第二章 cruel girl’s beauty



――age 16

俺を待っていたであろう日常は、四月の第三月曜日をもって、妙な角度から崩れ始めた。
その日は、憂鬱な日だった。
朝目覚めると、すでに予定の時刻を過ぎ、遅刻は確定していたので、わざとゆっくりと学校へ向かうことにした。週明けの倦怠感がそうさせたのかもしれない。風は吹いていないものの、強い雨の降る日だった。ビニール傘をさし、粒の大きい雨を遮った。昨晩からの雨なのか、地面はすでに薄暗いトーンを保っており、小さな水溜りからはねる水が俺のズボンの裾を濡らした。急な上り坂は水を下にある街へと流し、留まるのを拒んだ。
学校に着いたのは一時間目が終わった休憩時間だった。雨で蒸しかえる教室はクラスメイトで満たされ、久しぶりの雨音は教室を静穏で覆った。俺の席――窓際の後ろから一つ前だ――の後ろを見た。ハルヒは窓ガラスの外側を眺め、左手をぴたりとガラスにくっつけていた。進級したことで、階が一つ下がり、窓からの景色は変わった。外ではグラウンドが水浸しになり、小さな川を作っていた。

一年前のあの日。
俺がハルヒと会ってそう経っていなかった頃、ハルヒの表情は怒りで満たされていた。無矛盾な世界への怒りなのか、自分自身への怒りなのかは分からない。だが、SOS団の活動を通して、ハルヒは少しずつ感情を取り戻していった。取り戻すというのは、ハルヒが持っていたであろう――抑えていたであろう――感情を開放していったというのが正しいだろう。
俺がハルヒと会ってからずっと引っかかっていたのは、ハルヒがなぜ普通の人間を嫌うのだろう、ということだ。一般人を代表したような俺は谷口や国木田とそう変わるところはあるまい。国木田より頭は悪いし、谷口みたいにバカ丸出しでもない。健全な高校生を演じていた俺になぜあいつは目をつけたのか。確かに俺は七夕に一度会っている。だが、俺の名前は知らないし、他人の空似程度にしか思っていないだろうよ。ではなぜ?
おそらくそれはハルヒにしか知りえないことであった。しかし、一つの推測を述べたい。ハルヒは普通の人間を嫌っているのではなく、人と仲良くなることを避けているように見えるということだ。
今、ハルヒは陰鬱な表情であやふやな視線を泳がせていた。

椅子に座ると、ハルヒに倣い、窓の外を眺めることにした。雨は激しさを増し、窓ガラスに伝わる水滴が水へと変わった。特別変わったことはない。世界の普通さに慣れ、そしてSOS団にも慣れた。日常と非日常を繰り返す毎日が日常になってしまった。かつて望んでいた非日常が日常へと変わってしまっていた。あまりにも奇妙なことがありすぎてそれに慣れてしまったわけだ。
そんな憂鬱な世界とハルヒ、そして俺を崩していったのは谷口の一言だった。
そうそれは、本当に妙な角度からの一撃だった。

谷口は近づいてくるなり、いつものデカイ声を倍にして唾を飛ばしながらこう言った。
「おい、長門有希が転校したってよ」
「へ?」
俺は間抜けな声を漏らした。
「本当だよ。さっき六組のやつが言ってたぞ」
谷口は語気を強めていった。
ガタンという音ともに後ろに座っていたハルヒが立ち上がった。
「谷口! 本当なのそれ? 嘘だったらただじゃおかないわよ!」
ハルヒは谷口のネクタイをもの凄い勢いで引っ張りながた怒鳴った。
「そんなに怒るなって。言ったことは本当だよ」
「ちょっと、キョン!」
なんだ。
「隣のクラスに確認に行くわよ!」
ハルヒはネクタイが引きちぎれそうな勢いで俺を連行した。
長門が転校したって? どうして? 俺にはそんな事一つも言ってなかったぞ。ハルヒもこの様子じゃ何も知らされてないみたいだな。
ハルヒは隣のクラスに入るやいなや壇上に上がり、
「有希が転校したって本当なの?」
ハルヒはクラス全員に向かって大声で尋ねた。
「本当ですよ。朝、ホームルームで先生が言ってましたし」
近くにいた大人しそうな女生徒がおずおずと言った。
「そう」
ハルヒは礼も言わず教室を飛び出した。ネクタイを引っ張られたまま俺も飛び出した。こりゃ傍から見たら犬と飼い主だろうな。かっこ悪いぞ俺。
教室から出るなり、俺と向かい合うと、
「職員室に行くわよ!」
「とりあえずネクタイから手を離してくれ。大丈夫逃げたりしないから。長門のことだしな」
ハルヒはネクタイを思い切り下に引っ張って、手を離した。そして、職員室のあるほうへ一人で走っていった。締まる簡素なネクタイに苦しめられながら、俺は必死にハルヒを追いかけた。

