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第 五 章


機関の運営は無事に軌道に乗り始めた。立ち上げは成功したと言える。
俺はハルヒが高校一年の時代に飛び、あらためて歴史を確認してみた。
当然ながら、相変わらずハルヒは進学校に通っていた。
ハルヒの情報爆発から三年が経過している。ハルヒの存在に気づいている連中は、ハルヒの観察役として進学校にエージェントを潜入させているはずだ。
ならばこの歴史での進学校の名簿を調べて、俺の記憶にある北高生と照合すれば、ハルヒの存在に気づいている連中をあぶり出せるかもしれない。
そして俺は機関が入手したそれを見て、ただ呆然としてした。
俺の知る北高の同級生の多くが、この歴史では進学校に通っているという事実を知ったわけだ。
中でも、俺の知る一年五組のクラスメイトたちは圧巻で、およそ三割がこの進学校に、しかもハルヒと同じクラスに入ってやがる。
ハルヒのクラスの名簿には、朝倉を筆頭に、朝倉の相棒だった委員長の榊など、そうそうたるメンバーが名を連ねていた。
やれやれ、こいつら全員どこかの怪しげな組織の構成員だったとはな……
正直なところ、谷口や国木田、阪中の名前がその名簿になかったことに、俺は安堵した。
あいつらまでもが得体の知れない組織の構成員だったりしたら、俺の疑心暗鬼はトラウマ化して修復不可能となっていただろう。
こうした情報を得られたのは俺としても非常に有益だったが、そろそろ歴史のズレを確認する作業の効率化を図るために、いや手段と目的が入れ替わってるな、高校一年の俺とハルヒを出会わせるためにやらなくてはならないことがある。

ハルヒを北高に入学させなくてはならない。

俺はこの件について考えることをなるべく先送りにしていた。
それはなぜか?
考えれば考えるほど厄介な矛盾がこの命題に含まれているからだ。
ハルヒを北高に入学させるためには、高校一年の俺が当時から三年前の七夕に行き、北高生であるジョン・スミスの存在を中学一年のハルヒに覚えてもらわないといけない。そして、当時の俺はそれを朝比奈さんに依頼により実行した。
だが現在の歴史では未来人組織は発足していない。その証拠に進学校にも北高にも朝比奈さんの姿はないし、その他の未来人らしき人物が機関の報告書に記されることもなかった。
仮に先に未来人組織が発足し、朝比奈さんがこの時代に来たとしても、七夕の歴史がない限りハルヒは北高には行かず、ハルヒの監視員である朝比奈さんも北高に行くことはない。
であれば北高に通う俺が朝比奈さんに出会うこともなく、朝比奈さんに連れられて過去に行くという歴史が発生することはありえない。
つまりはこういうことだ。
――ハルヒを北高に行かせるためには朝比奈さんが北高に行く必要があり、朝比奈さんを北高に行かせるためにはハルヒが北高に行く必要がある――
卵が先か、鶏が先か。古泉が好みそうなテーマだったが、あいにく俺はそんなことをあれこれと考えあぐねた末に結局何もしない、というような性分は持ち合わせていない。
俺に与えられた特性は、とにかく行動することだ。俺は俺の信じる道を行く。それでいいんですよね、朝比奈さん。

そういうわけで、俺は朝比奈さんの登場を待たずして、高校生の俺の力も借りず、俺自身がハルヒに会いに行く決心をした。
さて、ここで問題がいくつかある。
ハルヒは俺を北高生だと信じてくれるだろうか。
当然ながらサングラスは外し、髭も剃らなければならない。また生やすのに苦労しそうだな。いっそのこと付け髭でも買っちまうか。
ハルヒに会ったのは午後九時過ぎで、かなり暗がりだった。少し身長は伸びているものの、制服さえ着ればおそらく何とかなるだろう。いや、何とかしないといけないのだが。

そしてもうひとつの問題。
俺は一人でハルヒに会いに行っていいものだろうか。
あのときハルヒは朝比奈さんを背負った俺を見て、怪しい奴だと思ったに違いなかった。だがその怪しさが逆にハルヒの興味を惹いたという可能性だってある。
俺一人だけではハルヒは相手にしてくれないかもしれない。単独の俺は実に平凡な風体だからな。実は俺は人類初のタイムトラベラーという地球の歴史の中でもオンリーワンの属性を有しているのだが。
ならば、俺は誰かを担いでハルヒに会う必要がある。では誰がいいか。
ジョン・スミスと同様、ハルヒはきっと朝比奈さんの人相を明確に覚えてはいまい。
だが、こういう仮説もありうる。ハルヒは、あのとき俺が背負っていた朝比奈さんの姿をおぼろげに覚えていて、それが高校一年の時にSOS団員として朝比奈さんを選ぶきっかけになったのかもしれないと。
ならば、なるべく朝比奈さんに似た人物を選ぶのが無難だろう。
そして俺にはその心当たりがあった。
それは、誰あろう俺の妹だ。妹は成長するに従い、どういうわけか朝比奈さんにとてもよく似た風貌になっていた。
我が家の家系と朝比奈さんに何らかの関係があるのではないかと疑うに充分なほど、妹は朝比奈さんの面影を確かに引き継いでいた。いや、朝比奈さんが妹の面影を引き継いでいると言うのが時系列的には正しいのだろうが。
ハルヒだって不思議がっていたからな。久しぶりに見た妹に思わず「みくるちゃん?」と声をかけるくらいだった。妹自身は失礼なことに朝比奈さんのことをすっかり忘れていたみたいだったが。
よし、シナリオは決まった。

俺は妹が高校生二年の頃に時間移動し、幸いにも北高に通っていた妹の下駄箱にラブレターチックな手紙を放り込み、人気のないところに誘い出した。朝比奈さん(大)が提唱する、タイムトラベラーのスタンダードなコミュニケーションのメソッドだ。
そして待ち合わせ時間丁度にやって来た妹の背後から気づかれないよう近づき、以前朝比奈さん(大)が朝比奈さん(小)にやったのと同じ方法で眠らせた。
その方法とは実に簡単なもので、TPDDの知覚システムを応用し相手の脳内の知覚分野にわずかに刺激を与えるだけだ。なぜそんなことを誰にも教わらずに出来たかって? 古泉ならきっとこう答えるだろう。解ってしまうんだから仕方がない、と。実に便利だな、この言葉。
それにしても、まさか実の妹に誘拐まがいのことをするハメになるとはな。全くやれやれだ。妹よ、悪く思わんでくれ。
妹を背負った俺はすぐさま時間移動をおこなった。俺やハルヒが中学一年のときの七夕。午後九時へ。
移動先は変わり者のメッカ、光陽園駅前公園。
ベンチには当然ながら、二人の朝比奈さんの姿も、高校生の俺の姿もなかった。
あのときと同様、周囲の目をはばかりようもなくはばかりながら、俺は東中に向かった。
到着した校門の前では、俺が知る中学生のハルヒが、俺が知る姿そのままで、今まさに校門を乗り越えようとしていた。
ハルヒに声をかけ、一言二言会話をし、体育用具倉庫の裏に行き、石灰と白線引きをリヤカーに積み、妹を倉庫の横に寝かせた。すまん妹よ、もうしばらく寝ていてくれ。
以前と同じくハルヒに命令されるまま、俺は汗だくになりながらハルヒ考案の宇宙人語を三十分ほどかけて描いた。
「それ北高の制服よね」
俺は高校一年のときより七つも歳を取っていたが、暗がりのせいかハルヒは北高生だと信じてくれたようだ。
そして俺はジョン・スミスと名乗り、ハルヒと別れた。
おっと、忘れていた。慌ててハルヒの後を追う。
「世界を大いに盛り上げるためのジョン・スミスをよろしく!」
これを言っておかないと、SOS団が別の名前になりそうだからな。
これで本当に大丈夫なのだろうか。もしハルヒが北高に行かなかったら、それは俺の魅力が高校生の頃と比べて衰えているということだろう。重ねて言うが、やれやれだ。

俺は元の時空間に戻り、妹を降ろして再び脳内操作をおこなった。あと一分もすれば目を覚ますはずだ。妹からすれば、一瞬気を失っただけと思うだろう。何しろ待ち合わせ時間から一分しか経ってないわけだからな。

