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● 三島事件〔Wikipedia〕
三島事件(みしまじけん)とは、1970年(昭和45年)11月25日に、日本の作家、三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。三島と同じ団体「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件(たてのかいじけん)とも呼ばれる。
この事件は日本社会に大きな衝撃をもたらしただけではなく、海外でも、国際的な名声を持つ作家の起こした異常な行動に一様に驚きを示した。
● 三島由紀夫「檄文」全文 「文系の雑学・豆知識(2019/8/18)」より
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三島由紀夫が、昭和45年11月25日に市ヶ谷駐屯地にて割腹自決した際、自衛隊員に向けて撒いた「檄文(全文)」です。
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われわれ楯の会は、自衛隊によって育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このような忘恩的行為に出たのは何故であるか。

かえりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後ついに知らなかった男の涙を知った。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑いもない。われわれにとって自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛冽の気を呼吸できる唯一の場所であった。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなお、敢えてこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云われようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
 われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。 

われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
 四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとえに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようという決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむずかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねじ曲った大本を正すという使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしていたのである。
 しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起ったか。総理訪米前の大詰ともいうべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終った。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変らない」と痛恨した。その日に何が起ったか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢えて「憲法改正」という火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になった。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬かぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家たちにとってはそれでよかろう。しかし自衛隊にとっては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。
 銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日という日は、自衛隊にとっては悲劇の日だった。創立以来二十年に亘って、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。論理的に正に、この日を境にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあろうか。
 われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みていたように、もし自衛隊に武士の魂が残っているならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であろう。男であれば、男の衿がどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」という屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかった。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかっているのに、自衛隊は声を奪われたカナリヤのように黙ったままだった。
 われわれは悲しみ、怒り、ついには憤激した。諸官は任務を与えられなければ何もできぬという。しかし諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、という。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のように人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
 この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこかへ行こうとするのか。繊維交渉に当っては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあったのに、国家百年の大計にかかわる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかわらず、抗議して腹を切るジエネラル一人、自衛隊からは出なかった。
 沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
 われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。

三島由紀夫
【参考資料】
※ マルグリット・ユルスナール〔Wikipedia〕
自伝的作品として、作家自身のルーツをたどった『世界の迷宮』三部作がある。絶筆となった第三部『何が? 永遠が』は未完のまま1988年に刊行された[2]。ユルスナールは三島由紀夫を評価していたことでも知られており、三島を扱った評論『三島あるいは空虚のビジョン』がある。ほかにイタリアの版画家ピラネージを扱った『ピラネージの黒い脳髄』がある。




オリジナルの動画/ Original Video:
https://www.youtube.com/watch?v=hLGMm6c_BCA








2015/02/01
sphere4287

Yukio Mishima who is one of the writers on behalf of Japan. What would he watch in the times called Showa? From many testimony and many original notebooks, we elucidate it.
日本を代表する作家の一人である三島由紀夫。昭和と呼ばれた時代に彼は何を見ていたのか。多くの証言と多くのオリジナルノートから、それを解明する。


sphere4287
2015/02/01 に公開
Yukio Mishima who is one of the writers on behalf of Japan. What would he watch in the times called Showa? From many testimony and many original notebooks, we elucidate it.

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※mono....三島は今の崩壊しきった日本を想像出来なかった。今こそ三島は生きているべきだった。なぜなら今の日本こそが巨大な虚無であるから、三島という虚無の巨人には生きるに相応しい、言葉を生むに相応しい時代のはずだから。
蘇るべきだ。


■ 変態ホモ野郎の割腹ショー 「二階堂ドットコム( 2019/03/24 09:16)」より
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(※mono....以下略、詳細はサイト記事で)


■ 三島由紀夫を裏切った人たち  ホンモノとニセモノの違い 「祖国創生(2019.03.03)」より
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本稿は、
ドナルド・キーンは本当に「日本文学と日本文化研究の第一人者」なのか?
http://sokokuwanihon.blog.fc2.com/blog-entry-1315.html
の続編。

まず、西さんのコメントを参照したい。

 ここから引用開始 


三島の自決が理解できなかった時点で

川端康成、安部公房らは三島の自決をそれなりに「総括」していたようなところがありましたが、ドナルド・キーンには、「三島の自決が理解できなかった」というような趣旨の発言をしていたようで、それならば、氏の長年の三島らとの交流は何だったのか、これで日本文学の第一人者だったと言えるのか、と思うところがありましたね(文学者では無いですが、三島と交流のあった中曽根康弘も保守と言われていましたが、三島の自決に関してはコメントを避けていたところがあった為、馬脚を現した感じがありましたね)。

