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気になるものは何でもコピペ

最新コピペ 2009-06-07

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そうそう、会長様の会社は外国企業でした。

「社団法人 日本経済団体連合会」はやめて
「任意団体 国際的になりたい経済団体連合会」とかにすべきですね。

キヤノン、政治献金開始へ 自民に数千万円

 企業・団体献金の外資規制を緩和した改正政治資金規正法が25日に施行されるのを受け、日本経団連の御手洗冨士夫会長が会長を務めるキヤノンが、年内に政治献金を開始する。自民党に数千万円を献金する見通し。経団連は政治献金を社会貢献として推進しているが、キヤノンは外資規制に触れる恐れがあるため、献金を見送っていた。

 労働者の敵、御手洗が自民に賄賂を送ろうとしています。去る今月19日に大手銀行からの政治献金の受け取り自粛を語った安倍首相ですが、さて今回はどうでしょうか? 数千万円とは曖昧な表現ですが、減価償却制度の見直しによる6000億円の減税への謝礼でしょうか。それとも将来的なさらなる法人税減税や利益誘導のための根回しでしょうか? 数千万円の献金で自分に有利なルールが作れる、億単位の見返りが得られるのであれば安いものなのでしょう。そしてそれが御手洗に言わせれば社会貢献なのだそうで。


メキシコの田舎町。海岸に小さなボートが停泊していた。
メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。その魚はなんとも生きがいい。
それを見たアメリカ人旅行者は、
「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」
と尋ねた。 すると漁師は
「そんなに長い時間じゃないよ」
と答えた。旅行者が
「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」
と言うと、漁師は、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。
「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」
と旅行者が聞くと、漁師は、
「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタして。夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって… ああ、これでもう一日終わりだね」
すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。
「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。それであまった魚は売る。お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。
その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。
その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキシコシティに引っ越し、ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」
漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」
「二〇年、いやおそらく二五年でそこまでいくね」
「それからどうなるの」
「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」
と旅行者はにんまりと笑い、
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、日が高くなるまでゆっくり寝て日中は釣りをしたり、子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって過ごすんだ。どうだい。すばらしいだろう」




  • http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/m/200704 --  自虐史観ならぬ自虐経済観とでも言いましょうか、日本が妙に貧しい国であるかのごとき意見をしばしば耳にします。労働コストを切り詰めてギリギリでやっていかないと厳しい競争に勝ち抜けない、経済が成り立たない、我々はそのような自虐経済観を押しつけられてきました。しかし、日本はそんな貧しい国ではありません。得られた利益を正当に分配すれば、現行のホワイトカラー公務員と同程度の給与を支給できるだけの富が日本にはあるはずです。 (2007-08-10 09:56:47)



ワルラスの社会主義

マリ・エスプリ・レオン・ワルラス(Marie Esprit Leon Walras、1834年12月16日 - 1910年1月5日)はフランスの経済学者。ヨーゼフ・シュンペーターによって「すべての経済学者の中で最も偉大」と評された[1]。また、経済学的分析に数学的手法を積極的に活用し、一般均衡理論の創造に参画した。
ワルラスはまた社会改革の理想も父から受け継いだ。同時代のイギリスでファビアン協会に集まった社会主義者たちと同様、レオン・ワルラスは土地の国有化を提唱しており、地価はつねに上昇するので地代収入によって国家は課税の必要がなくなると論じた。