機関の報告書に目を通し、俺はやっと一息つくことが出来た。
ついにハルヒは北高に入学した。そして、高校生の俺とハルヒは入学式の日に出会った。
報告書によれば、俺とハルヒは俺の知る歴史どおりに話し出すようにはなったらしいのだが、SOS団は結成されなかった。原因はわからない。
当然ながらハルヒと結婚する歴史にも至らなかった。
朝倉や喜緑さん、他の組織のエージェントたちも北高に現れたが、長門は未だ姿を見せない。
やはり元の歴史に戻すためには、まだまだ既定事項が足りないということだろう。
古泉を北高に送り込むのはいつでも出来るが、それでもおそらくSOS団は結成されないはずだ。古泉が転入する前にSOS団が作られたわけだからな。
ハルヒは、宇宙人、未来人、超能力者、異世界人の出現を待ち望んでいた。異世界人は結局俺も会ったことがないからこの際除外しよう。
つまり、長門、朝比奈さん、古泉が揃うことが、歴史を正しい流れに引き戻すための条件なのだろう。

いよいよ最大の難関である未来人組織発足のきっかけをつくる必要がある。
未来に関する既定事項は五つだ。朝比奈さん(大)はそれを未来への分岐点と呼んでいた。
少年が俺に助けられること。
少年が俺に亀を与えられること。
少年がハルヒの書いた論文を入手すること。
例の住所の住人が記憶媒体を入手し、少年がそれを譲り受けること。
ある未来人の先祖を病院送りにすること。
そしてここでも大きな矛盾が生じる。
高校生の俺が時間移動理論の研究者となる少年を助けたり、亀を与えたりしたのは、やはり朝比奈さんの指示によるものだ。朝比奈さん(小)に連れられて俺は少年を救い、朝比奈さん(大)の指令により俺は亀を川に投げ込んだ。
だが、現時点ではどちらの朝比奈さんもこの時代には現れない。少年が時間移動理論を研究しないと未来人組織が発足することもなく、未来人がこの時代に干渉することはないはずだ。
そして既定事項を順守するならば、少年が時間移動理論の研究に着手するためには高校生の俺が少年に干渉する必要があり、そのためには朝比奈さんが不可欠だ。
またしても堂々巡りである。なんだって朝比奈さんはこんなややこしいことをしてくれたんだ?
それとは別の重大な矛盾もあった。
少年が時間移動理論を研究するためには、少年がハルヒの論文を入手し、記憶媒体を例の住所に送る必要がある。
だが、今の歴史上にハルヒの論文は存在しない。まだSOS団さえ結成されていないんだからな。
それにあの記憶媒体はパンジーの花壇に今も落ちているのか? おそらくそれはないだろう。あれは明らかにこの時代のものではなく、未来アイテムだ。
そしてあれが仮にあの敵対未来人組織の憎たらしい野郎がこの年代に持ってきた物だとしても、未来人組織が発足していないこの歴史の流れから考えれば奴がこの時代に現れることもありえない。
これはやはり、七夕の時と同じように俺が無理矢理に歴史の端緒を開かなければならないようだった。

俺はやれることから一つずつ始めることにした。そうさ。夏休みの宿題を最後の一週間になってようやく手をつける、それが俺のやり方なんだ。
ハルヒだったらどうするんだろうな、こういうときは。

そういうわけで、俺はまずは少年を助けることにした。
これはおそらく朝比奈さんがいなくても問題はなかろう。少年にとって朝比奈さんの存在がそれほど重要だとは思えなかったからな。
問題は少年を襲う未来人もいないということだが、それも誰でもいい。とにかく少年が襲われればいいと俺は考えた。
つまり、こういうシナリオだ。俺が機関を使って少年を襲わせ、俺が助ける。要は自作自演だ。
一旦未来人組織が発足する歴史さえ作れば、後は朝比奈さんと、朝比奈さんの敵対未来人が本来の歴史で上書きしてくれるに違いない。そしてその実行部隊として、高校生だった俺に白羽の矢が突き刺さるわけだ。
自業自得とか因果応報とか、そういう四字熟語が今の俺にはふさわしいね。
俺は、俺が高校一年だった頃の冬に飛び、機関本部の森さんのオフィスに足を運んだ。
「詳しい事情は説明出来ませんが、明日の○○時××分頃に、△△の踏み切り前を通りがかる少年を車ではねてもらえませんか」
それを聞いた森さんは、顔色ひとつ変えずに、
「殺しですね」
と即答する。目がマジだ。正直言って、体中の力が抜けそうなくらい怖い。
「いや、心配しなくていいです」
心配しているのは俺の方なんだが。
「結果的には俺が助けることになりますんで」
明らかに不可解そうな顔つきで俺を見た森さんだったが、
「なるほど、何か理由があってのことなのですね」
と、結局のところは納得してくれた。

そして、俺は例の時間の例の場所に行き、少年と車を待った。
たとえ二度目とはいえども、文字どおり一歩間違えれば俺の命だって危ない。
そして少年は現れ、俺は心拍数を五十くらい上げつつも、機関がおそらく臨時で雇ったであろうドライバーに轢かれそうになる少年をなんとか助け出すことが出来た。多少手心を加えるようにと言っておくべきだった。
俺は少年の名を訊ね、朝比奈さんの代わりに少年と約束をし、指きりをした。
やれやれだ。少年よ、すまん。危ない目に遭わせたのも実は俺なんだ。
いや、礼なんか言わなくていい。泣きたくなってくる。
少年が今日のことをハルヒに伝えたとして、誰ひとりとして被害が及ばないことだけが救いだった。
あのときの俺と朝比奈さんの受難は二度と思い出したくもない。
そして、あのときのハルヒの気持ちを考えれば、なおさらだ。

次に手軽に出来そうなのは、朝比奈さん言うところのある未来人の先祖を病院送りにすることだ。
これは一人でいいのか?
あのときの朝比奈さん(大)からの指令書には『必ず、朝比奈みくるとともに』と書かれてあった。
あの場所に朝比奈さん(小)が一緒にいたことが、どういう理由で重要だったのだろうか。
俺は推測してみた。気の毒にイタズラにひっかかり病院送りとなった男性は、その後病院で知り合った女性と結婚することになる、と朝比奈さんは言っていた。
あの男性は、俺に向かって朝比奈さんのことを彼女かと尋ね、あのときの俺はそう言っておいた方がいいだろうと判断し、肯定した。
もしかしたら、あのときの俺と朝比奈さんの姿が、その後の男性に何らかの影響を及ぼしているのかもしれない。
こんな小僧にも彼女がいるのなら俺も頑張らないとな、みたいなことを考えたとしても不思議ではない。

では、誰を連れて行く?
七夕に引き続き、朝比奈さんによく似た俺の妹にご登場願うか?
だが、妹を気絶させたまま男性に会わせるというのは明らかに問題だろう。むしろ逆効果としか思えない。
未来の妹に事情を全部話して協力させるというのも悪い手ではないかもしれない。どうせ未来が上書きされてしまえば、妹の記憶はすっかり塗り替えられるだろう。
だが、妹のあの水素原子並みに軽い口のことを考えると、俺とは別の未来の俺が困った状況に遭うのが容易に想像出来る。俺はそこまで自虐的な性格ではない。
事情を話さずに、喜んでつきあってくれそうな女性。鶴屋さんの顔が思い浮かんだ。
イタズラ好きの彼女のことだからきっと二つ返事で協力してくれるだろう。だが、そういうわけにもいかなそうだった。
俺は中学生の頃の鶴屋さんに素顔を見られているが、高校二年になった彼女にもう一度素顔を見られるのはさすがにまずかった。
既に鶴屋さんは北高に入学した俺に会っていて、今の俺とその俺の関係に勘付いているはずだ。
今俺が鶴屋さんに素顔を見せ、あまつさえ北高の制服など着れば、これはもう100%間違いなくジョン・スミス=高校生の俺という公式が成り立ってしまうだろう。
というわけで、俺はまたしても機関を頼り、パートタイマーの女子高生を調達することにした。
その女性とともに夕暮れの歩道に向かい、五寸釘で固定した空き缶を仕掛け、首尾よく男性はそれを蹴って負傷し、めでたく病院送りとなった。
あなたの子孫がどういう未来を作るのか俺にはよく解りませんが、とにかく頑張ってください。俺は病院に向かうタクシーに向けて心の中でエールを飛ばした。

次におこなったのは、亀を川に放り込み、少年に亀を渡すことである。
これも朝比奈さんはおそらく必要あるまい。
俺は鶴屋家の庭の池からなるべく長生きしそうな小亀を探して捕まえ、葉桜の並ぶ遊歩道に行き、少年の前で亀を川に投げ込み、亀を回収し、少年に手渡した。
そして、念のためにではあるが、今日のことは誰にも口外しないようにと言っておいた。

