・{「田中角栄をどうしても逮捕して欲しい。彼は私のファミリーのスキャンダルを種に脅しをかけた。私は彼を赦せないのだ。」
  この発言は昭和天皇であった。}
  田中角栄が首相を辞任して、これからロッキード事件が本格化する前、昭和天皇は三木武夫首相を呼びつけてこう言ったのだ。

  三木武夫は「どうすればいいでしょうか」と天皇に尋ねると、天皇は「フォード大統領に私の親書を渡してほしい。そして、『よろしく頼む』と伝えてほしい」と答えた。

  こうして角栄を失脚させるためにロッキード事件が起こされるのである。(ただし高橋五郎氏は、田中角栄が天皇のいわゆる「M資金」、アジア各地から略奪してきた金・銀、財宝に手を出したから、天皇がロッキード事件を仕掛けたと『天皇の金塊』で書いている。)
  このエピソードは鬼塚英昭氏の新著『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』(成甲書房)にあったものだ。つまり、ロッキード事件はヒロヒトが角栄を追い落とすために仕掛けたのである。



 ・田中角栄は、アメリカに依存しない国益を追求した自主外交を目指し、資源ルート開発に奔走する。そして、成果を上げていった。日本を属国として依存させて意のままに操ろうとしていたアメリカは田中の自主的外交に激怒し、失脚させようとロッキード事件を捏造する。このアメリカの陰謀には、三木武夫首相(当時)と省庁が加担した。

 しかし、田中角栄は、首相を退いても裏で実権を握っていた。田中を追い詰めるために、アメリカは仲間の竹下昇を拷問にかけて裏切らせたものと思われる。仲間の裏切りが決定的なものとなり、田中角栄は失意のうちに亡くなることになる。



■ 田中角栄の遺言 「世界平和への旅(2012.2.25)」より

 ・戦後、田中角栄だけが唯一のデモクラシー政治家だった。立憲政治の必要条件は、議会のおける討論を通じて国策が決定され、議会によって法律が作られることだ。議会政治とは、代議士が自分の独立した意志で国民の欲することを自由に発言することだ。226事件以来息を潜めてしまった日本の議会政治を、田中角栄が復活させようとした。
 ・田中角栄は33の議員立法を行った。日本では役人が作る政府立法がほとんどなのに、田中角栄は役人を自由自在に操り、議員立法を積極的に行った。新たな法律ができると、役人にとっては権限の拡大になるので、政治家が大方針を示してくれれば、役人は喜んで法律を作る。意思決定と責任は政治家、細かな知識と実務は役人、という役割分担を田中角栄は実行し、外交面でも日中国交回復という離れ業をやってのけた。



■ 孫崎享氏による田中角栄の失脚に関するまとめ 「togetter by kakki330」より
 (※ ばらばらなツイートを繋げ、行変え編集。)

 田中角栄元首相はロッキード事件で政治的に葬られました。今、戦後史を見直している中、小沢裁判とロッキード事件は類似しています.何か
(1)米国が特定政治家を好ましくないと判断する、
(2)その時、検察がこの特定政治家を政治的抹殺のために裁判を利用する
(3)司法に持ち込む過程で、過去採用されなかった異常な訴追手法を採用する、
(4)マスコミが訴追を全面的に正しいという世論を構成するです。

 田中排除を少し見たいと思います。先ず、中曽根康弘(元首相)の『大地有情』の記述を見ます。「司法処理も法治国家という点からみて疑問が残る裁判でした」「ロッキード問題に、幾つかの疑問を持つ。米国証券取引委員会から会計事務所に書類が議会に誤送されそれで公聴会に。そんなバカなことがあるかと思いましたよ。これは誰かの政略だなと、まず感じましたね。」「最高裁が違法と批判される行為を認めた。コーチャンの尋問で免責付与は日本の刑事訴訟法にはない。

 弁護士を立ち会わせ、反対尋問をさせなかった。時代の空気に、つまりジャーナリズムつくった雰囲気に法の番人までが冒されたことは、司法にも、戦後日本にも大変な恥辱だった」。中曽根氏はロッキード事件を米国が意図的作成の事件とみている。

