☆ 詩の礫[和合亮一]pdf
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本日で被災六日目になります。物の見方や考え方が変わりました。
放射能が降っています。静かな静かな夜です。
(2011.3.16)
+ 続きの記事抜粋、詳細はファイル記事で
02
どれだけ私たちを痛めつければ、気が済むのか。雪はみぞれはここで、こんなにも厳しす
ぎる。
父もまた あどけない 幼いきみの笑い顔から いつか 卒業しなくてはいけないね 母
もまた あどけない 幼いきみの泣き顔から いつか 卒業しなくてはいけないね
(2011.3.17)
03
あなたの街の駅は、壊れていませんか。時計はきちんと、今を指していますか。おやすみ
なさい。明けない夜は無いのです。旅立つ人、見送る人、迎える人、帰ってくる人。行っ
てらっしゃい、おかえりなさい。おやすみなさい。僕の街に、駅を、返して下さい。
あなたはどこに居ますか。私は暗い部屋に一人で言葉の前に座っています。あなたの言葉
になりたい。
あなたはどこに居ますか。私は閉じ込められた部屋で一人で、言葉の前に座っている。あ
なたの閉じ込められた心と一緒に。
世界はこんなにも私たちに優しくて、厳しい。波は今もなお、私たちに襲いかかろうとし
ている。あなたはどこに居ますか。私たちの寄る辺はどこ?
南相馬市の夏が好きだった。真夏に交わした約束は、いつまでも終わらないと思ってた。
原町の野馬の誇らしさを知っていますか?
南相馬市の野原が好きだった。走っても走ってもたどりつかない、世界の深遠。満月とス
スキが、原町の秋だった。



★■ 震災から2年が経った今「Twitter詩人」和合亮一に聞く 1 「エキサイトレビュー(2013.4.16)」より

★■ 日本は今、最終電車に乗っている。後がない「Twitter詩人」和合亮一に聞く 2 「エキサイトレビュー(2013.4.18)」より


★ 詩人・和合亮一さん、震災後の活動で離れていった人も 「iza![産経新聞(2013.3.21)]」より
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 【話の肖像画】福島 起承転転(中)

 〈私は ある詩人に こんなふうに叱られた 「あなたは黙ることを知らない 困った詩人だね」 それは 違うよ 詩人さん 黙っているのは この目の前の世界なのさ 何も語らないのは ほら 数字だけ 0.912(平成24年5月27日)〉

 --震災後の活動や詩が詩壇の一部で厳しい批判にさらされた。新刊「詩の礫(つぶて) 起承転転」には、そうした批判に対する思いが率直につづられています

 和合 (厳しい声には)やはり傷つきました。これまで20年間、ずっと仲良くしてくれていた先輩が離れていったり、詩を書くことを応援してくれた大学の後輩や飲み友達の中にも離れていく人がいたり。孤独も深くなる。自分の行動は間違っているのか? 同じことを続けることが逆に福島を見つめたくないという気持ちを招き、風化を早めるのでは? 何度も自問しました。でもそうしたことをすべて受け止めて言葉にしていくのが自分の文学だ、とも思ったんです。ずっと励ましてくれた詩人もいましたから。教員として落ち込む生徒に「おまえのことを助けてくれる友達は必ずいる」と普段は言っているけれど、「この言葉、自分にも当てはまるよなあ」なんて思いましたね(笑)。
+ 続き
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記事本文の続き --来月には現代詩集「廃炉詩篇」も刊行される。震災前に和合さんが追求してきた抽象度が高く、難解な詩が並んでいます

 和合 「詩の礫」を続けながら、震災前までやってきた縦書きの現代詩を書けるだろうか?とずっと不安でした。「詩の礫」は降ってきた思いをすぐに直球で投げる。現代詩集の「廃炉詩篇」の方は、一つの詩に1カ月くらい時間をかけて、言葉の結晶度を高めている。比喩が込められ抽象性も高い。「廃炉詩篇」では震災のことを書きながら、違う次元のことを書きたいと思ったからです。普遍性のあるものに昇華させよう、と。