さて、いよいよ残こされた課題は記憶媒体とハルヒの論文だ。
だが、これらを後回しにしていたからといってその間に何かいいアイデアが浮かんだかというと、そういうことは全くなかった。
記憶媒体の入手方法に関しては、まるで見当がつかなかった。俺がこれから未来に飛び、いつどこに存在するかも解らないそれを探し回るというのはどう考えても非現実的だった。
ハルヒの論文にしてもそうだ。あれはそもそもSOS団を恒久的に存続させるためにと書かれたものだったはずで、SOS団なくしてあの論文が生み出されるとは考えられない。
果たして論文と記憶媒体なしで少年は時間移動理論の研究を進めることが出来るのだろうか?
これは試す価値がある。ひとまず少年と知り合いになる事実は既に作ってある。
もし失敗したら、あらためて論文と記憶媒体の件を何とかしてからもう一度少年にSTC理論を付与する歴史に塗り替えればいい。

俺は、以前少年にSTC理論を付与した日に移動し、少年を訪ねた。
そして、すぐさまこれはダメだという結論に至った。
前回と同じく、タイムトラベルに関する助力が欲しいと言った俺に、少年はこう答えた。
「タイムトラベルですか? 確かに僕はサイエンスフィクションに興味はありますが。あなたは小説か何かをお書きになるんでしょうか?」
どうやら、俺が少年を助けたこと、亀を投げ込んだこと以上に、ハルヒの論文と記憶媒体は重要な意味を持っているようだった。

だが、いくら考えても結論など出るはずもなかった。こういうときは寝てしまうに限る。そうすれば明日いいアイデアが浮かぶかもしれない。
もしかしたら、また都合よく例の夢を見られるかもしれないしな。


薄暗い。寒気を感じる。
木枠に嵌った窓ガラスの方からぼんやりとした灯りが差す。
夜の学校。見覚えのある部屋。
老朽化した天井。ひび割れた壁。木製の扉。
少ない備品が手狭な部屋を広く感じさせる。
長テーブル。パイプ椅子。本棚。
本棚には、厚手のハードカバーから文庫本までがずらりと並んでいる。
窓の外に目を向ける。
グラウンドの方にわずかに光る何かが見える。


目覚めた俺は、あまりのご都合主義的な展開に苦笑する他なかった。
この夢を見せているのは、やはりハルヒ、お前なのか?
俺は、俺が見る夢を全面的に信じるようになっていた。既に俺は二度も夢に助けられている。
これがハルヒの見せている夢だとしたら、俺にはあの場所に心当たりがある。ならばそこに行くしかない。
時空間座標を真夜中の北高に設定し、移動する。
北高に足を踏み入れるのは五年ぶりくらいにはなる。この歳になっても、夜の学校を一人で歩くのは少々怖い。
俺はあのグラウンドに向かい、しばらく歩き回ってみた。たが期待に反して収穫は何もなかった。
あれはハルヒの見せたものではなくて、普通の夢だったのだろうか。

その日の夜、また同じ夢を見た。
文芸部部室から見える、グラウンド上のおぼろげな光。
やはりこれはただの夢ではない。ハルヒが俺を呼んでいるのか?
もう一度夜の学校へと赴いた。だが昨日と同じく何も手がかりは得られない。
そうか。つまり場所だけではダメなんだ。「どこ」だけではなく「いつ」が必要なのだ。
俺は夢の内容をもう一度思い出してみた。
俺は夢の中で寒気を感じていた。ならば季節は冬か?
違う。それは季節を表すものではない。俺はその寒気を既に何度か経験していた。夢の中で、そして現実世界で。
つまりそれは閉鎖空間を暗示しているはずだ。
グラウンド。閉鎖空間。
俺とハルヒの二人だけのモノクロームの世界の中で、俺たちは始めてのキスをした。今でもあの時のことを鮮明に思い出せる。
そして同じくモノクロームの世界、様々な存在の様々な思惑が入り混じったあの空間で、俺たちは二度目のキスをした。
このどちらかの日に違いない。

時空間座標を設定し、俺はあの日、あの時間のあの場所へと飛んだ。
高校一年の五月下旬。ハルヒが最初に世界改変を試みたあの日。午前二時を少し過ぎた頃。
到着するなり、寒気が俺を襲った。間違いない。この歴史でも同じ時間、同じ場所に閉鎖空間が発生している。
グラウンドの中でも最も寒気が顕著な場所を探した。
どうやら古泉たち超能力者は、閉鎖空間の発生には気づいていないようだ。周囲に連絡用エージェントの姿が見えないのがその証拠だ。
つまり、これは俺のためだけに作られた閉鎖空間だということなのか。
しばらく後に、不意に寒気が消えた。
あたりを見回してみる。だが何も変化らしきものはない。
やれやれだ。ため息をついた俺は、ようやく足元にあるそれを発見した。今さっきまでは存在しなかった、薄茶色の封筒。
B4サイズのその封筒を開いた。
そこには、この歴史では決して存在するはずのない、あの日俺たちが作り上げた文芸部機関紙と、パンジーの花壇に落ちていた記憶媒体が入っていた。
ハルヒ、お前は別次元の世界から俺にこれを送ってくれたのか?

俺は文芸部機関紙の中から『世界を大いに盛り上げるためのその一・明日に向かう方程式覚え書き』と題されたハルヒの論文だけを抜粋し、匿名で少年に送った。同じく記憶媒体を手帳に書かれてあった住所に、やはり匿名で送った。
これで後は少年に再び会えば、前と同じシチュエーションで少年にSTC理論を付与出来るはずだ。

俺は少年にSTC理論を付与した日、時間に移動した。
体が揺れる感覚の後、その時代に到着した俺は、眼前に立っている人物を見て唖然とした。

目の前にいたのは、もう一人の俺だった。

なるほど、そうか。こいつは数日前に少年にSTC理論を付与しようとして失敗した俺だ。
つまり、今の俺がわざわざもう一度ここに赴かなくても、目の前の俺が少年に会ってSTC理論を付与してくれるわけだ。
だったら、もしこいつが今これから少年へのSTC理論の付与に成功した場合、こいつはハルヒの夢を見るのだろうか? 文芸部機関紙と記憶媒体を得る未来は生まれるのだろうか?
嫌な予感が頭をよぎった俺は、慌てて目の前の俺に声をかけ制止した。
振り返ったそいつは、当然のように唖然としている。当たり前だ。俺だってさっき同じように驚いたんだからな。
俺は初めて時間移動をおこなったときに、一分後の俺、一分前の俺と会ったことがある。その時は何が起こっているのかをすぐに理解出来た。
だが今回は違う。お互い、まさか自分が現れるなんて夢にも思っていなかった。目の前の俺もこの俺も。
俺は数日前の俺の迂闊な行動を後悔した。
「お前は誰だ」
「見てのとおり、俺はお前だ。未来の俺だ。ここはまずい。場所を変えよう」
「先にわけを話してもらおうか」
我ながら面倒な性格の奴だ。
「こんなところを人に見られたらまずい。とにかく移動が先だ」
過去の俺は渋々ながら承諾し、俺たちは人気のない場所を探して、近くの路地に移動した。
「俺はお前がいた時間より少し未来から来た。確か三日後だ」
時間移動を頻繁に繰り返すと、日時の感覚が著しく麻痺する。三日後で合ってるよな?
「何のために来たんだ?」
「三日前の俺は、彼にSTC理論を与えるためにここにやってきた。それが今のお前だ。これは解るか?」
「ああ」

「そしてその試みは失敗に終わる。少年に『SF小説でも書くんですか?』とか言われてな」
「散々な結果だな」
「全くだ。それで俺はその後ある方法でハルヒの論文と記憶媒体を手に入れた」
「何だと? お前、一体どうやってそれを手に入れたんだ」
「教えてやりたいが、それを言うと俺の歴史とお前の歴史に食い違いが起こるかもしれん。だから言えん。今こうして俺とお前が話しているだけでも既に食い違いは起こっているんだからな」
「やれやれ、全く面倒くさい話だな」
「全くだ」
二人の俺は同時に肩を竦めた。息もぴったりだ。当たり前だがな。
「それで、俺はこれから彼に再度STC理論を与えに行くところだったんだ。だが俺は過去の俺、つまりお前の存在をすっかり忘れていたというわけだ」
「なるほど話は解った。ならば俺はこのまま元の時間に戻り、ハルヒの論文と記憶媒体を探せばいいということだな」
「そう言うことだ。あまり考えすぎなくていい。果報は寝て待てだ。これ以上詳しいことは言えん」
「未来の俺がそう言うんなら、そうなんだろうな。覚えておくよ。じゃあな」
過去の俺は立ち去ろうとして、しばらくして立ち止まり、少し考えた様子を見せて振り返り、そしてこう言った。
「ということはだな。俺たちは前に七夕に行ってハルヒに会ったり、少年を助けたり亀を与えたり、色々したよな」
「ああ」
そこまで聞いて、俺はこいつの言いたいことが解った気がした。
「つまりは俺たちが元の既定事項と違う行動を取っている、例えば高校生の頃の俺たちの行動を肩代わりしているようなケースは、全て今回と似たようなことが起こるということか」
予想は当たっていた。確かにそのとおりだ。
「やれやれだな」
「やれやれだ」
二人の俺は同時に首を振った。息もぴったりだ。当たり前だ。そんなことはどうでもいい。
これから先のことを考えると正直なところ頭が痛かった。

