翌日、俺は学校へ行けなかった。
制服を着込み、玄関の前までは行くのだが、その後の一歩がどうしても踏み出せない。
そして結局休むことになってしまったわけだ。母親や妹に対しては適当な仮病を使って誤魔化した。

どうして学校へ行かないかって?
そりゃハルヒに会わせる顔がないからだ。
アイツの殆ど告白とも言えるような心情の吐露に、俺は応えることが出来なかった。
それどころか、俺がヘタレな答えしか出せないばっかりに、アイツの気持ちを踏み躙ってしまった。
そんな俺が今更どのツラ下げてハルヒに会えばいいっていうんだ?
それに長門や朝比奈さんや古泉にも会わせる顔もない。
こうして学校に行かないことなんて、一種の逃げ道でしかなく、
いつまでもこうしているわけにはいかないということもわかっていた。
それでも俺は・・・外に出ることが出来なかった。

――昼過ぎ、俺のケータイがけたたましく鳴る。
正直出る気はなかったが、余りにも長いこと鳴っているものだから、
俺は不覚にも通話ボタンを押してしまっていた。

「もしもし・・・」
『ああ、やっと出てくれましたね』
着信の主は古泉だった。
『あなたが学校に来ていないようなので、心配だったんですよ。
 一体どうしたんです?』


俺は昨夜の出来事の一部始終を、そしてハルヒの気持ちを踏み躙ってしまったことを、
そしてそんなハルヒに会わせる顔がないということを、一気に古泉に伝えた。
『・・・・・・』
古泉はしばらく何も言わず、俺の話を聞いていた。
しかし、一区切りすると、真剣な口調で話し始めた。

『実はですね、涼宮さんも今日は学校に来ていないんですよ』
それも・・・多少は予想していた。
『昨夜の出来事が原因・・・なんでしょうね。
 おかげで昨夜からひっきりなしに閉鎖空間が発生しています。
 僕もその対応に忙しくて学校に行っている暇なんてありません。
 今回は・・・相当に切迫した状況です。機関の上層部も大わらわですよ』
古泉の口調はどこか冷たかった。
『ちなみに長門さんも朝比奈さんも来ていません。
 2人の所属する組織の方も今回の事態の対応に追われているようですね』

ハルヒのせいで、更に元を正せば俺のせいで、かなりヤバイ状況になっていることは理解出来た。
しかし、俺に今更何が出来るっていうんだ?ハルヒを傷つけちまった、この俺に。
そんな思いが俺のアタマの中に渦巻いていた。そのせいか、古泉に対しても何の返答も出来ないでいた。

互いにしばらくの沈黙の後、古泉が静かに言い放った。
『今のあなたは・・・情けないです』
そんな一言が俺にダメ押しを食らわせた。


『確かに今回の状況は過去に例を見ないほど切迫しています。
 世界崩壊の危機と言っても過言ではありません。
 そして・・・あなたの気持ちが揺れるのも無理はないでしょう。
 しかし、あなたはどんな状況でも・・・逃げることはしない、そう思っていましたが・・・』
その一言一句が俺の胸を深く突き刺す。
『今のあなたは・・・自分の気持ちから逃げているだけです』
きっぱりと言い切る古泉。俺は何も言い返せなかった。
古泉の言うことが、その通りだと自分でもわかっていたからこそ。

『どうか・・・失望させないでください』
そんな言葉だけを残し、電話は切れた。

それから更に数日、俺は部屋に引きこもり続けた。
そんな俺を母親や妹も本気で心配し始めた。
あれ以降古泉からの連絡はない。勿論長門や朝比奈さんも同様だ。
ハルヒの精神状態が、そしてそれに伴う世界崩壊の危機という状況が、
こうしている間にもどんどん進んでいるのかもしれない。
しかしそれでも俺は何をすることも出来ない・・・。
『逃げているだけ・・・』か。まさにその通りかもしれない。
俺にはハルヒもねーちゃんも選べない。どっちを幸せにすることも出来ない・・・。

大体古泉も古泉だ。『失望させないでください』だと?
元々俺はそこまで大層な人間じゃない。
宇宙人でも未来人でも超能力者でも、そして世界の『神』なんかでもない。
ちっぽけでよわっちい、ただの一般人なんだ・・・。


