+ ニュースサーチ〔日航機123便墜落〕

+ ニュースサーチ〔123便〕

■ - 日本航空123便墜落事故33年目の記録 -
日航機墜落事故 東京-大阪123便 新聞見出しに見る25年間の記録 / 日航ジャンボ機墜落事故関連リンク集【左記サイト内ページ】
日航機墜落事故関連資料集 ボイスレコーダー記録、生存者証言・遺書、メモ、など。
■ (新)日本の黒い霧 (※ 米ソの軍事衝突説)
■ 日本航空123便墜落事故を検証する 事故の真相を解く鍵は、生存者の手記とコックピット内のボイスレコーダーにある。(※ 事故隠蔽説)
■ 日航123便はなぜ墜落したのか
※● 日本航空が発表した事故機の乗員・乗客氏名は下記の通り。 (敬称略)(1985年8月14日現在) 「- 日本航空123便墜落事故33年目の記録 -」より
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🔴 ワタナベケンタロウ



マスコミ







※動画保存済み













■ 昨日は8月12日、日航123便墜落の日 「DEEPLY JAPAN(2019-08-13 15:13:21)」より
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昨日は8月12日。1985年のこの日、日航機123便が群馬県内のいわゆる御巣鷹の尾根(実際には御巣鷹山の尾根でないが)で墜落、520名が亡くなった。

この事件を巡っては、多くの日本人はおそらく今でもほとんど単に大きな事故として受け取っていないと思う。だから、このまま風化させようというのが日本国支配者層の考えというものなんでしょう。

しかし、そもそも、運輸省がボイスレコーダーを破棄したりするから余計にこれはまったく普通でない事件なのだと確信を持つ人が増えるという事情もある。

その中でいえば、思えば4年前の、NHKスペシャルは思い返せば単なるアリバイ披露以上のものがあったなと最近思ってる。

2015年8月1日放映
NHKスペシャル 日航ジャンボ機事故:空白の16時間~"墜落の夜"30年目の真実
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2015/0801/

当時の私のエントリーはこれ。

「昭和という国家」がうろうろしている気がする

(※mono....以下略)


■ 日航機事故再解明の課題 3 「E-wave Tokyo()」より
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※mono....この動画はいつまでも残っているとは思えない。



■ 日航123便墜落の真実(まとめ) 「消前烈火(2018/08/17)」より
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 今朝自分のネットランキングを見てみたら、FC2で趣味・実用ジャンルで762、98人中30位となっていた。
こんなに上位にランクされるのは今まで殆どなかったので、正直驚いた。
そこでその理由を自分なりに考えてみたのだが、これは『日航ジャンボ機墜落事故』絡みではないかと思った。
この事故は33年前に発生した。
ところが、今となって『青山透子 (アオヤマ トウコ)』という方が河出書房新社から出された『日航123便墜落の新事実』という本がジワジワと売れているようだ。
やはり判然としない気持ちで今まで過ごされてきた人が大勢いるという事だろう。
私も実はその一人で、4年前からこの事故のことを考え、ブログにも書いてきた。
表題からは日航機事故の事とは思えないものもある。
そこで、自分が書いた日航機事故関係のブログをまとめてみた。
自分でも驚いたが、かなりの量となる。
興味のある方は覗いてみていただけたらと思う。

(※mono....以下ブログ内リンク多数略)


■ ブログ『国際情勢の分析と予測』コメント欄よりブログ主のコメント投稿
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元客室乗務員が、日航123便墜落の真相に迫るシリーズ第3弾『日航123便墜落 遺物は真相を語る』発売。遺物の化学分析でより真相が明らかに。 - 産経ニュース (princeofwales1941)
2018-08-14 07:59:27
●元客室乗務員が、日航123便墜落の真相に迫るシリーズ第3弾『日航123便墜落 遺物は真相を語る』発売。遺物の化学分析でより真相が明らかに。 - 産経ニュース 2018.7.26 10:57
http://www.sankei.com/economy/news/180726/prl1807260069-n1.html


●直言(2018年8月13日)「遺物」から迫る日航123便事件——隠蔽、捏造、改ざんの連鎖

今回の本の白眉は、御巣鷹の尾根から回収された遺物の科学鑑定である(128-143頁)。上野村の住民たちは、様々な遺物を尾根から拾い集めて大切に保存していた。それを青山さんが入手して、T大学(現段階ではあえて名前を伏せられている)の金属化学研究機関に、学術研究の一環として分析依頼を行った。その結果が本書にそのまま提示されている。分析依頼をしたのが冒頭の写真にあるサンプルである(130頁)。この遺物は何か、そこに含まれているものは何か、表面に付着している黒い物は何か。

組成分析(ICP-MS)と黒い部分の質量分析(GC-MS)を2つのサンプルで行った。非常に簡単に要約すれば、組成分析では、この物体が飛行機の超ジュラルミンが融解した物体であることが分かった。墜落現場からの採取であるから、日航123便の機体に間違いない。なぜか硫黄が大量に検出された。黒い部分の分析からは、ベンゼンが大量に検出され、次にクロロフォルムも検出された。いずれも航空機の搭載物にはないものである。クロロフォルムはなぜそこに付着していたのだろうか。

分析を担当したT大学の研究者によれば、「ジェット燃料のケロシンや灯油は、炭素が直鎖上につながったもの(パラフィン)であり、今回の分析結果のベンゼン(炭素が六角形状になったもの)は(ジェット燃料には)含まれない」とのことだった。つまり、ケロシンというジェット燃料ではなく、ベンゼンを含むガソリンならあり得るということになる。さらに硫黄が付着していたとすると、ケロシンといった上質燃料(安全性が高く精製過程で硫黄を除去したジェット燃料)ではなく、重油やコールタールといった物質の可能性が考えられる。それらに含まれるものに硫黄がある。

本書には、化学系の専門的分析が収録されており、詳しくは本書の説明に譲る。ただ、ここでいえることは、ジェット燃料以外のものが、あの日御巣鷹の尾根に撒布されたということである。これは、上野村消防団の人たちの証言、「現場はガソリンとタールの臭いで充満していた」を裏付ける。

本書がたどり着いた一つの結論は、墜落現場には、123便のジェット燃料ではなく、ベンゼンが多く含まれる大量のガソリンが使われたこと、そして、航空機のジェラルミンが融解してドロドロになって固まり、そこに硫黄成分を含むゴムのような粘着性の高い物質が付着していたということではないだろうか。これと一致するのは何か。そのことのもつ意味については、すべて本書に譲る(145-154頁)。
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2018/0813.html


【私のコメント】元日航客室乗務員の青山透子氏による日航123便墜落三部作の第三弾である『日航123便墜落 遺物は真相を語る』が先月下旬に発売された。私はまだ読んでいないが、早稲田大学の朝穂教授が概要を説明してくれている。

この本の出版が驚くべきことに、米軍の日本占領を賛美し、正義の大東亜共栄圏の本体である中国や北朝鮮を誹謗中傷し続ける日本民族の敵とも言うべき宣伝機関である産経新聞に記事として取り上げられている。米軍の正義を脳髄に刷り込まれた産経新聞読者の洗脳を解く目的だろうか?トルコとの激しい対立を通じたトランプ大統領のNATO破壊工作が現在進行中であることも考慮すると、今年の秋に国際金融資本が崩壊し、日航123便や911事件や東日本大震災や福島原発事故やチェルノブイリ事故の真実
が明るみに出るのではないかとも思われる。

さて、『日航123便墜落 遺物は真相を語る』の前著にも書かれていたとおり、恐らく、自衛隊(または在日米軍)がその保有する火炎放射器で、ガソリンとコールタールを混合したゲル状の燃料を遺体や生存者に吹き付けて炭化するまで焼き尽くしたのだと思われる。また、日航機が御巣鷹の尾根に墜落する原因となったミサイルの破片が溶けて日航機機体と混合し判別不可能にすることでミサイル攻撃を隠蔽する目的もあったと思われる。クロロホルム検出との情報も重要だ。ジェット燃料にも、火炎放射器のゲル状燃料にもクロロホルムは含まれないと思われる。とすると、現地でクロロホルムガスを散布したものと思われる。
クロロホルム(CH3Cl)の分子量は約50で空気の28程度より遙かに大きく、散布されたクロロホルムガスは生存者のいる地面付近に滞留すると思われる。その強い麻酔作用により意識を失わせることが目的であった可能性がある。そして、意識を失っている間に生存者を火炎放射器で焼死させたのかもしれない。
生存者の川上慶子氏は「いつのまにか意識を失い、気がついたら(上野村の消防団に)救助されていた」と語っているが、この気を失った原因がクロロホルムガスだった可能性がある。
今後4人の生存者が「事故現場でクロロホルム特有の強い芳香に気づいた後意識を失った」と証言するかどうかが注目される。


■ 8月13日(月)のつぶやき その1 「めざまし政治2(2018-08-14 05:01:39)」より
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(※mono....略、詳細はサイト記事で)