ドナーの方に「下さい」とは言えなかった

次にドナーになることへの本人の決断と家族の同意と書きました。ドナーになることは本人の決断で丸をするわけですが、そこに家族欄がありまして、家族がそこに承諾するという形式になっております。ところが家族が誰なのかという問題が一つあります。例えば若い人であれば親になるのか、年配の人であれば子供になるのか、どの部分をもって家族とするのか。また家族全員が同意するのか一人でいいのか。色んな問題があります。しかし、今後進められようとする子供さんからの臓器摘出の場合、幼児の場合はおそらく親になるであろうと思われます。今年の四月に産経新聞で、ある人の実際の話が載りました。ちょっと紹介しますと、この方は大阪の四十三歳会社員です。「私の一歳の子供はインフルエンザで生死の境を彷徨い脳死状態に入った。一週間経っても顔の色艶はこれまでと変わりなく筋肉の衰えもない。毎日定量の小水をし、足をくすぐるとこそばいように引っ込める。私は祈り続けた。「まだ今なら間に合う。甦れ。」と。妻は娘の意識を呼び起こそうと耳元で歌を歌い続けた。二週間を迎える頃になり娘は衰弱を見せ始め、両親の体力と気力の限界をむかえるのを感じ取ったかのように静かに心臓の動きを止めた。妻は覚悟を決めていたのか言葉を口にせず、私は一声叫んですぐ黙った。同時にこみ上げてきたものは、この時間を有り難うだった。脳死状態とは受け入れがたい子供の死の猶予期間であり、この先も生きて行かねばならない親の悟りの時間であったということを日増しに感じた。この時間が与えられなかったなら、私は狂っていたかもしれない。二年が経過した今、小児の脳死移植に関する話題をよく耳にするようになった。もしあの時移植に頼れば助かるという立場に立たされていたならばどういう行動に出ただろうかと自問自答を繰り返す。親は何としてでも子供を助けたい。助けてくれる臓器の提供を請い願うに違いない。この相反する考えを比較して考えたが自分は眠っているとしか見受けられない娘の体を繋いでいる機械のスイッチを切れる人間では到底なかった。我が最愛である娘の命を止めて、人様の子供さんの命を重んじる人格は備えていないのだ。下さいとは言えないというところにたどり着いた。」という文章があります。



墓がある文化の素晴らしさ

散骨問題に対する反論
信州豊南女子短期大学講師 真言宗智山派・岡谷市 照光寺住職 宮坂 宥洪
http://www.mikkyo21f.gr.jp/father_shukyo002.html
(2007-05-07 15:55:38)
【1】
 「葬送の自由をすすめる会」というのがある。平成二年に発足して、宗教学者の山折哲雄氏らが熱心に応援している。

 発足から五年たった平成八年には会員が四千人になり、その時点で「自然葬」を行なった会員は一三二名にのぼるという。(季刊『仏教』38号「特集・墓と葬式の自由〈平成九年一月・法蔵館〉参照。この中に「葬送の自由をすすめる会」主催の「お墓大討論」シンポジウムの全記録とこの会の趣意書が掲載されている。)

 今年の二月二十七日付の産経新聞によると、最近の「女性のお墓意識」の調査で、「自分の死後」について「伝統的な墓を望む」が、平成六年の四一%から二七%に減じ、「自然葬を望む」が一九%から三〇%に増えているとのことだが、一方で回答者の約八割が「年に一回以上墓参りをした」「子供や親族が自分の死後墓参りをしてくれると思う」と答えている。妙な話だ。このアンケートの結果には整合性がみられない。漠然としたイメージの「自然葬」という言葉だけがひとり歩きしているように思える。

 さて、この会の趣意書によると、今の日本では人が死ぬと墓地に埋葬されるが、もともと墓を造るというならわしは日本古来のものではなくて、一部の上流階級を除いて、庶民は遺体を海や山に捨てるのがふつうだったという。庶民が墓を造るようになったのは江戸時代の檀家制度が軌道に乗ってきてからのこと。私たちは先入観とならわしに縛られて自らの葬送の自由を失っている。しかも今のような墓の造成は自然環境を破壊する。自然保護のためにも散骨が一番いい、ということで、散骨を呼びかけているわけである。

 山折氏に至っては、自分が死んだ場合は、お葬式はしません、お墓も造りません、と公言している。ただ火葬場で焼いてはいただくという。その遺骨を夫婦いずれか残ったほうが旅をするときに一つまみづつ持っていって、旅先で散布する。そうすると五〇回くらいで遺骨はなくなるだろうといっている。ただし、これに伴侶の奥さんは賛成していなくて、息子さんは猛反対しているとのこと。

