+ クチコミ検索 #bf
+ ブログサーチ #blogsearch
+ ニュースサーチ


+ 「神という嘘を守る者」
■ 神という嘘を守る者 「虚空と君のあいだに(2012.3.20)」より
+ 記事
 ・1872年、明治5年の9月、それはアメリカ公使デ・ロングから天皇へと聖書が(ヘボン・ブラウン訳聖書)初めて手に渡った瞬間である。
  この舞台をセッティングしたのが、当時の外務卿である副島種臣であり、彼が受け取り、「彼から天皇に手渡された」わけである。

  神道というものを作り上げ「騙して征服したぞ」という宣言。今まで禁じられていたキリスト教が、事実上の日本の国教となった瞬間である。

  ここらは日本の聖書~聖書和訳の歴史~という以前紹介した本の中で、キリスト者が嬉々として「佐賀藩はキリスト教を守った~&聖書が天皇にわたった、嬉しいね」と書いているよ。
---------------

■ 神道について知る前に 「虚空と君のあいだに(2012.2.11)」より
+ 記事
 ・コメントで、神道と日本に巣食う朝鮮族の関係を質問してくれた読者がいる。
  今回の説明で、その中身がすっきりするだろうが、その説明に入る前に、彼の誤解を解いておかなければならない。

  彼は、「神道という明確な宗教が存在する」と誤解している。
  この誤解は、読者の中でもしている人は多いだろう。

  神道というものは何か?
  それを説明する上で、ちゃんと宗教というそのものの本質から説明しておこう。
  なんだかんだで、これが一番の近道である。

  宗教とは「仮面」である。
  魔法の仮面だ。
  この仮面をかぶって悪いことをしても、悪いことにならない。
  それが宗教の本質である。
  それは、わけわからん高級羽毛布団はのせられて買わされると詐欺になるが、わけわからん高い戒名の代金を  坊主に払わされても詐欺にならないという簡単な事例でも、わかることである。

  これが、個人に対しての宗教の本質、仮面である。
---------------

■ 漢訳聖書 神が輸入された時期その1 「虚空と君のあいだに(2012.2.14)」より
+ 記事
 ・今でさえ、「神」という単語で、真っ先にキリスト教を連想するが、キリスト教は江戸後期まで日本と中国の両方で「天主教」と呼ばれていて、神なんて物は「一切」出てこない。

 ・基準として考えるべきなのは、1823年のマラッカで出版された神天聖書である。
  厳密にはこれが最初ではなく、そのもとなったのは1813年、広東で出版された「新遺詔書」であり、出版物として「創造主=神」となったのは、これが最初である。

 ・歴史上、創造神=神なんてあてたものは、「あるジャンルを除外する」と、インドの創造神を輸入した仏教でも、漢文つながりで同じく中国でもないわけね。

  さて、どこからともなく「創造神=神」が日本にいたと主張し、それが、恐ろしいほどの偶然で、キリスト教徒と同じ「神という単語」で物事を言い始めた時期と重なるという、不思議な「あるジャンルの人達」について説明しよう。

  それが「神道」である。
---------------

漢訳聖書 神が輸入された時期その2 「虚空と君のあいだに(2012.2.15)」より
+ 記事
 ・厳密には、神道ではなく、国学というジャンルになるが。 神道と神という単語を語る上で、彼らのジャンルの歴史書、日本書紀やら古事記、風土記やらについて。
 その説明は必要である。


 前回の記事だけでは反論があるだろう、「天照大神」という単語が出てくるではないかと。

 「創造神=神」で出てくるではないかと反論があるだろうが、簡単な話である。

 天照大神というのは、ただの漢文であって、『「天照」の「大いなる」「神秘的な力」が地上に降臨して~~をしましたよ』という漢文に過ぎない。

 こういう反論をしそうな神道馬鹿は、日本に仏教が伝来したとき、「蕃神」、「客神」、「仏神」などと当てて、なぞらえた呼び方をしたと主張する。
 「外の国の神」という意味でね。