■ 日航123便はなぜ墜落したのか 「(2010年8月9日)」より
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 第1の「なぜ」は、墜落の原因とされた「後部圧力隔壁損壊」説をめぐってである。私自身が見聞きした範囲でも、「123便」墜落をめぐって、本当に多くの人がこの説に疑問を表明している。運輸省事故調査委員会報告書は、「後部圧力隔壁が損壊し、引き続いて尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統の損壊が生じ、飛行性の低下と主操縦機能の喪失をきたしたために生じたものと推定される」という結論だったが、これは説得力がまったくなく、私が地方講演で出会った方によれば、航空整備関係では、「後部圧力隔壁損壊」説をまともに信じる人はいないという。

加えて、1986年10月26日のタイ航空機事故が、「なぜ」の一つの側面を明確にしている。タイ航空機は高知上空で機体後部の圧力隔壁が損壊し、大阪空港に緊急着陸した。その時、機内で何が起きたか。ドーンという爆発音とともに、機内与圧が急激に低下。白い水蒸気のような気体が充満し、乗員、乗客が一瞬で航空性中耳炎になった。だが、123便の場合は急減圧が起きず、白い水蒸気のような気体が生ずることもなかった。つまり、事故調査委員会の「後部圧力隔壁損壊」説は、タイ航空機事故により事実上破綻したと言えるだろう。詳しくは本書を参照されたい。

 第2に、「墜落現場の特定がなぜ遅れたか」である。本書によれば、墜落の20分後には、現場は特定されていたことになる。なのに、NHKニュースは墜落現場について二転三転する報道を行った。埼玉県三国山、長野県御座山、群馬県上野村小倉山、同ぶどう峠。これらは御巣鷹山から8~10キロの円のなかに入る。当時の上野村村長、黒沢丈夫氏(元海軍少佐、零戦パイロット)は、青山さんの取材に対して、墜落地点の計測ミスに怒りを隠さなかった。零戦時代の知識でも特定可能なのに、現在の技術で墜落地点が特定できないはずはない、と。なぜ墜落現場の特定が遅れたのか。それは「遅らされていた」のではないか。救助隊を分散させ、数時間にわたって、御巣鷹山に誰も近づけないようにする何らかの「作為」が働いたのではないか。本書によれば、黒沢元村長をはじめ、救援にあたった地元の方々のなかには、この点についていまも疑問を抱いている人がいる。

第3の「なぜ」は、上記と関連するが、救助の遅れである。自衛隊が到着するのは12時間後である。これについて本書は、『星条旗新聞』1985年8月27日付に注目する。米空軍第345戦術空輸団所属の中尉が、C130輸送機で横田基地に向かう途中、123便の緊急無線を傍受。御巣鷹の尾根に煙があがるのを目撃している。すぐに米軍の救難チームのヘリが厚木基地から現場に向かい、午後9時5分に現場に到着。隊員が現場に降りようとしたのだが、在日米軍司令部から「日本側が現在現場に向かっているので帰還せよ」という命令を受け、救助活動を中止して帰還する。生存者の落合由美さんは、「救助ヘリコプターが上空で回っているのがわかった。手を振ったが気付いてくれなかった。自分の周りでは数人の子どもたちの声が聞こえたがそのうち聞こえなくなった」と述べている。なぜ、救難ヘリに帰投が命じられたのか。自衛隊は本当に夜間に到着していなかったのか。最も早く現場に到着したはずの地元消防団員たちは、彼らが朝9時頃現場に到着したところ、「自衛隊員がすでに山の上から降りてきた」という。彼らは一体、いつ現場に到着したのか。

 第4に、なぜ遺体は黒こげだったのか、である。ジェット燃料はJET-A/40という灯油の部類でケロシンというが、マイナス50度の上空でも凍結しないように、灯油よりも純度が高く、水分が少ない。燃料は主翼内の区切られたタンクに入っているが、大気中に出たケロシンはガス化しやすく、煤(すす)も出にくい。にもかかわらず、主翼の燃料タンクから遠いところに投げ出された遺体が炭化している。遺体が集まっていた所で黒こげ状態が激しかったという。

 当時、遺体の歯形で本人確認を行った大國勉氏(歯科医師、群馬県警察医会副会長)に、青山さんは何度もインタビューを試みている。「私は群馬県警察医として千体ほど焼死体を見てきたが、それでも歯は『すす』で黒くても、裏側や一部は白いままだし、骨もそこまで燃えていない。なのに、あの事故の時は骨の奥まで炭化するほど燃えていた。…二度焼きしたような状況だ」。周囲の木々が幹の中までは燃えていないのに、遺体だけが骨の芯まで焼かれているのはなぜか。群馬県の検視報告書において担当医が「二度焼き」という言葉を使ったことは、ただごとではない。詳細は本書に譲るが、遺体の惨状はジェット燃料の火力のせいだと思い込んでいた私は、この箇所を読んだとき鳥肌がたった。

第5に、123便墜落の決定的な「なぜ」である。『週刊現代』8月14日号は、この点に関する本書の問題提起を4頁にわたって大きく取り上げている。タイトルは「JAL機墜落25年後の真実」。本書のグラビアにも掲載されている写真で、父母と妹の3人を失ったA氏から提供されたものである。そこに「何か」が写りこんでいる。これはA氏の父親がR5(右側最後部)ドア近くの窓の外を連続撮影したうちの1枚である。最初の方は、窓の外の普通の風景で、これを撮影したのはA氏の妹で、旅の思い出として撮ったものとされる。だが、その次(10枚のうちの5枚目)から不思議な写真が続く。窓の外に異変を感じ取り、それを確かめるように何度もシャッターを押しているようにも見える(『週刊現代』の著者インタビューより)。

(※mono....以下略、詳細はサイト記事で)


■ 汝!、~決して知り過ぎること無かれ~ 「wantonのブログ(2015.8.18)」より
(※mono.--「」関連記事のみ抜粋転載。他詳細はブログ記事で。)
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 安保 隆  ‏ @AmboTakashi 様
https://twitter.com/AmboTakashi/status/633089528861868032
日航123便撃墜の前日、500の棺桶が発注されていた!
そこでアルバイトをしていた労働者は徹夜で作業し、
ボーナスをもらった。
やがて、その会社は不審火でまる焼けになり、伝票類は灰になってしまった
http://1tamachan.blog31.fc2.com/blog-entry-13661.html


管理人

日航123便の圧力隔壁が壊れたのが、墜落の原因というのは、
真っ赤なウソであることが、米軍の準機関紙に掲載されています。
機長は酸素マスクをつけていない。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201508110001/?iphone=pcpage
つい最近、私のところに、ある人から電話が掛かって来た。
憂国の士ということだそうだ。
確かに、色んなことを知っておいでのようでした。
①ブロガ-の〇〇〇さん(秘密)は、公安であるそうな。
②暗殺された佐宗邦皇氏と俳優の今井 雅之さんを
 護ることが出来なかったと・・・。

「御巣鷹山JAL123便墜落事件の真相について!」佐宗邦皇代表

今井 雅之さん・・・!?

(※mono.--以下略すも関連まだあり。詳細はブログ記事で。)


安倍昭恵】 / 【報道ステーション
■ アッキ-が報ステ・古舘キャスターに仰天依頼 「東スポ(2015.8.15)」より
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 安倍晋三首相(60)の昭恵夫人(53)が謎かけともとれるメッセージを発し、永田町やネット上を混乱させている。フェイスブック上で安倍政権をやり玉に挙げる「報道ステーション」(テレビ朝日系)の古舘伊知郎キャスター(60)によもやの救いの手を求めたのだ。

 昭恵夫人のメッセージが投稿されたのは12日夜。この日は日本航空ジャンボ機の墜落から30年に当たり、「報ステ」でも遺族にスポットを当てた追悼企画を放送した。すると番組終了後に昭恵夫人は「日航機墜落事故から今日で30年。古舘さん、是非この事故原因の真実を明らかにして下さい…。お亡くなりになられた方々のご冥福を、心よりお祈り致します」とテレビ画面の複写とともに書き込んだのだ。

「報ステ」と首相官邸はいわずと知れた因縁関係にある。

「3月に元経産官僚の古賀茂明氏(59)が官邸から降板圧力があったと生放送中に暴露し、古舘氏が古賀氏と公開ゲンカするなどひと悶着あった。その後、再び『報ステ』は安倍政権には厳しいスタンスを取っているだけに昭恵夫人が『報ステ』に対し、お願いするとはどういう神経なのか」(自民党関係者)

 昭恵夫人のメッセージには、ネット上でも首をかしげる人が続出。

「古舘氏に真相の追究を期待しても仕方がない」「このコメントはファーストレディーとしてダメでしょ」とダメ出しされると昭恵夫人は「ご遺族や当時遺体の検証に当たられた歯科医師の先生などからも直接お話を伺いましたし、当時の資料等も読ませて頂きましたが、納得できませんでした。報道ステーションだからこそ、真相究明して頂けるかと思いました」と再度投稿した。

 日航機の墜落を巡っては米軍機による誤射や自衛隊機との衝突などの“陰謀論”も渦巻いている。

「昭恵夫人も陰謀論を信用しているということなのか。それで政府と一線をひく、古舘氏を指名したということなんでしょうか。それとも真相解明は不可能と分かりながら、夫をいじめる『報ステ』への皮肉なのか」(永田町関係者)

