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【続き】
ヨーロッパの芸術家は、上記の本のような発言を普通にしますが
日本のクラシック音楽家でする人をあまり見る事がなく。(少数いますが。)

国民も、音楽家は音楽だけすれば良いなどと言う人もいて、、。
それがGHQにされた戦後教育の結果であり。。

レッスンの中でも、音楽だけでなく音楽以外の話に自然になるのが、芸術をするということ。
音の中は、世界に繋がるものだらけだからです。
音だけ弾いても芸術にはならないので、、
音を通して世界を観る力を育むことが、芸術。

芸術に触れることは、普遍の真実、真理に触れること。

だから、芸術をしているのなら、
コロナやワクチンの嘘、違和感は解ったはずなのです。


Shinya Amano vive la révolution@shinya_amano18
返信先: @naoko_pianistさん
故に我々が文化を取り戻すのです。
音楽家、画家、俳優、詩人etc.
がその役割を担うような。

権力者からの離脱も同時に目指しましょう。今フランスで起こってることができなくても大丈夫です。日本人ならではのやり方で✨
午前9:31 · 2023年4月1日




■ ‘手すき和紙’は国が救うべきでは-危機に瀕する日本の文化 「万国時事周覧(2019-06-10 13:22:56)」より
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報道に依りますと、手すき和紙の生産に不可欠なトロロアオイを生産してきた茨城県小美玉市の5戸の農家が、来年で作付をやめるそうです。全国の手漉き和紙事業者の7から8割ほどに原材料として提供してきていますので、生産の中止は日本国の手すき和紙存続の危機ともなりましょう。

 日本国の手すき和紙はその柔らかさや薄さにおいて優美であり、それ自体が伝統工芸品であると共に、書画や建具をはじめ、様々な伝統文化に使われてきました。おそらく、トロロアオイの根からつくられる「ねり」が、手すき和紙にその独特の繊細さをもたらしているのでしょう。海外からの評価も高く、いわば、日本文化を支える礎とも言えるのですが、予測されるトロロアオイの供給激減は、日本の伝統文化が消滅の危機に瀕していることをも意味します。このまま放置したのでは、先人から伝わる重要な文化を失うことになりかねませんので、何としても、トロロアオイの生産を維持する必要がありましょう。それでは、存続に向けての手を打つとしますと、どのような手段があるのでしょうか。

 生産中止の最大の要因は、採算性の問題にあるそうです。

(※mono....続きは略、詳細はサイト記事で)

 トロロアオイは中国原産ですし、韓国でも日本の和紙技術を導入した今日では伝統的な韓紙の製造にも使用されていますので、これらの諸国から輸入すればよいとする考えもありましょう。しかしながら、輸入が途絶えた途端に(両国とも反日国家…)、日本国の手すき和紙の生産も停止してしまいますので、輸入頼りにはリスクがあります。また、何よりも日本国の伝統文化なのですから、やはり、原材料の生産から製造までの全過程を国内において完結させた方が、完全なる形での伝統の保存・保護となりましょう。作付けの中止は2020年からですので、まだ時間はあります。国民の多くも反対はしないでしょうから、日本国政府も、地方自治体も、そして、国民も、手すき和紙文化を救うために協力すべきではないかと思うのです。


相撲
■ 相撲女人禁制 男尊女卑の「因習」蔓延る日本の、男女平等たる本当の「伝統」 「日本人の誇りを取り戻せ(二〇一八年四月七日)」より
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男尊女卑の価値観に塗り固められた悪しき因習が、現代日本のそこかしこに蔓延る現状をまじまじと示す重大な事件が起きた。既に報道もされているが、京都の大相撲巡業で、人命救急のために土俵に登った女性看護師数名に対して、繰り返し「女性は」土俵から降りるよう放送で呼びかけた上、女性が降りた後すぐに土俵に清めの塩を撒いたというものである。

今回の件に関しては、女性を「穢れ」と見なし、これを徹底的に排除しようとする不当な差別そのものであり、なおかつそのような価値観が人命救助の場面にすら適用され、人の命を救おうとする行為よりも優先されたということについては、全く信じられないほど酷い事態である。誤った男尊女卑の価値観に塗り固められた因習が、現代日本を覆っていることを示す一つの事例であると言えよう。
しかしながら、今回の件をもって日本の「伝統」が男尊女卑であると見なし日本の伝統や文化そのものを男尊女卑の精神に基づくものであるから壊さなければならないという発想に繋がるのは全く間違ったことである。なぜなら、今回の女人禁制の土俵の問題もそうであるが、今我が国のホシュ派が「伝統」として崇める男尊女卑的価値観を伴う事物は、大抵の場合日本の伝統ではなく、「エセ伝統」すなわち「因習」にしか過ぎないからである。