 それなのに、天主に統一される前、神という一神教、カトリックの歴史で「神」という字が日本で当てられた事例はあるのか?、一切ないわけである。

(※ 詳細はブログ本文を。)
---------------

■ 日本の奥の院 その1 「虚空と君のあいだに(2012.2.16)」より
+ 記事
 ・まだ日本語でも漢訳でもないその聖書。
  人身売買組織、イエスズ会のナンバー2、ザビエルの言葉を「新しい詐欺国家の作り方が全部書かれている」と直してもかまわない。
  実際にそのとおりだから。

 ・キリスト教伝来時のザビエルと大内氏。
  明治維新のトーマス・グラバーと毛利。全く同じである。
  一緒にやった「詐欺国家の作り方」というレシピの料理人と捕食者なわけさ。

(※ 詳細はブログ本文を。)
---------------
■ 日本の奥の院 その2 「虚空と君のあいだに(2012.2.17)」より
+ 記事
 ・神道は、キリスト教が、日本をのっとる為に、西国=百済の末裔やら、この徳川の中の南朝思想やらの手先を作り、焚き付けて掲げた、「占領と洗脳の看板」であり、「キリスト教そのもの」である。

  彼らが、一から全てを作ったのではなく、大権現とか寺が神社になったように、いろんな地方にある昔からの祭壇やら、単なるその地区の集会所みたいなものまでもを、神社として作り変え、統治したのである。

  だから、看板であるとだけ考えるべきである。
  その勢力が、水戸学派と裏切りの徳川、仏教のとくに真言宗、神道勢力、毛利やら平田の周辺、あと鎌倉。とかとかなわけ。

  それが、漢訳聖書までは、日本には神という創造神がなかったことから読み取れる歴史である。
---------------

■ 神道でええじゃないか!とは言わせないよ絶対 「虚空と君のあいだに(2009.12.20)」より
+ 記事
 ・天皇=仏教の図式が、なんで明治以降は神道=天皇になったか?という話である。

  それは、明治維新=天皇すり替えという図式であり、それを行った奴が、当時開国を目指していた国際金融資本(グラバーなどのスコティッシュライト)と、その手先である。

  まあ、簡単に言うと、今も昔も神道とは、国際金融資本の手先であると言う事。

  今でも、統一教会(キリスト教原理主義的プロテスタント)が、神社全庁に食い込んでいるという図式である。根っ子をたどれば、CIA → KCIA → 統一教会である。




政教分離】 / 【創価学会
■ 天皇と宗教の問題-歪んでいる政教分離の原則 「万国時事周覧(2019-05-06 13:35:28)」より
/
 日本国憲法の第20条は、その内容により政教分離の原則を定めたものと解されています。同条1項の後段には、「…いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」とあります。しかしながらこの条文、今日の日本国の状況を見ますと、必ずしも遵守されてはおらず、むしろ、政教分離の原則は歪められているように見えます。

(※mono....中ほど略、詳細はサイト記事で)
/
 もっとも、近代以降、全ての国家にあって特定の宗教・宗派が完全に分離されているわけではなく、その国の国民社会に深く根付いている伝統宗教については、国家との結びつきが維持されています。宗教的に無色透明な国は極めて少なく、啓蒙思想の強い影響の下で建国されたアメリカでさえ、大統領はその就任式にあって聖書に手をおいて宣誓するのが慣例となっています。北欧諸国もまた、プロテスタントのルター派を奉じており、国民的な伝統としての宗教は、法の前の平等を旨とする法律や政策において特定の宗教や宗派を優遇することはなくても、国家と分離されているわけではないのです。その理由は、政教分離の名の下で国家から伝統宗教を消し去ることは、国民がその歴史において培ってきた伝統文化の破壊をもたらしかねないからなのでしょう。

また、日本国の場合には、政教分離の原則が憲法上の規定に至ったもう一つの理由があります。それは、戦後の占領期にあってGHQが神道界の政治的影響力を排除しようとしたためとも説明されています。江戸時代までの天皇に対する国民の素朴な意識と明治以降のそれとは大きく違っており(明治以前には、天皇が国民のために敵国懲服のために祈りを捧げることはあっても、国民が天皇のために命を捧げるという発想は一般国民にはなかったのでは…大伴氏を除いて)、明治以降にあっては天皇の神格化と共に神道を中核とする天皇信仰への傾斜がありました(同政策も、日本人の発想であったのかは疑わしい…)。戦時には、確かに戦争恍惚師的な側面もあったのですが、天皇の下で国民が一致団結して戦いに臨む姿にGHQが怖れをなしたとしても不思議ではありません。神道が政治に介入しないよう楔を打ったのが、憲法第20条であったとも言えます(もっとも、当時の神道界が自ら率先して戦争を誘導したわけではない…)。