 ファーストレディーの真意は――。


■ 在日米軍が謎の救助中止...御巣鷹から30年、新聞・テレビが報道しなかった日航機墜落事故のタブー! 「ねたリカ(2015.8.15)」より
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 日航ジャンボ機123便が群馬県・御巣鷹の尾根に墜落した8月12日、テレビ各局は報道特別番組を編成、放映した。

 だが、今年もあの問題にはどこも触れなかった。そう。10年前に発刊された『御巣鷹の謎を追う 日航123便事故20年』(米田憲司/宝島社)で詳細に指摘され、本サイトでも1年前に取り上げた、在日米軍機の救助中止問題だ。

 これは、当時、横田基地に配属されていたマイケル・アントヌッチ中尉が証言したものだ。事故当日、日航機がレーダーから消えたすぐ後の7時15分、アントヌッチ中尉が乗ったC-130がいち早く事故現場を特定し、到着。横田管制に正確な位置を報告し、救援を要請していた。実際に、米海兵隊が厚木基地からヘリコプターで救難に向かい、8時50分には現場についていた。

+ 続き
 ところが、突如、帰還命令が出され、救助活動は中止になったのだ。しかも、日本側はなぜか墜落地点を把握できず、防衛庁が4回にもわたって全く別の墜落地点を発表するなど、混乱状態に。結局、日本の救助隊が墜落地点に到着したのは16時間後だった。

 アントヌッチ中尉はそのまま在日米軍が救助活動を続けていれば、もっと多くの人が助かっただろうと証言していた。

 しかし、この証言はこれまでほとんど新聞やテレビでまともに検証・報道されることなく、タブーとして封印されてきたのだ。

 それでも、事故から30年目となる今年は、いくつかの番組で事故現場特定の問題点を扱っており、なかには、もしや?と期待させられた番組もあった。

 たとえば、『日航ジャンボ機事故 空白の16時間 ~"墜落の夜"30年目の真実~』(NHK・8月1日初回放送)は、墜落から事故現場の特定までにかかった約16時間を丹念に追ったドキュメント。警察や防衛庁の内部資料を掘り起こし、関係者100人以上に取材をしたという労作だ。

 当時の航空自衛隊の幹部や長野県警の現役警察官に加え、事故現場に急行した自衛隊救難ヘリ2人の機長の証言まで織り込んで、現場の混乱ぶりや防衛庁と警察の足並みがそろわなかった実態を明らかにしている。

 ところがこの番組中でも、在日米空軍のC-130輸送機がいち早く現場に到着していた事実を全く報じていない。

 特に番組内で「自身の経験が役に立てば、と今回初めて証言をしました」といわば鳴り物入りで登場した当時の救難ヘリ機長・林璋三等空佐(当時)の話には拍子抜けした。

 実は、林氏が証言をしたのは厳密にいえば初めてのことではない。事故のあった1985年11月号の『航空ジャーナル』で航空評論家の青木謙知氏の取材に答えているのだ。

 そのなかで、「現場に到着すると、上空を米空軍のC-130が旋回し、またその下にはUH1が飛行していた」「まずC-130とコンタクトを取り、その後UH1と入れ替わって高度を下げていった」という重要な証言をしている。

 つまり、自衛隊は米軍が先に事故現場に着いて待機していたことを把握していたわけだが、番組中で林氏はこのことには全く触れず、当日の事故現場の火災の様子や救助を断念して撤退した思いを語るだけなのであった。

 これでは、たとえ「初めての証言」だったとしても、真実の解明に役立つとはとてもいえないだろう。

 アントヌッチ証言によれば、自らが指示を受けて捜索に向かったことや、一緒に現場に待機していたUH1ヘリが乗務員を降下させる準備までさせていたのにもかかわらず、急遽司令部の命令で中止、撤退させられていたことも明らかにされており、この米軍の動きと自衛隊=防衛庁との間でどんなやり取りがあったかということが捜索活動の初動における重要な問題点であることは、取材する記者であれば分からないわけがない。

 事故調の報告書にまで「現場を通過中のC-130」と、あくまで現場を通りかかったようにしか書かれていないことと合わせて考えても、どうも、この事実を掘り起こして欲しくないという極めて政治的な作為を感じずにはいられない事象なのである。

『8.12日航ジャンボ機墜落事故 30年の真相』(TBS系/8月12日放送)でも、この姿勢は同様だった。

 現場に最も早くC-130が到着していた事実は報じていたが、それだけ。なぜ米軍が救助にあたらなかったのかについての言及はなく、「米軍への救助要請も検討されたが実現はしなかった」とサラリと流してしまっている。

 そして、この番組にも先の林元機長が登場していた。やっぱり米軍機のことは語らなかったのだが、墜落現場については、「間違いなく御巣鷹の南東ですよ、と報告しているのですが、それがどこでどう変わってしまったのか今もってわかりません」と述べており、正しい墜落地点が伝わらなかった捜索体制へ不信感を抱いていることは伝わってきた。それだけに、米軍についての証言だけは避けているかのような対応に、余計に不自然さを感じてしまった。

 事故を風化させないという観点からも、日航ジャンボ機墜落事故の番組が、この時期に作りつづけられる意味は決して小さくないだろう。

 ただし、そこには二度と事故を起こしてはならないという決意と、タブーなき徹底検証という意図がなければ、単なる夏の風物詩のようになってしまうのではないだろうか。

 今年のどちらの番組も、番組の端々にはその心意気が感じられるものはあった。しかし、だからこそあえて言いたい。タブーにも切り込んでくれる強さが見たかった、と。
(田部祥太)

★ 123便の残骸か…相模湾海底で発見 日航機墜落30年 「Yahoo!news - ANN news(2015.8.12)」より
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 乗客乗員520人が犠牲となった日本航空機の墜落事故から12日で30年です。墜落した123便は羽田空港を離陸した後、相模湾の上空で圧力隔壁が壊れました。垂直尾翼など吹き飛んだ機体の多くは海に沈み、今も見つかっていません。ANNは情報公開請求で得た資料などから、残骸が沈んでいるとされる相模湾の海底を調査し、123便の部品の可能性がある物体を発見しました。
+ 続き
 先月29日、静岡県東伊豆町の沖合約2.5km、123便の推定飛行ルートの真下にあたる水深160mの海底で撮影された映像です。右側のパネル状の部分は四角形に見え、側面にある黒い部分には数字などが書かれています。カメラとの距離などから調査にあたった専門家は、1.5mから2mほどの大きさではないかとしています。当時、事故調査委員会のメンバーとして墜落の原因を調べた斉藤孝一さんは「この映像だけでは分からない」としたうえで、123便の残骸である可能性を指摘しました。
 当時の事故調査官・斉藤孝一さん:「仮に航空機の部品だとすると、『APU』のまわりに取り付いている『コントロールボックス』といわれてるようなもの」
 APUは機体後部にある補助エンジンで、客室に空気を送ったり電気を付けたりする役割があります。斉藤さんは圧力隔壁の破壊という事故原因は変わらないとしたうえで、残骸が見つかれば事故の状況がより詳細に分かる可能性があるとしています。123便を巡っては、相模湾上空でのトラブルの際に機体から落ちた垂直尾翼の大半やAPUを含む機体後部の部品が見つからないまま、事故から1年10カ月後に調査が終了しています。国の運輸安全委員会はこの映像を見たうえで、「当委員会としてのコメントは差し控えさせて頂きます」としています。

◆ ブログ「国際情勢の分析と予測」のコメント欄より管理人の書き込みから
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123便の残骸か…相模湾海底で発見 日航機墜落30年 (princeofwales1941)
2015-08-12 18:02:47
123便の残骸か…相模湾海底で発見 日航機墜落30年(テレビ朝日系(ANN)) - Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20150812-00000018-ann-soci

これは123便が米軍のミサイルによる撃墜であったことを日本国民に公表する準備か?
大勲位中曽根元首相は、この事件と同時に米国政府から日本に対して行われた脅迫の為にやむなくプラザ合意に同意したことを公表するのだろうか?


■ 【重要追加説明】 JAL123便墜落事故の出回っている話はウソばかり 「wantonのブログ(2015.8.12)」より
/
世間では、このJAL123便墜落事故に関して様々な情報が
交錯して流れています。
かなり意図的な撹乱情報も相当流されている模様です。
この際、ある程度、簡潔に整理しておく事に致しました。

その理由の第一は、また別の形でまた起こる可能性がある
からで、同じ過ちを何度も繰り返すようでは話になりません。

第一点 (最重要ポイント)

画像と文章は、Dawning様より拝借しました。
http://ameblo.jp/m08068469/entry-11328508540.html

日航ジャンボ123便の垂直尾翼の写真 鶴丸付近に、オレンジ色の破片が突き刺さっているのが
確認できる。

「123便の事故は、本当は○○隊が○落させたんだよ。
当時訓練で標的機を飛ばしていて、それが操縦不能になって、
行方が分からなくなり、そのとき近くを飛んでいた123便に
ぶつかったんだ。墜落現場には標的機のオレンジ色の残骸が
あったから、誰もいないうちにヘリで回収したんだ」


管理人
無論、絶対という決め付けは出来ませんが、
この文言には、かなり疑念が生じています。

たまたま、操縦不能になるというのも極めて怪しい話ですが、
百歩譲って、仮に操縦不能になったと仮定しても、
JAL123便に衝突するという確率というものは、
実に、とてつもなく低いのではないでしょうか?

