」を実施する。BOEは、それまで戦時下のごく一時期を除き2%に据え置かれていた公定歩合をわずかだが2.5%へ引き上げ、Tビルの無制限購入を停止した(ただし、中長期債の買い支えは58年まで継続)。

一方、財務省は、残存1年、2年、3年の新たな国債(連続借り換れ債)を、それぞれ公定歩合を下回る低利で発行した。これらの国債は、銀行などポンド建ての負債を抱えポンド建ての安全資産を購入せざるを得ない国内機関投資家を対象に、彼らが保有するTビルと交換する形で発行された。流動資産を吸収することで、銀行の貸出も同時に抑制可能となった。このように銀行部門が「囚われの国内投資家」(Captive Domestic Audience)として組み込まれていくことで、金融抑圧が進められた。

連続借り換えオペの結果、政府は、利払い費の抑制と、債務の平均残存年数の長期化にも成功した。ただ、インフレは沈静化せず51年、52年には二ケタ近くまで上昇、BOEは52年3月には公定歩合を2.5%から4%へと引き上げる金融引き締め策を余儀なくされた。しかし、55年、56年も5%近いインフレとなり、高インフレが続いたため、マイナスの実質金利は維持され、公的債務の対GDP比の圧縮は順調に進んだ。

なお、51年から58年の間、戦後に国有化された国有企業による支出や教育、保険関連の支出が増大、また冷戦下で軍事費も拡張気味となったことから、歳出は拡大が続いた(高インフレが続いたことも名目の支出を増やす要因となった)。一方、歳入面でもインフレ率の上昇で税収が増えただけでなく、所得税率の引き上げなどが実施されたことから、プライマリー収支は黒字で推移、金融抑圧で利払い費が抑制された結果、財政収支は期間を均してみれば、ほぼ均衡していた。

<インフレで問題を解決する風潮が広がった>

58年から60年にかけて、BOEによる中長期国債の購入は小休止となるが、成長が鈍化し、インフレ率が落ち着いてくると、61年頃からBOEによる中長期債の購入が再開され、再び緩和的な金融環境となる。その後、成長ペースが高まると国際収支は悪化、BOEは64年に公定歩合を引き上げるが、一方で、中長期債の購入による長期金利の抑制が続けられたことで(ツイストオペ)、内需拡大から国際収支の悪化に歯止めが掛からず、67年11月にはポンドの切り下げを余儀なくされた。

輸入インフレを抑制するために、BOEは公定歩合を高めに維持するが、インフレを抑え込むことはできず、67年に2.5%だったインフレ率は、69年には5.4%、70年には6.4%まで加速する。それまでに公的債務残高が相当程度圧縮されていたこともあり、BOEはインフレ抑制をより重視する姿勢に転換、71年には国債管理政策として導入されていた1年以上の国債の買い支えの停止(ただし、金融政策としての自己裁量による購入は除く)と、随時発動されていた民間金融機関への貸出規制も廃止し、中長期の金利変動を市場メカニズムに委ねる方向へシフトしていく。

しかし、71年が9.4%、72年が7.1%と高率のインフレが続き、投資家が長期国債購入を手控えるようになると、BOEはあくまでも自己の裁量的な購入の範囲内という名目で、72年以降、国債購入を再開する。国民保険基金(年金や健康保険)などの公的セクターも積極的に長期国債を購入し、国債の円滑な消化と名目金利の低位安定策が強化された。50年代の銀行に代わって、今度は、国民保険基金などが「囚われの投資家」として国債管理政策に組み込まれ、金融抑圧の色彩が再び強まっていった。

後知恵で考えれば、長期金利上昇を甘受し、インフレを抑えるべきだった。しかし、当時は潜在成長率という概念が十分確立しておらず、インフレをある程度甘受すれば、高い成長が追求可能と認識されていたため、明らかに誤った政策が採用されたのである。

インフレで問題を解決するという風潮が広がり、痛みを伴う構造改革が先送りされたことなどから、生産性上昇率は低迷、国際競争力は低下した。ブレトンウッズ体制崩壊によるポンドの大幅減価とオイルショックの影響も加わって、70年代は平均で二ケタの高インフレとなり、賃上げを求める労働者のストライキが頻発するなど、社会は不安定化した。60年代から70年代の低迷する姿は、「英国病」と揶揄された。

