プロローグ Birthday



「はーい。どうぞー」
ドアを開けると、ちょこんとパイプ椅子に座ったメイドさんが笑顔で出迎えてくれた。先日会ったばかりなのに、ますますかわいく見える。久しぶりのメイド姿は俺を満足させるのに十分だった。
「お茶煎れますね」
カチューシャをちょいと直しながら立ち上がり、コンロに水を温めにいく。上履きをパタパタとして歩くのは未だ変わらないが、お茶を煎れる動作は滑らかで、一年という時間の経過を感じさせてくれる。
俺はいつもの席に座り、いそいそと嬉しそうにお茶を煎れる優美な御姿を眺め、一人悦に入っていた。

俺が朝比奈さんの殺人的なまでに愛らしい後ろ姿をぼんやりと眺めていると、
「こんにちは」
ドアの前で鞄を脇に抱えて立っているのは古泉だ。如才のない笑みと柔和な目はSOS団に入ってから全くといっていいほど変わっていない。どうしたらその顔をキープできるのかね、後でコツを聞いておくのも悪くないかもしれない。
「こんにちは」
朝比奈さんは古泉に向かって優しく挨拶を交わす。古泉は俺の向かいに座ると、
「涼宮さんはまだいらしてないようですね」
「なにか用事があるから先に行けだとよ」
そうですか気になりますね、と古泉。確かにこのパターンは何か厄介ごとを持ち込んでくる可能性が高いからな。何もないといいのだが。
それはそうと、部室の付属物となっている長門はテーブルの隅に座ってページを繰っていて、さしずめ春に咲いたコスモスといったところだ。すまん、正直俺も意味分からん。
今は四月の半ばで、低空飛行を続けていた俺の成績でもなんとか進級し、朝比奈さんを除く、SOS団のメンバーは全員二年生になった。ホワイトデーのお返しやら、春休みにはイベント満載だったが、進級してからというもの事件らしい事件は起きていない。こうやって、テンプレートでダルダルな謎の集団を演じているわけだ。

ハルヒが来るまで古泉と将棋をやって時間を潰すことにした。このハンサム面は大変アナログ好きである。事あるごとに俺に勝負を仕掛けてくるほど積極的なのだが、いかんせん弱かった。大局を見据えるという能力が欠如しているようで全く張り合いがないし、まあそれはそれで勝ち続けるのも気分が良かったりもするのだが、こいつの頭の良さからすると負けるのも胡散臭く映り、わざと負けているのではないかと気分を悪くしたりもした。俺は『穴熊』の戦法で駒を動かし、古泉は適当という感じで進行している。まあ、これは俺の勝ちだな。俺が盤上を睨み付けていると、
「早くおかないのですか」
「ああ、分かってるよ。だがな、一手一手対処してるようだと、一生勝てんぞ」
「全くです」
古泉はお決まりのニヤケハンサム面で肩をすくめる仕草をした。意味もなく似合っていて、意味もなく腹立たしい。
「どうも僕には大局を見る能力がないようですね」
古泉は自分の王将の位置を確認すると、苦笑いをした。

しばらくすると、朝比奈さんがとてとてとお茶を運んできてくれた。
「お茶です。どうぞ」
可憐な手つきで俺の前にお茶を置く。朝比奈さんが俺をその無垢な瞳でじっと見つめているのに気づくと、俺は慌ててお茶を飲み、
「おいしいですよ」
朝比奈さんはニコッと笑い、俺はニマッと笑った。このいじらしいほどの笑顔を抱きしめるのを何度我慢したことか。断じて抱きしめたことはないからな。
「古泉くんもどうぞ」
「ありがとうございます」
そして長門の前にも置く。うさぎのようだ、と形容するのが一番しっくり来る動作だ。もう一年も経つんだがな、未だ長門に俺には分からない恐怖を感じているようだ。当人は微動だにせず、俺が一生発しないだろう言葉が羅列された題名の本を読み耽っていた。手を動かすことがなかったら、生死の判断は危ぶまれるほど陶器と化していた。お前は本を読まなければ死ぬのか?いまさら反応されてもまた何か悪いことが起きるんじゃないかと邪推してしまうからこれはこれでいいんだが。

