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■ ヴァージニア・ウルフの知性美と唯物主義的極点 「マダムNの神秘主義的エッセー(2016.2.4)」より
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ナイジェル・ニコルソン(市川緑訳)『ヴァージニア・ウルフ (ペンギン評伝双書)』(岩波書店、2002年)を読んだ。作品の評論的な部分は少ないが、ヴァージニア・ウルフという人物を知る上では好著だと思う。

ただ、落合恵子のあとがきが本の最後を飾っているのが嫌である。ヴァージニア・ウルフはフェミニズムの先駆者として有名であるが、落合恵子のフェミニズムとは本質が異なるという印象を受ける。

ヴァージニア・ウルフのフェミニズムは人類全体を高めるためのものだという美しさを感じさせるが、落合恵子のフェミニズムには人類をオスとメスに先祖返りさせるような嫌らしさを感じる。

落合恵子のあとがきから感じられるのは、オスが得ている特権に対する告発とその特権を奪いたいという目的意識で、単純ないいかたをすれば奪い合いの印象を与えるものであって、それ以上の崇高な意識が感じられない。彼女の政治活動にもそれはいえることではないだろうか。

マルキシズムもフェミニズムも劣化したものだと思う。

(※mono.--以下中ほどは長文につき略、詳細はブログ記事で)
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なぜかわたしにはヴァージニアが工場労働者だったようなイメージが湧く。過酷な知的流れ作業の果てに倒れたのだと思える。

わたしは「詩人」と呼んでいた女友達を連想していた。象徴主義的な美しい詩を書いたが、彼女は意外にも唯物主義的な人で、わたしは彼女には一切神秘主義的な話ができなかった。統合失調症に高校時代から最晩年まで悩まされ、奇しくもヴァージニアと同じ59歳で逝った。*20

芸術の歓びはあちらからやってくるのではないだろうか。もっと翼を広げ、もっと享受できたはずなのに、翼を広げかけたままのつらい姿勢に終始し、あまりにも少ししか受けとらなかったヴァージニア・ウルフ。

神秘主義的に見れば、それは霊的な餓死に見える

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■ 過酷な知的流れ作業の果ての霊的な餓死者に見えるヴァージニア・ウルフ 「マダムNの覚書(2016.2.3)」より


■ なつかしい獅子文六『悦ちゃん』とヴァージニア・ウルフの日記 「マダムNの覚書(2016.1.29)」より
(※mono.--前半略)
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大学時代、ヴァージニア・ウルフの精緻な描写の連なる日記を読んで、これこそ作家の日記だと感心した。残念ながら誰かに貸したきり、戻ってこない。再読したくなり、これも新装版を借りた。

今の日本の文学作品を読んでいると、感覚が狂ってくる。ヴァージニア・ウルフには「意識の流れ」という手法を用いた秀逸な『燈台へ』という作品がある。ヴァージニアの日記は作家の基準を示す燈台の光のようにすら感じられる。

「意識の流れ」という純文学の有名な手法について、ウィキペディアから引用しておく

(※mono.--以下略)


■ 「ダロウェイ夫人」 バージニア・ウルフはやっぱり怖いかも・・・ 「いつもここにいるよ(2015.6.21)」より
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ヴァージニア・ウルフは読みたいと思いながらなかなか読めずにいた。

「灯台へ」を挫折し、「ダロウェイ夫人」をモチーフにした映画、「めぐり合う時間たち」を観た。

不思議で印象的な映画だったけど原作を読むにはつながらなかった。

その後も、興味をもつ本のなかにウルフのナイフのような言葉を見つけるたびに、ますますやはり原作を読まなければと思いつつハードルが高く短編や講演記を読んでいたが、今回やっと「ダロウェイ夫人」を読んだ。(読めた)



「ミセス・ダロウェイは、お花はわたしが買ってくるわ、と言った。」

から始まる、1920年代の美しいロンドンの6月のある一日の物語。

朝から夜半までの一日に、クラリッサ(ダロウェイ夫人)を中心に夫や昔の恋人、自殺する青年の人生が交差しながら40年の時が織りこまれている。

(※mono.--以下略、詳細はブログ記事で)


■ [書評]オーランドー(ヴァージニア・ウルフ) 「極東ブログ(2007.3.9)」より
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 人生いつか読む気でいてなんとなく読みそびれた本がいくつかあるが、ヴァージニア・ウルフの「オーランドー」(参照)もその一つだった。
 私がウルフに関心を持ったのは神谷美恵子への関心からの派生だ。神谷美恵子についてはいろいろ複雑な思いがある。私が青春時代、みすずから神谷美恵子著作集が刊行されたことも影響を強くした。私はそれを全部読んだ。次々と刊行される著作集には月報のような冊子があり、そのなかで夫の神谷宣郎が美恵子には著作からはわりえないものがありますという奇妙な告白のようなコラムを書いていたのだが、それは今も痛みのように心に残る。

(※mono.--中略)
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 人がその人を包む逃れられない、選択不可能な時代というものを意識するとき、その時代の歴史根底は無数の人(死者)となって私を構成しはじめる。私はそのそれぞれにおいて、死者をよみがえらせ、変身する。肉体を得る。
 現代という時代においてその歴史を抱え込んだ意識存在が、肉体的、つまり性的な変身の臨界において女性になっている、という点にオーランドーの主題がある。

 ではこの滑稽な「オーランドー」という仕掛け(つまりネタ)は文学のためであっただろうか? それともヴィタを面白がらせるための悪い冗談やめれ的な趣向だったのか。どちらかといえば後者であるだろうが、ウルフはここで英国史というものを文体、詩文のなかに流し込んでしまいたかったため(それは時代というものを言葉の象に写し取ろうしたため)、文学の趣向が濃くなってしまった。
 さらに文学というオタ的なものにならざるを得なかったのは、現代的にいえば、「オーランドー」はコミケな作品だったこともある。同人誌である。この作品の序文にずらずらと名前が挙げられている当時のパンクなイカレた知識人が愉しむための文学的な冗談として閉じられて作成された作品であり、現代の携帯電話のチェーンメール的な趣向でもあった。そしてこのチェーンメールのなかにこっそりケインズが潜んでいることも注意してよいだろう。
 ここでヴィタに触れざるを得ないのだが、この部分についてはいわゆる地道な文学研究が進められているので割愛したい。三十六歳はヴィタの年齢である。ウルフは十歳年上だった。










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最終更新:2016年02月06日 20:57