 --創作のアプローチが違います

 和合 一昨年に「詩の礫」を出したときは、自分の中でも「今までやってきた詩とは全く違う。実況中継のような感じだな」と思っていた。でも今回「廃炉詩篇」のようなシュールレアリスム(超現実)の現代詩を書いて、即時性のある「詩の礫」とも自分の中で重なりあっていく感触があった。思いはどちらの詩集も同じなんですね。方法が違うだけ。「この福島の現実を描きたい」という気持ちは変わらない。

 〈私の中には 鬼がある 鬼よ 恐ろしい形相の鬼たちよ どうか これらの地獄の季節を 剣を持ち 舞いながら 鎮めて欲しい この世の 残酷さを 無念さを 食べてしまって欲しい(平成25年2月16日)〉

 --今年に入って、ツイッターに「鬼」のイメージを多用した詩が出てきます

 和合 2月に北上市(岩手県)のデパートで伝統芸能の「鬼剣舞(おにけんばい)」を見る機会があって、鬼のイメージがずっと頭の中にあったんです。日本には鬼の話や踊りがいっぱいある。鬼というのは、災いで人々が感じた悲しみや怒り、嘆きを、その人たちに代わって厳しい顔をして踊ってくれるものでは…と僕は考えたんです。だから今回の震災を機に、新しい鬼の踊りを福島でつくりたいと思う。踊りの謡いや前口上に詩を入れる。それが震災の意味を伝える象徴的な何かになるのではないか、と。100年後に残そう、と考えたときにツイッターの詩だけではだめ。結晶度の高い現代詩の言葉とも交ぜ合わせながら、後々まで伝えられる言葉を探したい。(海老沢類)

■ 「現代詩手帖」震災特集のいろいろ気になる問題 「西谷の本音でトーク(2012.6.25)」より
(※ 前後略、詳細はブログ記事で)
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ここでは最小限の言及にとどめるが、その最初の対象は藤井貞和と佐藤雄一の対談「もっと原理的な問いへ──震災以後の詩学」である。佐藤というひとをわたしはまだよく知らないが(それはこの間のわたしの現代詩離れという時差ボケのせいだが)、哲学的な知識や現代思想的な感度も良好なひとらしく、藤井をリードして問題設定に励んでいるところなど見どころがある。ただ、和合亮一のツイッター震災詩への過大な評価と、それにたいする批判へのやや紋切り型が気になる。批判しているひと(わたしもそうだが)がツイッター詩だから単純にいけないと言っているわけではなく、震災というオポチュニティにたいする取り組みかたとそのことばの荒れかたにたいして問題を見ていることが看過されている。膨大な読者が獲得されたことが事件なのではなく、「がんばろう日本」式の読者の共感がどこかヒステリー的現象に堕していることを詩人が安易に認めていいのかということに疑問を呈しているのである。これに同調している藤井さんもどうかしている。まあ藤井さんには湾岸戦争のとき以来、社会的事件にたいする過剰な思い入れをしやすく、ときにファナティックになるところがあって、震災の事態を「ポストモダン系のひとたちは、どこかで自業自得と思って受け入れてほしい」などとちょっとトンチンカンなことを言っている。

■ 和合亮一はいつのまに福島の桃売りの手伝いをするようになったのか。 「テレビ漂流(2011.9.3)」より
(※ 前略)
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この和合なる詩人が書いているパンフで市長はこう書いている。
「国が定めた暫定基準値を下回っています。」
「暫定基準値」とは何か?
食品に含まれる放射性物質の放射線量の許容基準が食品衛生法にはなかった。
そこで原子力安全委員会が一方的になんら衛生的な根拠もなく恣意的に一時的な基準を定めたのだ。
それが1キロあたり500ベクレルというセシュウムの量。

ちなみにあのチェルノブイリでさえ1キロあたり8ベクレルが限界。
ドイツ放射線防護協会は、4ベクレル未満(セシウム)じゃないと食べれないと声明している。
日本では500ベクレル。こんなデタラメな話があるだろうか。