この緩やかなに流れる時間を俺は気に入っていた。暴走する団長様をめぐる不思議な冒険の間に存在するこんな時間がなければ、おそらく俺は一ヶ月と持たず入院することになるだろう。
奇特な方でもない限り、平和と平穏を望むだろうし、奇妙な事件や出来事は時々で十分だ。普通な時間、モラトリアムな時間を満喫するのが人間としてのあり方ってもんさ。

俺がこの部室に流れる柔らかな時間に頬を緩めていると、
そいつは壊れるほどの勢いでドアを開け、登場した。
バンッ、という音ともにその奇特で普通を望まない人は春だというのに夏のうるさい日差し並みに笑顔を輝かせて、完全にオープンしたドアの前で立っている。後ろには、やったわよ、みたいな顔をした鶴屋さんも付いてきていた。今度はなんだ。宇宙戦争がしたいとか言い出すなよ?
「朗報よ!」
お前の朗報とやらがSOS団、特に俺と朝比奈さんにとって朗らかな報告となったことなど一度もない。
「鶴屋さんが場所を提供してくれることになりました」
ハルヒは俺の意見を完全に無視した。もう分かっている。このSOS団にハルヒに意見をいうやつがいないということを。俺がハルヒのお守りを任せられているのはすでに細胞レベルまで刻み込まれているからな。遺伝子レベルまでいかないことを切に願う。
「なんのだ」
ハルヒはこれ以上できないであろう満面の笑みでこう宣言した。
「決まってるじゃない! お花見よ!」
いつ決まったんだ。俺は日本国憲法に照らし合わせてみたがそれらしい条文は見つからなかった。だが、ハルヒの言うことも分からんでもない。春にお花見をすることは特別変わってはいないし、ハルヒのイベントに対する目ざとい性格でなくても、まああるだろうなぐらいには予想していたさ。ハルヒにしてはまっとうなものを持ち込んできて、溜息をつく予定が大幅に狂ったが、朝比奈さんの手作り弁当にありつけるかもしれないんだから、歓迎しようじゃないか。よくやった、ハルヒ。
ハルヒは団長椅子にどかっと座ると、
「みくるちゃん、お茶」
「あ、みくるーっ、私もお茶頂戴っ」
「あっはいはいっ」
朝比奈さんはやかんのもとへパタパタと駆け寄る。急須を手にした朝比奈さんは団長専用の湯呑みと、すでに鶴屋さん専用となった客用湯呑みに注意深く煎茶を注ぐ。小間使いにされているのになんだか嬉しそうにしていた。
「どうぞ」
朝比奈さんが団長机にお茶を置こうとすると、ハルヒは湯呑みを奪い、ものの五秒で飲み終わらせた。お前はもっと味わって飲めないのかと考えていると、
「お花見については鶴屋さんが説明してくれます。あたしもまだ詳しくは聞いていないのよ」
ハルヒは言い終えると、鶴屋さんのほうを見た。合図だったのかは分からんが、鶴屋さんは座っていたパイプ椅子から立ち上がると、テーブルに手を置き説明を始めた。
「まかせてっ。えーっと、いつもは会社の人と行っていたんだけど、今年は中止になったから、それならハルにゃん達と行こうかなって思って。雪山も面白かったし、今度もどうかなって思ってさ。どうにょろ?」
「それはどこにあるんですか?」
俺はとりあえず尋ねる。
「電車で一時間ぐらいかな。ちょっと山奥に入った秘境みたいなところなんだけど、それだけの価値はあるさっ」
山奥、秘境?そんなハルヒが諸手を挙げて賛同するようなワードが列挙するような場所で花見を?近場じゃダメなのか?まあ、鶴屋さんが勧めるほどのところってことは価値のあるものだろうが。
「素晴らしいわ!」
ハルヒは目を輝かせながら言った。
「魔境なんてSOS団にぴったりの場所じゃない!」
ハルヒは秘境を魔境という存在しないものへとグレードアップさせた。こいつの頭には都合の良い事は誇張されるようにできているらしい。いまどき魔境なんかゲームの中か、胡散臭い祈祷師しか考え付かないだろうよ。この狭い島国のどこに魔境なんてあるのかね。あるのはハルヒの頭の中だけで十分だ。
「それじゃあ決定ね。キョンはビニールシートを持ってきて。大きいやつよ」
「ああ、分かった」
「やけに聞き分けがいいわね。気持ち悪い」
気持ち悪いは余計だろ、とは思ったが、今回は楽しめそうだからな。大目に見といてやるよ。
「ふん。まあいいわ、団長命令は絶対だもんね。キョンも分かってきたじゃない」
ハルヒは俺をじとっと卑下するように見ながら言う。その後ハルヒは各自に準備するものを言い付けると、今日はもう帰る、と言ってそそくさと部室をあとにした。