 これはたとえていうと、縄文の昔はドングリを主食にしていた。だから何も日本人だからといって米を食べなければならない決まりはない。ドングリなら田畑を切り開いて自然破壊をすることもないし、農薬をまいて環境を汚染することもない。そこで、これからわが家ではドングリを主食にしようと決意した人がいる。本人は意気揚々として人にもすすめているが、家族は猛反対なのでありました。とまあ、こんな漫画的な寸劇を見せられている思いがしないでもないが、もちろん当面の問題はもっと深刻な現実の話だ。

 自然葬を行った一三二名の遺族たちは、遺骨がきれいさっぱりと、どこかに散布されて、今ごろ晴れ晴れした気持ちで暮らしているだろうか。お葬式もせず、墓も位牌もつくらず、それゆえ仏壇にもまつることなく、それで清々しているであろうか。そういう追跡調査がなされたという報告はないが、私は非常に疑問に思わざるをえない。

 というのも、ある著名人が無くなって遺言で葬式を挙げなかったところ、一年も二年もひっきりなしに弔問者がやってきて、遺族は身も心も疲れ果て、こんなことなら、きちんと葬式を出して、きまりをつけておけばよかったと悔やんでいるという記事をどこかで読んだことがあるからである。

 散骨ではない、あくまでも「葬送の自由」のすすめだと会の人々は言っているようだが、実態は「自然葬」という名の散骨のすすめにほかならない。要するに、死んだら僧侶の世話になりたくない。世間の常識通りにお墓には入りたくないということだが、散骨だから無料というわけではない。会員の場合、海か山の合同葬で十万円、個人葬で三十万円、空の個人葬三十七万円などとされていて、運動支援基金として三万円以上、年会費は三千円。結局は何事にもお金はかかるわけだが、ただしこれは供養料ではない。遺骨の単なる処理料である。

 たしかに、はるか昔は庶民は墓を造らなかった。墓を造れる人は限られていた。エジプトのピラミッドとか日本の古代の古墳のように、よほどの権力者か特別な人でない限り、お墓など造らなかったし、お寺にも神社にも祀ってもらえなかった。

 ところが室町時代から江戸時代にかけて一般庶民も墓を造るようになり、ひとりひとりがきちんと供養してもらえるようになった。それは画期的なことだった。それが今では常識となった。こういう文明史的展開を遂げてきた経過がある。

 この時代の流れに逆行して、「むかしは一部の上流階級を除いて、庶民は遺体を海や山に捨てるのがふつうだった」といい、それがいかにも自然であるかのように言い立てる、その野蛮の奨励に私は憤りを感じます。


【2】

 マッカーサーの命令によって開廷された極東国際軍事裁判が結審して、今年はちょうど五〇年目にあたる。昭和二〇年八月十四日にご聖断によりポツダム宣言を受諾して、敗戦を宣告。翌十五日に玉音放送。九月二日に戦艦ミズーリ号で降伏文書に署名。マッカーサーはマニラを立つ前に、アメリカ本国政府から、「日本をして、爾後、再びアメリカ及び連合国に対して拮抗することなからしめよ」との命令を受けていた。

 ただちに戦犯狩りが始まり、A級戦犯として巣鴨プリズンに投獄される者、二一八名に及ぶ。ついで、BC級戦犯狩りの嵐が吹き荒れ、その数、六五〇〇人を越える。

 結局、ろくな裁判も弁護もされないまま、起訴された一〇六八名が、アジア各地の牢獄で処刑された。戦争に負けた日本は、その後の莫大な賠償金支払いの前に、これだけの尊い人命を差し出していたのである。

 この俗にいう東京裁判がとうてい裁判の名にあたいするものではなく、先勝国が敗戦国をこらしめる見せしめのリンチであり、日本を弱体化するために仕組んだ陰惨な復讐劇であった証拠に、東条英機元首相はじめA級戦犯を起訴した日は昭和天皇のお誕生日である四月二十九日、その内七名に巣鴨拘置所で絞首刑を執行した日は当時の皇太子殿下(今上天皇)のお誕生日である十二月二十三日だった。

 問題は次です。絞首刑にあったA級戦犯七名の遺体は荼毘に付された、というより、ゴミのように焼却された。その遺骨はついに遺族のもとに返されることなく、どこかに放棄された。一説に太平洋にまかれたといわれる。要するに、散骨されたわけである。