こうして俺は、過去の俺にご退場願い、少年の元に向い、無事に少年にSTC理論を付与することが出来た。
ハルヒと結婚する事実のないこの歴史では、以前のシナリオとは多少異なる点はあったものの、幸いなことにハルヒが死ぬことを防ぐという俺の意向に少年は全面的に賛同してくれた。

おそらくこれで未来人組織発足のきっかけは生まれたはずだ。
俺は高校一年の頃の時代に飛び、機関作成の名簿を調べてみた。
二年の朝比奈さんがいたクラス。
だが、予想に反して朝比奈みくるの名は見当たらなかった。
おかしい、まだ未来人組織は発足していないのか?
他のクラスも調べてみた。それは一瞬で完了する。名簿の先頭の方だけ見ればいいわけだからな。
やはり朝比奈みくるの名はどこにも記されていなかった。
それからしばらく後の機関の報告書に、未来人という単語が載るようになった。
それには「二年×組の生徒で、言動に不審のある生徒を確認。その内容から未来人の可能性あり。現時点では確証なし。詳細要調査」と書かれてあった。
名前は書かれていない。
俺は森さんに問い合わせ、内容を確認した。
「彼女は一年の時から既に北高に入学していたらしく、時おり言動がおかしい、現代人なら誰もが常識として知っているはずのことを知らない、などの特徴が見られるとのことです」
俺は朝比奈さんを思い出していた。そうだよな、あの人はそういうそそっかしいところがあったよな。
「そいつの名前を教えてもらっていいですか」
「本来はまだ名前をお伝えすることは出来ないんです。敵対組織のダミー工作員の可能性がありまして。つまりいかにも未来人のような言動をとることで我々の反応を見るために送られた他組織のエージェントかもしれないということです」
全く森さんも色々と考えているもんだ。いや、実際に北高ではそのような謀略戦が繰り広げられているのかもしれない。
「ですので、これは他言無用ということでお願いします」
そして、俺はその名を聞いた。やはりそれは全く別人の名前であった。

「写真を入手出来ますか。確認しておきたいのですが」
もしかしたら、名前だけ以前と異なってはいるが、実は俺の知る朝比奈さんが来ているのかもしれない、と思ったからだ。
「私の手元には既に送られています。これも機密扱いでお願いします。確認後速やかに消去してください」
「もちろんです」
電子メールですぐさまそれは送られてきた。
添付ファイルを開いてみる。
パソコンのディスプレイには、まさに朝比奈さんとは全く似ても似つかない女性が映し出されていた。
その後の機関の調査で、その女性は間違いなく未来人だという結論に達した。
つまり未来人組織は確かに発足したのだ。そして朝比奈さんがいないこの歴史では未だにSOS団は結成されない。
なぜ朝比奈さんは来てくれないんだ?

俺は未来人に関係する既定事項を洗いなおしてみた。
少年に関係することはおそらく問題ないはずだ。実際に未来人組織は立ち上がっている。
記憶媒体に関しても正しい住所に送り、めぐり巡って少年に届いていた。あの媒体と朝比奈さんに関連性があるようには思えない。
その二つは俺の取った行動とその結果の因果関係が明らかだった。
だとすれば、残っているのはあのイタズラで怪我をした男性だ。
彼を病院送りにしたことがどう未来に影響しているのかを見極める必要がある。朝比奈さんは言っていた。彼は病院で女性と出会い、子供をもうけ、その子供はさらに子孫を残すと。
男性の子孫と朝比奈さんに何か関係があるのかもしれない。もしかしたら朝比奈さんが彼の子孫そのものなのだろうか。

俺は男性の系譜を追い始めた。
まず俺は怪我をさせた男性の病院に飛んだ。男性は朝比奈さんが言ったとおり、病院で女性と知り合った。
男性が退院するタイミングを見計らい、俺は空間移動を使いながら男性を尾行し、住所をつきとめた。
男性はその二年後、知り合った女性と結婚した。予定どおりだ。
ここで少し油断した。結婚後しばらくして二人は別の場所に住居を構えた。慌てて転居先を探す。頼むからあまり引越しはしないでくれよ。
その住所を元に、数年おきに住民票を入手する。それで家族構成はほぼ解った。
男性は結婚後一年で女の子を、五年後に男の子をもうけた。それ以降はどうやら子供は生まれていないようだった。

俺は今後の調査方法を考えた。
結局男性の家族構成を調べるのにほぼ一日かかった。彼の子供は二人だ。その二人はおそらくやがて結婚し子供をもうける。その子供が二人ずつだとすると、三代目の調査対象は四人になる。仮に子孫が二倍ずつ増えていくとしよう。この法則でいけば、五代目では十六人、十代目では五百十二人になる。二十代先まで追えば、実に524288人となる。系譜を追うに従い調査対象は等比数列的に増え続ける。
524288人を調べるとなると、一人を調べるのに一日かけたとしても1436年かかる計算になる。明らかに俺一人では不可能だ。
文字通りネズミ講だな。いやそれは失礼な例えだった。人間はそれほど多産ではない。これがひと昔前であれば、子供を五人くらい産むのも当たり前のことだろう。俺は少子化をこれほどありがたいと思ったことはなかった。本来ならありがたがる話ではないし、未来でも少子化傾向が続いているという確約もないが。
だが俺はおそらくそれほど先の代まで調べる必要はないだろうと踏んでいた。
なぜなら朝比奈さんたち未来人は、彼女たちの時代に生きるある人物の先祖があの怪我をさせた男性だということに行き着いたからだ。
その人物の親というのは必ず二人、その親二人の親も間違いなく二人ずつだ。一切の例外はない。ならば未来から過去の系譜を追うのも、過去から未来の系譜を追うのも共に等比数列に違いなく、同じだけの労力がかかるはずだ。

未来人組織がのべ1436年もかかる調査をするとは思えなかった。朝比奈さんは俺の生涯を調べることですら大変な作業だったと述懐していたからな。
考えていても仕方がない。俺は俺の直感に従いただ行動するのみだ。
十代目まで系譜を追ったとしても一年半はかかる計算になる。だが俺にはこれ以外に、朝比奈さんが俺たちの時代に来るための手がかりを得る方法は思いつかなかった。
俺は機関の運営に関する仕事の合間を使って調査を続けた。
住民票を調べる手は二代先あたりで使えなくなった。役所での個人情報保護が厳密になり、第三者がそれを閲覧することが極めて困難になっていたのだ。
調査の効率化のために郵便物の盗み見もしたが、この手もやはりしばらくすると使えなくなった。ほとんどの郵便物が電子メールに置き換わったらしかった。
そういうわけで調査の手段は住居の張り込みのみとなった。
ここで具体的な張り込みの方法を紹介しよう。
人は子供を作る場合もあれば作らない場合もある。結婚していようがしていまいが。
大体の場合、女性は二十歳から四十歳の間に出産するが、念のため十六歳から五十歳までを調査範囲とする。
その三十五年間をだいたい四ヶ月置きくらいに飛んで子供の有無を調べるわけだ。つまり一人あたりおよそ百回だ。
住居をしばらく張っていれば、母親の出かける時間が解るようになる。主にその時間を中心に張り込みをおこなう。
規則正しい生活を送っている人とそうでない人で多少ブレが生じるが、だいたい一回の張り込みに平均十分かかると思ってもらいたい。
つまり、一世帯の家系を調べるのに千分。およそ十七時間かかるということだ。
母親が妊娠したかどうかはお腹を見れば解る。お腹の状態で出産の予定日の予想を立てる。そんなに厳密に調査しなくても、二年置きくらいで大丈夫だろうって?
だが、生まれてまもなく養子に出されるケースだってあるかもしれない。だから俺は正確に出産日を見定めることにした。
出産の際には病院に行くことも欠かさない。万一双子が生まれて片方が出産後すぐに養子に出されでもすれば、四ヶ月置きの張り込みだけではまずそれを知ることは出来ない。
俺はお腹の状態から出産予定日を判断するという、おそらく産婦人科医並の技能を身につけ、他の誰よりもこの男性の系譜について詳しくなった。