さて、お気づきの方もいるだろうが、種明かしでもしようか。今回のお花見は古泉主催のミステリツアーではなく、宇宙人的、未来人的でもない。ごく普通に企画されたサプライズイベントなのだ。いっとくが、鶴屋家の土地でやるのは本当だ。朝比奈さんのお弁当もな。それだけを楽しみに生きている俺もどうかと思うが。
「あれでよかったのかいっ?」
「ええ、最高でした」
古泉は人畜無害な笑みを鶴屋さんに向けて言った。
「普通のお花見でもよかったんですが、涼宮さんは普通を大変嫌うお方です。確実性を上げるための秘境という設定はどうやら成功のようですね」
「そのようだな」
俺は嬉しそうにしている古泉に言ってやり、部室を見回した。
時計を見るともう五時を回っていて、部室は夕暮れに包まれていた。太陽と大気が織り成すオレンジ色が部室を染め、窓際に近い長門を照らし出した。それが長門の透き通るような白い肌に溶け込んで奇妙なほどに似合っていた。朝比奈さんは朝比奈さんで、部室専用のメイド姿でお盆を胸に抱え、満面の笑みで鶴屋さんと談笑していた。仲良しの友達同士(しかも美人同士)が語り合う姿はこの上なく優美であったし、今回のサプライズイベントには自分も役に立てると嬉しそうだった。古泉はというと、サプライズイベントを大いに盛り上げるための策略(SOS、命名俺)を練っているようでもう負けは確定した将棋には目もくれなかった。俺はみんな様子を一通り眺め終わると、部室の片隅に座る寡黙な少女をなんとなく見つめていた。
「まあ、楽しみにしといてよっ。桜が綺麗なのは本当だからさっ」
「本当にありがとうございます」
「いいよいいよっ。楽しみにしてるし、わたしも面白いことをしたいのさ」

長門がパタンと本を閉じると、俺達は帰り支度をし、部室を出た。古泉が集合場所と時間を言い、俺達は別れる。別れ際、長門が俺をじっと見つめてくるので何かと思い尋ねたら、
「……何がいいのか分からない」
「長門が一番気に入っているものでいいんじゃないか」
「……そう」
長門はそれだけ言って、俺と長門はそれぞれの家路についた。帰り道、俺自身もハルヒに何を買うべきか考えていなかったことに気付いた。そもそも、金が無いし。どうするか、当日までには買っておかないと。

当日、空は雲ひとつ無く、小学校の頃の遠足みたいに気分が高揚するのは悪くなかった。ハルヒに振り回されるわけではないし、むしろこっちがはめてやろうってことだからな。楽しくもなるさ。
悲劇は繰り返すということを俺は忘れていた。今回はシャミセンもいないし荷物も少ないから大丈夫だろうと安心しきっていたのが裏目に出て、家を出るときに偶然リビングから出てきた妹に見つかり、例のごとく妹の妨害工作に時間を食わされた。具体的にはまず甘え、それが無理だと分かると途端に駄々をこね、しまいには泣き出す始末で、その泣き声に親が気付いて止めに入り、さらには親にも苦情を言われるという最悪のコンビネーションをなんとか脱したが、時すでに遅しとはこのことで、罰金になるのに行かなければならない規定事項は俺の気持ちを暗澹とさせた。
鶴屋さん推薦のお花見スポットは車で二時間というちょっとした小旅行だ。車は古泉が手配してくれることになっていた。おそらく荒川さんと森さんだろう。車での移動なので集合場所までは歩いて行かなければならなかった。時間が無いときの徒歩は焦燥感に駆られるもので、走り出したくもなったがすでに諦めムード漂う俺はわざとゆっくり歩いていった。