俺とハルヒは教室に戻り、ドカッと自席に座った。
結果は同じだった。俺が遅れて職員室に入ると、ハルヒは教師を馬鹿でかい声で問い詰めていた。教師は住宅街を歩いていたら突然犬に吠えられたような驚きと疑問を顔に浮かべながら、ハルヒをいなそうと必死だった。ハルヒハ教師が長門の転校の理由が分からないと見るや、「役に立たないわね! 無駄に年食ってるんじゃないわよ!」それを捨て台詞に職員室を出て行った。職員室の入り口から事の成り行きを見守っていた俺を無視してハルヒは階段を登っていくので、俺は仕方なくハルヒを追いかけることにした。
俺はおそらく長門がどこに行ったかなんて分からないだろうと踏んでいた。しかし朝倉の時とは違い、行き先も不明だった。確かに行き先を教えたらハルヒはそこまで会いに行くだろうからこれでいいんだろうな。俺だってカナダにいると分かれば、泳いででも行くつもりだったさ。
打つ手はない。おそらく長門のことだろうから、情報操作をしているはずだ。しかし、なぜ?
「なあ、ハルヒ。なんで長門は転校したんだと思う?」
俺が振り返り尋ねてみるとと、ハルヒはバンっと机を叩き、
「分かるわけないでしょ! なんで有希は言わないのよ!あたしたちってその程度の仲だったの?」
「そんなことはないだろ。何かしらの理由があるんだろ」「キョンもよく落ち着いてられるわね! 何かしらの理由って何よ!」
ハルヒはヒステリックな声を張り上げた。
「それは俺にも分からん。放課後、朝比奈さんや古泉にも聞いてみよう。なにか分かるかもしれない」
ハルヒは何も答えなかった。そのまま崩れるように椅子に座り込んだ。そして、聞き取れないほど小さな声で「もう失うのはいやなの」と呟いた。そしてハルヒは机に突っ伏したまま放課後まで起きることはなかった。
授業はいつにもまして、手がつかなかった。もんもんと長門のことを考え、窓の外を見ていた。上の空というのをこれほど実感したことはない。昼食を一人で済ませ、あてもなく学校をうろついた。そうでもしないと落ち着いていられなかったし、どこかに長門が隠れているかもしれなかった。無意識に歩いたのに、行き着く場所は一つだった。
部室棟、通称旧館の文芸部部室。
ドアをそっと開け、部室を眺めた。パイプ椅子に腰掛け、分厚いハードカバーをめくり、陶器のように佇む長門有希を期待したが、いるはずがなかった。パーツを失った部室は空回りをしているように見えた。これ以上見ていることはできず、教室へと逃げ帰った。