俺の思考はネガティブを極めた。このままだと廃人への道まっしぐらだったかもしれない。
そんな俺を救ったのは一通のメールだった。
古泉からの電話があって以来、俺の携帯には何件かの着信とメールがあったが、その全てを俺は無視していた。
ただ何故だろう。その日その時に限って、着信したその1通のメールを開ける気になったのは。
メールの主は・・・ねーちゃんだった。

『キョン君・・・最近連絡もないし電話しても出ないしメールも返してくれないし、
 しかも「もう会わないほうがいい」って・・・。
 一体どうしたの?この前ハルヒちゃんと何かあったの?
 もし良かったら・・・私に話を聞かせてくれないかな?』

そのメールを見た瞬間、ねーちゃんの顔が浮かんだ。
俺はハルヒを傷つけてしまった。もう昔のような関係には戻れないかもしれない。
それどころかこの世界が明日にもなくなってしまうかもしれない。
そう考えると――急にハルヒに、そしてあのSOS団に関わる何もかもが、
スーッと水が引くように、どうでもいい気持ちになってしまった。

無意識の内に、俺は玄関に向かっていた。
今更どこに行こうというのか、それは俺にも・・・わからない。
・・・。

『ピンポーン』
チャイムを鳴らす。正確な部屋の番号は知らなかったが、表札に出ている苗字を見る限り、ココで間違いない。
カチャリと小さな音をたて、開かれるドア――

「どちらさまで・・・ってキョン君!?」
現れたのはねーちゃんだった。
そう、俺は無意識の内にねーちゃんのマンションへやってきてしまっていた。
しばらく会わないって言ったのにもかかわらず、な。


「はい、キョン君。熱いから気をつけてね」
目の前にはねーちゃんの淹れてくれたホットコーヒーが湯気を立てている。


ねーちゃんの部屋はキッチン付の8畳ワンルーム。
よく整理されたキレイな部屋だった。
俺は今、そんなねーちゃんの部屋のベッドに腰掛けている。

「ホントに心配したんだよ?学校にも行っていないっていうし・・・」
「・・・!どうしてそのことを?」
「昨日ね、ばったり有希ちゃんに会ったのよ。それでキョン君のことを聞いて・・・」
長門か。あいつも今はハルヒがもたらすやもしれぬ世界崩壊の対応に追われていることだろう・・・。

「やっぱりこの前、ハルヒちゃんと何かあったのね?」
ここまできたら話してしまうしかないだろう・・・。
ハルヒに対する冒涜になるかもしれないという思いもあったが、
それよりも誰かに自分の思いを吐露したいという気持ちの方が強かった。

そして俺はあの夜のハルヒとのやり取りを、そしてこの数日の苦悩を洗いざらい吐き出した。
勿論、閉鎖空間云々の話は省いてな。
そしてあの夜の話をするということは、
イコール俺が今ねーちゃんに抱いている気持ちを告白せねばならないということだ。
コレは非常に勇気がいる。しかしもう躊躇ってもいられない。

「俺はねーちゃんのことが・・・好きでした。俺の初恋の人です」

ああ、とうとう言ってしまった。
ねーちゃんは一瞬目を見開き、俺の告白に驚いたような顔を見せたが、
すぐに表情を戻し、俺の話を黙ったまま聞いてくれた。


「最初に意識したのは・・・小学生の頃です。
 いつも家に行くたびにねーちゃん、俺の面倒見てくれましたよね。
 一緒に公園とかで遊んでくれたりして・・・。
 ねーちゃんは元気で、明るくて、優しくて、そんでもってキレイで・・・、
 いつのまにか俺の憧れの人になってました・・・」
ひとつひとつ、自分の過去の思い出をなぞるように話す俺。

「自分でもその時は意識してなかったけど・・・あれは間違いなく俺の初恋でした。
 だからこそ、ねーちゃんが・・・」
俺はその先の言葉をつぐんだ。言っていいものかどうかを迷ったからだ。
しかし俺は迷いを断ち切り、言葉を発した。
「駆け落ちしたって聞いたときは・・・本当にショックでした。
 多分ねーちゃんのことを好きだったんだって気付いたのは多分その時です」
『駆け落ち』という言葉を聞いた瞬間、やはりと言うべきかねーちゃんの顔は曇った。
しかし、だからといってここで止めるわけにはいかない。