(※mono....中ほど略、詳細はサイト記事で)
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当ブログは、言うなれば「日本会議保守」とは一線を画す真の保守派ブログとして、真に保守すべきものは現状の体制ではなく二千年間の文化と歴史と伝統であると考えている。その意味で、今の日本の状況は全く日本の伝統に沿わないものであると思われてならない。


そもそも日本の歴史を見れば、日本が諸外国に比べて極めて歴史的に女性の権力が強かったということが分かる。神話の時代から、神道の最高神は女神である天照大御神であるとしていることや、神功皇后による三韓征伐の話が伝わるなど、女性の活躍が見られる。史実においても、倭国大乱を収めた邪馬台国の卑弥呼や、東アジア初の女性君主となった推古天皇の例は言うまでもないことである。女帝皇極天皇(斉明天皇)は、鬼室福信らによる百済復興運動への援助を決定し、日本が経験したはじめての大規模な対外戦争である白村江の戦いを主導した。持統天皇は、天武天皇の崩御後に藤原京の建設や日本初の律令「飛鳥浄御原令」の策定を主導した上、幼少の文武天皇へ譲位した後も実権を握り続け、大宝律令の制定を指導したのである。奈良時代に入っての女帝の活躍は言うまでもない。元明天皇元正天皇孝謙天皇称徳天皇と、この時代には三名四代に及ぶ女帝が誕生している

(※mono....以下略、詳細はサイト記事で)


■ 明治維新以降の日本伝統は“糞” 「異論」の中にこそ真実がある 「世相を斬る あいば達也(2016.2.12)」より
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今夜は、以下の佐伯啓思氏のコラムに触発されて、日本のナショナリズムと云う概念について、少し考えてみようと思う。日本の伝統的文化やナショナリズムの真の姿を見る時に、どこを起点にするか、非常に重大である。第二次大戦後の日本を起点にするか、幕末明治維新を起点にするかで、日本と云う国の捉え方が大きく異なるのだから。幕府政治の始まった鎌倉時代を起点にすることも可能だろうが、800年前となるとリアリティがないし、史実上も曖昧さを排除できない。

佐伯氏はアメリカ価値観に対して強く否定的考えを持つ学者である。最低でも、この時点で、保守ではあるが、親米保守と一線を画している点で評価できる。特に、冷戦構造終結後のアメリカの独善性に、強く憤っている。自国の立法府を蔑ろに、アメリカ議会で、事前に政策を約束してくる安倍晋三などは、イデオロギー的に、批判の対象ですらない。また、佐伯氏は近代に対しても批判的視線を送っている。筆者もその点では同意するが、、江戸時代を中世と見るか近代と見るか、微妙な点があるので、全面的に近代を否定は出来ない。

但し書きをつけるとすると、明治維新後の近代日本と云う捉え方が、最も腑に落ちる。何と言っても、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府時代の日本の価値観や伝統文化をかなぐり捨てたのだから、日本文化を語る資格は、その時点でプツンと切れたと言っても良い。常に、時の権力と云うものは、過去の権力を否定することで、自己を正当化するものだ。ただ、明治維新と云う歴史的線引きは、国家の伝統文化を断絶させたわけで、見るも無残だ。なにせ、下級武士たちが、江戸時代の“定常経済的”安定安心文化を木っ端微塵に破壊したのだからたまらない。

元禄時代から文化文政時代。この時代の日本は、殆ど経済成長をしていない。つまり、現在の日本が示しているのに近い「成熟の国家」だったわけだ。実は、此処が最大の日本人が気づくべきポイントがあると云うことになる。物欲に凝り固まっっていた下級武士階級は、折角の「成熟国家」を、自分たちには息苦しくて棲みにくいと云うことで、外国の資金をバックに、革命を起こしたに過ぎない。ウクライナのクーデター勢力と同じなのだ。ただ、当時の下級武士連中は、ウクライナの国民よりも額に汗することを知っていたので、一定の成果は上げた。しかし、伝統文化は捨てたのだ。

(※mono.--中ほど略、詳細はブログ記事で)
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≪(異論のススメ)拡散するナショナリズム われわれの「価値」は何か
佐伯啓思
 ナショナリズムが世界各地でいきおいをましている。七十数年前にあの悲惨な経験をしたわれわれが、ナショナリズムや愛国心という言葉を耳にするやたちまち拒否反応を示すことはわからないではない。しかし、われわれがそれを拒否しようが否定しようが、現実に世界中に拡散しているナショナリズムをどう処遇すればよいのかとなると、「ナショナリズムは危険だ」と唱えるだけでは何の解決にもならない。この数年、世界は急激にナショナリズムの引力に引き寄せられているというまぎれもない現実がある。