放課後、部室には長門を除く全員が揃っていた。
今日の古泉は笑ってはいなかった。沈痛な面持ちで、心ここにあらずといった様子だ。なぜこんなありきたりの表現かといえば、意識的な表情に感じられたからだ。葬式の時に笑って手を合わせてはいけないのと同じだ。ハルヒは団長椅子に浅く座り、教室の時と同じように机に突っ伏していた。朝比奈さんは健気にもメイド服に着替え、お茶の準備をしていた。しかし部室内に流れる異様な空気に気づいたのか、朝比奈さんは困惑しているようだ。
「あのぉ、キョン君。みなさんどうなされたんですかぁ?」
朝比奈さんは耐え切れずに俺に小声で尋ねてきた。
古泉は『機関』とやらから情報が流れているだろうが、朝比奈さんは上級生であり、なにも聞かされていないのは明らかだ。俺は静まりかえった部室で、朝比奈さんの質問に答えることにした。
「長門が転校したんですよ。理由もいわずにね」
「ひぇ?」
朝比奈さんは驚きとも悲鳴とも取れない声をあげた。
「な、長門さんがですか?いっ、いったいどうして?」
「それは分かりません」
俺はいい加減に答えた。もう、朝比奈さんのかわいらしさを堪能している余裕はなかった。メイド服を着た朝比奈さんでも無理なら、何がこの動揺を抑えることができるか。俺はひどく追い詰められていた。すぐにでも自分の部屋のベッドに身をうずめ、長門のことを考えたかった。

それからどれだけ時間が経ったのだろうか、突然ハルヒは立ち上がり、俺達を見つめた。
「じっとしてても何も始まらないわ。明日は学校を休んで、有希を探すわよ。まだ、何か手がかりがあるかもしれない。時間はいつもと同じ九時だから」
いつものような勢いは感じられない、淡々とした語り口だった。
「そうだな。マンションとかに行ってみるのもいいかもしれない」
ハルヒはそれだけを言うと、部室から早足で出て行ってしまった。

「古泉」
「なんでしょう」
「お前はなにも知らないんだな?」
「もちろんです。前に約束したように、長門さんには危害を加えることはありません。というより、不可能でしょう」
古泉はいつものハンサムスマイルを見せた。
「じゃあどうして長門は転校、いや長門のことだからおそらくこの世界から消えてしまっているんだろうな。理由は分かるか?」
「分かりません。ただ、長門さんの転校は上が決定したことでしょう。それに長門さんは従った、推測ですが、おそらく正しいでしょう」
「それは分かってる。あいつが命令を聞くのは情報なんとかだけだろうさ。問題はハルヒっていう観察対象がいるのになんで消えちまったかってことだ」
「すいません。分かりません」
古泉は困ったような顔をして、肩をすくめた。
やれやれ、古泉が駄目なら誰に聞けばいい。俺は、なぜ長門が消えなくてはならなかったのか、その理由を知りたかった。理由があっても納得できるかは分からないが、正当な理由以外はハルヒと結託して、この世界を変えたっていい。
「あの、キョン君」
朝比奈さんがおずおずと話しかけてきた。
「ひぇ! そんなに嫌そうな顔しないでくださいぃー」
そんな顔をしてたのか。
「すみません。ちょっと考え事をしてたもんですから」
「いえ、いいんですけど……」
「で、なんですか?」
明らかに俺は苛立っていた。
「いえ、その……」
「何も無いなら帰りますよ?」
「だから、その……」
「帰ります」
「あ、キョン君」
朝比奈さんが呼び止める。だが、俺は朝比奈さんにかまってる余裕は無かった。古泉ともこれ以上話しても無駄だろう。俺は朝比奈さんを無視して帰るという、男としてあるまじきことをした。鞄を肩にかけ、部室を後にした。
帰りには雨はやんでいた。それにかわって、蒸発した水によって街は蒸しかえっていた。
家に着くと、妹がキャンディーを口にくわえながら出迎えてくれたが、無視して階段を上がった。一刻も早くベッドに身をうずめたかった。
部屋に入ると、鞄を投げ、ベッドに飛び込んだ。そして身体を丸め、もがいた。
「どうして長門は消えちまったんだ? せめて俺に一言ぐらい前もって言ってくれたっていいじゃないか」
そう自分に問いかけても虚しくなるだけだったし、俺は長門がなぜ転校したのか、考えることは断念した。しかし何も考えないでいると、長門との思い出がフラッシュバックしてきて、それを断ち切ろうと、また頭を抱えてもがいた。まだ、長門は消えたとは決まってはいない。明日には見つかるかもしれない。ひょっこりと現れたりするかもな。
長門だって風邪を引くんだぜ。長門達と敵対する存在にまた妨害されているだけかもしれない。長門だって週明けの倦怠感がいやになることだってあるだろうさ。そう、俺だって月曜日の朝は憂鬱になるさ。長門だって落ち込んで、ブルーな日だってある。
その日、俺はそのまま、満たされない気分のまま眠りについた。