以上の経緯を踏まえますと、今日の天皇をとりまく宗教状況は、どこかちぐはぐなように思えます。日本国憲法が天皇を国家・国民の統合の象徴と定め、伝統的な国家祭祀の役割については一切触れない一方で(違憲とする訴えさえある…)、特定の新興宗教団体による政治権力の行使と天皇と同団体との接近、あるいは、一体化が同時進行しているように見えるからです。

(※mono..以下略、詳細はサイト記事で)


■ 宗教の定義すら言えん「如何でも委員会」 「魂魄の狐神(2019-02-10 15:29:09)」より
/
「神道」とい言葉が初めて文献に出たのは、『日本書紀』の第三十一代用明天皇の条に、「天皇信仏法尊神道」である。 神道は日本民族の間に自然に生まれ育った、伝統的な神祇信仰であるから、此れに対する固有の呼称は無かったものとするのが事実であろうが、欽明天皇の御時に伝来した仏法に対比して、神道と表現することにより区別したものであろ。

(※mono....中略)
/
明治維新以降確定させた「神道」には、人々の救済を目的とした啓示としての教義では無く、日本の国体を国民に広く広める為に人為的に「神道」を求心力にしたものである。
 従って、「神道」は、日本の伝統的精神支柱として存在したものでも無く、天皇を民族の象徴として日本民族結集に利用する為、極めて人為的政治的な「標語」の様なものである。


日本の政治】 / 【神道】 / 【日本青年会議所
■ ポスト安倍は脱日本会議でなければならない 「代替案のための弁証法的空間(2018年03月21日)」より
(※mono....前半「日本会議」の記事と後半「青年会議所」の記事は略、詳細はサイト記事で)
/
 ついでに言うと、河野外相も含め、安倍内閣の閣僚全員が神道政治連盟に所属している。これには、「えー、河野さんまで」と信じられない思いである。 

 「神道政治連盟」といえば、今週号の『週刊ダイヤモンド』の特集は「劣化する伝統宗教 神社・仏教大騒乱」がすばらしい内容である。日本人必読といってよい内容ではないかと思う。
 巻頭インタビューは昨年末に刺殺された富岡八幡宮の富岡長子宮司の生前最後のインタビュー。富岡氏はその中で、神社本庁幹部からのパワワラ・セクハラから始まって、「私は神道政治連盟の幹部に脅された」ことまでが赤裸々に語られている。
 さまざまな政治的圧力がかかるであろうこの問題に深く切り込んだ同紙に敬意を表したい。同紙が政治的圧力を跳ねのけるためにも、「買って応援」を呼び掛けたい。

 最近の3月17日にも神社本庁が4000万円の所得隠しを行って脱税し、その資金を憲法改正などのための研究費用として貯めていたというスキャンダルが報じられた(NHKの以下の動画参照)。脱税して平気と考える人間たちが、そもそも「憲法」を語る資格があるのだろうか?



 「教育勅語」を一番読んでいないのは彼らであろう。教育勅語が強調するのは「國法ニ遵□ヒ(法律を遵守せよ)」とういうことである。しかるに、彼らは脱税しても、公文書を偽造しても、要するに法を破っても平気なようなのだ。


無宗教
■ イギリスで無宗教者が増加、いよいよ神道の時代だ! 「トラネコ日記(2017.12.13)」より
/
イギリスで「自分は無宗教だ」とする成人の数が過半数を上回り過去最高に
イギリスで社会調査を行っている国立社会調査センター(National Centre for Social Research)が発表した信仰している宗教に関する調査によると、現在イギリスで何の宗教も信じていないという人の割合が、半数以上の53%に達したという。 2015年の調査の48%から5%増えたことになる。