恐らくは、何万分の一~何十万分の一以下でしょう。
ですから、偶然に衝突した可能性は、ほとんど考えられないと
思ったほうが良いと考えています。

それよりも、コントロ-ルして、意図的に衝突させたといった
ほうが、はるかに現実性が高く、説得力もあります。

この一点が、まず絶対におかしいと断言しても良いと思います。

(※mono.--以下略、詳細はブログ記事で)

ーーーーー
■ 【日航ジャンボ機撃墜】 JAL123便乗客の泣き叫ぶ声が聞こえる! 「wantonのブログ(2015.8.12)」より
/
(※mono.--詳細はブログ記事で)


★ 日航機墜落事故から29年、御巣鷹山に226人 「Aviation Wire(2014.8.12)」より
/
 520人が亡くなった日本航空123便墜落事故から29年となる8月12日、御巣鷹山へ慰霊登山した遺族は68家族226人だった。昨年と比べて4家族減、人数では52人減少となった。

 これまでの最多は1985年の事故から20年を迎えた2005年の103家族405人。追悼慰霊式には229人が参加した。

 日本航空(JAL/JL、9201)の植木義晴社長は「二度とこのような事故を起こさないと、安全の誓いを御霊にご報告させていただいた。お怪我をされた方、ご遺族の皆様、関係者の皆様に多大なご迷惑をお掛けしたことを改めて日本航空の社長としてお詫び申し上げたい」と述べ、「8月12日は日本航空にとって安全の原点。社員ひとり一人が心を一つにして安全運航を守ってきたい」と決意を語った。

 日航機墜落事故は、来年で30年の節目を迎える。


国家機密を守るため、特殊部隊が編成され事故処理にあたった。

123便の乗客、乗務員はこの者達の手にかけられ、処分された。

殺人鬼が迫って来る瞬間、彼等は一体何を思ったのだろうか?

彼等は無残にも、毒ガスで息の根を止められたり、

火炎放射器で生きたまま焼かれた。

待機命令に反し、人命救助に急いだ隊員は射殺された。

精神状態がおかしくなる隊員も少なくなかったという。

口外すれば家族にまで危害が及ぶと言う事を暗にほのめかされ・・

日航ジャンボ機JAL123便墜落事故(M氏の証言_完全版)
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=Pf3-eJgnOkM
2011/1/8

証言を箇条書き
  • 13日午前4時、公式発表ではまだ発見され
 ていないはずの墜落現場に自衛隊員が既に100名程度は来ていた
  • 自衛隊員は人命救助よりも何かの回収を優先していた
  • 4~50名の生存者の声が聞こえた
  • 1時間後には生存者の声が全く聞こえなくなった



(事故概略)

1985年8月12日 18時12分に羽田を大阪に向け離陸した日航123便(ボーイング747型ジャンボ機・乗員15人、乗客509人、計524人)は離陸してまもなく大島西方上空付近で機体の異常を訴え、数十分間ダッチロールと呼ばれる異常飛行の後、18時56分すぎ、群馬県上野村の三国山の北北西約2.5キロメートル、標高1,565メートルの通称・御巣鷹の尾根に激突し炎上した。4名の重傷生存者と520名死亡の犠牲を出した。

このとき、横田基地所属のC-130機が墜落現場を発見し、座間基地所属の陸軍ヘリUH-1が救助活動のため現場に入ろうとしたが、どうした訳か(日本政府から協力を拒まれ?)、墜落現場の真上でロープ降下しようとしていた救助ヘリと上空で待機していたC-130を引き返させるという不可解な命令が出た。

米C-130は午後7時30分に墜落場所を特定し、20分後には横田基地に正確な墜落場所を知らせている。

自衛隊は、当日から明け方まで墜落場所の誤報を意図的に繰り返していた。
朝になって長野県警のヘリが正確に位置を確認、
生存者を発見したのも長野県レスキュー隊。
自衛隊はそれまで何かを運び出すのに精一杯)だった。(意図的誤報についての引用元)



実際の事故機墜落現場は早くからわかっていたが、

訓練中の標的機(オレンジ色)が123便にぶつかった残骸の回収を優先

JAL123軍事破壊・軍事焼却の背景は中曽根康弘軍事指揮にあり
http://heiwarikkoku.jugem.jp/?day=20100601 より(抜粋引用)

「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。 
ナゾの自衛隊のチームの ナゾの10時間の行動。かれらは なにをしていたのか。

狭い空間に三人もいて高浜(機長)さんだけ木っ端微塵になったのはなぜですか
コックピット部分には燃料タンクはないのに焼け爛れていたといわれます。それは、まるで火炎放射器で焼いた跡のようであったといいます。

当時 突然 垂直尾翼が大破し 不可解な「攻撃されているというSOS信号」が発信され(JAL123便の「スコーク77」の発信) 自衛隊機2機がスクランブル発信しました(自衛隊のマッチ・ポンプ?)。そのあと墜落までの数十分間 管制塔との交信がされていて レーダーでも捕捉されています。
 そして 空中で ナゾの爆発が2回起こり(前後に付き添う2機の自衛隊機が目撃されています) とうとう 御巣鷹山に墜落。

「奇跡的四人の生存」の件だが、これは現場自衛隊員による、上官命令に逆らった「名誉ある反乱」の結果だろう。軍事隠蔽からすれば「全員死亡」がシナリオだった筈だ。御巣鷹山墜落現場に辿り着いた消防・救命救急及びアメリカ軍・救命救急まで「軍事拒否」している訳だし。

自衛隊員の告白 本当の話です。事故原因も分かっていない時期に、私に、いずれは分かると思うんだけど(直ぐに真の原因が分かると言う意味だったんだと思います)...と言って話してくれた事は、「123便の事故は、本当は○○隊が○落させたんだよ。当時訓練で標的機を飛ばしていて、それが操縦不能になって、行方が分からなくなり、そのとき近くを飛んでいた123便にぶつかったんだ。墜落現場には標的機のオレンジ色の残骸があったから、誰もいないうちにヘリで回収したんだ」と。

実際の事故機墜落現場は早くからわかっており、地元民らは救出に向かおうとしていたのに、わざと違う事故現場を報道させ、また地元民らにも救出に向かうことを禁止した。

日本自衛隊・人命救助に急ぐ隊員を射殺! JAL123便墜落時には、「待機命令に反して御巣鷹山へ怪我人救助を急いだ自衛隊員1名が射殺された」旨、当日のNHKニュースで発表

これもまた鋭い資料だ!!!
]2007年08月27日
●衝突6分前から気付いていた操縦クルー(EJ第1056号)
 JAL123便の操縦クルーは、謎の飛行物体にぶつかる少し前に気がついていたの
ではないかと思われるフシがあります。

 JAL123便が羽田空港を離陸したのは、午後6時12分のことです。そのまま順
調に飛行を続け、水平飛行に移行した午後6時18分過ぎ、右側に富士山と江ノ島が見えます。高度は、約3500メートル。富士山と眼下の相模湾が一望できる風光明媚な場所で、この場所を飛行するパイロットたちがホッと息をつく瞬間だそうです。
 そのとき、右前方から奇怪な飛行物体が飛行機に近づいてきたのです。あり得ないことであるだけに、操縦クルーに緊張がはしります。「危ない!衝突する!」
 それとほぼ同時に、座席中央部分の最後部から5番目に座っていた小川哲氏(当時41歳)も、その飛行物体に気がつき、それをカメラに収めているのです。この写真は、JAL123便事件の謎を解く、唯一の貴重な物的証拠として後世に遺ることになるのです。

(抜粋引用終了)





加藤紘一氏(当時の防衛庁長官)、

 事故当夜、現場の上空まで行っていた!!

 遭難者を救助する前に、

 自衛隊が「大事件」証拠物件を搬出するのを見届けに行ったのか?


この"重大事件"を隠蔽しようと画策し、123便の横田基地への着陸を拒否し、2機の自衛隊機を発進させ、遠く御巣鷹(=地元)の尾根まで同機を誘導させた、その命令権者としての中曽根元総理は、当日、一体、何を考え、何を命令したのか?
 2機の自衛隊機が、ミサイルで123便を撃墜したという説(池田昌昭氏)もある。また、二つの原爆の様な「きのこ雲」が湧き立つのを見たという、多くの目撃証言もある。
 さらには、墜落した123便の機体後部(尾翼付近)に、ミサイルAIM4(オレンジ色の機体)が突き刺さっていたという証言(佐宗邦皇氏の言)さえもある。
 実際、ご遺体の識別や鑑識に関わった医師や歯科医師が、「単なる墜落事故の遺体とは思えない」と語っているのを、われわれは、すでに聞いている。

 それゆえ、私は、正直に問いたい。
中曽根元総理、あなたは、あの日、防衛庁、とりわけ航空自衛隊に対して、一体、如何なる命令を下されたのか?!
 何故、あなたは、墜落後の乗客の早期救出を命じられなかったのか? 事実、墜落直後、数十名の生存者がいたというではないか。
 そればかりか、早期救出に向かおうとした数名の自衛隊員が、待機命令違反というだけで、なぜ、射殺されなければなかったのか?!
 加藤紘一氏(当時の防衛庁長官)、当日、あなたは、当時の中曽根総理から、一体、如何なる命令を受けられたのか?!
 第一、あなたは、事故当夜、現場の上空まで行っていたというではないか! 一体、何をしに行ったのか? 遭難者を救助する前に、自衛隊が、「大事件」の証拠物件を搬出するのを見届けに行ったとでも言うのか?!