 これが日本人に対する最大の屈辱的な仕打ちであることを承知の上で、占領軍はあえて行なったのだった。しかし当時の状況として、英霊の遺族たちはこの屈辱に黙って耐えるほかはなかった。

 日本人の散骨第一号は、このA級戦犯七名にほかならない。

 この遺骨処理のどこが新しい時代の葬送のありかたか。散骨を奨励する人々に言いたい。父祖伝来の慣習を捨てて、何の自由か。そこまで日本人は骨抜きにされたのかと、私は心の底から悔しく思う。処刑された英霊のご遺族は今もご存命です。「葬送の自由をすすめる会」の方々、そのご遺族に「散骨されてよかったですね」と言えますか。

 この後日潭がある。東条元首相以下七名の処刑から遺体処理までを指揮したGHQのウォーカー中将は、その後の朝鮮戦争で自ら乗った自動車に友軍のトラックが追突して断崖から転落して、事故死した。

 その日が、なんと七名の戦犯処刑三年後の同じ十二月二十三日、しかもその時刻まで同じく処刑執行の午前零時だった。

 当時の関係者は「怨霊」の恐ろしさに愕然としたという。これぞ因果応報と得心こそすれ、不幸な事故に同情する者はひとりとしていなかったとも…。


【3】

 世界各地の葬送儀礼は、人ひとりの人生の完結に無量の思いを致し、その魂の行方を定位せしめんがため、なおかつ残された自分らの現世ならびに後世の安楽を願う気持ちをこめて、父祖より受け継ぐそれぞれの文化背景のもとで最大限の知恵を絞り、入念に次第を整えてきたものである。

 六世紀半ばに伝来したのが仏教ではなくキリスト教であったらどうだったか。日本に仏教が伝来した同じ時期に、イギリスにキリスト教が伝わった。先住のゲルマン人は、日本人とまったく同様に祖先を敬い、万象に精霊を感じ、祖先の霊が子孫に生まれ変わることを信じる人々だった。ところが、その信仰をキリスト教は根こそぎ払拭した。

 一方、日本に伝わった仏教は古来の神々を最大限に尊重した。それどころか、率先して昔ながらの祖先祭祀を担った。最初は宮中で各種の仏事が営まれ、それがやがて貴族階級から武士階級へと広まり、ついに全国に完全に仏教が浸透したのは江戸時代になってからのことである。

 「葬送の自由をすすめる会」の趣意書には「庶民が墓を造るようになったのは江戸時代の檀家制度が軌道に乗ってきてから」のことだと、さもそれが「葬送の不自由」の始まりのことのように記しているが、それはあまりにも皮相的な見方ではないか。

近代国家が誕生するまでの世界の常識では庶民は虫けらに等しい存在だった。ところが、日本ではすでに江戸時代に上流階級だけでなく庶民のすべてに墓が造られるようになり、それぞれの菩提寺でだれもが〈ホトケ〉として鄭重に祀られ、供養されるようになった。檀家制度が完備されたおかげである。その結果、全国民が墓をもてるようになった。それほどの文明国は当時の世界において日本だけだったということを、なぜ素直に評価できないのだろう。

 私は、会の趣意書にいう「むかしは一部の上流階級を除いて、庶民は遺体を海や山に捨てるのがふつうだった」という表現に、ある種の屈折した逆差別意識を感じる。「自分ら庶民は墓をもつべきではない」とでも言いたいのだろうか。私には、「昔のように墓を造るのは一部の上流階級だけにせよ」といっているように聞こえる。

 会の方々は、「否、自分らはそんなしきたりに縛られたくないだけなのだ」と反論するかもしれない。だが、そのしきたりこそ、江戸時代に実現した「庶民の成果」だったということがわからないのだろうか。

 たとえば天皇家は今後とも絶対に散骨などしないであろう。もしも天皇家にご不例のあった場合は、必ずや歴代の尊霊のように、きちんと陵墓に祀られるであろう。一般庶民はそれとは異なり、昔のように遺骸は山や海に捨てよということなのか。それが「ふつう」だと主張して、どれだけの「庶民」の賛同が得られるだろうか。