 中東を見てみよう。過激派組織「イスラム国」(IS)というきわめて特異な武装組織がかつてのイスラム帝国の復権を訴えて世界中でテロを起こしている。ほぼ無政府状態になったシリアやイラクに対してアメリカのみならずロシアが介入している。ロシアとウクライナはクリミアをめぐって対立し、ロシアはまたトルコとも緊張を高めている。

 EU(欧州連合)は経済の不調と移民・難民の流入に動揺し、移民排斥や時には反イスラムの動きが表面化してくる。またEUも崩壊しかねない。中国は南沙諸島を中心に東南海への進出をもくろんでいる。台湾では久しぶりに独立派の民進党から総統が選ばれた。こうしたことを背景にアメリカでは次期大統領選を前に、移民排斥を訴える共和党のトランプ旋風がおさまらない。

 書き出せばきりがないほどに、世界中のあちこちで国境をめぐる混乱が生じ、それが各国の国内政治にも影響を与え、ナショナリズムの引き金を引く。どの国でも、人々は他国に対する強硬派の強力な指導者を待望しているのである
{
(※mono.--中略、詳細はブログ記事で)}
/
 では、「われわれ」をまとめる価値とは何であろうか。政府はこういう。戦後日本の繁栄を支えたものは自由や民主主義や法の支配や市場経済や国際平和という価値であった。つまり、日本は戦後の欧米中心の世界秩序の受益者であった。だから米国とともに、この既存の秩序を積極的に守らねばならない、と。  「価値」とは、それに対する侵害者や破壊者に対しては身を賭しても守らねばならないものであろう。今日の欧米における反イスラムの風潮は、自由や民主主義を攻撃するイスラム過激派から彼らの価値を断固として守る、という信条をともなったものであり、そこに彼らのナショナリズムが生み出される。

 では「われわれ」はどうなのであろうか。果たして自由や民主やそれに平和主義にさえ、それだけの確信と覚悟をおくことができるのだろうか。そうではあるまい。どうやら「われわれ」は戦後、確かな価値を見失ってしまったようにみえる。

 とすれば、日本には、実は本当の意味でナショナリズムさえ成立しないことになろう。擁護する側も批判する側もせいぜい「ナショナリズムごっこ」をしているということだ。ナショナリズムの危険云々(うんぬん)より前に、まずは「われわれ」が確信をもって守るべきものは何かを改めて問うことから始めるほかない。   
◇  さえきけいし 1949年生まれ。京都大学名誉教授。保守の立場から様々な事象を論じる。著書に「反・幸福論」など  (朝日新聞デジタル)


■ それホンモノ? 「良き伝統」の正体 「毎日新聞(2016.1.25)」より
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(写真略)
東京五輪の2年前、国鉄(現JR)東京駅近くの路上風景。植え込みも路上もごみだらけ=東京都中央区京橋1丁目で1962年5月27日、池田信さん撮影

 日本人は「伝統」という言葉にヨワいらしい。例えば選択的夫婦別姓制度の是非を巡る議論。安倍晋三首相ら反対派は「同姓が日本の伝統だ」と主張し、いくら専門家が「同姓は明治中期以降の新しい制度」と指摘しても聞く耳を持たない。このように最近は、新しく、ウソに近い「伝統」がやたらと強調されている気がするのだが……。【吉井理記】

銀座はゴミの山だった

 中国の旧正月・春節(今年は2月8日)が近い。流行語にもなった中国人観光客の「爆買い」だが、彼らのマナーはどうだろう。

 「(ホテルで)酔って従業員に絡む人も」「寝間着にスリッパでロビーをウロウロする人は少なくなったが、じゅうたんにツバを吐いたりたばこを捨てて焦がしたり」「ひどいのはロビーのイスで足を開いて高イビキ」……

 中国人は、礼儀正しさを伝統とする日本人とは違うなあ……と、あえてそう思い込んでしまう書き方をしたが、実は全て日本人がやらかしたこと。東京五輪の年、1964年3月19日付毎日新聞の東京都内版が報じた日本人のマナーの悪さを嘆くホテル側の声の一部である。前年7月1日付では「汚れ放題東京の顔 銀座の歩道はゴミの山」との見出しで、通行人のごみのポイ捨てや住民が路上にぶちまけた「台所の残り物」が散乱する様子を伝えている。