(中略)

 実は、この時、操縦桿を握っていた佐々木副操縦士こそ、少年の頃、私が、心から憧れていた先輩である。まさに、「事実は、小説よりも奇なり」である。
 佐々木先輩のご母堂は、彼の没後、私の母に、こう語られた。「息子は、戦死しました」と。今、私には、この言葉の意味が、よく分かる。今日、そのお母様も、もう、この世におられない。
 『日航123便はなぜ墜落したのか 2010年8月9日』 --> こちら から引用

(抜粋引用終了)





日航ジャンボ機墜落と横田基地 

「1985年墜落救助のぶざま、元エアマン証言」

「日本は現場到着に12時間もかけた」


横田基地所属のC-130機が墜落現場を発見し、座間基地所属の陸軍ヘリUH-1が救助活動のため現場に入ろうとしたが、どうした訳か(日本政府から協力を拒まれ?)、墜落現場の真上でロープ降下しようとしていた救助ヘリと上空で待機していたC-130を引き返させるという不可解な命令が出た。

運輸省航空事故調査委員会の最終報告書には、C-130が墜落現場を発見し位置を知らせてきたことが記載されていながら、その後の米軍の救出行動は一切記述されていない。

 その事実が明らかになったのは事故から10年後、1995年8月27日付の米軍準機関紙「スターズ・アンド ・ ストライプス」パシフィック版が「1985年墜落救助のぶざま、元エアマン証言」「日本は現場到着に12時間もかけた」の見出しでカリフォルニアの地域紙「サクラメント・ビー」の記事を転載したことによる。記事を書いたのはC-130のナビゲーターだったマイケル・アントヌッチ中尉(当時)。その記事には、いち早く現場に到着した同機から見た米軍ヘリの活動、不可解な帰還命令などが詳しく書かれている。



彼等は一向に生存者の手当をしようとはしない。

大きな袋に何かを集めて入れる作業を黙々と続け、

上空でヘリコプターがホバリングしながら集めた袋を回収するのみ。

助かるべき多くの生存者が情け容赦なく殺された
http://blog.livedoor.jp/ijn9266/archives/4121599.html より(抜粋引用)
墜落は単なる事故ではなく、驚天動地、世界規模の大事件だった!

8月13日04:00頃 墜落翌日まだ夜も明けぬ早朝、白バイを振り切って、長野県からオフロードバイクと徒歩で駆けつけた若者達2人。生存者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているのをはっきりと聴いた。およそ50人と推測。指が欠損しただけの、比較的軽症の人も。この人は助かる、と確信。既に到着していた100名くらいの自衛隊員。片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、また、靴は急峻な山での作業に適した短靴。1時間後、次の部隊が続々と到着。後から来た部隊は山で歩きにくいブーツ着用。

しかし、彼等は一向に生存者の手当をしようとはしない。大きな袋に何かを集めて入れる作業を黙々と続け、上空でヘリコプターがホバリングしながら集めた袋を回収するのみ。何故だ!?何故この部隊は救助をしない!?目の前で多くの人々が手当を待っているというのに!!人命より優先される回収物とは、一体何だ!?以下にその件についてのウェブサイトを紹介する。

「JAL123便墜落事故-真相を追う- 闇夜に蠢くもの(4)」
http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/9218d78bddf9f12a9d7bdc8ebec1c10a 

このオフロードバイクと徒歩で駆けつけた若者の一人は24年間海外勤務にあって真実を語る機会が無かったが、2010年5月16日、江戸東京博物館にて、その日目撃したことの証言を依頼される。ところが、講演の2週間前、アクシデント発生。車の後輪がバースト。あわや死亡事故につながる緊急事態を咄嗟の運転テクニックで回避する。損傷部分を検証した結果、軍関係者しか持たない、熱戦銃によるものと判明。「123便事件の真実について、これ以上語るのを止めよ」というメッセージが彼に送られる。幸いにも、かろうじて講演会当日は会場に無事駆けつけ、証言することができた。

「やがて真っ暗闇のなかに、ヘリコプターの音が聞こえたのです。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん、遠くに行ってしまうんです。このときもまだ何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです」(落合由美さんの証言)。
 このように、1994年9月25日の「ニュース・ステーション」は、日本側の都合による米軍救援活動中止要請が事実であることを報道しています。何ということでしょう。米C-130は午後7時30分に墜落場所を特定し、20分後には横田基地に正確な墜落場所を知らせているのです。もちろん日本側にもその時点で伝えられています。

(抜粋引用終了)





最重要証拠となるボイスレコーダーには、数々の編集跡がみられる。

さらに大事な部分がカットされている模様だ。

日航機墜落の真実を求めて
「1985年8月12日発生の日本航空123便墜落事故」はネット上でも真実が解き明かされ始めた 
http://nvc.halsnet.com/jhattori/nikkou123/
★★御巣鷹山日航ジャンボ機事件から23年目 特にボイスレコーダの編集疑惑や当時の加藤防衛庁長官の行動にも疑惑が。
最重要な証拠となるボイスレコーダーを一切公開しなかった。10年ほど経ってから、その一部を公開したものの専門家の分析ではその音声には数々の編集跡がみられるとのこと、さらに大事な部分がカットされてる模様だ。
おそらく自衛隊機との交信部分をカットされてるんじゃないかという気がする。(実際、スクランブルした自衛隊機が平行して飛んでいるにもかかわらず、両機が全く交信すらしないというのは考えられないこと。)
  • ジャンボ機のあとを、戦闘機みたいなのが2機追いかけていった(『疑惑/JAL123便墜落事故』早稲田出版刊の筆者:角田四郎氏)
  • マンションのベランダから西空を眺めていたところ、突然雲の 透き間から太陽が射すようなオレンジ色の閃光を見た。双眼鏡で覗くと両側から青、真ん中から赤い光を発した大型機が北の方に消えた。―浦和市に住む住民の目撃証言
  • 飛行機が飛んで行った後から、流れ星のようなものが近くを飛んでいるのが見えた。―長野県南相木村中島地区の住人3人





<当時自衛官で、事故処理に参加した友達の兄貴の告白>
誤射、国家機密、緘口令、事後処理の為の特殊部隊の編成
情報撹乱、ガス、火炎放射器...。まさに地獄以下の有様

生存者をかくまったために 拘束されて送り返された者も少なくなかった

日航ジャンボ123便 ソ連軍機ベア~標的機誤射~緘口令~
事後処理の為の特殊部隊の編成~情報撹乱~ガス~火炎放射器~地獄~
http://www.asyura2.com/09/lunchbreak27/msg/1221.html より(抜粋引用開始)
投稿者 愉快通快 日時 2012 年 2 月 16 日 19:54:18: aijn0aOFbw4jc

翌日のニュースは、もっと衝撃的だった。 日本の救助隊は現場を発見できず、やっと着いたのは墜落の14時間後だと言っているではないか。 私は焦って自分の地図を取り出し、墜落現場を正確に伝えたかどうか調べた。私には自信があった。 伝えた位置は正確だった。海軍のヘリは私の情報に従って現場に来たのだから、間違いない。

我々はあの時、現場の上空を飛んでいた日本の救援隊にを任せた。
それにしても、どうして墜落現場がわからなかったのか?一体、朝まで何をしていたのか?不思議でならなかった。

事故から2週間たって、私は『タイム』と『ニューズウィーク』で 生存者が4人いたことを初めて知った。

『疑惑/JAL123便墜落事故』(早稲
田出版刊)の著者、角田四郎氏は、御巣鷹山の現場登山に行ったさい、ある金属片(添 付ファイル)をひろって持ち帰り、事前説明なしで、友人の航空機の整備士(米国人)に 鑑定を依頼しています。結果はどうだったのでしょうか。結果について書かれた部分を ご紹介します。
----------------------------------
      彼の答えは、私のド肝を抜いた。「たぶん」と疑問視を付けて
      慎重に、しかし、はっきりとこう言った。
      「ミサイル」(This is missile.)
      「まさか!」(Not Really !)
      「たぶん、ミサイル」(Maybe missile.)
         ――角田四郎著、『疑惑/JAL123便墜落事故』より
----------------------------------

179 :NASAしさん[sage]:2009/08/29(土) 09:08:53
NHKアナ「ただいま長野県警から入った情報です。現地に救助に向かった自衛隊員数名が、何者かに銃撃され死者負傷者数名が出ている模様です。 続報が入り次第お伝えします」

495 名前:名無しさん@5周年:04/08/12 21:18 ID:jB9y0pGY
これはマジな話なんだが、友達の兄貴が当時自衛官で ●●隊情報●隊と言う部隊に所属していて 救助活動というか事故処理に参加したそうだ。

その兄貴と何年か前に酒を飲んだ時に聞いた話だが
以前から事故処理に従事したと言う事は弟から聞いていたので
興味本位でその時の事を聞いてみたら顔色が変わったので
その話はそこまでにして馬鹿話に切り替えた。

暫く飲み続けるうちに、その兄貴がポツリポツリと話だした。
誤射、国家機密、緘口令、事後処理の為の特殊部隊の編成
情報撹乱、ガス、火炎放射器...。
まさに地獄以下の有様だったそうだ。

隊員の中には精神状態がおかしくなる者や、生存者をかくまったために
拘束されて送り返された者も少なくなかったそうだ。
その兄貴もすぐに退官したが、その際に口外すれば家族にまで危害が
及ぶと言う事を暗にほのめかされ、自殺を考えた事も有ると

(抜粋引用終了)



123便の乗客、乗務員はこの者達の手にかけられ、処分された。

殺人鬼が迫って来る瞬間、彼等は一体何を思ったのだろうか?