【4】

それに現代人の感覚で「昔の庶民は遺体を海や山に捨てるのがふつうだった」というのは、また別の意味で思慮が浅いと言わねばならない。たとえば、インドのヒンドゥー教徒が荼毘に付した後の遺灰をガンジスに流すのは、ガンジスを「聖なる河」と崇める信仰にもとづくものであり、単に「自然に還し」ているのではない。隅田川や相模灘にばらまくのとは意味がちがうのだ。

かつて日本の山々はほとんど例外なく霊山だった。昔は遺体を山に「捨てた」のではなく、霊の集う場所である山に「安置した」と考えるべきだろう。だからこそ全国各地の山々に寺が建てられるようになり、その寺は「霊場」と呼ばれ、やがて里に寺が建てられようになっても寺は「霊をまつるところ」として、依然として「霊場」と呼ばれ、「山」と呼ばれつづけたのだった。今でも寺の住職が「山主」と呼ばれるゆえんである。

 たしかに今では実際の山は縦横に道路が通り、リゾート地やゴルフ場のために無惨に切り開かれ、あるいは単なる木材や水質源の供給地とみなされ、かつてそこにそそがれた畏敬の念は希薄になってしまった。

 だが、それがまったく消失してしまったわけでもない。全国各地の村々では今でも春秋の祭は盛大に行なわれている。そのほとんどの祭のカミは実は山に帰属する。

 そして昔も今も人跡未踏の山などは、「オマツリ」の対象にはならないのだ。そもそも生の自然ほど-物理的にも霊的にも-恐ろしいものはないということを現代人は忘れてしまったかにみえる。自然を懐柔し、自然と共存すべく、先人たちがどれほど格闘してきたかということも忘れたのだろう。無邪気に自然を守れという人々は、一度アマゾンの奥地で暮らしてみたらよい。

 かれらは野獣や病原菌や魑魅魍魎の棲み処を復活させたいのか。自然の暴威になすすべもなかった時代に戻れというのか。人間の暮らせる環境は、どんなに自然にみえても生枠の自然ではありえない。人間は自然の恩恵を受けることなく生きていくことはできないが、安全で快適な自然とは、たとえば水道水のように文明の手が入った自然なのである。

 人間は自然を利用しながら、文明を築いてきた。現代は過度の自然破壊が問題になっていて、その対策が論じられているが、墓地造成までも自然破壊といい、自然保護のために散骨をすすめるというのは、あまりにも短絡的すぎる発想のように思う。

 生きている人間が住む宅地の造成にしても自然を毀しているわけだし、そのほうがはるかに環境汚染につながるであろう。一方、だれもが永遠の住み処となる墓地は何の公害も発生しない。お墓参りをしながら「このお墓は自然破壊の元凶だ」と思う人がいたら、よほどの変わり者である。

 遺体をことごとく山に「捨てる」わけにもいかないから墓がつくられるようになり、その霊を供養するためにお寺が必要となった。霊とはまことに恐ろしい(もっというと、オドロオドロシイ)ものだった。かように畏怖すべき、しかしながら祖霊として敬慕すべき霊をタテマツル場所(すなわち、霊場)としてのお寺は、日本文化(庶民の知恵と言い換えてもよい)の結晶なのである。それは江戸時代の檀家制度によって日本全土にひろまり、定着した。

 世界に稀有な江戸時代の檀家制度に対する評価はあまりにも低すぎる。だが、日本にしかないものは程度が低いはずだと卑屈にも考える学者とそれに追随する愚かな「進歩的文化人」がそう評価しているだけで、少なくとも私の知る田舎では、これをヘンな制度だと思っている人はひとりもいない。

 考えてもみよ。江戸時代の唯一の遺制ともいうべき檀家制度が、明治以降百三十年間、何の法制もないにもかかわらず、今日に至るまでなぜ存続しているか。それを保持してきたのは、その本体の寺自身である以上に、もっぱら地域の住民たちの意思だった。国家でもない。学者でもない。いかなる権力でもない。地域住民がそれを支えてきた。