(※mono....続きは略)
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中曽根は、三島の自決後、掌返しした。


当時、中曽根康弘は防衛大臣。中曽根大臣と三島由紀夫は親交があったことが知られている。
こういう指摘がある。

 ここから引用開始 

「田母神「自衛隊問答」 国防の「壁」を打ち破る!」(田母神 俊雄、拳骨拓史)

120頁
三島事件で抱いた猪木校長や中曽根さんへの違和感

拳骨
三島事件が起きたとき、中曽根康弘さんが猪木さんに「三島を否定しろ」という指示を出したともいわれます。それまで中曽根さんも三島由紀夫を仲が良かったのに、いきなり手のひらを返した。それに対し、「何で手のひらを返すんだ」とクレームをつける人もいたけれど、自身はそんなことは気にしなかったと、中曽根さんは回顧録で誇らしげに語っています。

田母神
まあ、あの人は自分が何をやったかもわかっていない人ですから。

 ここまで引用 

三島由紀夫生前時は、愛国者を装い、防衛大臣ポストを得た。掌を返す意味おわかりであろう。防衛大臣になるために、、、
そして、中曽根が政界で今も影響力を行使し続ける理由、ロッキード事件等を含め政治的に無傷であり続けたのはなぜであろうか?中曽根は、アメリカの意図に敏感に反応し、キッシンジャーに忠実に従った可能性はないのか?

「新参者」さんからも情報提供をいただいた。

 ここから引用開始 


(読者の声1)三島文学のよき理解者ドナルド・キーン先生が亡くなりました。96歳、この享年は、木内信胤、中河與一先生等と同じでした。
随分とテレビは好意的に扱っています。とくに晩年は新潟に転居され、日本人に帰化されたほどでした。宮崎正弘先生もおつきあいがあったと思われますのでご感想を聞かせていただけると幸いです。
   (HD生、新潟県燕市)

(宮崎正弘のコメント)お目にかかったことは数回しかなく、ですからコメントする立場にはありません。作品のなかでは徳岡孝夫氏との『悼友紀行』を印象深く覚えています。三島さんゆかりの地を二人で旅行して、おりおりに対談された記録です。
 キーンさんの発言では「日本のオリジナリティのないムラカミハルキには興味がない」とした評価には賛同します。

(※mono....中略)
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 小生が思いますに、三島さんの思い入れが強かったわりに、キーン氏は、一方で安部公房、大江健三郎を称える人、つまり「文壇政治」と心得た人だった。サイデンステッカー先生がいつぞや呟いておられましたが、キーンさんが展開していることは『政治ですよ』という一言で、殆どが了解できます。

(※mono....中ほど大幅に略)
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ここで、三島と親交があったある外国人が、三島由紀夫の死を悼み、皇国史観派の視点で書かれた本を紹介したい。

タイトルは「高貴なる敗北」。アイヴァン・モリスの淡々とした筆致は、三島文学の背後にある悠久の世界を見事に表現している。著者は、まえがきにて、「三島の霊に捧げる」と書いている。
死者に代わり、代弁しているということ。能のシナリオ本みたいな書きぶりに近い?

それと比較すると、三島と親交があったことがなぜか強調され続ける?、ドナルド・キーンが三島文学の神髄を理解していたとは思えない。彼は、戦時中はGHQの通訳であり、帰化後はキッシンジャーへのご注進係?に過ぎない。(と私はみている)ドナルド・キーンの最晩年の発言は、疑惑を逸らすための言い訳ではないか。





天皇
■ バタイユ教徒・三島由紀夫と“双曲線分裂の天皇観” 「中川八洋掲示板(2018.11.9)」より
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筑波大学名誉教授  中 川 八 洋

 今朝、我が作業室の書庫で、偶然に「三島由紀夫コーナー」にふと目がいった。何かな、A4一枚のワープロ書きがあるぞと手に取った。『徳仁《新天皇》陛下は、最後の天皇』357頁に追加挿入する予定の自分の原稿ではないか。さる7月、「長すぎるから半分カットせねば」「しかし、今は時間の余裕がないから、あとにしよう」と、こんな所に置き、忘れてしまった。