彼等は無残にも、毒ガスで息の根を止められたり、

火炎放射器で生きたまま焼かれた。

JAL123便墜落事故の真相① 助かるべき多くの生存者が情け容赦なく殺された
http://blog.livedoor.jp/ijn9266/archives/4121599.html

☆世界の真実の姿を求めて!TV新聞報道では、助かった4人以外に少なくとも生存者が3人、合計7人の生存者がいた(この日本経済新聞の記事は日航パーサー落合由美さんを忘れている。従って8人が正しい。)。しかし、4人は報道直後突然失踪!彼らは一体どこへ消えたのか!?

さらに最低50人くらいの生存者が墜落現場にいた、指先が1本ちぎれただけの男の人もいた、と、まだ夜も明けやらぬ現場に駆けつけた若者は証言!生存者達も同様、墜落現場では多くの人達が助けを呼んでいたと証言。

☆川上慶子さん(当時12歳)は、同乗の両親と妹が亡くなるも奇跡的に生還。病院を退院後、島根の実家に帰った際に証言:墜落したあと、ふと気が付いたら周囲は真っ暗だった。あちこちでうめき声が聞こえ、私の両親もまだ生きていたような気がする。しばらくすると前方から懐中電灯の光が近づいてきたので助かったとおもった。そのあとまた意識がなくなり、次に目が覚めると明るくなっていたが救助の人は誰もいなくて、周りの人たちはみんな死んでいた。(慶子さんは意識が無くなって幸運だった。もしその時懐中電灯の人物に助けを呼んでいたら、彼女の今日は無かっただろう。近くに居た、落合由美さんや吉崎さん母子の今日も…理由は後述。)

この墜落現場で「生き残った罪も無い乗客、乗務員にとどめを刺した者達」は恐らく国籍が日本では無い、と信じたい。来るべき極東有事を演出するために特別訓練された、日本の自衛隊を偽装した部隊の可能性が高いのでは?任務遂行のみに全神経を集中する訓練と共に、部隊を編成するに当たって「日本人を嫌悪する教育」を受けた者達が選ばれたのではないか?

123便の乗客、乗務員はこの者達の手にかけられ、処分された。殺人鬼が迫って来る瞬間、彼等は一体何を思ったのだろうか?『お前達は何者だ!?乗客乗員の救助に来たんじゃないのか?』現場で何が起こっているのか、理解している人はほとんどいなかったであろう。彼等は無残にも、毒ガスで息の根を止められたり、火炎放射器で生きたまま焼かれた。

■ 「去るものは日々に疎し」新聞見出しから見る御巣鷹の謎 「逝きし世の面影(2013.8.16)」より
/
『首都東京の100キロ圏で520人が死んでも解明されない墜落原因』

政府事故調やボーイング社が絶対にありえない圧力隔壁破断説を主張して、『日航機123便』の謎の墜落から28年も無駄に経過してしまった。
日本で唯一、日航機の摩訶不思議な墜落事故の事故調査に疑問を呈していた、共産党機関紙『しんぶん赤旗』の見出しから、28年間の無駄に経過した事故調査の一端が垣間見れる。
乗員組合など航空関係者は今でも事故の真相解明を求め続けているにも拘らず、他の朝日毎日読売など商業紙では政府の事故調の杜撰調査の疑問点を指摘した記事は残念ながらほとんど無く、ゼロに近い有様である。

『新聞の「見出し」から見えてくるもの(日本全体の劣化の進行と世相)』

日本の無条件降伏から68年。
日本が病的に右傾化していることは今では世界のマスメディアが指摘するが、320万人の日本人の命が失われた戦争の記憶が時間の経過と共に益々薄れていく影響で、肝心の日本国内では心配する声は小さい。
『自虐史観』であるとして、何とか『日本の悪い過去』を隠したい自民党政府の運動が大成功したのである。
日航機123便墜落から28年。
原因不明で突然520名の命が失われたことに何故かフタをして忘れたい日航や政府、自衛隊などの隠蔽工作は大成功して『不幸な事故』程度に矮小化されて、今ではマスコミに真相究明の声は完全に無くなって仕舞った。
たったの28年で御巣鷹の『不都合な真実』が完全に忘れられたのなら、68年前のもっと不都合な真実なら『完璧に忘れる』のも当然なのである。
(※ 中略、詳細はブログ記事で)
/
旅客機の巡航高度は8000~10000メートルで空気圧は3分の1で気温はマイナス20度。ヒマラヤ登山では徒歩で徐々に高度を稼ぐから体が順応して耐えられるが、瞬間的にエベレストの頂上に放り出されれば誰一人も生き延びれない。
御巣鷹山の事故調の結論である圧力隔壁破断によって垂直尾翼が客室の空気圧で吹き飛んだとの説は、『最後まで与圧が保たれていた』との生存者の証言で間違いが明らかなのである。
そもそも4人の生存者の存在そのものが事故調の最終結論を吹き飛ばしている。
旅客機が飛ぶ巡航高度の8000メートルとはバーティカル・リミットを越えた世界なので誰一人も生き延びれないのである
/
『新聞の「見出し」からみる圧力隔壁原因説の歴史』
(※ 以下年表略、詳細はブログ記事で)
/
御巣鷹の事故から10年目の1995年。垂直尾翼の無い日航機を追尾して墜落を直接確認している米軍C130パイロットの爆弾証言で日本中が大騒ぎになる。 墜落事故以来10年ぶりにいったんは盛り上がった自衛隊の人命無視の犯罪的なサボタージュの告発も、あっという間に尻すぼみ。
翌年の1996年を最後に一切無くなっている。
事故後25年目の2010年を最後に、とうとう(最後の砦だった)赤旗の『見出し』から事故調の杜撰な結論を疑う言葉が無くなって仕舞う。
『見出し』から無くなって2年後の2012年を最後に、記事内からも一切無くなっていた。
全ての記事は情緒的な『追悼と慰霊』一色に塗り潰されて仕舞う。(朝日産経読売など他紙は最初から慰霊一色で、僅かに毎日だけが辛うじて若干の疑問点を書いていた)
今までは辛うじて残っていた、前代未聞も巡航中の(未だ不明の)『史上最大の航空事故の事故原因の解明を求める』との健全な科学的姿勢が、日本の社会全体から完全に無くなっているのです。
『無残である』としか、言い様がない悲惨な有様。
20年前と名前は同じ赤旗だが書いてある中身が完全に劣化して、何時の間にか他紙と同じになっていた。これでは日本の社会全体が劣化するのもむべなるかな。
何とも致し方ない成り行きである。


■ 28年前の8月12日に日航123便が墜落したが、その10年後に米軍の準機関紙が自衛隊の不可解な行動を明らかにする記事を掲載、その後、自衛隊は米軍の傭兵的な存在に 「桜井ジャーナル(2013.8.12)」より
/
 1985年8月12日、羽田空港発、伊丹空港行きの日本航空123便が群馬県南西部の山岳地帯に墜落し、乗員乗客524名のうち520名が死亡した。この「事故」に対する日本政府の対応は東電福島第一原発事故と似た点がある。外部の支援を拒否、状況を悪化させたということだ。
 異常事態が発生したのは羽田空港を離陸した12分後の18時24分。コックピットから東京管制部へ羽田へ戻りたいので、2万2000フィートまで降下したいと連絡、すぐに「操縦不能」と伝えている。そして18時58分に墜落。
(※ 中略)
/
 公式見解が主張するように隔壁は破壊されたなら急減圧があるはずで、急減圧がなかったとするならば、隔壁以外に墜落の原因があるということになる。墜落直前に撮影された航空機の写真を見ると尾翼が消えている。尾翼の約7割は回収されていないようだ。事故原因を探るためにも相模湾周辺の海底を念入りに調べる必要があるのだが、運輸省(現在の国土交通省)に調査する意思はない。
 この話に限らず、123便の墜落事件では奇妙なことが多く、例えば、早い段階で現地の住民から正確な墜落地点に関する情報が伝えられていたとも言われているが、救援隊が現場に到着したのは事件の翌日、13日の8時半頃だった。
(※ 以下詳細はブログ記事で)


■ オスプレイ配備と日航ジャンボ機墜落事件は闇で繋がっている 「陽光堂主人の読書日記(2012.8.14)」より
  • 日本航空123便墜落事故とオスプレイ配備が繋がっているのなら、必ず国内で大事故を起こします。それが因果というもので、意図的に事故を引き起こす可能性もあります。日本国民にとって厄災になることは間違いありません。