 ここで詳述する余裕はないが、かりに檀家制度を消滅させてみよ。日本社会に無規範が発生するであろう。これは決して脅しではない。昨今の破廉恥な犯罪者(霞ヶ関のお役人であろうが、神戸のA少年であろうが)は、断言してもよい、仏壇に手を合わせたこともなかったであろう。そういう人たちが激増していることこそが現代の最重要課題なのである。

 現代の日本は自由主義国家である。自由である以上、法律に触れないかぎり、何をどうしてもよい。日本は憲法で個人の思想・信条・集会・出版の自由を認めている。国家は個人の考えることやすることには一切タッチしない。規範は各人ご自由にと、日本はそういう社会を戦後つくりあげた。

 だが、そういわれてみたところで、人はいかなる規範もない社会に住むことはできない。さりとて、ひとりひとりが自分の規範をつくりだすのは容易なことではない。現に大多数の日本人は決して無規範な人間ではない。その規範とはどこに由来するか。それが伝統的慣習にほかならない。

 だが、伝統的慣習というのは窮屈なものだ。特に若い人にとっては、こんな不自由なものはない、不合理きわまりない、と感じて当然のこと。それに対して、ついこの間までは、「だがね、お前らもいつかはわかるときがくる」と、古老たちが若者にさとしたものであった。それで万事おさまった。

 ところがだ。最近は「若者」の年齢層が極端に上がってしまった。五十や六十や七十や八十になっても「若者」のつもりの「老人」があふれている。「古老」を自覚する人がほんとうにいなくなってしまった。

 昔は、若い人が束になってもかなわない知恵と知識を持ったご隠居さんがいた。その方々はどんなにとぼけていても、四書五経ぐらいは暗記していた。数百年来このかた、そういう人が日本の村々にひとりはいた。だが、今はひとりもいない。

 論語にかくいわく、人間たるものかく行なうべし、と古老がおっしゃれば、若い者はぐうの音も出ないはずである。だが、そんな教養のある古老はもういない。そういう時代になってしまった。若い者ら(かなりの年配者もいる)が「葬送の自由」などをとなえても、だれも文句をいわない。そういう時代だ。

 だけどね、いや、だからこそ、だれかが諌めなければならない。だれが?

 われわれ坊さんにきまっているでしょう。

 さればこそ、われわれ僧侶は、世間の誰にも負けない、途方もないぐらいの教養と知識を身につけなければならない。

 その修養を放棄した僧侶が多すぎるものだから、こうした世間の批判や造反が出てきたのでしょう。あえていうが、それはやむをえない。


【5】

 「葬送の自由をすすめる会」の趣意書には「私たちは、なによりもまず、死者を葬る方法は各人各様に、亡くなった故人の遺志と故人を追悼する遺族の意思によって、自由に決められなければならない」とある。こういうのをインチキな美辞麗句という。自由とはいいながら、土葬でも鳥葬でもいいといっているわけではないからだ。ひとえに墓地に埋骨されることを拒んで「自然葬」という名の散骨を実行し、また奨励する人々の会であることは間違いない。

 近代社会の尺度からすると、たしかに何事も「各人各様」で「自由に決められねばならない」のかもしれない。しかし、とりわけ冠婚葬祭に関しては、どの民族にも一見不合理な因襲や非科学的な迷信、あるいは窮屈な習慣がたくさん残っている。これらをことごとく退けてしまうことがほんとうに正しくて良いことなのか。

 これについては、中国奥地の少数民族の村を訪れた石井英夫氏(「産経抄」筆者)が紹介しているナシ族のひとりの娘の言葉に真理がこもっているように思う。

 しかしこの娘は、「不合理でもいいの。非科学的でも構わない。だって私はナシ族なんですから。そうである以上、ナシ族の伝統や慣習を守ります。そうでないとナシ族はナシ族ではなくなってしまいます」というのだった(『正論』平成十一年一月号「「蛙の遠めがね」より)

 これに対して、現代の日本人の中には、ごくまれに(だと信じたいが)、「日本の伝統や慣習など守りたくない。私は日本人でありたいと思わないし、日本人が日本人でなくなっても構わない」と考える人がいるようだ。