「無宗教」は特定の宗教を信仰しない、または信仰そのものを持たないという思想のことで、神の存在すら存在しないという「無神論」とは違うと解釈されている。

■ 減っていくイングランド国教会支持者
イギリスでは、無宗教の人の割合は、調査を始めた1983年当初に31%だった数字が、それ以降徐々に上がってきていている。 特定の宗教を信仰している人の数が減っていることは、特にキリスト教であるイングランド国教会に大きな打撃を与えている。 自分はイングランド国教会派だと考えている人はわずか15%で、2000年の半分になってしまったそうだ。

■ 特に顕著な若年層の宗教離れ
宗教を信じる人の減少は、特に若い人たちの間で顕著になっている。 2016年には、18~24歳の若者の71%が、なんの宗教も信じていないと答え、2015年の62%から増えている。

(※mno....中略)
/
<>現在イギリスで何の宗教も信じていないという人の割合が、
 半数以上の53%に達したという。 2015年の調査の48%から
 5%増えたことになる。 「無宗教」は特定の宗教を信仰しない、 
 または信仰そのものを持たないという思想のことで、
 神の存在すら存在しないという「無神論」とは違うと解釈されている。
無宗教だが無神論者ではない・・・
な~んだ、日本人の我々と同じじゃないか(笑)

この傾向は非常に重要な示唆をしていると思う。
無宗教者は宗教という枠組みから逃れたいだけではないのか?
教義から教会や神父・牧師の権威から自由になりたいだけだろう。

日本で出会った熱心なクリスチャンの何人かはこういった。
「神(キリスト)を信じれば心が自由になり解放される」と。
しかし彼らを見るとむしろ心は教義に束縛されているように思った。

そりゃそうだろう、神さんと契約して契約を履行しなければならない。
ならば契約事項の遵守は当然の事、信者の義務なんだからな・・・
ドグマ(教義)宗教とはそういうものじゃないのか?

(※mno....中ほど長文略)
/
日本の神道は、教祖も教義も布教組織も一切なし。
全国津々浦々にある神社8万8千社(まさに八百万)は、
地域の氏子が代々守り継承してきた市町村の聖域である。

そして仏教徒の融和性もよく神仏習合が千年数百年以上も続き、
神社と寺が合体した鳥居のある寺や神宮寺なども珍しくない。
この異種融合の精神が日本文化そのものである。

だから日本の神々は皆仲が良く喧嘩もしない。
他の神様を拝んだからといって嫉妬もしないし怒りもしない。
ましてや異教徒を殺せなどという恐ろしい命令も下さない。

(※mono....中略)
/
最後に・・・

「神道の時代」といったのは比喩である。

神道の時代とかいうと、馬鹿サヨクが侵略戦争の思想とか言いそうだから、
誤解なきよう断っておくが、タイトルにある神道の時代というのは、
別に神主や天皇が世界を支配するという意味ではない。

教祖も教義も布教活動も何の束縛もない宗教という事だ。
他の宗教とも共存し、互いを尊重し宗教戦争も起こさない、
人類共存・世界平和の為の基本原理という意味である。

   縄文時代以来脈々と続く八百万の神々が
   平和共存する神道こそ世界に必要な心だ!


■ 国家神道は“物語がお好き” 安倍も“夢物語”のホラー奏者 「世相を斬る あいば達也(2016.6.13)」より
(※mono.--前後略、『神道』関連記事のみ。)
/
相当離れた場所から、日本の世の中を眺めていると、“物語で、でっち上げられ”(古事記、日本書紀)たと云う歴史の原点を持ち、明治維新で、その物語性の上にペンキを塗りたくった。「脱亜入欧」という“物語を重ね”「廃藩置県」、「神仏分離」をおこなった。そこで、日本の歴史改竄が二重に行われた。そして、第二次世界大戦でボコボコにされるまで、“二重の物語”の中をほっつき歩いていた。そこで、「物語の中に生きる日本」が大きく是正されれば良かったが、アメリカンデモクラシーと云う香辛料を吹きかけられて、“手にも負えない”愚民を生むに至った。