集合場所の駅に着くと、すでにSOS団の面々はそろっていた。鶴屋さんはまだ来ていなかった。朝比奈さんは大きめのバスケットを抱えていて、あの中にたくさんの幸せが詰まっているのだと思うと、思わずにやけてしまった。ハルヒが俺の遅刻のことを咎めたりはしなかったのは、きっとハルヒ自身も今日を楽しみしていたからだろう。朝比奈さんとじゃれあっているのを見るとどうやらそのようで、
俺のことは全く目に入らないようだ。長門は制服ではなく白のワンピースだった。袖がひらひらした形のだ。身体が細く、胸もあまりない長門にはしっくりくる。
朝比奈さんは俺に小走りで近づいてくると、
「『行けなくなっちゃったのは残念だけど、キョン君達はめがっさ楽しんでくるっさ』と伝えてほしいって」
おずおずと上目づかいで俺に伝えた。
「そろそろ車が来る時間ですね。移動しましょうか」
壁に寄りかかっていた古泉が俺たちに微笑み混じりで呼びかけた。
「良かった間に合って」
「涼宮さんの機嫌が良くてよかったですね。これほど遅れるとおそらく三回は罰金になっていたでしょうから」
古泉は俺を笑いながら見つめると、
「それはいいとして、みなさん移動しましょうか。車が到着したようですよ」
ハルヒと朝比奈さんの返事を聞くと、俺達は古泉の後を付いていった。

路肩に止まったのは雪山でもお世話になった二台の四駆だった。中から出てきたのも見覚えのある二人組だ。
「お待ちしてすみません。今日もよろしくお願い致します」
深々と腰を折る狂気の執事と、
「よろしくお願いします」
年齢不詳、過激派の怪しいメイドさんである。
「今日はよろしくね」
ハルヒが右の親指を立て、ビッと腕を伸ばしながら言った。いい加減ガキのお守りばかりしていて疲れないのかと俺が心の中で二人を労っていると、
「では、乗りましょう」
しゃしゃりでた古泉がいうと、男子と女子に別れて乗り込んだ。男子は荒川さんに、女子は森さんにだ。ハルヒに文句を言われてもいやだからな。朝比奈さんや長門と二人になったときに何されるか分からん。
車に乗り込むと車独特の匂いが喉の辺りに広がった。古泉は先に乗り込むと窓の外に視点を固定させ、なにも話す気はないらしい。まあ、俺も古泉と話す必要はないがな。古泉との二時間ばかりの車の旅は何の起伏もなく、外の風景も同じものの繰り返しだったし、朝比奈さんの弁当の中身を考えているほうがまだ建設的というものだ。しかしそれも長くは続かず、車の振動をゆりかご代わりに、俺は深い眠りへと落ちていった。


……
………
「起きてください。到着しました」
俺が朦朧とした意識をなんとか叩き起こすと、古泉の笑顔が近くにあった。
「顔が近いぞ、気持ち悪い」
寝起きに野郎の顔が近くにあったときのしょっぱさはなんとも言えない。……というより語りたくない。
「またご冗談を。さあ、降りてください。少し歩きますよ」
古泉は微笑を湛えたまま、俺に呼びかける。車から降りると、ハルヒは口を一文字に結び腕組みをして立っていた。こりゃ、明らかに怒ってるな。
「ちょっとキョン! 私が寝てないっていうのになんであんたが寝てるのよ!」
いつから睡眠が許可制になったんだ。戦時中じゃあるまいし、行動の自由ぐらい俺にだってあるだろうが。
「ないわ!SOS団での活動は団長の意思が最優先されるの」
「ないってお前」
俺がハルヒにとってフランス革命とはなんだったのかと考えていると、
「まあまあ、せっかくのお花見ですし、穏便にいきましょう」
古泉は俺達を取り成した
「これから山道を歩きます。足元には気をつけてください」
「私でも大丈夫ですよねぇ……?」
朝比奈さんは身体をいじいじしながら古泉を上目遣いで見つめた。
「もちろんです。そこまできつくないですから」
古泉は朝比奈さんに笑顔を向けると、朝比奈さんは顔を赤らめた。
「は、はいぃ」
おい、その反応なんかむかつくな。
「では、私たちはここで待たせていただきます」
「ありがとうございました」
古泉がそういうと、俺達も頭を下げ感謝の言葉を述べた。荒川さんと森さんは深々と腰を折ると、顔を上げ、
「帰りもここでお待ちしています。時間は古泉が知っていますので気になさらず楽しんできてください」
「分かったわ」
ハルヒは笑顔で頷くと、
「それじゃあいきましょ!」
山道への入り口へと歩き出した。古泉は肩をすくめるポーズをすると、
「やれやれ、では行きましょうか」
俺達はネズミを追いかける猫のようにハルヒの後を追った。