 今や風前の灯火のような少数民族の悲哀など知る由もなく、国籍や国境がなくなってもいいんだ、そうなるべきだと能天気に考える人々が「進歩的」で「文化的」な「国際人」であるつもりであるとしたら、それは考え違いも甚だしいと言わねばならない。

 もちろん、どんな考えを持つのも「自由」である。伝統文化を否定してもよい。現行の葬送儀礼が気に食わなければ、それはやむをえない。自分の死後、散骨してもらいたければ、それもよし。そのように遺言状に書いておけばよい。だが、それは世間に宣伝したり、他人に奨励することではないだろう。ナシ族の娘に笑われるような、早い話が駄々をこねて日本人でありながら日本の慣習を否定するようなことは、本来ならひっそりとすべきである。

 墓を造らなくても、だれも咎めない。だが、「他人が墓を造るから自分も造る」のがそんなに恥ずかしいことなのか。私が承知している世間の常識は、その反対なのだが。

 勇ましく伝統に反旗をひるがえして、「葬送の自由をすすめる」ですか。つくづく日本は平和なんだなあと思いますな。



コピペ1

コピペ2

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h9/jog014.htm
Japan On the Globe (14)国際派日本人養成講座
平成9年12月5日


地球史探訪-Remember:アメリカ西進の軌跡

目 次
 1.日米戦争をアメリカ側から見る
 2.1835 Remember Alamo
 3.1894 ハワイ
 4.1898 フィリピン: Remember Maine
 5.Manifest Destiny(明白なる天意)
 6.オレンジ計画:対日戦略プログラム
 7.Remember!

1.日米戦争をアメリカ側から見る

 12月8日の真珠湾攻撃で、日米戦争は始まった。アメリカはRememberPearlHarbor(真珠湾を忘れるな)をスローガンに立ち上がったのだが、ここに至る過程をアメリカ側から見てみよう。Rememberのスローガンが、繰り返し出てくるのである。

2.1835 RememberAlamo

 かつてテキサスはメキシコの領土であった。そこに入植したアメリカ人は1835年に独立運動を起こし、翌年、155人の守備隊がアラモ砦に立てこもったが、メキシコ軍の攻撃により全滅した。
 アメリカ人達はRememberAlamoを合い言葉に戦いを続け、翌年、独立を勝ち取った。アメリカはこれを46年に併合し、さらにカリフォルニアを狙って、メキシコに宣戦布告、勝利を得た。
 この戦争の結果、アメリカは現在のアリゾナ、カリフォルニア、コロラド、ニュー・メキシコ、ネバダ、ユタ、ワイオミング各州にあたる地域をメキシコから奪取した。この結果、メキシコは領土の半分以上を失った。

3.1894ハワイ

 1881年(明治14年)、アメリカによって独立を脅かされていたハワイ王国のカラカウワ王は、日本を訪れ、姪のカイウラニ姫の婿として山階宮定麿王をお迎えし、日本の力でハワイの独立を守ってもらいたい、と明治天皇に申し入れをした。明治天皇はアメリカとの摩擦をおもんばかって、丁重にお断りした[1,p48]。
 1894年、入植していたアメリカ人は武力でハワイ王国の支配権を奪取し、アメリカ人宣教師の息子ドールを大統領とするハワイ共和国を作った。アメリカ合衆国はこれを4年後に併合する。

4.1898フィリピン:RememberMaine

 1898年、スペインへの抵抗運動が続くキューバにおいて、アメリカ人保護を目的としてハバナ港に停泊していた戦艦メーン号が突如爆発、沈没し、乗員260名全員が死亡した。アメリカはこれをスペインの謀略として、RememberMaineを合い言葉に開戦し、勝利を得た。
 キューバは独立を果たしたものの実質的にアメリカの保護国となった。フィリピンも一時スペインから独立したが、結局アメリカの植民地となった。さらにアメリカはこの戦争で、プエルトリコ、グアム島を奪取している。(1969年にアメリカ海軍当局は、メーン号の爆破はエンジン部分の故障による爆発だったとの調査結果を公表している。しかし、アメリカ自身の仕業という疑惑も消えていない。)