 そして今、日本のマナーに反する中国人観光客はいる。列に並ばなかったり、ごみを捨てたりする人を記者も見たことがある。だが−−。

 「そこは『お互い様』です。最近まで私たちもそうでした。僕は70年代に米国留学したのですが、向こうで何に驚いたかというと、『割り込み』せず、みんなが列を作ること。当時の日本と大違いでした」と振り返るのは、社会心理学者で一橋大特任教授の山岸俊男さんだ。


(写真略)
鉄道利用者のマナーの悪さを報じた1951年2月の「サン写真新聞」(60年廃刊)に掲載された「割り込み乗車」の写真。「乗るときは一番後ろにいて、電車が来ると横に回り、ねじるように押し入る」らしい


 日本の駅で当たり前になっている「整列乗車」が生まれたのも戦後である。東京では47年ごろ、営団地下鉄(現東京メトロ)渋谷駅が最初らしい。駅長や駅員が整列乗車を訴えるプラカードを首から下げ、並び方を指導したのが始まりだ。これが後年、国鉄(現JR)などに広がった。整列乗車の成り立ちは「営団地下鉄五十年史」(91年)などが伝えている。

 銀行やスーパー、コンビニなどでも客に並んでもらうためにロープを張る、床にテープで線を引く、といった工夫をしてきた。街も、東京など各自治体が罰金・罰則を設けたり、「美化デー」を設けて清掃活動に力を入れたりしたことで清潔になっていった。

 つまり、戦後のさまざまな取り組みによって今のマナーの良さがある、ということ。これ自体は素晴らしいのだが、なぜか山岸さんは顔を曇らせる。

 「怖いのは、そうした過去を忘れ、今あるものを『これが日本の伝統だ』『昔からそうだった』、そして『だから日本人は昔から優れていた』と思い込むこと。これは非合理的な思考だし、他国を見下す思想につながる。近ごろはそんな風潮が広がっているようで心配です……」


現状否定のため過去を美化

ごみが散乱する約60年前の旧国鉄の列車内。日本人は昔から礼儀正しかった……とは必ずしも言えないようだ=1953年11月、旧国鉄の尾久駅で
 では、冒頭の選択的夫婦別姓はどうなのか。戸籍が作られた奈良時代から明治中期までは別姓が基本だったし、初めて同姓を強制したのは1898年の明治憲法下の旧民法で、当時は同姓が基本だった欧米に倣ったのだ。

 「でも、現在では同姓を強制している国は極めて例外的。なぜ日本はこれほど不自由なのでしょうか」と首をひねるのは武蔵大の千田有紀教授(現代社会論)である。欧米でも近年は別姓も選べるようになっているし、逆に別姓が基本だった中国では同姓も選べる。

 「明治以降の夫婦同姓が家族本来のかたち、という考え自体が『日本の伝統』と呼べるのかは疑問だし、『別姓を認めると家族の一体感が損なわれる』という反対論も根拠があるのでしょうか」

 確かに別姓で家族の絆や一体感が崩壊した、あるいは別姓夫婦の子供の「個」の形成に問題が生じた、という国は聞いたことがない。離婚や再婚、事実婚や一人親が珍しくない今、親の姓が同一ではないことを問題にするのは意味があることなのだろうか。

 中央大の山田昌弘教授(家族社会学)も苦笑いする。「『多数派がやっていること』を伝統と言い換え、少数派を従わせようとしているだけです。自分と異なる考えを認めない。それを正当化するために『家族が崩壊する』と言い出す。そもそも結婚には昔、通い婚などがあったし、家族の形も各地で本家や分家、隠居制のあり方などに違いがあってさまざまでした。それが日本の伝統なんですが……」

 では、なぜ新しいものを「伝統」と考えたがるのか?

 「根底にあるのは『伝統の捏造(ねつぞう)』と同じ考え」と分析するのは著書「江戸しぐさの正体」で知られる作家で歴史研究家の原田実さん。現在の道徳や公民の教科書が取り入れている「江戸の商人・町人の心得・風習である江戸しぐさ」なるものが、実は1980年代に創作されたことを2014年に著書で指摘し、今もなお教育界に波紋を広げている。

 原田さんによると、「江戸しぐさ」を創作したのは高校教員や雑誌編集長を務めたとされる芝三光(しばみつあきら)さん(99年死去)。彼は日本人や社会のモラル低下を嘆いていた。現状を否定し「昔は良かった」とばかり「ユートピア」を過去に求めた結果、道徳が優れている「想像上の江戸時代の人々の風習=江戸しぐさ」を生んだ。