 この稿はいずれ、『徳仁《新天皇》陛下は、最後の天皇』の重版で357頁に挿入される。が、それは、カットされた半分を誰も見ることがないということ。『徳仁《新天皇》陛下は、最後の天皇』の、今の読者に供すべく、カット前の粗稿を、以下、掲示しておきたい。                 

(11月5日)                         

(附記) 『元旦詔書』を「人間宣言」に曲解した三島由紀夫『英霊の聲』
 三島由紀夫は、1966年の作品『英霊の聲』(河出書房新社)で、昭和天皇の『元旦詔書』を呪う経文「などてすめろぎは人間(ひと)となり給いし」を、「一場」で二回、「二場」で三回、繰り返している。修羅能の様式を借りた小説『英霊の聲』は、恨み節を語る二・二六事件の死刑犯を能舞台の「前(まえ)シテ」に、特攻隊の“英霊”を「後(のち)シテ」に擬している。

 三島由紀夫は、「反共」の旗を揚げたが、単細胞型の浅薄な「反共」だった。マルクス・レーニン主義や「日本の官・政・軍に対するソ連NKGB/GRUの対日洗脳工作」について無知蒙昧なイデオロギー“音痴”/国際政治“音痴”だったから、知の巨大倉庫を頭に乗せている“保守主義の反共”とは程遠い。このため、ソ連大使館(スターリン/ベリヤ)に操られ、“昭和天皇殺し”も革命アジェンダだった、共産主義者の叛乱将校の死刑は当然すぎるのに、三島は真逆にも「英霊」だと狂妄する。

 三島由紀夫は、ジョルジュ・バタイユのモチーフ「死」と「エロティスム」に頭をやられ(三島の『憂国』は、バタイユ一色)、歴史知も理性も半ば奪われていた。現実にも三島は、「ニーチェ→バタイユ」に共振して「(伝統的な既成の)神は死んだ」を信仰し、柿本人麻呂が歌う、神武天皇以来の日本独自の“天皇=現人神アキツミカミ”は「死んだ」と観想していた。昭和天皇を“新しい絶対神”(その実、ヒトラー型独裁者)に改造すべき/改造・再生されているはずとの狂信は、この反動であろうか。

(※mono....以下略、詳細はサイト記事で)


適菜収
■ 三島由紀夫が警戒したもの。それはまさしく安倍晋三的な「言葉の軽さ」だった!:作家・適菜収が偽装保守・安倍政権の問題の本質を突く 「BEAT TIMES(2017.4.3)」より
(※mono....コピペ不可サイトなので、下記IMAGEを貼る。詳細はサイト記事で)
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★■ 【三島由紀夫没後45年(上)】決起した元会員、貫く沈黙 肩の刀傷…今も悔いなく 「産経ニュース(2015.11.22)」より
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 日本を代表する作家、三島由紀夫=当時(45)=が、自ら結成した民間防衛組織「楯の会」の会員4人と陸上自衛隊市ケ谷駐屯地に乗り込み、会員1人と自決した事件から、25日で45年になる。何が三島らを暴挙とも思える行為に駆り立てたのか。憲法改正問題などが注目されるようになった今、三島と寝食を共にした楯の会の元会員の証言などから、改めて事件の背景と現代日本へのメッセージを考える。(編集委員 宮本雅史)

(※mono.--以下略、詳細はサイト記事で)

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★■ 【三島由紀夫没後45年(中)】狙撃覚悟「建軍の本義」問う 元会員「森田さんがもちかけた」 文学ではなく行動に託す 「産経ニュース(2015.11.23)」より
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 昭和45年11月25日、秋晴れに包まれた陸上自衛隊市ケ谷駐屯地。

 「自衛隊にとって建軍の本義とは何だ。日本を守ること。日本を守るとは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることである」

 バルコニーからこぶしをかざして声を振り絞る三島由紀夫=当時(45)。だが、自衛隊員の罵声と上空を舞う報道各社のヘリコプターの爆音に、その声はかき消される。

 「お前ら聞けぇ。静かにせい。男一匹が命を賭けて諸君に訴えているんだぞ。今、日本人がだ、自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は武士だろう。武士ならばだ、自分を否定する憲法を、どうして守るんだ」