「元々俺とねーちゃんは年も離れてたし・・・俺はまだガキだったし・・・
 こんな恋叶いやしないことはわかってました。
 だからそれからはなるべく自分を納得させるよう、ねーちゃんのことを忘れようとしてきました。
 そうして・・・ついこの前までは完全に未練は断ち切った、と思ってたんです」
そうついこの前までは・・・ねーちゃんのことは忘れた、と思っていた。
「でも・・・こうしてねーちゃんとまさかの再会をして・・・デート紛いのことまでして・・・
 ねーちゃんの辛い思いを知って・・・俺の気持ちはこれでもかってくらい掻き乱されました」
俺の語りは止まらない。ここまで饒舌になるのも・・・久し振りだ。


「そして昨日ハルヒに言われました。『あのお姉さんのこと好きなんでしょ!!』って・・・。
 その言葉を聞いて・・・1人になってまた考えて・・・それで俺は・・・」
この先の言葉を果たして言ってしまっていいのだろうか?
ねーちゃんは俺をどう思うのか?拒絶されてしまうのではないか?
そんなネガティブな思いが頭をよぎる。
しかし、俺は意を決してその先の言葉を発した。

「俺は・・・ねーちゃんのこと・・・今でも好きなのかもしれません」

この期に及んで「かもしれません」なんて曖昧なことを言っている俺を、
普通の神経を持つ人間なら、究極のヘタレか優柔不断とでも思うかもしれない。
しかし、これは本心だ。偽ることなど出来ない本心なのだ。
そしてこの機会を活かして、自分のモヤモヤした気持ちに決着をつけたい、俺はそう思った。

俺の告白は終わった。激しい脱力感が俺を襲う。体中の骨が無くなってしまったかのようだ。
そんな俺の告白を聞き、ねーちゃんは戸惑いの表情を浮かべる。
正直言って、暗そうな顔だ。
俺は・・・拒絶されてしまうのだろうか。
そんなことを考えていると、ねーちゃんはゆっくりと口を開いた。

「キョン君が昔私のことを・・・そういう目で見てくれていたのは知ってたよ・・・」
何と。衝撃のカミングアウトである。ガキの頃の俺の淡い恋心はねーちゃんにはお見通しだったらしい。
「だから・・・5年前実家を出て行ったとき・・・少し心も痛んだ。
 でもキョン君も子供だったし・・・きっとこの先大きくなってステキな彼女を見つけるんじゃないかって、
 そう思ってた・・・」
ねーちゃんは俯きながらも、ポツポツと語る。その一言一言が俺の鼓膜に反響する。


「でも私が・・・こういう形で別れて・・・逃げ出してきて・・・何もかも失って、
 もうきっとあの頃には戻れない。キョン君にも二度と会うことは無いって思ってた。
 何もかも変わってしまうんだって、そう思ってた」
感極まっているのだろうか、ねーちゃんの目が潤み始めた。

「でも違った・・・。キョン君は変わってなかった・・・。優しくて、やんちゃで、
 ヘンに理屈っぽいけど笑うと凄くカワイイ、昔のキョン君のままだった。
 そして、5年ぶりにあった私を・・・。こんな形で逃げ帰ってきて、何もかも失って、
 変わってしまった私を、受け入れてくれた・・・」
「ねーちゃんも・・・変わってなんかいませんよ・・・」
「ううん、変わっちゃったよ・・・」
「っ!!そんなこと・・・ない!!ねーちゃんは・・・5年ぶりにあったねーちゃんは・・・
 元気で、明るくて、優しくて、そんでもってキレイで・・・
 俺が憧れたねーちゃんと何も変わってなんかない!!」
思わず叫んでしまった俺。こうしてガキの頃の口調に戻るのも2度目だ。

「だからこそ・・・こうして・・・今でも俺の気持ちは・・・」
そこまで言うと俺は不意に、柔かい感触を感じていた。
ねーちゃんが俺に抱きついてきたのだ。
腕は腰にしっかり回され、身体は完全に俺に密着している。
頭越しに見えるポニーテールの尻尾が揺れている。
そして何よりも・・・この柔かい感触はヤバイ。

