コンゴ〔言葉で検索〕 / パトリス・ルムンバ〔言葉で検索〕
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☆ コンゴ民主共和国 「Wikipedia」より
   1885年 - 1908年 コンゴ自由国(ベルギー国王の私有地)
   1908年 - 1960年 ベルギー領コンゴ
   1960年 - 1967年 コンゴ共和国
   1967年 - 1971年 コンゴ民主共和国
   1971年 - 1997年 ザイール共和国
   1997年 - 現在 コンゴ民主共和国



■ アフリカが、コンゴが危ない 「私の闇の奥(2011.10.27)」より

 ・読売,朝日、毎日、産経、日経、西日本をチェックしましたが、今回のリビア紛争を大局的に見た場合の核心がアフリカ問題であることにいささかでも触れた社説は見当たりません。この事の他にも心の凍る想いのする共通点がこれら六つの社説にありますが、今日はリビア問題がアフリカ問題である事を、これ以上の明確さは望めないような形で説いた John Pilger の論説の翻訳を試みます。この論説はカダフィ死亡の直前の10月20日に発表されました。

『アフリカの息子、大陸の王冠宝器を要求』  ジョン・ピルジャー

10月14日、バラク・オバマ大統領はウガンダの内戦に参加するUS特殊部隊を派遣すると声明を出した。これからの数ヶ月間USの戦闘部隊が南スーダン、コンゴ,中央アフリカ共和国に送られるだろう。アメリカ兵たちは“自衛のため”にのみ“参加する”ことになろうとオバマは諷刺か何かのように言う。リビアを確保した今、アメリカのアフリカ大陸侵略の幕が切って落とされたのだ。


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■ パトリス・ルムンバの暗殺(1) 「私の闇の奥(2011.11.16)」より

 ・1961年1月17日午後9時40分過ぎ、コンゴのカタンガの森の中でパトリス・ルムンバは、ベルギー軍憲兵たちによって、銃殺されました。35歳。今年は50年の記念の年に当ります。去る1月にはニューヨークタイムズやガーディアンなどにもパトリス・ルムンバ暗殺回顧の長い記事が出ました。
  この暗殺を“二十世紀で最も重要な暗殺”と呼ぶジャーナリストや学者がいます。二十世紀中には、ガンジー、ルクセンブルク、トロツキー、ケネディ、ルーサー・キング、などなど、実に枚挙にいとまのない無数の暗殺が行なわれましたから、二十世紀で最も重要な暗殺という措定は異常にも思え、注目に値します。理由を探らなければなりません。パトリス・ルムンバを殺した同じ力が同じ理由で、この記念の年の10月20日、リビアのカダフィを殺しました

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■ パトリス・ルムンバの暗殺(2) 「私の闇の奥(2011.11.23)」より

 ・コンゴで西欧が犯した残虐行為の記録文書は著述家アダム・ホクシールドのおかげでより広くの人々の知るところとなった。彼の著書“レオポルド王の亡霊”はアフリカ人の研究者や学者が及びうるより広汎な読者層に達したのだ。ホクシールドはマーク・トウェーンの作品を足場にして植民地経営がもたらした略奪と殺戮をより多くの人々に知らしめた。

 ・マルコムXは、彼の全盛期に、主流の歴史家たちに挑戦して、アフリカ全土にわたる大虐殺の歴史をルムンバの殺害とコンゴ人の民族自決の希求に結びつけた
  米欧のアフリカ研究の諸センターで学問的訓練を受けた学者たちは繰り返される暗殺についてはっきりと書くことが出来ないでいたが、それはアカデミックな世界がアフリカ人を非政治化する役を果たす近代化論的論説に汚染されてしまっていたからだ。

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■ パトリス・ルムンバの暗殺(3) 「私の闇の奥(2011.11.30)」より