朝から(といっても、もう昼になるが)山登りというのもこたえるもので、というのも一番後ろを歩く俺がほとんどの荷物を持たされているからだ。鶴屋さんの言っていた通り、周りの風景も秘境というにふさわしい陰鬱とした雰囲気で、いつになったらつくのかという猜疑心が俺を疲労させた。
前を歩く朝比奈さんの重い足取りを眺めながら、応援しながら、列の真ん中を飄々と歩く長門が肩からかけている水筒が似合っていることに気付いた。先頭のハルヒの後ろを歩くやけに後ろ姿が格好いい自称エスパー戦隊を恨みつつ、山道をピョンピョンと登っていく「男は女性の荷物を持つものよ」とか訳の分からん理由で俺に荷物を持たせているハルヒの背中を睨み付けた。
山道の左手は空が広がっていて、右手にはブナのようなそうでないような木々が立ち並び、ちょっとした日陰を作った。そうこうしているうちに俺達は目的地についた。そうこうというのはいつまでも終わらない山道がエンドレスに続いているような気がして、ただぼんやりと山道を登ったためだ。RPGでよくある、ある条件を満たさないと抜け出れない無限階段を現実でやっている感じだ。帰りは瞬間移動の呪文でも使って帰りたいものだ。
俺達は山道を抜け、ちょっとした広場に出た。エデンの園ってこんな感じかもなと感じさせる桜以外何もない不思議な空間だった。
「ここです」
古泉が後ろを振り返ってそう言った。
俺達は言葉を失っていた。数分ぐらいは立ち尽くしていたと思う。普段見ている桜とは違い、山桜だった。妖麗という言葉がぴったりの木々が、ちょっとした広場を埋め尽くし、濃いピンク色の花びらが舞って、俺達を包んだ。隣に並んで眺めている朝比奈さんと桜の花びらは絶妙だ。長門は花びらを掌の中で観察している。そうだ、この世界にもハルヒを黙らせることができるものが存在したんだな、とか柄にもないことを考えながら、俺は優美に舞う花びらを見つめた。ハルヒもただぼんやりと山桜を見つめていた。古泉? パス。俺達はしばらくの間、黙って立ったまま眺め続けていた。

「キョン、シートをだして敷きなさい」
ハルヒは俺を指差し、命令した。
分かってるよ。命令を聞くのも今日だけだかんな。
「ちょっと有希、なにぼーっとしてるのよ」
「綺麗」
「へぇー、有希でもそう思うものもあるのね」
長門は返事をしなかった。
俺がビニールシートを古泉と広げ終えるやいなや、ハルヒはシートに寝転がり伸びをした。
「うーん!やっぱり気持ちいいわねお花見って」
「そうですねぇー」
朝比奈さんはシートの端の方にちょこんと座って、ハルヒの戯言に返事をした。笑顔の返事がなんとも愛らしい。
「有希もそんなところで立ってないで、座りなさいよ」
さっきから山桜の近くで立ち尽くしていた長門はそろそろと俺達のところへと来て、俺の左側に座った。なぜだろう、ハルヒは明らかに不快な顔をし、朝比奈さんに命令した。
「みくるちゃん。お弁当を出して」
「は、はい」
朝比奈さんは俺を見つめた後、俺の横に置いてあったバスケットを指差した。俺は円状に座っているSOS団のメンバーの真ん中にバスケットを置いた。開けるのは朝比奈さんがいいだろ?
「じゃあ、みなさんどうぞ。おいしくなかったらごめんなさい。いっぱい作ってきたんでよかったら食べてくださいね」
「おいしくないわけないわ。なんたってみくるちゃんの特製だからね。あ、そうだ! 今度みくる弁当でも販売しようかしら。一個千五百円ぐらいで。中身は適当でいいわ。どうせ男どもはみくるちゃんが作ったものならなんでもいいはずよ」
お前はどこまで男どもから金を徴収すれば気がすむんだ。しかも千五百円という微妙なライン。月に一度だったら俺も買ってもいいかもしれない。ハルヒの商人魂に感服しながら、おどおどとする朝比奈さんの為に早く口にしたほうがいいかもしれないなと思った。まあ、ここは団長様から食べさせないと殴られそうだから、俺はハルヒが食べるのを待ちつつ、朝比奈さんの作るものまずいものなどありません。泥団子だろうが笑顔で食べる所存であります。なんてことを考えていたわけだ。
その後俺達はすぐに朝比奈さんの弁当で舌鼓を打った。まずいなんて謙遜なされていたが、全くの逆で俺の最初の直感どおり、幸せの味がした。その幸せを破壊するがごとくハルヒと長門による大食い合戦が展開され、それに俺はむりやり参加し、幸せを奪還するという偉業を成し遂げた。
食事が終わると俺達はなにをするでもなく寝転がり、その妖麗な山桜たちとぽっかりと空いた空間から見える春の空を眺めた。取り込まれそうなほど澄み切った青空で、ピンクと水色という柔らかい色合いが俺の眠気を誘った。しかし、ここで眠るわけにはいかない理由があった。そう、そもそも花見はついでであって、本来の目的はハルヒのためのサプライズパーティーなのだ。遂行しなければここまで来た意味はないのだが、この桜を眺めているとそれだけで価値のあるものだと感じてしまっていた。さすが鶴屋さんのお薦めだけあるな。けどそろそろやらないと時間も無いなと考えている自分に気付き、さっき食べたのにプラスしてますます胃が重くなった。
やれやれ、団長さん喜んでくれよ?