この調査方法はあくまでも女性の場合であり、男性の場合は生殖機能が衰えない限り調査範囲は女性に比べて飛躍的に増大する。
その気になれば六十、七十歳くらいでも充分子供を作ることが出来そうだからな。
これは大変な作業だった。ある者は離婚して別の家庭をつくり、ある者は妻以外の女性に子供を産ませた。
その度に増え続ける調査対象に俺は頭を抱え、自らの運命を呪いながらひたすら張り込みを続けた。

調査日数がのべ九ヶ月間に差し掛かり、調査結果の書き込まれた家系図が畳一枚分ほどの大きさになった頃にそれは起こった。
いつものように張り込みをしていた俺は、ある日異変に気づいた。
それは彼の八代先の子孫のひとりで男性だった。その男性が二十台後半の頃のことで、彼には妻も子もいなかった。
そいつが住居に戻らなくなった。やがてそこには別の人物が住み着くようになった。
引越しでもしやがったか? くそっ、どこに行きやがった。
俺は時間を絞り込み、引越しの瞬間を探した。
だが彼がいなくなってからしばらく張り込みをしたが荷物が運び出された形跡はなかった。
これはひょっとして失踪ってやつか?
俺は彼を最後に見かけた時間に戻った。彼を張り込んでいる少し過去の俺には見つからないように離れた場所へ。また面倒な説明をする気にはなれなかったからな。
首尾よく彼の姿を見つけた俺は尾行を開始した。
しばらく尾行を続けた俺は、まずいことになったな、ということに気づいた。
どうやら尾行がバレているらしい。
彼は周囲を見渡しながら何かを探すような歩き方を装い、同じ道を別の方向から二度通った。
俺がそれに気づいたのは、二度目にその道から大通りに出た時だった。
俺は直ちに尾行を中止した。
俺の張り込みは四ヶ月に一度だ。ならば、張り込みの事実まではおそらく気づかれてはいまい。

俺はおよそ一年前に戻り、再び彼を尾行した。
だが驚くべきことに、彼は前回と同じ歩き方で、別のルートではあったが二度同じ道を通ったのだった。
これは気づかれているのではないかもしれない。つまり彼には常に尾行を意識して生活をしなくてはならない理由があるということだ。
俺は手ごろな建物の屋上を探し、しばらくの間遠くから彼を観察することにした。
彼は毎日決まった時間に住居を出て、毎日異なる何パターンかのルートを通ったあとオフィスビルに入り、夕刻頃そのビルから朝のルートを逆行し、どこにも寄り道することなく住居に戻っていった。
このままでは進展はない。俺は四ヶ月先の彼を最後に見た日、つまり俺が途中で尾行を断念した日に戻り、意を決してビルに入ることにした。ここで調査を諦めるわけにはいかなかった。
何か危険な状況に立たされたとしても、俺には時間移動という武器がある。
あらかじめビルに入り待機する。彼がやってきた。一人でエレベータに乗る。同乗するわけにはいかない。エレベータの行き先表示を確認する。エレベータは四階で止まり、そして一階まで戻ってきて一人が降りた。四階には三つの会社がオフィスを構えていた。ならば彼はこのうちのどれかに勤めているのだろう。
俺は彼がエレベータから降りる少し前の四階に時間移動し、非常階段の踊り場に隠れ、彼を待ち伏せることにした。
エレベータが開いた。
おかしい。誰も降りてこない。
なぜだ?
後ろから肩を叩かれた。
そこには俺がさっきまで追っていた、エレベータに乗っているはずの男性が立っていた。
「なぜ俺を追っている」
やっと理解した。こいつはTPDDを持っている。俺は待ち伏せするつもりでこいつに待ち伏せされたんだ。
男性は微妙に口の端を歪めた。笑みとも不満とも取れる。
「お前、まさか能力者か? だがそれならなぜこんな尾行の仕方をする。まるで素人だ」
確かに尾行に関して俺は全くの素人だった。

「お前は何者だ。俺が知らない以上、少なくとも仲間ではないようだが」
「俺はあなたの敵ではありません。TPDDを持っているのは確かですが」
「待て」
男性の顔に明らかな困惑の色が滲み出ていた。
「お前、なぜ禁則がかかっていない? たとえ奴らの組織であろうとTPDDという単語を発せられる能力者はほとんどいないはずだ」
「なぜと言われても説明出来ません。俺にはもともと禁則事項が具体的にどういうものかもよく知りませんし」
「詳しい話を聞かせてもらおうか」
ここで俺は時間移動で逃亡することも出来たが、それでは調査は進展しない。それにこの男性が何らかの鍵になっているのはおそらく間違いないだろうと思えた。ここは素直に従ったほうがいい。
俺と男性はビルを出て近くの公園に行った。
男性は周囲に人の気配がないことを確認し、さらに手を耳に押し当て何かを確認するかのような仕草をした後、ようやく話し始めた。
「君は一体何者だ」
「詳しくは話せませんが、俺は過去から来ました」
「過去?」
「ええ。ここよりおよそ二百年前です」
「二百年前だと!?」
男性の困惑がさらに色濃くなった。
「俺の知る限りTPDDを最初に得ることの出来た人物が現れたのはおよそ六十年前だ。今までにTPDDを得た人間というのはほぼ例外なく俺たちの組織にプロフィールが残っている。
今のところ、それが敵対組織の人間であってもだ。そのリストに間違いがなければ、今までにTPDDを得られた人物はわずか三十七人。そして俺たちのような能力者はそれらの人物を全て記憶している。その人物の幼少期から老年期の姿まで全てだ。だがそのリストには君は含まれていない。これはどういうことだ?」
どうやら、STC理論を与えたときに少年が危惧していたような、誰もが時間移動の存在を知るような危なっかしい未来にはなっていないようだった。

俺はなるべく正直に話すことにした。
突発的にTPDDを得たこと、少年にSTC理論を付与したこと、おそらくそれが源流となって今この時代にTPDDが伝わっているであろうこと。
少年の名前を聞き男性は頷いてみせた。俺への猜疑心が少しは薄らいだのだろうか。
「仮に君が二百年前の人間だとして、何のためにこの時代にやってきた」
「ある女性を探しています」
「女性? それは君とどういう関係があるんだ?」
「名前は朝比奈みくると言います。ご存知ないですか? その女性もあなたの言う能力者ということになります。彼女はあなたの組織に所属していて、俺たちの時代に来るはずです」
朝比奈さんがこの男性の先祖を知っているということは、おそらく同じ組織の人間のはずだ。
「なるほど。その名に覚えはないが、つまりあの計画と関係があるということか。辻褄は合う」
「計画……ですか?」
「俺たちの組織は今から二年前に過去の事象を観測するシステムを作り上げた。それまでは過去を知るためにはTPDDを持つものが過去に赴き、駐在して調査する必要があった。まあ今でも詳細の史実を調べるには駐在員を送る必要があるんだがな。俺たちはそのシステムにより、今からおよそ二百年前に起こった大規模な時空振動を検出した。それの調査のために俺たちは新たに能力者を開拓し、過去に送り込むことが必要になったんだ」
なるほど、この時代でようやくハルヒの時空振動を発見したらしい。そしてその調査要員に朝比奈さんが含まれていたということなのだろう。
「それを実現するためには、俺たちには新たなスポンサーが必要だった。そしてそれは実に厳正に選ばれた。何しろ俺たちの組織の存在と活動内容は機密中の機密で、それはいかなる権力にも知られてはいけないことだった。だが、結局のところそのスポンサー筋から極一部の人間に情報が漏れ、俺たちとは違う別の能力者組織が生み出された」
それがあの朝比奈さんを誘拐した野郎や、閉鎖空間に現れた敵対未来人の連中なんだろうな。