46年に250%超まで膨らんでいた英国の公的債務残高(GDP比)は、実質のマイナス金利を作り出す金融抑圧と高インフレを通じた名目GDPの膨張を通じて大幅に圧縮され、60年には半分以下の109%、80年には5分の1以下の49%へと低下した。ラインハート教授とスブランシア博士の共同研究によれば、45―80年の英国の公的債務削減のうち、実質のマイナス金利を作りだしたことによる効果は、年平均で3.6%に達する。この間、公的債務の対GDP比は年平均8.4%のペースで減少しており、実に4割強が実質のマイナス金利によって調整されたことになる(残りの6割弱は分母の名目GDPが膨らんだ効果である)。

金融抑圧の過程で積み上がった様々な問題は79年に誕生したサッチャー政権の下でようやく手が付けられるが、第2次オイルショックの下で歳出削減と構造改革政策が取られた結果、79年には3.8%だった失業率は、80年代半ばには10%超まで上昇した。そうした痛みを経て初めて、英国の復活が始まった。

<日本経済が高インフレに陥るリスク>

リーマンショック後、先進各国が財政調整ではなく金融抑圧を選択し、その結果、ほとんどの国で超低金利政策が続けられているため、インフレタックスを課せられる各国の預金者に逃げ場はない。実質金利が高かった新興国も、2000年代の長いブームが終焉し、今や様々な過剰を抱えている。むしろ新興国から資金が逃げ出しているのが現実だ。

本来、金融抑圧を可能とするには、海外への資金シフトを避けるための金融規制や資本規制が必要だが、それらが存在しないにもかかわらず、各国で金融抑圧の実行可能性が高まっているのは、何とも皮肉な状況である。

日本で金融抑圧が始まっても、二ケタ近いインフレをもたらすような急激な円安は、近い将来に関して言えば、回避できるのだろう。そうした理由から、筆者は現段階においては、モデレートなインフレを伴う金融抑圧となるシナリオをメインシナリオとしている(そうなれば、国内のリスク資産に資金が流れ込むため、株式市場や不動産市況は活況を呈するだろう)。

ただ、英国の例を見るまでもなく、金融抑圧を通じた公的債務の圧縮には相当の長い年月を要する。特に日本の場合、他国に比べ大きな公的債務を抱えているため、マイナスの実質金利を必要とする期間は相当に長くなる。その間に、想定外のインフレショックが加わることになれば、大幅なマイナスの実質金利を嫌気して資金流出が進み、円安とインフレ加速のスパイラルに陥る可能性がある。

金融抑圧のスタート時点では、モデレートな金融抑圧の経路をたどるように見えても、高率のインフレに日本経済が陥るリスクも常に抱えているのである。政策当局者の課題は、いかに高インフレシナリオを回避するか、ということになるだろう。

インフレ予想が蔓延すれば、インフレで問題を解決するという風潮が広がり、痛みを伴う構造改革はなおざりにされる。構造改革がなおざりにされれば、潜在成長率はさらに低迷し、短期的な効果しか得られない財政政策に頼ることになる。ゼロ金利政策と長期国債の大量購入政策が続けられるため、中央銀行ファイナンスによる追加財政はモルヒネの如く打ち続けられる恐れがある。

戦後の英国でも拡張的な財政政策が継続されたが、それは結局、貨幣価値のさらなる低下をもたらすだけだった。財政調整による真っ当な公的債務圧縮はもはや選択されず、政治経済学的には、残念ながら金融抑圧以外に方法はないのかもしれない。失われた「日本の20年」の後にやって来るのが、60年代から70年代の英国の姿(英国病)ではないことを祈るばかりである。

河野龍太郎氏は、BNPパリバ証券の経済調査本部長・チーフエコノミスト。横浜国立大学経済学部卒業後、住友銀行(現三井住友銀行)に入行し、大和投資顧問(現大和住銀投信投資顧問)や第一生命経済研究所を経て、2000年より現職。


※ 本稿は、ロイター日本語ニュースサイトの外国為替フォーラムに掲載されたものです。(here)

※ 本稿は、筆者の個人的見解に基づいています。

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