 ・ルムンバやハマショルドが死んだちょうど50年前のコンゴでCIAのdirty jobs を切り盛りしていた Larry Devlin という人物(2008年12月,86歳で歿)が2008年2月に出版した『Chief of Station, Congo 』という注目すべき回顧本があります。“真相は実はこうだった。今だから話そう”といったタイプの書きぶりで、ルムンバの暗殺にもハマショルドの墜落死にもCIA は関与しなかったとしています。ちょうど今の私と同じ年齢に達した老人が、今はの際に、真実を語ったのかも知れませんが、この本を読みながら、私の直感的臭覚はCIA の鼻持ちならぬ悪臭を嗅ぎ付けます


■ パトリス・ルムンバの暗殺(4) 「「私の闇の奥(2011.12.14)」より」より
キャンベル教授の論考:50 years after Lumumba: The burden of history, Iterations of assassination in Africa.(ルムンバから50年:歴史の重荷、アフリカにおける暗殺の繰り返し)の翻訳の続きです。

 ・2002年2月、ベルギー政府はルムンバ暗殺の道義的責任を正式に認めた。ベルギー外務大臣は「今日適用されるべき判断基準に照らして、当時の一部政府役員とその時期の一部の政府関係者はパトリス・ルムンバを死に至らしめた一連の事件に対する弁解の余地なき責任を担う。」

 ・1999年の末には、ワシントン・ポストに掲載された一つの記事で、1960年、コンゴでパトリス・ルムンバを抹殺すべしという命令をアイゼンハワー大統領が直接与えていたという事実が公式に確かめられた。

 ・ルムンバ暗殺の裏に隠された真の真実を歪曲するために、Larry Devlin は,死の直前、彼自身の回想録“Chief of Station, Congo. A Memoir of 1960 — 67”を出版した。デヴリンの本は、アメリカの外交政策の決定的要素となっていたものをリサイクルしようと試みた。つまり、ルムンバは共産主義者であったのであり、アメリカはアフリカにおける共産主義の蔓延を阻止する行動をとったのだという冷戦中の歪曲を再燃させようとする愚かしい試みであった。


(※ 動画の紹介から)
 ・1960年、コンゴは春を迎えたはずでした。豊かな天然資源にめぐまれ「アフリカの宝石」と呼ばれながらも、19世紀末以来、まずはベルギーのレオポルド王個人の領地として、その後はベルギーの植民地として、象牙やゴム、ダイヤモンドなどの莫大な富を吸い上げられ、残虐な扱いを受けていた人々が、ついに独立を勝ち得たのです。独立運動の若き指導者、パトリス・ルムンバが民主的な選挙で首相に選ばれ、コンゴは理想主義と希望にわきあふれるかに見栄(※ママ⇒見え)ました。だが、政権は10日も続かず、クーデターで追われたルムンバは逮捕され、翌1961年1月17日に惨殺されます。35歳の若さでした

 ・ルムンバ暗殺50年を期して放送されたこのセグメントでは、逮捕されたルムンバが寝返った元独立運動の盟友モブツにおとしめられる苦難の映像や、元CIAエージェントによるルムンバ暗殺への米国の関与に関する証言など貴重な映像もみられます。(大竹秀子)


■ コンゴ大統領選不正から内戦が誘発されるか 「極東ブログ(2011.12.15)」より

 ・「アラブの春」や「欧州危機」の話題に隠れて国内では報道されない、というほどことでもないが、コンゴの不穏な状態について、その内情についての報道は見かけない。ざっと見渡したところ、扱っているブログもなさそう(※1)だし、想定外の方向に展開する可能性もあるかもしれないのでメモしておきたい。



 ・今日からアフリカ開発会議が横浜で開催されています。
  福田首相が演説をしました。

  ◎演説全文 / 魚拓

  演説全体の1/3を「経済成長→民間投資→道路建設」で占める内容です。日本で道路がつくれなくなるかもしれないのでアフリカでつくるのか?という冗談はさておくとして、突っ込みどころ満載です。

最終更新:2012年05月23日 21:40