次の日。
予定より一時間も早く起きると、昨晩から部屋にひきこもりっきりで何も食べていないことを、軽くなりすぎた胃の不快感が告げていた。リビングに行くと妹がすでにソファーでテレビを見ていて、いつもこんなに早く起きているんだなと感心した。
「あ、キョン君おはよぉー。今日は早いんだねぇ」
「まあな。ちょっと用事があって」
母親がトーストと目玉焼きという朝食の定番を持ってきたところで俺は今日学校を休んで出かけることを告げた。男には一生に一度やらなければならない時が来るとどこかで聞くありふれた理由を切々と説明すると、案外素直に了承してくれた。
「ふふっ。そういうことにしておくわ」
どこか含みを持たせた笑みで俺を見る。
「それなら早くご飯食べちゃいなさい」
「ああ」
言われなくても食べるさ。俺は昨日から何も食べてないんだからな。
俺は疑惑の判定で世界チャンピオンになったボクサーよりあっけなく食事を済ませ、自室に行って手早く服を着替えた。ちょうどリビングから出てきた妹と鉢合わせになり、妹は不思議そうな顔で
「いってらっしゃーい」
と言って、俺を見送った。俺は妹の頭を撫でてから玄関を出た。ママチャリをとばし、集合場所の駅前へ向かった。予定より一時間も早かった。

駅前に到着すると、SOS団の面々は揃っていた。
ハルヒの「遅い!罰金!」の定型句はなかった。遅刻はしてないしな。というか、お前ら何時間前に来てんだ。俺はこれでも一時間も早いんだぞ。
「今日はお早いんですね」
いやみか。
「いえ、そういうわけではありませんよ。あなたのことだから長門さんのことを考えていて眠れなくなり、睡眠不足で来るだろうなと思っていただけです」
てことは、それを見越して早く来たってわけか。
「それもありますね。それはそうと涼宮さんを見てください。彼女の精神はとても不安定です」
そんなの見なくても分かるし、あいつはいつも精神不安定だろうよ。
「そして、彼女は今日一番早くこの場所に来ていました。僕が来たのが今から十分前ですから、それより前に来ていたことになりますね。僕の言いたいことがわかりますか?」
分からん。でも、俺は古泉が何を言いたいのか分かっていた。古泉は俺を非難している。
「長門さんがいなくなって悲しいのはあなただけじゃないってことです。昨日あなたは朝比奈さんを無視して帰りましたね? 彼女、あの後一人で泣いていたんですよ? 『わたしキョン君をおこらせちゃったかなぁ? ごめんなさい』って」
「……」
「涼宮さんはきっとあなたと同じで夜も眠れずにここに誰よりも早く来たのでしょう。でも、僕がここに来たとき彼女は不安な顔一つ見せずに『遅いわよ、古泉君』って笑顔で言いました。さすがの僕でも胸が苦しくなりましたね」
「……」
「僕も同じです。僕だってSOS団のメンバーと色々と時間を共有してきましたし、突然長門さんがいなくなるのは悲しいんですよ」
「……」
俺は何も言えずに、ただ呆然と古泉の顔を見つめていた。「キョン達何してんの? ほら喫茶店行くわよ! 班決めしないと」
タイミングよくハルヒが俺達の間に割り込んでくれた。「ああ、行くよ」