「それではそろそろ始めましょうか」
古泉が音頭をとる。
「古泉君、なにか用意してるの?」
ハルヒの顔は日差しに負けないくらい輝いていた。
「いえ、私だけではありません。みんなで用意したものですよ」
「なにそれ?」
ハルヒだって気付いているだろう? 今日が何の日なのかぐらい。
みんなでいっせいに言った。
朝比奈さんは控えめに、長門はぼそりと、古泉は大げさに、俺はさりげなくだ。

「ハッピーバースデー!ハルヒ!」

俺達は隠し持っていたクラッカーを鳴らした。破裂音と共に紙が飛び出るタイプのだ。山奥で鳴らすクラッカーはものっそいシュールなもので、アンドレ・ブルドンも魚が溶けすぎて困るぐらいだった。
「え、ちょ、ちょっとなんで知ってるのよ!」
ハルヒは困ったような、怒ったような顔を浮かべた。
「そんなことどうでもいいだろ? この日のためにせっかくみんな準備してきてんだから」
俺はハルヒを諭すように言った。
「え、まあそうだけどさ、え、でも……。祝うなら祝うっていいなさいよね!」
「それじゃあ、つまらんだろうが」
「そ、そうだけど」
「それじゃあ、プレゼントの贈呈にでも移りましょうか」
古泉が仕切った。
「プレゼント?」
「誕生日プレゼントに決まってるだろ」
「分かってるわよ! さっきからキョン偉そうよ!」
慌てるハルヒは今世紀最大の見物で、万博に行くより面白いものが見れたと俺は心から笑っていた。それに嬉しさを隠すのに精一杯のハルヒはとてもかわいかったしな。