5.ManifestDestiny(明白なる天意)

 このように西へ西へと勢力を広げるアメリカの意図はどこにあったのか。当時の証言を引用しよう。
 マハン(米海軍大学の戦略研究家、セオドア、フランクリン、両ルーズベルト各大統領がマハン理論を信奉した)は、「海の支配力の歴史に及ぼす影響」という著書のなかで次のように言っている。
 「大海軍の建造がまずアメリカにとって重要だ、二番目には世 界各地に植民地を獲得する必要がある。三番目には、そのため に海軍が世界各地に軍事基地を設けなければならない。それを 踏まえてアメリカは世界貿易に雄飛すべきであり、その対象は とりわけて中国市場に目を向けなければならない。」
 ベバレッヂ上院議員は、1900年に国会で次のような演説をしている。
 「我々は東洋におけるわれわれの機会を放棄しない。我々は神 によって世界の文明を託されたわが民族の使命を遂行するにあ たってわれわれの役目を放棄しない。・・・今後我が国最大の貿 易はアジアと行われるにちがいない。太平洋は我々の大洋であ る。・・・中国はわが国本来の消費者である。」
 ManifestDestiny(明白なる天意)という言葉がある。ベバレッヂ上院議員の「神によって世界の文明を託されたわが民族の使命」
とは、この事である。アメリカは、自らが非白人劣等民族の領土を植民地化することによって、文明をもたらすことを神から与えられた「明白なる天意」と称した。
 メキシコ、ハワイ、そしてフィリピンへと領土拡張を進めたアメリカの軌跡は、まさしくこの「明白なる天意」の周到着実なる実行である。

6.オレンジ計画:対日戦略プログラム

 1897年、日清戦争のわずか二年後に、アメリカは日本を仮想敵として、対日戦略プログラム「オレンジ計画」を策定した。この計画は、以後、定期的に改訂を重ね、50年後に実行に移された。1911年には、次のように書かれている。
  • もっとも可能性の高い状況は、日本がアメリカの封じ込め政策を終わらせ、同時に自国の通商航路を防衛しながら側面海域を現在および将来の攻撃から守っていこうとするものだ。そうすることは必然的にフィリピン、グアム、そして多分ハワイまで占領して合衆国を西太平洋から駆逐することになるであろう。
  • より困難な状況の下で、米国は独力で日本を満洲から撤退させるべく、大陸への介入ではなく、海上の作戦によって戦うことになるだろう。それによって制海権を握り、失地を回復し、日本の通商路を抑え息の根をとめることになるだろう。[1,p58]
 1911年は大正元年、この時にすでに満洲に関する日米の確執を予言し、中国市場を独占するために、日本を封じ込めて暴発させ、「息の根をとめる」までのシナリオが正確に描かれている。真珠湾攻撃のちょうど30年前である。

7.Remember!

 日本はまさしくこのシナリオ通りに追いつめられ、暴発し、そして息の根を止められた。日本が降伏した日に、ニューヨーク・タイムスは「太平洋の覇権を我が手に」と題して、次のような記事を載せた。
  • 「我々は初めてペルリ以来の願望を達した。もはや太平洋に邪魔者はいない。これで中国大陸のマーケットは我々のものになるのだ」[2]
 こうしたアメリカが、東京裁判では日本を侵略国として裁き、そして「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」と謳う日本国憲法を与えたのである。その厚顔ぶりは他国の真似できる所ではない。
 民主主義の国アメリカは、国民を説得するために、国際政治においても、常に過剰な道徳や正義を持ち込む習性を持つ。Remember も、ManifestDestinyも、国民をリードするための政治的スローガンなのである。正義の「建前」と冷静着実な国益追求の「本音」とが、これほど乖離している国も珍しいのである。
 アメリカは現在、日本の大切な友邦である。しかし、つきあう上では、この点を忘れてはならない。Rememberthis!

[参考]
1.「異なる悲劇 日本とドイツ」、西尾幹二、文春文庫
2.「アメリカの極東戦略」、椛島有三、祖国と青年、 平成7年1月号