• 成吉思汗は1227年に亡くなるのだが、臨終の際に「われこの大命をうけたれば、死すとも今は恨みなし。ただ、故山に帰りたし」と言ったそうだ。
 成吉思汗が義経だとすれば、「恨み」とはおそらくは兄・頼朝の仕打ちであったろうし、「故山」とは幼少時に育った鞍馬山や、京都、鎌倉、衣川などの故郷、あるいは妻子や愛人・静などの日本の像であったろう。

 成吉思汗がモンゴル人だとすれば、彼はほぼ故郷に帰って死んでいる。故郷にいながら「ああ故郷に帰りたかったなあ」とは言わない。だから成吉思汗にとっての故郷はモンゴルでなかったことは確かなのだ。

ーーーーーーーーーーーー
■ 源義経=成吉思汗説を思想性の高みから検証する(3/4) 「心に青雲(2012.8.1)」より
  • ここで近代における義経伝説の決定版を著した小谷部全一郎の『成吉思汗ハ義経也』の目次から、興味深いものをピックアップしてみよう。これは中杉弘著『成吉思汗=源義経だったこれだけの理由』に紹介されていたものから選んだ。

ーーーーーーーーーーーー
■ 源義経=成吉思汗説を思想性の高みから検証する(2/4) 「心に青雲(2012.7.31)」より
  • 義経は平泉に居る間に、そうした藤原氏の経済政策や安東水軍の活動を十分に知り得る立場にあった。そこで狭い日本から脱出して、金の産地を支配しに行く戦略を思い描いたとしても不思議ではないのである。
 金を抑えれば、義経主従が大軍団を組織することが可能となる。その軍事力をもって日本列島に再上陸して頼朝勢を駆逐する計画を建てるであろう。

ーーーーーーーーーーーー
■ 源義経=成吉思汗説を思想性の高みから検証する(1/4) 「心に青雲(2012.7.30)」より
  • 義経と成吉思汗の生誕時期・年齢は完全に重なり合う。端的には義経が日本から消息を絶った数年後に忽然と成吉思汗がモンゴルの平原に出現している事実には、偶然ではとうてい説明できない関連性があることを、いずれの書物も説いている。
 彼らだけではない。江戸時代には、徳川光圀、シーボルト、新井白石、国学者・森長見らが、義経はジンギスカンに変身したことを説いている。
 森長見は、清国の百科全書「古今図書集成」のなかの、歴代清皇帝が記したものの中に、乾隆帝(1711~1799)という清の最盛期の皇帝が書き綴った驚くべき一行があったと記している。
 それは「私(清王家、つまり愛新覚羅)の姓は源といい、義経という人の末裔である。源義経の出自は清和源氏(清和天皇)であり、それゆえに国号が清となった」というのである。
 ちなみに、そもそも「元(げん)」という国号は「源(げん)」から来ているという説もある…。








.
最終更新:2012年08月03日 20:13