俺達はいつもの喫茶店に行った。俺はコーヒーを、ハルヒはアイスティーを頼んだ。
「じゃあ、班分けしちゃいましょうか」
ハルヒは爪楊枝を取り出し、俺達に差し出す。
「んー、キョンとか面白くなさそう」
班分けは俺とハルヒの組、そして古泉と朝比奈さんの組に決まった。アイスティーを飲むハルヒの顔はいつになく真剣だ。古泉が言っていた通り、ハルヒは俺達の中で一番真剣なのかもな。もちろん俺だって真剣さ。あれだけ俺を助けてくれて、信頼までしてくれていた長門を見捨てるわけにはいかないからな。
「じゃあ、行きましょ。時間もないし。それとキョン! 今日遅れたでしょ?」
ハルヒは俺をじとっと睨みつけると、
「罰金。分かってるんでしょうね?」
言わないと思ったら今頃かよ。しかも今日は遅刻してねえよ。と思いながら、呆れながら、不承不承ながらもきっちりと払う俺を褒め称えてくれるやつはおらのんか。神様が見てる? そんなの嘘っぱちだ。

一度駅前に戻り、俺達は二手に別れた。今回は範囲の指定はなかった。別れ際にハルヒは、
「真剣に探すのよ! でないと全裸で市中引き回しの刑だから!」
朝比奈さんに向かって言った。それから俺のほうを向き、
「さあ、いくわよ。キョン。絶対見つけてやるんだから!」
ハルヒはいつになく真面目な顔で言った。
「分かってるよ。今回は俺も本気だ」
俺はハルヒの真面目な様子を見て、若干気にかかることがあった。それは、長門がいなくなることをハルヒは望んでいたのかということだ。そうじゃないのに長門が消えたとなれば、神様であるハルヒはいったい?

俺達はまず、長門の住むマンションに向かうことにした。ハルヒは怒っているのか不安なのか、初めてみる表情でややうつむきながら大股で歩いた。俺も自然と早歩きになっていた。一秒でも早くマンションに着いて、何か手がかりを得たかったからな。
「ねえ、キョン?」
「なんだ、突然」
「あたしあの後、有希がどうして転校しちゃったのか考えてみたのよ」
「何か分かったのか?」
ハルヒに分かるはずはないだろうが、一応聞いてみる。
「まずね、教師も行き先を知らないような転校なんてあると思う?」
「普通に考えてないだろうな」
「そうなのよ。それに有希は転校するなんて素振りを一度も見せたことはないし」
「そうだな」
「続きは後で。有希の家に行ったら何か分かるかもしれないしね」
ハルヒ、すまんがおそらく長門のことだから何も分かんないだろうよ。まあ、俺はそれでも行ってみる価値はあると思うぞ。