「・・・ヒック・・・ヒック・・・」
ねーちゃんは泣いている。
それを認識した瞬間、柔かい感触に沸騰しかけた俺のアタマは落ち着きを取り戻した。


「ずっと・・・ずっと寂しかったの・・・
 前の彼と別れてから・・・ずっと独りで孤独で・・・
 家に帰ってきても誰もいなくて・・・夜も独りで・・・
 不安で切なくて・・・ずっと寂しかった」
涙声で堰を切ったように思いを吐き出すねーちゃん。
その顔は俺の胸にうずめたままだ。

「もうこのままずっと独りで生きていくのかなって・・・そう思ってた・・・。
 でもそんな時にキョン君が現れて・・・昔と変わらないキョン君が現れて・・・
 昔と同じように私に優しくしてくれて・・・本当に嬉しかった・・・」
俺はねーちゃんを今すぐにでも抱きしめてあげたい衝動に襲われた。
それ位に今俺の胸にうずくまり泣いている女性は――弱く、儚く、壊れやすい、
そんな風に思えた。
それでも抱きしめるのにはまだ少しの戸惑いがあった。
しかしそんな俺の残り僅かの理性すらも吹き飛ばしてしまうような一言が、
ねーちゃんの小さくてキレイな唇から、発せられた。


「もしキョン君がいいって言うのなら・・・こんな私でよければ・・・」
破壊力満点のその一言。俺はもう完全にイカレちまいそうになっている。

そしてねーちゃんは俺の胸から顔を離し、涙に潤んだ瞳で俺を見上げると――
目を瞑り――
その形の良い唇を――
俺に向けて、ゆっくりと近づけてきた。


コ、コレは・・・!?
所謂『キスのおねだり』ってヤツだよな?
そんないつものような冷静なツッコミを心の中でしている余裕も俺にはなかった。

俺も無意識の内に目を瞑り――
まるで吸い寄せられるかのように――
ねーちゃんの唇へと自分の唇を近づけ――

ジジジジジジジジジジジジジ――――!!!!

今にも唇が触れ合わんかというその時、俺の頭の中を言いようのないノイズが駆け巡った。
目の前がチカチカする。耳の中はキンキンと鳴り響く。

そして――
その時脳裏に浮かんだ映像は――
1年前――
あの閉鎖空間で――
キスを交わした時の――
ある女の子の顔――

ジジジジジジジジジジジジジ――――!!!!

そして――
その女の子の名は――

ジジジジジジジジジジジジジ――――!!!!

「ハルヒ・・・・・・?」


「うわっ!!」
俺はいつの間にか目を見開き、密着していたねーちゃんを押し返してしまっていた。
俺は今誰の名前を口に出した?自分でもわからない。
それにあの変なノイズは一体・・・。


「キョン君・・・」
ねーちゃんが呟く。
いかん!ねーちゃんは・・・。
と、ねーちゃんは涙を一杯溜めた瞳で、俺のことを複雑そうに見つめていた。

やっちまった・・・。こんな雰囲気をぶっ壊すようなワケのわからないことをしてしまうなんて・・・。
幻滅されただろうか・・・。
と、己の不手際に後悔を感じていると、
「キョン君・・・今誰のことを考えていた?」
誰のこと・・・か。誰かの名前を口にした記憶はあるのだが・・・。
肝心のその誰かが把握できない。
そんな要領を得ない俺にねーちゃんは更に語りかける。

「キョン君、自分で気付いてない?今ハルヒちゃんの名前を口にしたことに・・・」
え?ハルヒの名前を?俺が?
更に混乱する俺。
「確かに『ハルヒ・・・・・・?』って、キョン君そう言ったように聞こえたよ?」
そう言ってねーちゃんは目を伏せた。
何故俺がハルヒの名を?俺はハルヒをこっぴどく傷つけてしまったんだ。
今更アイツに対してどんな感情を・・・。
そんな戸惑う俺を更に驚愕させたのはねーちゃんの次の一言だ。