「俺たちの組織は原則として歴史、これは我々の用語で既定事項と言うのだが、それを遵守したうえで過去の歴史を調査しそれに学ぶことに重きをおいている。だが敵対組織はこの時代の人類に都合のよい歴史を作るために能力を活用しようとしている。言い換えれば、俺たちは歴史の歪みを生み出さずにより良い未来を作ることを目標にし、奴らは歴史の歪みを大きくすることでそれを実現しようとしている。どちらが人類にとって正しい選択なのかは正直なところ俺にも解らない。解っているのは俺たちと奴らの、既定事項に関する考え方が明確に異なっていることだけだ。とは言え、我々と彼らには共通して守らなければならないことがある。それが禁則だ」
「禁則とは結局どういうものなんですか」
俺は今まで漠然と抱いていた疑問を正直に訊ねた。
「突き詰めて言えば、あらゆる人間に対して未来に至る既定事項の秘密を守る、ということに尽きる。過去から未来を守るために重要なことだ。つまり俺たちと奴らの組織は、同じ未来人という点で、禁則に関しては共通認識が出来上がっている。禁則を破るということは、お互いの組織の目的とは別の次元で絶対にあってはならないことだ。禁則を破ることで未来に生じる影響は誰にも正確な予想は出来ない。だから時間平面移動の研究は能力者のコントロール方法と一体で進められてきた。言わば核兵器以上に慎重な扱いをしなければならないものだ」
随分と物騒な話になってきた。
「禁則は我々のような能力者にとっては絶対に破ってはならない不可侵な領域なんだ。そういう理由で、禁則が適用されない能力者は一人の例外もなく存在しない。あらためて問う。君は一体何者なんだ?」
「それは申し訳ないですが言えません。何となく言わない方が良いような気がしますので」
「なるほど。未来人であれ過去人であれ、必要以上の情報を得ることが必ずしも正しいこととは言えないからな。それに君が言いたくないのならば俺たちにそれを強要する術はない。仮に俺たちが君を拘束したとしても、君は時間移動によりいつでもその状況から抜け出せるわけだからな。俺がそうであるように」
男性は心なしか楽しげな表情を見せた。
「だが、あといくつか質問させてくれ。答えてくれなくても構わない」
「解りました」

「君はどうやって俺に辿り着いた? この時代でも俺が能力者だということを知るものは数える程しかいない」
「あなたの先祖からの系譜を追ってここまで来ました」
「なるほど。つまり君が過去で出会った未来人が俺の先祖に関して何らかの情報を残したということだな。それは解った。もうひとつの質問だがいいか?」
「ええ」
「大体でいい。君の出身地はどこだ?」
俺はその問いに正確に答えた。一体何の意味があるのだろう。
だが、俺の答えに男性は深く頷いた。
「TPDDは限られた人間にのみそれを得る素養がある。そしてそれはある地域にルーツを持つ人間に限られるんだ。そう、君が生まれた地域だ。時間平面理論の研究もその場所から始まった。現段階ではその理由は我々には一切解らないがな。そして今回発見した時空振動もどうやらその周辺で発生したものらしい」
ハルヒは機関に所属する超能力者だけでなく、TPDDを得る能力者も地域限定で生み出していたということか。まあ世界中にそういう連中が拡散しているよりはよほどマシとは言えるが。
「今日君に会ったことは俺の胸の内にしまっておくことにする。いつかの時代の誰かが、禁則を破ってまで君に俺の先祖を教えたことにはきっと何か理由があるんだろう。俺にだって未知の未来を信じてみたいという気持ちはまだ残っているからな。もし俺に連絡を取りたい時はこの時空間座標に来てくれ。二度目以降に来る場合は同じ時間に日を変えて」
そう言って彼は人差し指を俺に向けた。俺はなんとなくそうするのがいいように思い、以前、朝比奈さんがしたように自分の手を差し出した。彼が俺の手の甲を人差し指で触れた瞬間に俺の頭の中に時空間座標が飛び込んできた。
彼は笑みを浮かべながら言った。
「やはりダメか」
何のことだ?
「君はやはり何も知らないんだな。そして君が言っていたことがおそらく全て真実だということをこれで確信した」
「どういうことです?」

「俺は敵対組織も含めた全能力者の中でも最高位のコードを持っている。禁則の制限というのは実に簡単に設定出来るものでね。今のやりとりの中で俺は禁則制限を設定する命令コードを君の脳内に送ったんだ。そしてそれは何の効力も発揮しなかった。君は本当に我々とは全く別の方法でTPDDを手に入れた存在だということが解ったよ」
油断も隙もないな、全く。だが俺はさっきの彼の話を聞いて、少しくらいは禁則に縛られていた方が良いような気にもなっていた。自分が歩く人間核兵器以上の存在なんていうのは、それはそれで困るからな。
「ははっ。だまし討ちのようなことをして済まなかった。だがこれはどうしても確かめておく必要があったことでね。では俺はここで失礼するよ。また会える日を楽しみにしている」
そう言って彼は元いたビルの方に去っていった。

その後も引き続き、怪我をさせた男性の系譜を引き続き調べたが、朝比奈さんに関係する人物は現れなかった。
ひとつ手がかりを得てひとつ手がかりを失った。
あの未来人組織の男性の口ぶりでは、ハルヒによる時空振動の調査が近く開始されることになるようだ。
ならば朝比奈さんもおそらく彼と同じ年代にいるはずだった。
俺は賭けに出ることにした。失敗すれば俺は数ヶ月間を無駄にすることになる。だが他に手がかりになりそうなことはなかった。
あの未来人の男性は言った。能力者のルーツは俺の住む地域にあると。
そして、朝比奈さんと俺の妹の間には何らかの関係があるはずだ。

俺は、妹の系譜が鍵を握っているかもしれないと考え、再び調査を開始した。
まさか自分の実家を張り込みすることになるとは夢にも思わなかった。実に不思議な気分だ。
そこには、以前見たのと同じように、ハルヒと結婚する歴史には至らず、ようやく就職先が決まったのか毎日不満げな表情で家を出る俺の姿があった。繰り返して言うが、俺はこんな未来には全く興味はない。
そして妹は朝比奈さんチックな雰囲気をそのまま残して成長していった。
妹は二十四歳のとき、柔和で見るからに面倒見のよさそうな男性と結婚した。兄の俺から見てもベストマッチングだと思える。

そしてその二年後、妹は俺の姪となる女の子を産んだ。
そこから男性の時と同じ方法で系譜を追っていった。
おそらく朝比奈さんが現れるとしたら、それは七代目から九代目あたりになるだろう。だがそこに辿り着くためにはやはり丹念に二代目からひとつずつ代を追っていくしかない。
機関の運営の方は既に俺がいなくてもほぼ問題ない状態になっており、俺はこちらの調査に没頭した。
そして、やはり数ヶ月の歳月を費やし、二枚目の家系図が畳一枚分になろうかという頃、俺はようやく朝比奈さんらしき人物を発見したのだった。
妹の九代目の子孫にあたるその少女が朝比奈さんではないかと気づいたのは、彼女が五歳になる頃だった。名前も朝比奈みくるではなかった。そもそもそれが本名だとは思っちゃいなかったが。
その彼女は、幼かった頃の俺の妹にとてもよく似ていたのだ。
俺は彼女を重点的に張り込むことにした。彼女が朝比奈さんだという確証が欲しい。
家の外からでしかうかがい知ることは出来なかったが、とても幸福そうな家庭だった。生活は決して裕福とは言えなかったが、両親も彼女も笑顔が絶えなかった。
だが、しばらく張り込みを続けた俺は、彼女の過酷な運命を知ることとなった。突然の不幸が彼女の家庭を襲った。
彼女が六歳のとき父親が事故で他界し、後を追うようにしてその数ヵ月後に母親が病死したのだ。
身寄りがなかった彼女は――彼女の両親は駆け落ち同様の状態で結婚し彼女を生んでいた。
身寄りがないのは系譜を調査していた俺が一番よく知っている――孤児院に入った。
彼女にとって孤児院での生活は辛いものだった。気の弱い彼女は新しい生活にあまりなじめなかった。
何よりも両親の死のショックがずっと残っていた。塞ぎがちで、独り隠れて泣いている姿をよく見かけた。
俺は孤児院を十日おきに三ヶ月ほど張っていた。突然彼女の姿が見えなくなった。どこかに引き取られたのだろうか。だがそう簡単に引き取り手が見つかるようには思えなかった。
張り込む日と時間を変え、彼女がいなくなった日を探し続ける。
放射冷却のために大気が冷え込んでいた冬のある日。見つけた。真夜中に一人孤児院を抜け出す少女。俺は後を追った。

彼女は部屋着のままで、力なく足元を見つめながらゆっくりと歩を進めていた。明らかに様子がおかしい。
しばらく歩いた彼女が着いた先は、孤児院近くの川べりだった。視線を川の流れに落としたまま動かない。
嫌な予感がした。こういうのはよく当たるんだ。
そして俺の予感どおり、彼女は一歩ずつ、ゆっくりと川に向かって歩きだした。
「なんてことしやがる!」
俺は叫びながら、全速力で彼女に駆け寄った。俺に気づいた彼女が急ぎ足になる。どんどん川に入っていく。足をもつれさせ、転んだ少女が川の流れに飲まれた。
一心不乱に彼女を追う。意外に水流が速かった。このまま川に入っては間に合わない。俺はしばらく岸を下流に向かって走り、彼女を待ち構えるようにして川に入った。
水深も案外深かった。腰のあたりまで水に浸かったところで、彼女に手を伸ばす。かろうじて手が届いた。意識を失っていた少女を川から引っ張り上げ、岸まで運んだ。
どうやら水は飲んでいない。呼吸も脈もあった。ショックで気を失っただけのようだ。しかしこのままでは肺炎にもなりかねない。急いで少女の上着を脱がせ、体を拭き、俺の上着で包んだ。
そして俺はそれを発見した。
やっと見つけた。この少女が間違いなく朝比奈さんだ。