長門のマンションは駅から近く、気まずくなる前に到着した。中から出てくる住民を待ち、閉じかけの自動ドアを通り抜け、長門の住む階へ向かった。もちろん、ドアは開かず、鍵がかかっており、仕方が無いので管理室へ向かった。管理人のおっちゃんによると、まだ708号室からの届出は出ておらず、未だに長門名義の家になっているとのことだった。おっちゃんとの会話を終了させ、708号室の鍵を借り、また七階へと向かった。部屋に入ると、そこは変わらずに無機質なものだったが、本やら缶詰カレーやら、その他いろいろなものが残されており、本当に長門は消えたのかと感じさせた。結局何の手がかりも見つからず、その場を後にし、マンションから出た。その間、終始ハルヒは俺に対して無言を通し、俺も同様だった。
俺達はこれ以上に行くあてもなく、意味も無く歩き続けた。ハルヒの大股歩きについていくのは堪えたが、それ以上に立ち止まっているのは苦痛だった。歩いていると長門のことを考えないで済むからな。住宅地をぐるぐると徘徊していると、
「駅前の公園に行きましょ」
ハルヒがそう言ったので、それに従うことにした。
光陽園駅前公園のことだ。延々と長門の電波話を聞かされたあの日の集合場所である。
公園に着くと、誰もいない公園でベンチに並んで座った。
俺の左側にハルヒが座った。なにか思い詰めた表情で、斜め下を見つめていた。覇気のないハルヒはあまりにも不自然だった。
「やっぱりおかしいわ」
ハルヒは話を切り出した。
「何がだ。昨日考えてたってことか?」
「それもある。でも、有希が転校したって何か辻褄が合わないのよね」
「それは、お前の中でのことだろう」
「そうだけど。キョンは有希が転校した理由は分かるの?」
「いや、さっぱりだ。長門はこういう時、探しても見つからない気がする」
「なんなのよ! あんた有希のこと大事にしてたんじゃないの?」
「急に怒鳴るな。確かに長門は大事だが、それは団員いうか一人の友達としてだ。ハルヒが思ってるほど大事に思ってねーよ」
「そう、なの? あんたもっと有希のこと好きなのかと思ってた」
「そういうことにしといてくれ。それより、お前の辻褄が合わないってやつを教えてくれないか?」
「そうね」
ハルヒは少し間を空けてから話し出す。
「まず、さっき有希の部屋に行った時なんであんなに物が残ってるのか不思議に思ったの。普通、転校っていったらも家を移動することでしょ? なのにあの部屋はまだ全てが残ったまま。それに管理人に鍵を預けているわけでもない。こう考えると有希って本当に転校したのか怪しくなってくるわよね」
「確かにそうだな」
「でね、思ったの有希は何か事件に巻き込まれたんじゃないかって」
「巻き込まれたとしても転校はできないんじゃないか?」
「うーん、そうなんだけど。有希って一人暮らしなのよ。それに親もどこにいるか分からない。誰でも偽装できると思うけど。あたしは団員のプライベートについては聞かないほうがいいと思って今まで聞いてこなかったから、有希については詳しくは知らないけど」
「長門については俺も詳しくは知らないな」
もちろん、それは嘘だ。
「事件に巻き込まれてないといいんだけど」
「そうだな」
俺は素直に頷いた。
そのまま俺達は三十分ほどそのまま座り続けた。隣に座るハルヒは甘美な匂いがした。横から眺める真っすぐとした黒髪と、整った目鼻立ちは見慣れているはずの俺を緊張させた。
誰もいない公園は、自らの存在価値を失い、泣いているようにも見えた。俺達がいることで存在の瀬戸際を保っていた。そして、俺達がいなくなることでまた価値を失うのだ。そんななんの変哲も無い哲学を考えていると、ハルヒはまた話しかけてきた。
「ねえ、キョン」
「なんだ」
「あたし、一つ謝らなくちゃいけないことがあるのよ」
「誰にだ」
「あたし自身に、それに探してくれてるSOS団のみんなにも」
「そうか。お前が謝るなんて珍しいな」
「珍しくなんかないわよ! あたしだって悪い時はあやまるわ。ただあたしはあんまり後ろを見ないだけよ。あたし過去って嫌いなの。過去っていいところだけを鮮明に覚えてるから、見てるとずっと過去に浸っていたくなるでしょ。そんなのあたしの性格に合わないわ。だって、未来にはもっと楽しいものがあるかもしれないじゃない」
そうだ。俺はこんなハルヒの未来志向が好きだった。そして、憧れていた。ハルヒは俺には無いものを持っている。が、話がずれてるだろ。話はハルヒが謝ることじゃないのか?
「で、お前の主張は分かったが謝らなければならないこととは何なんだ?」
「うん。あたしね、有希が転校したって聞いたとき、それは驚いたわ。なんで?ってね。でも、一瞬あたしは楽になった気がしたの。そして、そう感じた自分に失望した」
「なんで楽になったんだ?」
「それは言えない。あたしにも分からないの」