「あーあ、やっぱりキョン君ってハルヒちゃんが好きだったんだね」
悩む俺を尻目に、明るい声でそう言い放つねーちゃん、
「え、ええっ!?ちょ・・・俺がハルヒを・・・?」
狼狽する俺を見て、「ふふっ」と意地悪そうな笑みを浮かべる。


「実は・・・薄々感じてたんだ。ほら、私学校の帰り道のキョン君達とあった時あるでしょ?
 あの時、凄くハルヒちゃん不機嫌そうだった。
 もしかしてこの子はキョン君のことを好きで・・・ 突然現れた馴れ馴れしい私を、
 面白くないって思ってたんじゃないかって。まあその時はただの推測だったんだけど」
ねーちゃんはくるりとポニーテールを翻し、俺に背を向け、話を続ける。
「この前の・・・キョン君の話を聞いて、やっぱりそうだったんだなあって確信を持てたの」
この前の話とは、あの夜、ハルヒの心情の吐露に俺が応えられなかった、
あの街外れの公園での出来事に違いない。
「それに対してキョン君の気持ちはどうなんだろう・・・って思ってたけど、
 さっきの一言が決め手だよねっ!キョン君もきっとハルヒちゃんのこと・・・」


俺は混乱していたが、このままではねーちゃんの思考が暴走したままになってしまう。
何とか反論を試みる。
「決め手って・・・何がですか?」
「本当にわからないの?そんな男女の機微を理解できないようじゃキョン君もまだまだかな?」
ねーちゃんはちょっとムスッとしたような声で俺をたしなめる。
「キスの寸前に無意識の内に違う女の子の名前呟いちゃうなんて、よっぽどその子に未練があるか、
 大切にしている、その証拠でしょ?」
『キス』という単語を聞いた瞬間、心拍数が跳ね上がった。
ねーちゃんの形の良い唇が近づいてくる様が思い浮かべられる・・・。


「あ、あれは・・・!何というか・・・場の流れというか・・・」
しどろもどろの俺。
そんな俺に対し、ねーちゃんはまるで「コレが大人の女の余裕よ」とでも言わんばかりに優しく凛とした声で、

「キョン君もさっ、そろそろ自分の気持ちに素直になろうよっ!
 ハルヒちゃんのこと好きなんでしょ?」

俺の耳の奥に反復するその言葉。

ジジジジジジジジジジジジジ――――!!!!

そしてあの謎のノイズと共に脳裏に浮かぶのは――

元気で――
いつも明るくて――
傍若無人で――
メチャクチャで――
ワガママで――
ヒステリックで――
それでもいつも俺のそばにいて――
これからもずっとそばにいるはずで――
むしろそばにいて欲しいと思う――

そんな――ハルヒの笑顔

「俺は・・・・ハルヒのことが・・・好き・・・」



その呟きは、もし街の雑踏の中であれば絶対に誰に聞こえることもなく、
流れる人ごみの作り出すノイズに容易くかき消されてしまう、そんな小さな呟き。
しかしこの8畳の部屋では、どんなにけたたましいサイレンの音よりも、
その呟きは確固たる輪郭を持って、辺りに響き渡る。

俺は自分の言った言葉を今度こそしっかり認識していた。
今まで乱気流と厚い雨雲の中に迷い込んだ旅客機のように先が見えなかった俺の心に
一筋の光明が差したと思うと、目の前がパッと開け、明るくなった、そんな感覚がした。

今、俺は自分の迷いを断ち切ったのだ。

「うんうんっ!やっと素直になったね!良い心がけだよ!
 さすがキョン君!私が見込んだだけの男の子なだけあるね!」
俺に賞賛の言葉を浴びせるねーちゃん。

でも、そんな明るい口調のねーちゃんが――
その実、涙を流している――
頬につたう一筋の寂しい粒と――
徐々に上ずるその声が――
俺に否応なくその事実を告げていた。