少女の左胸にそれが確かにあった。俺が以前見たものよりも小さい、微かな星形のホクロが。

一体誰がこんな運命を仕組んだというのか。
もし成長した妹が朝比奈さんに似ていなくて、そしてこの朝比奈さんが幼い頃の妹に似ていなければ、俺はこの朝比奈さんを救うことは絶対に出来なかった。

しばらくして意識を取り戻した幼い朝比奈さんは、泣きじゃくりながら俺に訴えた。
「わたし……お父さんとお母さんのところに……行きたかったの……」
今まで見た朝比奈さんの涙の中でも最も悲痛なものだった。

「あなたは誰? わたし……お父さんとお母さんのそばに行くことも……できないの?」
掛ける言葉が見つからなかった。いつまでも泣き続ける朝比奈さんを俺は力一杯抱きしめた。そうするのが一番いいと思ったから。
俺の胸の中で肩を震わせる朝比奈さんに、俺はやっとの思いでこう告げた。
「君は今ここで死ぬべきじゃない。君はいずれきっと幸せになる。だからがんばって生きてくれ」
泣き疲れたのか、朝比奈さんはいつの間にか眠っていた。
俺は彼女を孤児院まで運び、玄関の前に座らせた。濡れていない俺の衣服で彼女を丁寧に包んだあと、孤児院の呼び出しベルを鳴らし、明かりが点いたのを確認して時間移動した。
これも俺の知ることのなかった既定事項なんだろうか。もしそうでないのなら、俺はまたひとつ歴史を変えてしまったことになる。
だが、誰かが俺の行動を非難するというのならば、俺はそれを真っ向から受けて立ってやる。人一人助けられない規定事項など糞食らえだ。
朝比奈さんの人生がこんな悲しい結末を迎えるような未来が存在してたまるものか。それを変えることに何をためらう必要があるというのか。

俺は未来人組織の彼が指定した時空間座標に飛んだ。朝比奈さんを助けた日からおよそ二年後の未来だ。
「前に言っていた女性がようやく見つかりました」
俺は朝比奈さんのことを伝えた。身寄りがなく孤児院にいること。すぐにでも能力者として彼女を引き取り、迎えてやってくれないかと。
「もしその女性が本当に能力者の資質を持っているのであれば、それはこちらとしても誠にありがたいことだ。今の状況では俺たちには一人でも多くの能力者が必要だからな。それにいずれ君たちの時代に行くことになると言うのならばなおさらだろう」
「それを聞いて安心しました。彼女は少し粗忽なところもありますが、努力家なのは俺が保障します。そしていずれは俺たちの時代にはなくてはならない人物になります」
「ああ、まかせてくれ。これが歴史の必然ということならば、俺が協力しないわけにはいかないからな」
「どうか彼女をよろしくお願いします」
朝比奈さん、どうかがんばって生きてください。この人があなたを向かえに行く日まで。

これで何度目になるだろうか。俺は高校一年の頃の時代に飛び、機関作成の北高名簿を調べた。
二年の朝比奈さんがいたクラス。
果たして、朝比奈みくるの名が登場していた。それはひと目で解る。何しろ目立つ名前だった。
長かった。これでようやく未来人関係の既定事項が全て満たされたはずだ。
機関の中では、朝比奈みくるが存在することは既に当然の事実ととなっていた。歴史は見事に上書きされている。
つまり、それまでいた未来人の存在は既に皆の記憶からばっさりと消去され、機関の全ての資料は未来人朝比奈みくるの名前が取って代わっていた。
『無矛盾な公理的集合論は自己そのものの無矛盾性を証明することができない』
そうさ。それがキングであろうがクイーンであろうが、駒を隠したり入れ替えたりした事実を誰にも悟られない限り、そこには何の矛盾もないのだ。
俺は森さんに、それとなく朝比奈さんのことを聞いてみた。
「我々を撹乱させるために他勢力から送り込まれたエージェントだという推測もありましたが、どうやら正真正銘の未来人のようです」
のっけから不穏な物言いである。
「我々が存在を確認した時点で、彼女は既に一般人からも疑念を抱かれるほど未来人としては迂闊な言動をしていたようです。しかも本人にはどうやらその自覚もないらしいのですが。正直なところ、彼女を我々の時代に送り込んだ未来人の意図が測りかねます」
俺はそれを聞いて確信した。散々な言われようだが、あの朝比奈さんをこれほど的確に表現した言葉もないだろう。つまり、ようやく俺の知る朝比奈さんがこの時代にやってきたということだ。
そして、彼女がこの時代に来た原因は、俺が未来人組織のあの男性に朝比奈さんの存在を伝えたからに違いなかった。

しかしながら、未だに機関の資料に長門有希の名は現れていなかった。
朝倉も喜緑さんもいるっていうのに、なぜ長門は北高に来ない?
まだ足りないことがあるのか?
高校生の俺が長門に会っていないことが原因なのだろうか?
だが俺の経験では、あの七夕の日に朝比奈さんとともに長門のマンションに行ったときには、既に長門は北高の制服を着て三年間の待機モードに入っていた。
俺が長門に会うまでもなく、長門が北高に入学してもおかしくはない。
だとしたら、長門が北高に来ないのは、ハルヒの一度目の情報爆発から七夕の間にあるはずの何かが欠けているということだ。
しかし俺はその間に長門に起こった何かを全く知らない。長門は自分の過去を語るなんてことを今まで一度もしたことがなかったからな。
いや、待てよ。
それは違う。
長門は一度だけ、その見えざる内面を俺たちの前に提示したことがあったじゃないか。
決して長門の口からは語られることのなかった、いや語れなかったのかもしれないその心情を、難解な暗喩に満ちた活字に換えて。
そして今、俺の手元にはそれがあった。次元を超えて俺の足元に現れたあの文芸部機関紙が。

俺は書棚からそれを取り出し、あらためて読み返してみた。
高校一年の頃はそれが何を意味するのかはおぼろげにしか解らなかった。だが今ならそのときよりも少しは理解出来る。
無題1、2、3の三部作として書かれた長門の創作小説。これは一部目が過去の長門について書かれていて、二部目が当時の長門、三部目が未来の長門のことなんだ。未来とはつまり二度目の閉鎖空間での出来事を表している。
一部目と三部目に書かれていた幽霊少女とオバケ少女。それは当時の俺の推測どおり、やはり朝比奈さんのことだったのではないか。
つまり朝比奈さんはあの文芸部室での出会いよりも以前に、長門に出会っていたのだ。
そしてそれが長門をハルヒの元へと向かわせるきっかけになったということなのか。

ならば、それは一体いつだ?
長門の原稿にはこう書かれている。
――空から白いものが落ちてきた。たくさんの、小さな、不安定な、水の結晶。これを私の名前としよう――
長門は初めて見る雪に心を動かされ、それを自分の名前としたのだ。
俺の記憶によれば、その年はハルヒの情報爆発の日以来雪は降っていない。
ハルヒの情報爆発の日以前には、例え情報統合思念体であろうと遡ることは出来ない。
ならばあの日情報爆発が起こってから雪が降り止むまでの間のどこかで、長門と朝比奈さんは出会ったに違いない。
では、それはどこだ?
宇宙人と未来人の出会いに相応しい場所。何の確証もないが、俺にはそこしか思い当たる場所はなかった。
長門が住んでいたマンションの近く。駅前のあの公園。
俺は自分の勘に従って、すぐさまその日のその場所に飛んだ。
ハルヒによる一度目の情報爆発の少し前。午後十一時。
二年前の俺は、この五時間ほど前にハルヒとこの公園で奇跡的に出会い、失われた記憶を取り戻した。
この時代に生きる小学生の俺は、三年後に前代未聞にして空前絶後の暴走女と出会い、その七年後にそいつと結婚することになるなど夢にも思わず、今頃別の夢でも見ているのかもしれない。
俺は公園のベンチの監視に適した場所を探した。それは奇しくも長門や朝倉が住むことになるマンションの屋上だった。
しばらくして、ハルヒの時空振動がきた。内臓までもが揺さぶられるような不思議な感覚。だが俺にとってはそれが奇妙に心地よく感じられた。
時空振動が収まったそのとき、双眼鏡越しのベンチの前に突如一人の少女が現れた。
俺の予想が当たっていたことが、誠にあっけなく証明された。
そこには、今まで俺が見たこともない姿の長門が立っていた。当然ながら北高の制服ではなく、例年の合宿限定で身につけていた普段着のどれでもなかった。