 「キッシンジャーは私が首相辞任後 “ロッキード事件は間違いだった”と密かに私にいいました。キは、ロッキード事件の真相をかなり知っていたのではないでしょうか」 中曽根康弘氏はキッシンジャー氏のロッキード事件関与を認めている。
 日本の首相を政治的に葬った事件にもしキッシンジャー氏不関与なのに、関与というなら、大変な名誉毀損です。

 田中角栄事件は明確に米国の意図で動き、それに検察が協力したのです。私達は今小沢事件を抱えている。マスコミの反小沢像で行ってならない裁判をしているのでないか、司法の恥辱の要素がないか考える時。
 米国が失脚を謀った代表的日本の首相が田中角栄。失脚に、米国と日本の新聞社と財界と見事な連携がある。一つのパターン。歴史は今を考えるためにあります。

 1974年10月立花隆氏が「文芸春秋11月号」で「田中角栄研究ーその金脈と人脈」を発表。
 これが田中首相降ろしの始まり。田中首相の財産形成過程を記述。しかし、論文掲載直後、田中政権がぐらつくという状況は出ない。主要子分格が危機管理。主要新聞報じてない。
 立花論評は不発。ここで、10月22日田中首相が外国記者クラブで講演。米国記者を中心に徹底的に田中金脈追求。

 不可思議な動き。何故なら、外国人記者には他に質問すべき項目が山のようにあった。11月フォード大統領が、戦後、米国大統領として初めて訪問予定。田中首相の訪中の問題もある。この時期、日米間ではラロック証言という重大な発言。
 米退役海軍少将のラロック氏が米議会で「核兵器搭載可能な艦船は日本に寄港する際、核兵器を降ろすことはしない」と証言、核疑惑が一挙に表面化。

 10月18日朝日新聞は「田中角栄、非核三原則堅持を言明」「米国が持ち込み求めても事前協議で拒否」と報道。外国人記者の大多数は日本語を読めません。日本の新聞のどこも取り上げていない論評を、5名程度の記者が次々質問するのは異常。

 実はここで終われば、何でもない。しかし、朝日新聞と読売新聞は翌日、10月23日一面トップで大々的に報道。「“田中金脈”追求へ動き急。政局に重大影響必至」が朝日新聞の見出し。
 読売も同様。朝日新聞と読売新聞が火つけ。

 国会議員が同調。経済界も川木田東電社長が「このままで蓋をすべきではない」、中山素平が「暫定政権でいくしかない」田中首相は12月9日首相を辞任。米国・新聞・財界の見事な連携。しかし田中の力衰えず。
 ここから次のロッキード事件が作られる。

 何故アメリカは田中角栄首相を政治的に葬りたかったのでしょうか。私は日中国交回復が米国を怒らしたのだと思っています。佐藤昭子(田中首相に最も近い人物)は著書で「田中は“気が進まない。行きたくない”といいながらも外人記者クラブで講演すべく出かける。

 外人記者クラブでは、金脈問題に火をつけたとか。日中国交回復のつけが回ってきたのか」。キッシンジャーにとり、人生最大の業績は1972年ニクソン訪中。キは隠密外交を展開しニクソン訪中を実現。
 日本に事前通知をしないということで、岸首相に繊維問題の報復。米国議会は米中国交回復には反対。米中国交樹立は79年まで実現できません。

 ところが、報復した国の新しい首相、角栄が72年9月日中国交正常化を実現。結果としてニクソン訪中の実を横取り。キは1972年8月の日米首脳ハワイ会談の直前にバンカー駐南越大使と会談し、ここで日本に対する怒りを爆発。
 「裏切り者共の中で、よりによって日本人野郎がケーキを横取りした」キが、日頃、馬鹿にしている日本人に馬鹿にされたことに。

 キの怒り凄いもの。「キはハワイ会談直前訪日し、田中総理との会談を要請。田中総理は、「俺が何で補佐官と会わなきゃならないんだ」と会うのを蹴る。間に人が入り、キは軽井沢へ。キは「日中国交正常化を延期して欲しい」と頼んだが、田中総理は一蹴。

 キは日米首脳会談でハワイ飛行場に降りた田中総理を凄い形相で睨みつけ。田中首相は米側反対押し切って国交回復。その後、米国不在の中、日本企業は中国に進出。日本が中国に先越して進出することには米国極度に警戒。東アジア共同体に協力に反対。





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最終更新:2024年01月13日 07:05