俺達はハルヒの前に並び、クスクス笑いながら、ハルヒの普段見せない姿を堪能していた。
「では僕から渡しましょうか」
古泉は笑顔を見せるとリュックからラッピングされた小さな箱を取り出し、ハルヒに近づいた。
「お誕生日おめでとうございます。涼宮さん」
「あ、ありがとう、古泉君」
古泉はハルヒにプレゼントを手渡す。
「中は見てもいいのよね?」
「もちろんです」
ハルヒは丁寧に包装紙をはずした。
「あ、時計ね?」
高校生には不似合いな高そうな時計だった。
ハルヒが時計を着けていると、
「涼宮さんは時間を大事にする方ですので、今回は時計にさせていただきました」
古泉は目を細めながらそういった。
「そうね。ありがとう古泉君、大事にするわ」
「喜んでもらえて光栄です」
古泉は白々しい仕草をすると後ろに下がった。
「じゃあ、次はわたしですね」
朝比奈さんがハルヒにプレゼントを手渡した。かなり大きい袋に入っていた。まあ、そのブツを不慣れな山道を登ってへーこらいいながら持ってきたのは他の誰でもなく俺なんだがな。敢闘賞ぐらいはくれてもいいはずだ。
「みくるちゃん、なにこれ?」
「抱き枕です。それがあるとよく眠れますよ」
「なんかあたしがよく眠れてないみたいじゃない。でもいいわ、なんか肌触りもいいし、気持ちいいもん」
お前は一つ文句を言わんと、素直に貰えんのか。
「えへへ、よかったですぅ」
俺は抱き枕に抱きついて眠る朝比奈さんを想像し、真っ昼間からよからぬ気分になっていたのを告白しておこう。
次は長門の番だ。長門はそろそろとハルヒに近づき、包装されたプレゼントを手渡した。はい、それもってきたのも俺。
「どうぞ」
「あら、有希も選んでくれたのね。ん、本か。有希らしいわね」
「わたしの一番好きな本」
「そう、読んでみるわ。有希が薦める本だもん、おもしろいに決まってるわ」
ハルヒは長門に笑顔を見せると、長門はミリ単位で首を縦に振った。
「じゃあ、最後は俺だな」
「少しはまともなものを渡しなさいよね。でないと、すぐに捨てるから」
俺がハルヒに中くらいの紙箱を手渡そうとすると、ハルヒは俺の手からものすごい力で奪い取った。
「早くしなさいよ。じれったい! どれどれ」
ハルヒは巻いてあった包装紙をビリビリに破り捨て、箱を開ける。
「え、なんでカメラなの?しかもデジカメじゃなくて、旧式? あと入ってるのは写真立てね」
「デジカメならハルヒが持ってるし、まあなんだ、そういうレトロなのもいいかなと思ったんだよ。財政面ではかなりきつかったがな。それ以外思いつかなかったから」
俺が説明していると、ハルヒは笑顔で俺にカメラを向けた。
「俺を撮るな! それより、あとでみんな一緒にとろうぜ。今まで集合写真なんて撮ったことなかっただろ?」
「それもそうね」
ハルヒはうつむいて、何かを考えている様子だった。そして何か小声で呟いた。あまりの小声になんていったか聞き取れなかった。
「なんだ?」
思わず聞き返してしまう。大体分かるっているが。ハルヒの口から直接聞きたいだろ?
ハルヒは腰に手をあて、一つ息を吐くと、
「ありがとうって言ったのよ! 本当ならキョンなんかに感謝の言葉なんか述べたくないんだけど、今回は特別だからね!」
なんでお前はそう素直じゃないんだろうな。
「どうでもいいでしょそんなこと。それよりなんでこんな山奥でやることになったのよ」
「では、僕が説明しましょうか」
古泉がしゃしゃり出てきて、説明を始めた。
「一つ目の理由はもちろん涼宮さんを驚かせるためです。
二つ目の理由は……」
くどくどと古泉が説明していたが、この説明は俺にとっては二度目なので聞く気になれなかった。それより俺には気になることがあった。こっちのが俺にとっては日本経済の行く末より気になることだ。
「長門、結局お前本にしたんだな」
「そう」
「しかも一番好きな本か、俺も読んでみたいな」
「わたしの家に来れば読める」
「そっか。じゃあ今度お邪魔することにしようか」
「そう」
長門は俺を見つめながら目視できるぎりぎりの動きであごを引き、花びらを散らせている山桜のほうに目を向けた。

「そろそろ帰りましょう。暗くなったら、山道は降りられないわ」
もう夕暮れが迫っていた。俺達は荷物をまとめ、山道を下った。同じ道をトレースし、荒川さんと森さんの待つ車へと向かった。
車まで辿り着くと、ハルヒは写真を撮りましょうと言って、荒川さんにカメラを渡した。
「では、いきますよ。ハイチーズ」
あの山桜のあった山をバックに写真を撮った。荒川さんの渋い声での『ハイチーズ』は大変心地良く、本職のように見えるのは気のせいだろうか?
俺達に「はい、笑って」は必要が無かった。そんなこと言われなくても満面の笑みがカメラのレンズに反射した。
パシャリという音が、今の俺達を切り取った。