  • ボーイング社は自社の修理ミスを認めても、日本側から何ら目立った訴訟も起こされず、今日に至っています、おそらく、ボーイング社はみずから濡れ衣を着ても余りある“おいしい見返り”を受け取ったのではないでしょうか。

 そこでネットを調べてみますと、ボーイング社がベルと組んで、例のオスプレイ(注9、注10)開発提案を競争入札で落札したのが、132便墜落の1985年です(注9)、これは偶然でしょうか。

 そういえば、米国サイドからもオスプレイの技術的欠陥を指摘する声がありますが、ボーイング社のライバルは、1985年のGive &Takeのウラ話を知っているのではないでしょうか。なお、オスプレイ開発費は2兆円だそうです(注11)。

 本ブログでは123便事故当時のボーイング社の動きがコスカライ米国企業にしてはあまりに不自然だったので、何かあるとは睨んでいましたが、ボーイング社のオスプレイ開発の受注が1985年とは絶句、あまりに出来過ぎています。

 これが事実なら、オスプレイ(鷹)の実験を群馬県御巣鷹山上空でやるのもなんかの因縁です。そういえば、7月のオスプレイ騒動時のTVニュースにて、群馬県の住民が、米軍機の群馬県上空の訓練飛行日をカレンダーに記していましたが、驚くほど頻繁に行われています。御巣鷹山に眠る521人の御霊は安らかに眠ることもできません。



 ・そこで考え出されたのが、オリンピック号をタイタニック号と偽って出向させ氷山に激突させ沈める。そしてガッポリ保険金を頂く・・・・・・えっ?無保険でしょ?って思いましたか?無保険はオリンピック号です。こちらは、タイタニック号に偽装したオリンピック号。表的にはタイタニック号。だから、タイタニック号にはもちろん保険金をかけていますから後は口座の残高が増えるのを待つだけです。と、この話はホントかどうかはわかりません・・・・・・。

 ・<1985年8月12日午後6時12分に羽田を離陸した日航機123便は、その後、相模湾上空に差し掛かったところで、海上で演習をしていた米軍の追撃ミサイルに誤射され、垂直尾翼が破損してしまう。そのため、横田基地への緊急着陸を当初は米軍も誘導したが、東京の市街地に墜落して大惨事になることを恐れ、さらには、墜落事故が起きたことだけでも、日米同盟に、世論が猛反発することを恐れた中曽根政権は、自衛隊機を飛ばし、群馬県に123便を誘導、御巣鷹山に午後6時56分に墜落。
  アントヌッチ証言にもあるとおり、当初からアメリカ軍は、その墜落場所を正確に把握していて、日本側に救援も申し出た。また、日本側も、かなり早い段階から、墜落場所を特定していた。加藤紘一防衛長官自身、その日、上空から墜落場所を視察している。しかし、米軍の誤射が日航機の墜落につながった、ということを恐れた中曽根政権は、時間稼ぎのために、当日の捜索を行わなかった。それどころか、義憤にかられ、捜索をしようとした自衛隊員を射殺した、という情報さえある


■ グリコ森永事件と重い日航機123便 「虚空と君のあいだに」より
 ● ただ今回、俺が書くのはあくまでも、グリ森についてでだ。あのグリ森事件が「日航機墜落のような事件」を必要としていたというのは、純然たる事実と自分は考えている。そこを説明する。
 ● 結局のところ、日航機が墜落かは「わからない」。しかし、「別の事件」が「日航機のような事件を必要としていたかどうか」という状態が、もしあれば、それは明確に判断できる事象である。

■ 25年前の戦場 「見えない片目は深遠を探る」より
 ● 一番違和感を感じるのが、この墜落事故におけるフライトレコーダーの極めて不明瞭な交信記録と、警察と自衛隊の対応です。これは事故ではなく撃墜された事変であるという話が出てきたとき、戯言だけでは切り捨てられない何やら薄ら寒いものを感じました。
■ 日航機撃墜 「まっしゅる~むくらぶ」より
 ● 搭乗する人、しない人は選別されていた。つまり、大阪行きの飛行機は墜落させる計画だった。
  関西の日本食品企業つぶしと強(ママ)迫、もみ消しと粉飾決済。
■ 暴かれるか、日本航空123機墜落事故の真相?!43 「飄(つむじ風)」より
 ● 前原国交省大臣が慰霊登山を宣言した。異例の慰霊登山である。何で今なのか? 25周年は一般通念として解らなくもない。その25周年で日航は潰えた。その担当大臣は前原大臣である。そして、その直後に、立て続けに遭難事故が発生した。
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■ 暴かれるか、日本航空123機墜落事故の真相?!44
 ● 明日はあの事件から四半世紀が経つ  あの事故ではない!あの事件である!! そのレクイエムを拾ってみたい しかし、真相の解明なしに真のレクイエムはない!!
 ● 中曽根元総理、あなたは、あの日、防衛庁、とりわけ航空自衛隊に対して、一体、如何なる命令を下されたのか?!
 何故、あなたは、墜落後の乗客の早期救出を命じられなかったのか? 事実、墜落直後、数十名の生存者がいたというではないか。
 そればかりか、早期救出に向かおうとした数名の自衛隊員が、待機命令違反というだけで、なぜ、射殺されなければなかったのか?!

■ 暴かれるか、日本航空123機墜落事故の真相?!45
 ● 大きく変容した日航機123便墜落事故追求情報 ここに再開された(新)日本の黒い霧ブログ!! 情報の陳腐化は隠しようがない.......。何故、隠されたか、読者はその先を行っている!! 第45弾
■ JAL123便墜落事故-真相を追う-悲劇から25年そして講演会その後 「(新) 日本の黒い霧」より
 ● ■オレンジ色の怪光
 ● ■日航社内で根強いUFO撃墜説?
 ● 私がオレンジ怪光の正体を自信を持って説明できるとき、そのとき初めて「御巣鷹事変」の本質が人々に理解され、また私が「国営テロ集団」と呼んでいる組織の正体、そして、なぜ日本国政府や超大国が本件について沈黙を続けているのか、その真の理由が明らかにされるだろうと確信しています。
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■ 記事コメントよりコピペ【当サイト内ページ】
■ 御巣鷹の尾根に消えたJL123(JA8119)と犠牲になられた方を追慕する! 「コラコラコラム」より
 ● 事故機JA8119は墜落事故まで、JA8124と共に東京と大阪の移動、あるいは札幌への移動で、よく搭乗した機材でした。自らの問題でもあったワケです。
■ 墜落前の悲鳴「今も耳に」 日航機の管制官、沈黙破る 「asahi.com」より
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■ 25年前の今日、一体何があったのか~123便墜落は事故ではなく事件だ~ 「だいだいこんの日常に溢れる陰謀~もう騙されない~」より
 ● 日本は平和国家ではないのです。
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■ 暴かれるか、日本航空123機墜落事故の真相?!44 「飄(つむじ風)」より
 ● 実際、この”重大事件”を隠蔽しようと画策し、123便の横田基地への着陸を拒否し、2機の自衛隊機を発進させ、遠く御巣鷹(=地元)の尾根まで同機を誘導させた、その命令権者としての中曽根元総理は、当日、一体、何を考え、何を命令したのか?(monosepia - 注:ブログ内引用記事より)
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■ JAL123便に対して、相模湾上空で炸裂した核兵器のキノコ雲の頂部が、乗客によって撮影されていた。 「阿修羅♪」より
 ● 国産と推測される超小型中性子爆弾炸裂の様子が、乗客によって撮影され、その写真が後に、ご遺族によって公開されている。(『週刊現代』2010年8月14日号参照)。
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■ いわれなき批判に反論する 「軍事評論家=佐藤守のブログ日記 」より
 ● 依然として事故原因は「自衛隊の標的がぶっつかった」という“共産党作家”の影響も残っているらしい。驚いたことにコメントには「中性子爆弾説」などもあって、まだまだ国民はこの事故の実情を理解していないことを痛感した。
 ● このように我々は、墜落したのではないかと判断した時点以降、関係機関から何ら情報や要請のないまま、独自に可能な限りの救難活動を展開していたのであって、決して夜間行動をしていなかったわけではない。

■ 御巣鷹の尾根に消えたJL123(JA8119)と犠牲になられた方を追慕する! 「コラコラコラム」より
 ● 事故機JA8119は墜落事故まで、JA8124と共に東京と大阪の移動、あるいは札幌への移動で、よく搭乗した機材でした。自らの問題でもあったワケです。

■ 統一見解:1985年JAL123墜落御巣鷹山事変の怪!ロシア科学アカデミーS学派Dr佐野千遥 「...ドクター佐野千遥教授(2012-06-25 22:32:57 )」より
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ロシア科学アカデミー・スミルノフ学派・ドクター佐野千遥


1985年坂本九さん等が飛行機諸共墜落死したこの事変にはぞっとする程の暗躍が裏で蠢(うごめ)いている。


日本航空123便墜落「事故」は、1985年 8月12日 18時56分に、日本航空 123便、東京(羽田) 発大阪(伊丹) 行、ボーイング747 SR-46(ジャンボジェット、機体記号 JA8119)が、群馬県 多野郡 上野村 の高天原山の尾根 (御巣鷹の尾根 )[※ 1] に墜落した「事故」である。