俺とハルヒは公園を後にして、駅前に戻った。
すでに、朝比奈さんと古泉はいて、二人でなにかを話し合っていた。

「こちらは何も収穫なしです」

古泉は残念そうに言った。

「そう。あたしとキョンは有希の家に行ってみたんだけど、
誰もいなくて、手がかりなしね。ホント、どこいっちゃったのかしら」

「残念です。それとすみませんが、バイトが入ってしまったので
午後からの捜索には参加できそうにありません」

ハルヒは少し考えた後、

「それじゃあ、仕方ないわね。
どうせもう探すところなんてないから、これで解散でいいわね?」

俺と朝比奈さんにむかって言った。

「しょうがないよな。一度帰って、各自で探す方法を考えてみるか」

「そうですね。わたしもそれがいいと思います」

朝比奈さんは頷いた。

「それじゃあ、解散ね。明日の放課後話し合いましょう」

ハルヒはそれだけ言うと、駅に向かって歩き出した。



「それでは僕はこのあとバイトがあるので」

「バイトって、閉鎖空間か?」

「そうです。この件で涼宮さんの精神状態は悪化していますからね」

「そうか」

俺は朝比奈さんが手を振って帰るのを見送ると、

「頑張れよ」と古泉に言って、帰宅した。



家に着くと、すぐにベッドに横になり、また長門のことを考えた。
なにか手がかりはないのか、必死に求めた。
今まで、長門はどんな時でもヒントを出してくれていた。
根拠は無かったが、今回もあるはずだということを確信していた。
そして、俺は今までの長門との思い出をめくった。

そして気づく。

ははっ、なんだ簡単じゃないか。
昨日は気が動転していて気づかなかった。

俺と長門をつなぐもの。
そう、あの本だ。そしてそれは栞という形をとって俺に伝える。

そう思う前に、俺は駆け出していた。
学校をサボったことを忘れ自転車で、全速力で学校に向かった。

息が切れた。

全速力といっても自転車の最高速度はせいぜい四十キロ。
速く、もっと速く。
ペダルは空転し、それ以上を拒んだ。

学校に着くやいなや、部室棟に向かった。
階段を駆け上がり、勢いよく部室のドアを開けた。
すぐに『あの本』を探した。

――――あった。

素早くページをめくり、栞を探した。
はらりと足元に落ちた、長方形の紙。
それを慌てて拾い上げ、読んだ。

『午後七時。光陽園駅前公園にて待つ』

あの時と同じ、ワープロで印字されたような綺麗な手書きの文字が書いてあった。
俺は栞をポケットに入れると部室を後にした。
そしてそのまま、今日ハルヒと座った、あのベンチへと向かった。
長門を待たせたくなかったからだ。

公園につくと、俺はベンチに座り、辺りを見回した。
公園の時計は三時をさしていたが、それでも遅すぎる気がした。
そのあと俺はじっと長門が来るのを待った。
夜風が肌に凍みた。
こういうときの時間は永遠にすら感じるものだ。

長門はどうしてるのだろうか。
昨日の衝撃が、肉体と精神を限界へと向かわせていた。
長門にもう一度会いたい。
せめて、さよならぐらい。
そして、また会おうなって言ってやりたいんだ。



「来たか」

日が沈み、辺りが暗くなった頃、制服姿で長門は現れた。
時計を見ると、七時一分をさしていた。

無機質な表情のまま、俺の前で立ち尽くしていた。
そして一言だけ。

「こっち」

長門は無言のまま歩き出し、マンションに向かっているようだ。
足音のしない、忍者のような歩き方は変わっていない。
歩き出した長門の横を歩いた。
夜風に揺れるショートカットが鮮明に映った。
マンションに着くと、手押ししていた自転車を適当に止め、
今日三度目のガラス戸を抜け、エレベーターに乗り込んだ。
エレベーターの中で俺は長門を見つめていたが、
無表情のまま立っている以外のことを発見することできなかった。
708号室のドアを開けると、

「入って」

長門は俺をじっと見つめ、言った。

「ああ」

玄関で靴を脱ぎ、リビングへと歩いた。
年中置いてあるこたつを指差すと、

「待ってて」

「いや、お茶ならいいぞ。話を聞かせてもらおうか」

「そう」

長門がこたつの前に座ると、俺も向かい合って座った。

「それじゃあ、聞かせてもらおうか。なぜ転校することになったのかをな」

長門は俺を真っすぐに見つめた。

「情報統合思念体はわたしの処分を決定した」

「そうか。思ったとおりだ」

「ただし、今回の決定は私自身の過失に起因するものではない。
涼宮ハルヒの情報を生成する能力が収束に向かっていることが主な原因。
現在の涼宮ハルヒの能力は、
かつて弓状列島の一地域から噴出した情報爆発の十分の一にも満たない。
大規模な情報改竄は不可能になり、情報統合思念体の無時間での自律進化の可能性は失われた」

ハルヒの能力が収束?