その愚民度は、年年歳歳ブラッシュアップされ、遂には「物語しか口にしない内閣総理大臣」を生むに至った。しかし、愚民たちは、まさか内閣総理大臣や日銀の総裁や、日経新聞やNHKが、真面目な顔で「物語を読み聞かせている」とは露知らずなのも、ムベなるかなである。なにせ、話している内閣総理大臣が「物語ではなく真実だ」と思い込んでいるわけだし、次第に「物語を作る」事になれた、官僚もマスメディアも、土台に「物語がある」という記憶を飛ばしてしまうの、「物語が真実」になる。まあ、現代ビジネスの記事は、虚しい説教だと知りつつ、一応語っているのだろう。


天皇
■ 夕方に寝て早朝に起きる 「二階堂ドットコム(2016.5.10)」より
(※mono.--前後略)
/
人間は思わぬところでずっと前に聞いていたのに気づかないことがある。たとえば天皇だ。天皇は出家すると「法皇」と名乗ったそうだが、これすなわち、「仏教の方が上だ」ということで、明治に無理矢理作った「国家神道」なんてのは単なる新興宗教だということになる。帝になるときに仏教で、それから神道に変わった奴なんていない。つまり、神道自体は仏教より下の八百万なのだ。そこに神の力をかりようなんてのがどだい無理な話で、それを考えると、天皇にそんな日本の最高峰の神官の力などは存在しない。むしろ出家してもらって法皇となのってもらったほうがいいのではないか?

法力ならば、兵庫の鏑射寺の中村という坊さんの方がよほど上なのではないか?と思う。まぁ人間気づかないことはたくさんあるもので、おもわぬときに「あッ」と思うものだ。


★ 駐日40年のサンマリノ大使「最も謙虚な日本人」について語る 「ガシェット通信(2014.6.6)」より
/
 2014年6月22日にヨーロッパ初の神社がサンマリノ共和国に建立される。駐日大使153カ国の代表である「駐日外交団長」で、サンマリノ共和国特命全権大使であるマンリオ・カデロ閣下もこの神社建立を心から喜ぶ。このほど『だから日本は世界から尊敬される』(小学館刊)を上梓したカデロ閣下に話を聞いた。

カデロ:私は敬虔なローマンカトリック信者です。ですが、それでも神道の素晴らしさはよくわかります。神道は自然を神と崇めて大事にしつつも、他の宗教に対しても寛容であるので、広い視野で物事を捉えることができる自然哲学だと思っています。そのような神道の神社を母国に建立できることは本当に光栄なことです。神道は日本文化の根幹といってもいいほどです。

--閣下は靖国神社についての理解も深いですね。

カデロ:靖国神社のことは、国際的にも凄くナーバスなことになっていますが、私が思うに、中国や韓国などはとても大きな誤解をしているのではないでしょうか。

靖国神社は145年前にできた神社です。第二次世界大戦のずっと前です。靖国神社のような、国を守るために亡くなった軍人を慰霊する場所は世界中どこにでもあります。イタリアにはヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂がありますし、フランスのパリには凱旋門がその役割を果たしています。アメリカやドイツにもあります。日本ではそれがたまたま靖国神社なのです。

--駐日外交団長として天皇陛下に拝謁する機会も多いと伺っています。

カデロ:2011年、外交団長に就任してからは毎年、天皇誕生日の茶会の儀に参列し、天皇陛下に祝賀スピーチを申し上げるという大役を仰せつかっております。3回ほど祝賀スピーチをさせていただいておりますが、毎回身が引き締まる思いでいっぱいになります。2013年の茶会の儀では国歌『君が代』と和歌をテーマにスピーチさせていただきました。私のスピーチが終わると、陛下はわざわざ私のところまでいらしてくださり、『大使、日本の文化に詳しいですね。もう何年日本に住んでいらっしゃるのですか?』と、お言葉をかけてくださいました。陛下にお言葉までいただけるとは本当に光栄なことです。

日本に居を移して40年近くになり、数多くの日本人に会いました。国会議員や大会社の社長など地位の高い人も数多くいましたが、最も謙虚な方は陛下です。立ち振る舞いが優雅で、周囲にとても気をつかわれます。私は陛下のことを心より尊敬申し上げております。