公式の「事故原因」が「後部圧力隔壁 の損壊と、それに続く尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統の破壊により操縦機能の喪失をきたしたため。隔壁の損壊は、1978年 に行われた隔壁の不適切な修理に起因したもの。(航空事故調査委員会 による推定原因)」とされた事自体が不気味であった。


「事故」にカッコを付けたのは、偶発的事故と言うには余りにその周りに権謀術策が渦巻いているからである。先ず、事実として動かし難い点を、静岡県下田上空から始まった異変が群馬県多野郡上野村の御巣鷹の尾根に墜落で終わる過程について辿って見る。


WIKIPEDIAによると

「18時24分(離陸から12分後)、相模湾 上空を巡航 高度の24000ft(7200m)へ向け上昇中、23900ftを通過したところで緊急事態が発生する。突然のパーンという衝撃音と共に123便の垂直尾翼 は垂直安定板の下半分のみを残して破壊され、その際ハイドロプレッシャー(油圧操縦)システムの4系統全てに損傷が及んだ結果、油圧を使用したエレベーター (昇降舵)やエルロン (補助翼)の操舵が不可能になってしまう[※ 7] 。」

となっている。


この「突然のパーンという衝撃音」というのは、当日米軍と自衛隊が富士の裾野で合同演習をする為に飛ばした標的機がJAL123の尾翼に当たった瞬間の音であり、それは垂直尾翼の3割だけを壊したが、標的機は突き刺さったままとなった。それを見て米軍と自衛隊は不祥事発覚を恐れ、米軍の最高級の偵察機U2を直ちに発進させてJAL123の直後を追跡し始めた。


WIKIPEDIAには

「フゴイド やダッチロール を起こした機体は迷走するとともに上昇、下降を繰り返すものの、クルーの操縦により17分間は20000ft (6000m) 以上で飛行を続ける。18時40分頃、空気抵抗を利用する降下手段としてランディング・ギア(車輪などの降着装置)を降ろした後、富士山 東麓を北上し、山梨県 大月市 上空で急な右旋回をしながら、高度22000ftから6000ftへと一気に15400ft (4600m) も降下する。その後、機体は羽田方面に向かうものの埼玉県 上空で左へ旋回、群馬県 南西部の山岳地帯へと向かい出す。」

と記述されている。


「羽田方面に向かうも」とあるのが高橋機長の熱望していた方向であったのだから、その時点では未だ垂直尾翼の殆ど全部破壊ではなく、3割だけであったという非公式情報は合点が行く。

にも拘らずその直後に高橋機長の望みとは裏腹の群馬・長野の方向へ操縦室で何をしようとも飛行して行く事になるのだが、これは直後を飛んだ米軍偵察機U2が実際JAL123の飛行方向をコントロールする能力を持っており実際コントロールしていたと見るべきである。


というのは、高天原山や御巣鷹山の辺りに墜落させると米軍・自衛隊のその時の「不祥事もみ消し」の目的にとって都合が良いからであった。当時山道が全く無かったこの辺りの山塊に墜落させれば、報道陣が詰め掛けるまでには多大の時間を要するであろうという読みが米軍・自衛隊に有ったと思われる。つまり不祥事発覚の証拠を報道陣が詰め掛けるまでに探索して撤去してしまう事ができるであろうと..。


米軍は偵察機U2でJAL123の進路をコントロールしていた事すら隠すための方策を試みていた。米軍は羽田より北西の東京都の横田基地が受け入れ体勢が有るかのような連絡を機長に入れている。これは御巣鷹山へと米軍が最終的には導いたのが表には見えず独力でそっち方向に飛んでいったが、機長/副機長自身の手違いでJAL123は横田基地より更に北西の高天原山・御巣鷹山に墜落する、というように装う。勿論羽田飛行場は受け入れ体勢を万全にして待ち構えていた。U2がJAL123の進路をコントロールしていた事を隠すためのもう一つの方策は、富士山の北西に来た所でJAL123は一回完全に360度円弧を描いている


その間、機長と副機長が操縦できた事は唯一上昇/下降のみであった。


そして高天原山・御巣鷹山上空に遂に指しかかった時に、後ろから追跡していた米軍最高級偵察機U2はロケット弾をJAL123に打ち込んだ。これは不発となり爆発しなかったがJAL123のエンジンを貫抜いてそこに止まった。飛行機本体から切断されたエンジンに不発弾のロケット弾が打ち込まれて止まっている写真も存在している。打ち込まれた瞬間から急速に落下し最後に45度の急降下で山に突っ込む事となる。


そして民間人で最初に現地入りをした長野県側の近辺住民のM氏は、現地に着いた当初は乗客生き残り40、50のうめき声、助けを求める声が山間に聞こえたとしている。ところで報道陣が到着した後では、救出された4名以外520名の遺体は個人の区別が全く付かない程、まるで火炎放射器のような物で燃やされた状態で報道陣に公開されているのである。


M氏は現地に到着すると既に自衛隊が到着していて、自衛官達は薄暗い中で何かをしきりと拾い集めて袋に詰めていたと言う。M氏は「あちらに何人、こちらに何人くらいが生存していて助けを求めていますよ。」と自衛官達に言ったが、「それは間もなく自衛隊第二団が来るから、彼等が遣るだろう。」と言って、一向に助けを求めている人たち(その時点の生き残り40,50人)をそこに居た自衛官達は助けようとしなかった、と語っている。


第二団が来るなら良いだろうとM氏が現地を離れる事となる。


ところでM氏が現地を離れた直後に現地入りした別の民間人は近付いて行くと40、50名のうめき声、助けを求める声が初め聞こえていたがヘリコプターが上空を飛び回り何かを散布した途端に声が殆ど聞こえなくなった、と報告している。


更に驚くべき事にNHKはその時、「助けを求める人を助けようとした自衛官が一人射殺されました。」と一回発表したが、それ以後このニュースは2度と放送される事が無かった。


事件発生時においてかくのごとく幾つも怪奇な事が起こっているのだが、事件の後3、4年の間に90名の自衛官達が次々と「自殺」を遂げた。その中の一人は友人に「自分もそろそろ危ないから。」と言い残して託した写真には彼の友人2人が地面から1.5メートルの高さに爪先が有るような状態で木からぶら下がっている。これは他殺と言う以外に無い。もう一つの写真には実にJAL123の尾翼の破片が写っている。


誰が米軍U2にJAL123を打ち落とさせる決定を下したのか?JALは日本の飛行機なのだから、そして今日においては戦争直後の1952年、米軍が日航機「木星号」を撃ち落した米軍GHQ占領下とは違うのだから、JAL123に対しミサイルを発射する決定を米軍の高官や米大統領だけでは下せないのであるから、しかるべき日本国家の高い地位の人間が協力しなければ日本の民間飛行機の撃墜命令を出す事は出来ない。


ついでながら申し添えておくとこの御巣鷹山事変が起こった時の内閣総理大臣は中曽根康弘氏であった。
ところで事態は更に大きく紛糾する事となった。その後現地を探索した者が御巣鷹山付近には米軍の軍用機50機やミサイル、更には旧ソ連のMig25戦闘機の残骸までが散在している、と発表した。


これを受けて、次のような仮説が次々と発表され、事態は更に紛糾する事となった。


「御巣鷹山近辺で1985年米ソの戦争が起こった!ソ連は空てい部隊まで送り込んだ!双方の空軍に500名くらいの戦死者がでているはず!」


「ソ連空軍の飛行機が領空を審判すれば普通だったら直ちに自衛隊が検知するから、自衛隊の中に背連と結んでいる大きな勢力が無ければならない。


これは基本的には

「米陸軍+旧日本陸軍 vs 米海軍+旧日本海軍

という構図が働いている。米海軍+旧日本海軍には親米右翼が、陸軍+旧日本陸軍には反米右翼が付いている。GHQマッカーサーは陸軍元帥であり、旧日本陸軍は生きており、日本は既に核兵器を製造し実は既に持っている。核兵器製造所は御巣鷹山から程遠くない長野県側に有る。JAL123にはその日本の核兵器製造に関わった人物が乗っていた。」 という見解である。


私自身は御巣鷹山の山間に散在する「米軍の飛行機やミサイル、ソ連軍のMIG25の残骸」とはすべて(それ等の文字を書き込んだ)標的飛行機とそれを撃ち落したミサイルの残骸と見る。よって1985年御巣鷹山近辺で米ソの戦争が起こってはおらず、また米陸軍+旧日本陸軍 vs 米海軍+旧日本海軍の戦争も起こっていない、と見る。生き残った4人の人達の誰も、空中戦の音や軍隊と軍隊とが撃ち合う音や爆撃の音や閃光を見ていないのである。そのような戦争が墜落直後に起こったとした場合、墜落から民間の現地一番乗りのMさんが到着するまでの時間数は余りに短過ぎるのであり、Mさん自身も現地に近付きつつあった時にそのような物音を聴いていないし、閃光も見ていない。


核兵器製造がJAL123撃墜に関わっていたかという点については、日本国内に核兵器製造を推進するグループが例え既に居るにしても、JAL123の御巣鷹山墜落事件とは無関係と見る。JAL123事件はあくまで尾翼に米軍・自衛隊の標的機が予期せず衝突した事に端を発し「不祥事のもみ消し」にその本質が有ったと見る。














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最終更新:2024年01月06日 17:55