帰りの車中は行きとほとんど変わらなかった。違いは古泉も寝ていることだろうか。荒川さんは運転が上手く、安定した走行を実現していた。カメラを取るのも上手い、運転も上手いときたらあとは何が上手なのか気になるところではあるが、荒川さんと言葉を交わすことなく俺は行き同様に睡魔に襲われ、いつの間にか地元の駅前に着いていた。
「おい、古泉起きろ。着いたぞ」
俺は古泉の肩を揺すると、古泉は普段見せない気の抜けた顔で返事をした。車から降りると、外はすでに真っ暗で街灯だけが明かりを放っていた。
「あー」
俺は声を出しながら伸びをした。ずっと同じ姿勢で寝ていたせいで身体のあちこちが痛い。古泉も降りると俺に習って伸びをした。
少し待っても森さんの運転していた車からハルヒ達が降りてこないので中を覗いた。案の定、ハルヒ達は車の中で仲良く寝ていた。真ん中に座る長門の右肩にハルヒ、左肩に朝比奈さんは寄りかかり、眠っていた。俺が車の窓を叩くと長門は起きていたようでこちらを向き、首を横に振った。俺が肩をすくめる仕草をすると、長門はゆっくりと頷いた。古泉を見ると、こいつもやれやれとばかりに肩をすくめてにやけた。だが、起きるまで待っていたら荒川さん達に迷惑がかかるのでここは強制的にでも起こさなければなるまい。俺はドアを開けると手前にいた朝比奈さんを軽く揺すった。
「ほえぇー」
朝比奈さんは訳の分からん言葉を発し、目を擦りながら目を覚ました。ごめんなさい、と謝ると朝比奈さんはすぐに車から降りた。あとはハルヒか。あいつは適当に大声出せば起きるだろ。
「おい、ハルヒ! 起きろ!」
俺が大声で言うと、ハルヒはビクッとして急に目を覚ました。
「お前、よだれ垂れてるぞ」
「垂れへないわよ」
ハルヒはそう言いながらも口を袖で拭いた。まだ、起きてないのか視点が定まっていない。
ハルヒは車から降りると、俺と同じように伸びをした。人間やることは同じなようだ。
「では私達は帰らせていただきます」
荒川さんと森さんが礼をして、それぞれの車に乗り込んんだ。ハルヒと朝比奈さんは去っていく車に手を振って見送っていた。
「じゃあ、今日はこれで解散ね。家に帰るまでが部活なのよ」
「そうですね。では、僕は帰らせていただきます」
「わたしも帰ります」
朝比奈さんは満足げな顔で言った。
長門は無言で俺を見つめ、それからおもむろに家路に着いた。

そして俺とハルヒは全員を見送った。俺達を街灯と月明かりだけが照らしていた。余りの虚脱感に家に帰る気力すらなかったので、ただぼんやりと立っていたわけだ。
「キョンは帰らないの?」
「いや、何か疲れてな。ま、家に帰って休むことにするさ」
それは一瞬のことだった。

ハルヒは俺の唇にそっとキスをした。
俺が混乱していた意識を取り戻すと、目の前でハルヒは俯いていた。
「今回の話、キョンが企画してくれたんだって?」
「ま、そういうことになるな」
「ありがとう」
ハルヒは顔を上げて上目遣いで俺を見つめた。光の加減なのか、顔は朱色に染まっていた。俺はその顔をカメラで切り取り、永遠に残しておきたかった。
「ねえ、あたしじゃだめかな?」
「なんだって?」
「………」
「………」
「なんでもない。忘れて。忘れなかったら全裸で市中引き回しの刑だから!」
ハルヒはそういうと駅に向かって早足で去っていった。

『ねえ、あたしじゃだめかな?』

俺は聞こえないフリをしたが、しっかりと耳にも心にも届いていた。答えられる自信がなかったから、聞こえないフリをした。そして俺も続けてしまいそうだったのだ。

「なあ、俺じゃだめかな?」

自問自答を繰り返した。俺はハルヒが好きなのか? さっきのキスもきっとハルヒは言葉や態度で感謝を示せないから、成り行きでやってしまったと俺は都合よく解釈することにした。
でもな、ハルヒ。今日は俺に感謝する日じゃないぞ。生んでくれた両親に感謝する日、育ててくれた両親に感謝する日なんだ。

ハルヒのキスの余韻と生温い風が本格的な春の訪れを告げていた。
誕生日おめでとう、ハルヒ。
こんな風に満たされた春の日に生まれたであろうハルヒを思い、俺は家路を急いだ。


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最終更新:2020年08月24日 23:25