--外交官として尊敬する日本人がいるそうですね。

カデロ:日本には、私が外交官として尊敬する人物が何人もいます。まず、はるか400年以上も前に大きな使命を与えられてヨーロッパへ渡った伊東マンショら少年遣欧使節たちです。マルコ・ポーロやバスコ・ダ・ガマ、クリストファー・コロンブス、マゼランなど確かに偉業を達成した人物はいますが、彼らは国から莫大な資金を与えられたプロのナビゲーター(航海士)でした。それに引き替え、伊東マンショらは当時13~14歳の少年たちでした。彼らこそが偉大な外交官なのです。少年使節の大偉業をもっと日本人は誇るべきだと考えています。

また、第二次大戦中に6000人ものユダヤ人の命を救った駐リトアニア日本国副領事だった杉浦千畝氏の勇気も賞賛に値します。日本と同盟国にあったナチス・ドイツに命を狙われる可能性もあったし、外務省の命令に背いてまでも人命を優先しました。外交官として、いや人間として尊敬すべき人物です。

--大の親日家とも聞いております。

カデロ:日本人の道徳心の高さ、親切さはまさに世界に誇ってもいいくらい立派なものです。それは先の東日本大震災の被災者たちの姿を見てもわかります。

こんなに勤勉で、真面目な民族は世界に類を見ません。だからこそ、第二次世界大戦後の荒廃の中から不死鳥のごとく蘇り、世界のトップに比肩するまでに駆け上がることができたのです。日本は戦争で一番苦労をした国です。日本に一番ダメージを与えたのはアメリカです。にもかかわらず、現在では日本とアメリカはとても仲の良い国です。戦後70年の時間を経てそういう関係になりました。ベトナムとアメリカも戦争をしましたが、現在では仲の良い国です。ヨーロッパでもナチス・ドイツがありましたが、現在では近隣諸国と良い関係を築いています。それなのになぜ、中国と韓国は日本に対していまだに過去のことを水に流せないのでしょうか。

そして、日本は自国の発展だけでなく近隣のアジア諸国をいかなる状況下でも、様々な方法で支援してきました。経済的側面だけではありません。あらゆるアジア諸国は、日本の生活様式や制度をお手本として、自国の生活様式や政治の改革を大きく前進させてきました。アジアと世界の平和と自由と経済発展に貢献してきました。だからこそ、ごく一部を除く世界中の国々から感謝され、尊敬されているのです。日本人はそのことに自信を持っていいと強く思います。


明治維新
■ 為政者が歴史を口実に使いだすときは全体主義化の始まり 「Various Topics(2013.11.22)」より
(※ 前後略)
/
 明治国家の最大の目的は、帝国主義戦争に生き残ることで、このために徳川300年の平和に慣れた国民を戦争に動員する必要があった。西洋には君主を超えた神の権威があるが、明治になってかつぎ出された天皇にはそういう重みがなかったので、国体という概念が作られ、国家神道という宗教が創作された
(※ 太字はmonosepia)

イスラム教】 / 【神道
■ イスラム教のスンニー派対シーア派で世界が分裂 「ROCKWAY EXPRESS(2013.10.25)」より
/
 イスラム世界がスンニー派とシーア派とに分かれていて、欧米諸国はスンニー派に肩入れする形になっているが、実はこのスンニー派こそ、アルカイダやその他の過激派の温床であり、「テロとの戦争」を公言しているアメリカの敵になるグループが属している宗派である。

 宗教上の対立というものは、信念と信念との衝突であるから、解決が困難である。しかも宗教的対立であるから、人生観や死生観の衝突であり、肉体的生命を超えさせる力があるから長期的な対立になる。

 ここで思い出すのは、日本の神道と仏教の衝突のケースであるが、日本はこの二つのいわば宗派というものの衝突をうまく乗り越えてきた歴史がある。衝突しなかったわけではないが、外国に見られるような激しい対立で多くの人間が殺され、その対立が何百年も継続する、ということがなかった。

(※ 以下詳細はブログ記事で)


■ 神道と仏教並存の真相 「新説・日本の歴史」より

 ・日本では、昔から、神仏混合の風習があり、神道と仏教の共存があたりまえのように考えられてきた。しかし、最近の研究によるとこの神仏並存は、意図した方向でなく、藤原氏の苦肉の策との見方がある。今回は、この真相を推理する。
































.
最終更新:2019年02月10日 20:55