「ホントにっ・・・よかったよ・・・
 キョン君が・・・自分の気持ちに・・・気付いて・・・
 ホントに・・・ホントに・・・」

それ以上は言葉にならなかった。
背を向けるねーちゃんは、間違いなく泣いていた。


「ねーちゃん、俺・・・」
そんなねーちゃんを見て、俺はいたたまれない気持ちを抑えきれるわけがない。
ねーちゃんの肩に右手を乗せようとする――

「ダメだよ・・・」
ビクッ!!手を止める俺。
「私に触れちゃダメ・・・キョン君はハルヒちゃんのところに行ってあげなきゃ・・・」
「でも・・・」

「キョン君は今この瞬間、『初恋』を断ち切ったのよ」

そう言い切って振り向くねーちゃん。
その瞳から流れるのは、水なんかじゃなくてもっともっと寂しい粒――。


「ねーちゃんは強いな」
俺は溢れるその粒を拭おうともしないねーちゃんに、語りかける。
「やっぱりねーちゃんは、どこまでいっても俺の憧れだ」
それは本心だった。ここまで壊れやすい、脆い心を抱えながらも、
俺の背中を必死に押そうとしてくれるねーちゃん。
そんなこの人を『強い』と形容する以外に、適当な言葉なんか見つかりゃしない。

「そんな・・・そんなことないよ・・・。
 だって私、本気でキョン君にキスをしようと思ってた・・・。間違いなく本気だった・・・。
 寂しくて・・・寂しくて・・・キョン君ならきっと・・・この寂しさを埋めてくれるんじゃないかって思ってた・・・。
 私はキョン君の『初恋』の人だから・・・きっとキョン君も受け入れてくれるなんて考えてた・・・。
 そんな・・・そんな汚いことを考えていたんだよ?」


「関係ないよ」
俺はねーちゃんの目を見据え、きっぱりと言い放つ。
「そんなのは関係ない。
 ねーちゃんがいなきゃ・・・ねーちゃんの後押しなかったら・・・
 俺はとっくにダメになっていた。ハルヒもねーちゃんも傷つけたまま・・・
 逃げたまんまのそんなヘタレ男になってたよ」 
そして今頃は自閉症のヒキコモリとして一生自分の殻に閉じこもったままだったろう。
ある意味コレこそ本当の『閉鎖空間』だな。シャレにならないが・・・。


「そんな俺を導いてくれたのは最終的にはやっぱりねーちゃんだった。
 昔からずっとそうだよ。いつも俺の先を行って、ポニーテールをなびかせながら、
 明るく元気に、いっつも笑顔で、優しく俺を導いてくれる。
 そんなねーちゃんを・・・好きになったんだ」


そして、俺はねーちゃんに向け、渾身の気持ちをぶつける。


「だからねーちゃんは――これからもずーっと――俺の『初恋』の人だ」


今の俺の顔はきっと満面の笑みだろう。
こんな恥ずかしい台詞を言うんだ。もうヤケクソってモノさ。
コレでまじめ腐った顔をしているようじゃホントに自分で自分がイヤになるだろうね。


そしてそんな俺の台詞を聞いたねーちゃんは――
ビクッとその小さな肩を震わせたかと思うと――
今まで溜まりに溜まった感情を爆発させるかのように――
俺に抱きつき――
声を上げて泣いた――。


どのくらいの間そうしていたのであろうか。
しーんと静まり返った部屋に響くのはねーちゃんの嗚咽。
俺はそれを真っ向から受け止めた。
『初恋』の人が泣いているんだ。
男ならばその涙を全部すくい取ってあげるくらいじゃないと、な。

しばらくして嗚咽は止んだ。
顔を上げるねーちゃん。目は真っ赤に腫れている。ウサギみたいだ。


「ありがとう・・・ホントにありがとうキョン君・・・」
そう小さく呟くとねーちゃんは落ち着きを取り戻した。
そして小さく「よしっ」と呟くと、真剣な眼差しで俺を見つめ、
「さあ、キョン君・・・。
 あなたを待っているハズの大切な人のところへ、行ってあげて・・・。
 じゃなくて・・・行ってあげなさい!
 これはおねーちゃんの命令よ!従う以外の選択肢は認められていないわ!」
と、いつもの元気さを取り戻し、言い放つ。
どうでもいいけどねーちゃん、その言い方なんだかハルヒみたいです・・・。


俺はひとつうなずくと、身を翻し、玄関へと向かった。


さあ――『初恋』の決着はつけたぜ。


残るべきは――今現在、俺の目の前にぶら下がっている『恋心』の決着だけだ。


待っていろよ――ハルヒ。



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