福島県の桃にたいする測定方法は全品検査ではなく、サンプル調査であり、
しかも福島市からわずか10キロはなれたところで採れた桃の検査。

いや、そんなことより何より、これまで散々産地偽装などに手を貸してきた知事、市長たちの
欺瞞とウソにまみれた発言をみるにつけ、だれがこんなものを買うか。

子殺し人殺しにつながりかねない食品を詩人が全国に拡散することに協力する。
これはもはや犯罪だ。

■ 福島から発信するということ(1)もしくは「和合亮一」という「愚かさ」の使い方 「大震災の中で(2011.6.18)」より
(※ 前略、詳細はブログ記事で)
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一方「福島」を巡って、
それを中心とした言説空間が立ち上がるのも当然といえば当然。「福島」は今ある意味で「言説世界の中心」的な話題でありつづけているのだから。

というわけで、1つだけコメントしておきたい。

和合亮一という詩人のことばについてだ。

個人的に面識のあるヒトについて個人名を挙げてブログで書くことになるとは思わなかったので、非常に話題の扱い方が難しいのだが、もちろん、人についてではなく詩人のことばについて、その詩人の「利用方法」について人格を経由しない疑問を述べておきたいのだ。

福島を主題とした和合亮一の詩は、今週のNHK9時からのニュースでも特集された「福島」から世界に発信されつづけている「Twitter=詩」である。

「福島は私たちです。私たちは福島です。」

「避難するみなさん、身を切る辛さで故郷を離れていくみなさん。必ず戻ってきて下さい。」

「福島を失っちゃいけない。東北を失っちゃいけない。」

といった、脳みそショート(短絡)系の内容で、「意味」的には

詩人の脳みそ=福島=津波=原発事故=世界

が区分を超えて、福島に在住する詩人の「身体」において繰り返し「短絡」していくのがポイントの詩である。
+ 続き
元来、和合亮一の名において呼ばれることばたちは、意識的に構築される論理や身体的な基礎をもつ心情に「制御」されず、むしろスーパーフラットな平面を、時には知的な上昇/降下をことばが感じ、時には心情的「多動」を担い、二次元的でありながらほとんど「光学的」に三次元的な「自由」を謳歌するものであった、という印象を持つ。

今回「福島」からの彼の名において発信された詩は、今まで「詩人」たちの間でのみ評価されてきたその「動物的」ともいえる「自由な動き」を持つ「言葉」が、大震災という決定的な現実側の「出来事」によって詩人の身体を「福島」に「固着化」させることにより、詩人の脳みその中で「ことば」において常に生起していた「ショートサーキット」が、今回は「福島」と「世界」において起こった、のではないか。
そういう意味では、和合亮一の名を持つことばだからこそ、スーパーフラットな空間を世界の果てまで「滑走」していくことができたのに違いない

さてしかし、私にはそれは、詩人としての「愚かさ」という美質の、根本的に不適切な使い方ではないか、と見えてしまう。

むろんことばの使用に間違っているも正しいもあるはずはない。

けれど、不適切な使用というものはあり得るだろう。

和合亮一の詩が「動物的」で「愚か」であることはまちがいない。それはむしろその詩のたぐいまれな嫉妬すべき美質だ。

だが、「福島において生活し続けること」はそれほど動物的でも愚かでもありえないのではないか。

「福島」と「世界」を短絡させて結んでしまう彼の名前を冠された詩は、詩のことばに「力」
がある分んだけ、そのことによって「福島」の別の側面を隠蔽する言説の「権力的効果」を同時に保有してしまう危険がある。

福島の外部にいて、その福島と世界を短絡された詩を享受するヒトにとって、「心に響く」彼の詩は、逆にいえば「心に響きにくい葛藤」に届かないまま「いやされる」ことにつながってしまいかねないだろう。

そんな「相田みつを現象」的なことが詩人の守備範囲外なのは、はじめから分かっている。

でもね。

今「福島」においてもっとも必要なのは、かつて福島には手放しで「幸せ」があったかのようなインチキな言葉をばらまくことではなく、その福島こそがもっとも原発に協力してきた加害者「でもある」苦さを見つめつつ、どれだけの放射能を浴びながらここに踏みとどまるのか、というツラい選択を日々しつづけることなのではないか(たとえばの話、ね)。

そこから見ると、和合亮一の詩のことばの「使用」は不適切だと見えてしまう、ということだ。

福島を選択しつづけることも、福島から離れることも、どちらも私たちを引き裂く。それは、大災害や原発事故だけが、福島の人々を引き裂いた、のではないだろう。

もしそうであるなら、原発事故や大震災以前は何も問題がなかったかのような、そしてそれを失ってしまった不幸を嘆くような、センチメンタルなショートサーキットは、「福島」に瞳をひらかせることではなく、瞳を閉じことに終わってしまう。