「これからのことは最近になって明らかにされたこと。
わたしのような端末には与えられていなかった情報」

長門は一呼吸おいて続けた。

「わたしはわたしの存在理由を涼宮ハルヒを観察して、
入手した情報を情報統合思念体に送ることだと考えていた。
しかし、それだけではなかった。
そもそもそれだけでは矛盾が生じるのは明らかだった。
情報生命体である彼らは宇宙中の情報を無時間で入手することができるからだ」

長門はまた間を空けた。

「彼らは情報生命体である以上、時間という概念を持つことはない。
それゆえに、人間でいう死の概念、そして記憶というものを持たない。
わたしが十二月に異常動作を起こしたのもこれに起因する。
記憶は彼らの中に本来的に存在しないため、
情報として置き換えるのには曖昧さが残った。そのため、バグが溜まっていった。
十二月に実行された世界改変は、
インターフェースのなかでわたしが最も長い時間を生きているために発生した事故」

「それゆえに、わたしの処分は決定的なものとなった」

「で、結局なんで処分は決定されたんだ?」

「涼宮ハルヒの能力の収束に伴い、地球上で活動する、
インターフェースの絶対数を減らす必要がある。
それに加え、記憶によるバグは危険を伴う。
だから、最も時間を経たわたしから順に処分を開始する。当然の処置」

「だとして、いなくなることはないじゃないか」

「……仕方がない」

「仕方がなくなんかない!」

俺は憤慨していた。すでにこの二日で限界を迎えていた。

「長門、お前はどう思ってるんだ?」

「わたしはこの世界に残りたいと感じている」

「なら!」

「わたしには決定権がない」

「なんでお前の意思は尊重されないんだ!」

「……仕方がない」

「ハルヒに俺が『俺はジョン・スミスだ』だということを明かすと
情報なんたらやに伝えてくれ!」

「涼宮ハルヒにはもう時間を改変するほど力は残されていない」

「くそっ。どうすればお前を助けられる?
俺にできることはないのか?」

「ない」

「……仕方がない」と長門は呟いた。

「……どうすればいいんだ」

「……仕方がない」

俺は立ち上がると、長門に近づき、抱きしめてしまった。
それがいいことなのかは分からない。
ただ、強く抱きしめた。
細い身体は今にもサラサラと砂になりそうだった。
長門は抱きしめ返すことはなかった。
ただ、正座したまま動かなかった。
無機質な有機アンドロイド、長門有希。
寡黙な文学少女、長門有希。
そして俺たちはそのまま。
しばらくすると長門は俺の胸を押し、離れようとした。

「あ、すまん。つい勢いで」

俺は長門から離れ、謝った。

「帰って」

「へ?」

俺は間抜けな声を出した。

「帰って。もう時間」

長門は俺を強く見つめた。これ以上はできないぐらいに。

「帰らないと言ったら?」

「あなたのわたしに関する記憶を消すことになる」

「そうか」

俺はしぶしぶ同意し、リビングを出ることにした。
それ以外ないだろ。長門の記憶が消えてもいいのか?
去り際、長門は言った。

「あなたがわたしのことで本気になってくれたことを嬉しく思っている」

「でも、もう時間がない」

そして最後に、

「ありがとう」

長門ははっきりと言った。



俺は何も言わず、玄関を飛び出た。
エレベーターを待てず、階段で降りた。
マンションの前に放置してあった自転車に乗り、走り出した。
輝かない空を見上げ、自転車を全速力でとばした。

「くそっ。どうして俺は何もしてやれないんだ」

そして俺は逃げ出したのだ。仕方がなかったでは済まされない。
だが、自分を責めることはできず、長門を責められるわけでもなかった。
俺は圧倒的な暴力の瀬戸際に立たされていた。
忘れていたのだ、自分が何もできない普通の人間だということを。
揺らぐ意識の中で、長門のことを思った。
せめて、
長門がバグだというその記憶が、
幸せで満たされていることを、ただ、祈った。

chapter.2 おわり。



|