体の線が透けて見えるような、白い薄地のワンピース。それが外灯に照らされて不思議な輝きを放っていた。背中に羽根さえあれば、それは間違いなく天使に見えるだろう。まだ名前すらない無垢な天使。衣装と一体化したかのような、純白の顔が微かに見える。表情は読み取れない。
俺は呆然として、魂を抜かれたかのようにその姿に魅入られていた。
長門は身じろぎひとつせず、いつまでもそこに立ち尽くしたままだった。一時間経っても、二時間経ってもずっと同じ姿で。
すぐにでも長門の前に現れて声をかけてやりたい、どれだけそう思ったことか。
だがそうすることは出来なかった。それは俺の役目ではなかった。

俺は再び未来人組織の彼に会いに行った。朝比奈さんの居場所を彼に告げ、組織で引き取ってくれないかと申し出た日の翌日へ。
「すいません、わけあってまた来ました」
「ああ。またいずれ来るとは思っていたよ。用件はなんだい」
「昨日話した女性のことなんですが、もし彼女が俺の時代に来ることになったら、最初にある場所に行って欲しんです。いずれ彼女にそう伝えていただけませんか」
「それは君の時代にとって大切なことなんだな」
「それは実のところ俺にも解りません。ですがそれはおそらく必要なことのはずです」
「解った。こちらにも都合はあるから確約はしかねるが、なるべく君の期待に応えられるよう努力してみるよ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「それで、いつ、どこの時空に彼女を行かせればいいのかな」
そう言って彼は右手を差し出した。これは、俺に指伝えで情報を遅れということか? なんとなく出来そうな気はするが。
時空間座標を念じながら人差し指で触れてみた。
「おいおい、座標データだけでいいんだ。女の子の映像なんていらないぞ。それにしてもずいぶんと可憐な少女だな」
なかなか難しいもんだな。とりあえず座標は伝わったようだったが。
「しかし恐れ入ったな。普通これほど大量のデータを一度に送るなんて、相当訓練を積まないと出来ないことなんだがな」

声を上げて男性は笑った。
「まあ回数を重ねればいずれ慣れるさ。ああそれと、昨日の件だが組織の方には既に話は通しておいた。近いうちに彼女に迎えが行くはずだから安心してくれ」
そこまで言って男性は思いついたように、
「それとも、もう既に君の過去には影響があったのかな?」
「ええ、実はそのとおりです。なんとお礼を言っていいか」
「いや、まだ俺は組織に話をしただけだからな。まあ未来の俺に対する礼として受け取っておくことにするよ」
そう言って愉快そうに顔を綻ばせた。
これがTPDDを持つ者同士特有の会話なんだろうな。俺にはいつまでたっても馴染めそうにはないが。

あの公園で朝比奈さんと長門の間にどういういきさつがあったかは解らない。それは二人だけが知っていればいいことだ。
その結果、長門はようやく北高に現れた。これでSOS団設立時のメンバーが揃ったことになる。
そして高校一年の五月、ゴールデンウィークが明けた翌週。ついに念願のSOS団結成がなされた。

ハルヒを筆頭に、長門と朝比奈さん、そして過去の俺がSOS団に入ったのを確認した俺は、北高への転入指令を下すために高校一年になったばかりの古泉に会った。
「久しぶりだな」
「ご無沙汰しております。最近は本部の方でもお目にかかれませんが」
「ああ、色々と忙しくてな」
これは半分事実で半分嘘だ。俺は確かにここしばらく朝比奈さんの捜索に全力を注いでいたが、古泉と会うのはせいぜい数ヶ月ぶりのことだ。だが古泉からすれば、俺と会うのは二年ぶりくらいにはなる。
俺は話を切り出した。

「涼宮ハルヒに宇宙人と未来人が接触しているのはお前も既に知っていると思うが、是非お前にも北高に潜入して欲しい」
「それは興味深い話ですね。随分と急な話のようにも思えますが」
この頃には既に古泉はすっかり俺の知る古泉になっていた。
「ですが、どうして僕なんです? 北高には既に多くのエージェントが潜入していて、涼宮ハルヒとその周辺の調査も進んでいるはずですが」
「お前が機関の中で最も容易に涼宮ハルヒに近づける能力者だからだ。何しろ同級生だからな」
「なるほど。涼宮さんの内面をより理解することの出来る僕が直接彼女を観察するというのは確かに有効な手段かもしれませんね」
「だがこれは表向きの理由だ。俺はそれ以外の理由でお前が適任だと判断した」
「それはどういうことですか?」
「残念だが詳しい理由は話せない。だがこの任務はお前以外にやれる人物はいない。そしてその理由はいずれお前にも解る」
古泉はこの言葉の意味を転入した日の一限終了直後に知ることになる。いきなりハルヒが古泉のクラスに押しかけるわけだからな。さぞかし驚くことだろう。
「これだけは言っておく。これは機関にとって最も重要な任務だ。言い換えれば機関はこのために存在していると言ってもいい」
「なるほど」
そう言ってしばらく古泉は考える素振りを見せ、
「一つ聞かせてください」
「なんだ?」
「僕はあなたに他のお偉方とは違う何かをずっと感じていました。今まで僕なりにその理由を考えていたのですが、今日それが解った気がします」
古泉のことだ。さすがにここまで言えば俺の秘密には勘付くだろうな。
「あなたはこれから先に起こる未来を知っているのですね」
「ああ、その通りだ」
予想通りの問いかけに、俺は正直に答えた。いずれはこれから北高で出会う過去の俺とこの俺が同一人物だということにも気づくだろう。

「そういうことであれば、あなたが北高に行けと言うのなら、それは多分間違いのないことなんでしょう」
古泉は楽しげな笑みを浮かべた。
「ならばもう一つ聞いてもいいですか」
「俺が答えられることだったらな」
「涼宮ハルヒに接触し、彼女の精神面の安定に寄与している男子生徒のことです。彼は機関の調査では紛れもない一般人だとのことですが、あなたはそれについてどう思いますか」
よりによって、俺のことか。
「そいつは俺にも解らん。俺が知っているのは涼宮ハルヒが何らかの理由でそいつを選んだらしい、ということぐらいだ。もしかしたら隠された能力があるのかもしれんが」
お願いだから、実は俺が異世界人だったなどという、いまさらな展開だけは勘弁願いたい。
「その彼も実に興味深いですね。解りました。この件、是非僕にやらせてください」
すまんが過去の俺をよろしく頼むぞ古泉。俺には必要以上に興味は持ってくれなくてもいいんだがな。

俺は機関の報告書で、古泉の転校によってSOS団が全員集まったことを確認した。このまま行けばおそらく既定事項は全て満たされるはずだ。
後はその確認と歴史の微調整、つまり俺が高校生の俺の行動を肩代わりした歴史を本来の歴史に上書きすれば、ようやく俺はもう一度ハルヒ復活のチャンスを得られるのだ。
そして、もう一度卒業式の長門に会い、作戦を練り直し、第二の情報爆発のあの日に向えばいい。
あの老人を打ち破ることが出来るのかどうかは解らないが、朝比奈さんの言う未来を信じるならば、きっと何か策はあるはずだ。
これでようやく一段落ついたと感じていた。老人によって歴史が改変されてからおよそ二年を費やした。その努力がようやく結実しようとしている。
俺はさらに四日後に飛び、古泉が過去の俺に正体を明かしたことを確認した。間違いなく俺の知る歴史どおりに物事は進んでいる。
機関の報告書を読みながら、俺はこの頃に起こった出来事を振り返っていた。
高校生の俺は今頃、長門による叡智に満ちた宇宙規模的電波話に呆れ、朝比奈さんによる悲哀に満ちた超時空的告白に混乱し、古泉による妄想に満ちた神話的物語に辟易しているはずだ。たった数日間で、俺がそれまで把握していた世界の枠組みは、その姿を大きく変容させたのだった。
そして俺はさらにこの先の数日間で、朝倉に襲われ、朝比奈さん(大)に出会い、ハルヒに心情を告げられ、古泉に招待された閉鎖空間で神人を目の当たりにし、ハルヒによる新世界に閉じ込められることになる。
これはなかなかのハードスケジュールだぞ。がんばってくれよ、高校生の俺。
俺はふと思い出した。そう言えば今日この日の放課後、ハルヒは部室に姿を現さず、反省会と称して一人で市内探索をやってるんだっけか。
俺はなんとなくそんなハルヒを見てみたい気分になった。俺の知らないところでハルヒはどんな風に過ごしていたんだろうと。
今思えば、SOS団がようやく誕生したことで、俺はすっかり安心しきっていた。
そして、そこに油断があった。