それもまた、「愚か」で「動物的」である限りにおいてまれな「美質」を持つ和合亮一の詩のことばの守備範囲ではない、というのだろうか。

しかし、和合亮一の詩の言葉では、肝心な瞳を凝らすべきさまざまな「人為」によって生じた「裂け目」それ自体が回路短絡してしまい、見えなくなってしまっている。

だからこそ、あとはことばが「愛妾換馬」の身振りのように、スーパーフラットな平面をどこまでも流通していくことになる、ということになっていないか。

原発を容認してきた福島県民の「苦み」や「痛み」、ことばになりにくい「葛藤」はすくなくてもそこにはない。
だから、原発を容認してきた福島以外の(とくに首都圏)の人々も、この詩人のことばは
受け入れやすい。

しかし、サバルタンな、声にならない従属化した声に耳を澄まし、声を挙げることこそが、まずもって詩人の役割だったのではないか。
そうであるなら、繰り返すがたぐいまれなる「愚かさ」の美徳をもっていた彼の詩のことばが、不適切な使用をされているのではないか?

繰り返しになるが、私は和合亮一の詩に、ないものねだりをしている。それは彼の詩が抱える問題だけでは、おそらくないのだろう。

同じく彼を知る友人のコメントは

「市場が福島に詩人を欲望したのだ」

ということだった。なるほどね、と思った。

ただし、そういう点でいえば誰でもよかった、ということになってしまいかねない。
そうではない、というのは詩の読めない素人の私にも分かる。

和合亮一の詩のことばの美質があるからこそ、その「福島」という事件の現場に釘付けにされた詩人の「肉体」を伴って、はじめて「福島」は「世界」と出会った、ということなのだろう。

しかし、和合亮一という詩人自身がそのことばについてエクスキューズしているように、詩人の内部においてすでに狂気と理性の「裂け目」は「処理」されており、あとは時間軸を持たない「センサー」の役割に徹してことばが紡ぎ出されてくる。

一見彼の詩の言葉において「時間」に見えるモノも、それはあまりにナイーブな「音」や「映像」において表出されるにすぎない。

その出会わせ方だけでは世界を半分で生きることになりかねないよ、という危惧が、これを書かせている。世界を半分に縮減してしまった上での中心は、楕円の中心の一つでしかないのだから。

繰り返すが、和合亮一の詩に全てを求めるのは筋違いだ。

分かっている。

今は「小判鮫」のように注釈を加えることしかできないのは、あくまで私の「能力の欠如」であって、間違っても彼の詩の瑕瑾ではない。

だからこそ、岩に爪の跡を残すように、「読まれない」文章をこうして書いている(苦笑)。

しかし、彼の詩を賞揚する受け手は、注意深い「扱い」をすべきだ。「市場」として彼のことばを消費して終わってしまうのか、来るべき、そして未だ語られていない「声」の痕跡を、この詩人の言葉の彼方に、この詩人のことばの「意図」を超えて、感じようとするのか。

散文的=精神的なことばが福島から紡ぎ出されるまでには、今少し時間が必要だ、という当たり前のことなのかもしれないが。

「私たち」でもある私は、共感求め続けるだろう。

しかし、「わたしたち」ではない私は、粘り強くもう一つの楕円の中心を探し出そうとしつづけなければなるまい。

■ 松浦寿輝「afterward」、和合亮一「詩の礫(つぶて)」 「詩はどこにあるか(2011.3.29)」より
(※ 前略)
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和合亮一の「詩の礫(つぶて)」(ツイッターでの発言)が同じ朝日新聞に紹介されている。


 5日ぶりの買い出しをする。トマトを買おうと思った。余震。店外退避。戻る。トマトを買う。家に持ち帰り、塩を振ってかじりつこうか。熟れたトマトを持ってみて、分かった。野菜が涙を流していること。(23日)