 「諸君の中に1人でも俺と一緒に起つやつはいないのか」

(※mono.--以下略、詳細はサイト記事で)

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★■ 【三島由紀夫没後45年(下)】三島に斬られ瀕死の元自衛官「潮吹くように血が噴き出した」 「産経ニュース(2015.11.24)」より
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 11月中旬のある日、清冽な青空のなか、東京・市谷の防衛省内の急坂を上る元自衛官の姿があった。寺尾克美(86)。

 「あの日も秋晴れだったなあ」。短躯だが、がっちりとした厚い胸を張り、青空を見上げた。

 45年前のあの日、陸上自衛隊市ケ谷駐屯地の東部方面総監室で益田兼利総監の身柄を拘束した三島由紀夫=当時(45)=ら5人と自衛官との間で格闘になり9人が負傷、うち6人が入院した。寺尾もその一人だ。三島に銘刀「関の孫六」で腕を一太刀、背中を三太刀斬られ、瀕死の重傷を負った。

 事件現場となった総監室は今、「市ケ谷記念館」として残されている。

 その総監室のドアに今も残る刀傷を指さしながら、「最初に踏み込んだ自衛官が斬られたときのものだ。総監の机がこのあたりにあった。窓の外のバルコニーで三島さんが演説した」。寺尾は当時の凄惨な記憶が蘇ってくるように話した。

(※mono.--以下略、詳細はサイト記事で)



だが出稿後、産経新聞シリ-ズ【三島由紀夫没後45年】の記事を目にした時、私は驚愕した。シリ-ズは上・中・下3部構成となっているが、生憎ここに全文を掲載するだけの紙幅に余裕がない。故にシリ-ズ「下」の一部のみの抜粋に留めざるを得ない。

三島没後45年を迎え、憲法論議が高まりつつある現在、我々は三島由紀夫・決起の深層を検証し、学ばなければならないことを痛感する。

(※mono.--この後、産経新聞の特集記事の引用は略)
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当時の自衛隊員の7割が共鳴したという三島由紀夫の檄文を掲載する。
この中に、三島由紀夫の自衛隊に対する深い愛着と憲法改正に寄せる期待、そして「日本再生」に最後の望みを託して決起を促した自衛隊への深い失望感と憲法改正を断念せざるを得ないと直感した無念な想い…が痛々しくも眩しいほどに伝わってくる。

読者各位に置かれても、今だからこそぜひ吟味していただくことを願うものである

(以下、三島由紀夫氏の檄文は略、詳細はブログ記事で)


■ 三島由紀夫が待望したように最終的に日本を救うのは自衛隊だ! 「草莽隊日記(2015.11.23)」より
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今ほど楯の会の三島森田の義挙が見直されるべきときはない。憲法改正を実現するためには、現在の危機を逆に利用しなくてはならないからだ。三島由紀夫は「楯の会会員たりし諸君へ」との遺書のなかで「日本が堕落の淵に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の錬成を受けた、最後の日本の若者である。諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ」と訴えた。その文面は同志たる者にあてたものであるが、内容からしても共に立ち上がることを望んだ自衛隊への、切ない思いがこめられている気がしてならない。三島森田が自刃したのは昭和45年であった。敗戦から四半世紀しか経過しておらず、戦争に動員された若者たちも健在であった。大東亜戦争は昨日の出来事であった。遺族会や軍恩は全国的な組織を維持していた。クーデターは夢物語ではなかったのである。しかし、三島の市ヶ谷のバルコニーでの演説は、自衛隊員の怒号で打ち消されたのである。三島は今日の日本を予言していた。憲法改正は実現しておらず、国民世論は未だに目覚めていない。決定的な危機が訪れるようなことがあれば、三島が望んだように自衛隊による超法規的な行動もやむを得ないのである。「国家緊急権」の発動である。尾高朝雄も『法の究極にあるもの』において「法は適法の仕方によって作り出されるのを原則とはするが、適法ならざる仕方によって法が作られる場合も必ずしも稀ではない。適法でない仕方で作り出された方も、それが法としての効力を発揮するにいたれば、やはり法たることに変わりはないのである」と書いている。政治が無力化し、混乱の収拾がつかなくなれば、自衛隊は国民の楯とならなければならないのである。その勇気自衛隊になければ、日本は悲劇のどん底に突き落とされることになるだろう。


















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最終更新:2022年07月16日 11:15
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