 「『昔は良かった』という考えがクセもの。この考えに従うと『今ある良いものは昔からあったはずだし、昔はさらに良かったはずだ』との考えに陥りやすい。だから『日本人の道徳・マナーは昔から優れていた』と考えてしまう。『戦後日本から道徳やモラル、公の心が失われた』と言う人は戦前を評価する傾向にあるが、これも同じ。本当にそう言えるのでしょうか」

 試しに統計を見れば、戦前・戦中(1926〜45年)の殺人事件の人口10万人当たりの発生件数は1・25〜4・14件で、2014年の0・83件より高い。「現状否定のために過去を美化しても、史料に裏切られるのがオチ」と原田さん。


「理想の人間づくり」行く末は

 「昔は良かった」と考える人が強調するその道徳教育、安倍政権は18年度以降に小中学校の「特別教科」とすることを決めた。著書「新しい国へ」で盛んに「問題はモラル低下だ」と指摘していた安倍首相らしい。山岸さんは「20世紀で、最も道徳教育に力を入れたのは旧ソ連や中国など社会主義国家でした。自分より公を大切にせよ、と。でも結果はご存じの通り。歴史上、どんな国・社会も道徳教育で『理想の人間づくり』に成功した事例はありません。これこそ『伝統』なんですが」。

 年始から夏の参院選について「憲法改正を訴えていく」と力を込める安倍首相。自民党の憲法改正草案の前文には「良き伝統を……末永く子孫に継承する」とある。その「伝統」の正体を注視したい。


■ 昔はよかったなあってか? まさか! 「kojitakenの日記(2016.1.27)」より
(※mono.--前半は上記毎日新聞の引用記事につき略)
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昔の路上がゴミだらけだったことは事実だ。
この記事を読んで思い出したのだが、子ども時代の昔はよく運動靴の裏にチューインガムがくっついた。靴の裏のチューインガムが剥がれにくくて困った記憶を持つ人は多いだろう。最近はチューインガムを噛む人が減ったせいかもしれないが、靴の裏にガムがこびりつくことはすっかりなくなった。また犬の糞もよく踏んづけたものだが、犬を飼っている人は昔より今の方が多いだろうと思うのに、始末する飼い主が増えたらしく、なくなったといえる状態からは遠いけれども確かに少なくなったとは思う。
そう、昔は日本の路は汚かった。それに、何度か書いたと思うが昔は公害がひどかった。大阪の豊中市にあった祖父母の家によく阪急電車で行ったが、神崎川の悪臭と言ったらなかった。今でも多少臭いらしいが、昔は想像を絶する臭さだった。東京の荒川も昔はえらく臭かったと聞いたことがある(神崎川より臭かったとはさすがに思われないが)。
高度成長期の日本なんてそんなものだった。今、高度成長が終わりつつあるらしい中国は、その頃(60年代から73年頃あたりまで)の日本に対応する状態なんだろうなと思う。
安倍晋三ら日本の極右どもが言う「伝統」とは、ごく稀な例外(たとえば石原慎太郎らが渡辺京二の『逝きし日の面影』に描かれた江戸末期に言及する場合など)を除いて、明治維新より前に遡ることはない。「万世一系」なんて言葉もWikipediaによると岩倉具視の「王制復古議」(1867年10月)が初出であって、維新の頃に捏造された言説だ。つまり維新より前に遡ることはできない。そんなことはいうまでもない日本の常識だろう。


■ 中国産漆に駆逐される国産漆!国宝守る英国人社長の闘いと日本人への提言 「ぼやきくっきり(2015.2.9)」より
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 今日は1月20日に放送されたMBS(毎日放送)午後6時台の「Voice」から特集をご紹介。

 私は普段「Voice」はほとんど見ていません。
 裏番組が関テレ「アンカー」ですし。

 でもこの日の「Voice」はテレビ欄に
 「国宝守る外国人社長問う…日本人これでいいの?」とあって、
 もしかしたら「小西美術工藝社」のデービッド・アトキンソンさんが出るのかも!と思って、見てみました。
 そしたら予想どおりアトキンソンさんが登場!(^▽^)

 詳しい内容はMBSのサイトで動画を見ていただくとして…
 http://www.mbs.jp/voice/special/archive/20150120/
 (放送から半年間ぐらいは動画置いてくれてるようです)

 内容をざっくり紹介しますね。
(※mono.--以下略、詳細はブログ記事で)


■ Kuroshio Culture and Tradition:黒潮文化と伝統 「Tokyonotes 東京義塾」より














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最終更新:2024年01月11日 12:51