 短いことば。削り込んだことば。そのなかに「家に持ち帰り」ということばがさしはさまれる。これはきっと、いま、しか書かれないことばである。トマトを買う、それは家に持ち帰り食べるのが当たり前だから、普通は書かない。けれど、いまはその「いつも通り普通に」が成り立たない。だから「特別なことば」になる。いまの和合を刻印したことばになる。そういうことばを通って、ことばは正確に動く。


野菜が涙を流している


 あ、それは「野菜」であって野菜ではない。それは和合であり、ことばをまだ「声」に出していない多くのひとたちなのである。「トマト」のなかで和合は、多くのひとと出会い、手をつないでいる。
 こんなふうに、いま、ことばは動き始めている。
 「熟れたトマトを持ってみて、分かった。」というのも感動的である。「持つ」という動詞、肉体とものとのつながり――すべてのことは「つながる」ことで「わかる」へと動いていくことができる。
 いま、多くのひとが「つながる」ことを求めている。「つながる」ために動いている。


★ 行き着くところは涙しか…福島の詩人、ツイッターで発信 「asahi.com(2011.3.29)」より
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 福島市在住の詩人で、中原中也賞受賞者の和合亮一さん(42)が、インターネット上のツイッターで東日本大震災の状況を発信している。140文字以内の投稿はこれまでに約650。心を揺さぶる「つぶやき」に、多くの人たちが呼応している。
+ 続き
 和合さんは福島県立保原高校(同県伊達市)の国語教師。地震が起きた11日は同校で入学試験の判定会議中だった。教師になって初めての赴任先は県沿岸部の南相馬市にある相馬農業高校。それだけに地震、津波、原発事故に襲われた浜通り地方への思いが人一倍強い。

 「何か、言葉を発することで役に立てることはないか」。「詩の礫(つぶて)」と命名し、16日に最初の約40作品を載せた。《放射能が降っています。静かな静かな夜です》《この震災は何を私たちに教えたいのか。教えたいものなぞ無いのなら、なおさら何を信じれば良いのか》《行き着くところは涙しかありません。私は作品を修羅のように書きたいと思います》

 翌朝、和合さんのツイッターをフォローする人は500人ほどに。さらに投稿すると次々と増え、28日時点で約4500人になった。

 読んだ人からはすぐに反応がくる。「新宿で飲んでいたが、今、帰ってきて読んでいます」「テレビの情報ばかり見ていると不安になる。この詩を見てホッとした」「心が折れそうになっていたが、進むべき道が見えてきた」……。

 作品は長野や福岡のイベント会場などで紹介されたほか、「東北を元気づける曲の作詩をしてくれないか」「この震災のドキュメント雑誌を作りたい。その中でこの詩を使わせてくれないか」「英訳して海外で紹介したい」といった申し出もきている。

 「休みの日は1日20時間机に向かっていた。自分も書くことで気持ちが立ち直ってきた。多くの人がちゃんと読んでくれている。今は、やめられない」と和合さんは言う。

 ツイッターのアカウント名は「wago2828」。URLは「http://twitter.com/wago2828」。(竹園隆浩)

■ 福島で被災した和合亮一さんの詩がうつくしすぎる件。 「yumenohotcakeのブログ。(2011.3.22)」より
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この数日、福島で被災した和合亮一さんという詩人の方のツイートを読んでいるのだが、これが、「不謹慎」ながら、ほんとうにうつくしい。

≪行き着くところは涙しかありません。私は作品を修羅のように書きたいと思います。 2011年3月16日 21:30:21webから≫

このツイートを皮切りに、和合さんの「詩」の連作はスタートするのだが、すべて読んでみて、思うところがたくさんあった。なんで、すこし紹介したいと思う。
(興味のある方はこちら。すべて読めますhttp://twitter.com/wago2828
(※ 中略)
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この「うつくしさ」は、なんなんだろう。
それは、きっと、「いま自分がこれを伝えないと、だれが伝えるんだ」っていう、ほとんど務めにも似たような思いを、和合さんが、切実に抱いているからではないだろうか。

正直ぼくには、いま、そういった切実さをまったくともなわない表現やメッセージが、心底不要におもえてしかたがない。いや、実は前から、うすうすわかってはいたんだと思う。でも、正視するのが億劫だったのだ。震災は、そういうほんとうのことを、一気に、あらわにしてしまったように思える。






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最終更新:2013年08月21日 19:21