「俺、今日で辞めるから」
 ”退部届け”とヘッタクソな文字が書かれたノートの切れ端を団長席に叩きつけて、皆が唖然としている間に俺は部室を出た。
 勢い良く扉を閉める。
 中からぎゃーすかとんでもない騒ぎ声が聞こえるが、無視して俺は帰路に着いた。
 家路が終わるまでの間携帯が鳴りっぱなしだったが、着信は全部クソッタレSOS団員ばかりのものだ。その中でもハルヒからの物が圧倒的に多い。八割がたといったところだろうか。
 あの無機質宇宙人モドキの長門からも複数回の着信があったことには少し驚いたが、俺は全てに着信拒否を――途中でめんどくさくなって、携帯を川に投げ捨てた。
 残しておきたいメモリーなんて無いしな。

 家に帰ると何度か固定電話が鳴っていた。
 だが、流石に家族に迷惑がかかるかと思ったのか、十回ほど無視してやった後は、電話が鳴ることはなかった。
 そんな下らない所では気遣いしやがって……!
 腹が立ったのでシャミセンの夕食をにぼしからうめぼしに変更してやった。くやしかったらまた喋ってみろ。
「キョンくん、猫ってうめぼし食べるの?」
「さぁな」
「ギニャース」
「なんだかシャミ嫌がってない?」
「美味しさに感動してるんだろ」
「テラヒドース」
「あれー、今シャミの鳴声変じゃなかった?」
「気のせいだろ」
「ギニャース」
 すまんなシャミセン。でも怨むならアイツらを怨め。
 その日は久々に快眠することが出来た。


 次の日の朝、また何度か電話が鳴った。
 母さんが俺に取り次いできたが、受話器を渡されると同時に叩きつけて切ってやった。
 何か怒声が聞こえた気がするが、気のせいだろう。

 教室に入る。
 案の定、アイツに行き成り絡まれた。
「ちょっとキョン! 昨日のあれ何!? それとどうして電話でないのよ!」
「携帯は川に棄てたからな。無いものには出られんだろ」
「どうしてそんな事……。そ、そんなことより退部って」
「退部は退部。辞めるんだよ、日本語くらい分らんのか」
「分るわよ! 私はどうしてそんな事するのかって聞いてるの! ……ねぇ、退部なんて冗談でしょ? ちょっとしたドッキリ、冗談よね?」
 怒鳴りだしたと思ったら、困惑したり、縋るような顔したり、朝から忙しいうえにウザイ奴だな。
 制服の裾握るんじゃねーよ、皺になったらどうすんだ。
 そう言葉にして伝えてやったら、泣きそうな顔をして黙り込んだ。
 やっと静かになったか。やれやれ。

 授業中、ずっと背中に視線が刺さっていた。
 初めは無視していたが、いい加減にウザくなってきたので、三時限目終わりの休み時間にこっち見んなと言ってやった。
「何よ何よ何よ……!」
 途端、猛烈な勢いでヒステリックに喋りだす。
 触るなと言ったのをもう忘れたのか、制服を掴んで意味不明な言葉を吐き散らした。
 あぁウぜェウぜェ。クソウぜェ。
「勉強の出来る誰かさんは授業に集中しなくて良いから余所見ばっかりできていいなぁ。出来の悪い俺は授業に集中したいんだけどなぁ!」
 頭を掴んで耳元で怒鳴ってやった。
 クラスメイトから奇異や驚きの視線が集まるが、知ったことか。
 怒鳴られたアイツは、勉強ならあたしが教えてあげるから退部なんてどうのこうのぬかしてやったが、俺が睨みつけるとびくっと肩を震わせて静かになった。
 本当に忙しい奴だ。

 昼休みになると同時に、弁当を片手に教室を出た。
 アイツがずっと視線で追ってきたが、とくに何も言ったりはしなかったので無視した。
 中庭。自販機横のテーブルで弁当を喰っていると、ニヤケ面の野郎が真剣な顔で近づいてきた。そのまま無言でイスに座る。
「……どういうつもりですか?」
 主語無しに喋るな。あと飯が不味くなるからとっとと失せろや、チンカス。
「……昨日発生した閉鎖空間は」
「おいおいおい、まだ居たのか。耳あるかお前。人の話聞いてたか? あ? とっとと失せろっつーの」
「話を聞いてください! 涼宮さんはあなたの事を……」
 とっても、すんごーく、メチャクチャ腹の立つ単語を口にしやがった上に、どうやら立ち去る気が無いらしいんで思い切りぶん殴った。
「ま!? ガっ、reーッ!?」
 ニヤケ野郎は吹っ飛んで隣のテーブルに激突した。
 化物とは一丁前に戦えるくせに、人間同士の喧嘩には疎いらしい。素人パンチを諸にくらったニヤケはうちどころでも悪かったのかうぅうぅ呻いてそのまま地面に蹲って立ち上がってくる気配すらない。
 気持悪いので、俺の方が場所を変えてやった。

 五時限目以降、五月蝿いあいつは教室を抜け出してどこかに消えていた。
 あぁ、アイツ一人居ないだけで教室はこんなにもすがすがしい空間になるのか。
 などと気分が良かったのに、アイツは放課後になるやいなや教室にドタドタと駆け込んで来た。
 不快指数が一気に上昇する。そのまま俺の前までやって来たアイツをニヤケのようにぶん殴ってやろうかとも思ったが、クラスメイトの目がある手前、それは出来なかった。
 それに毎度毎度それじゃ俺の方が疲れてしまう。もう充分疲れてるけどな。
 せめてもと、思い切り不機嫌な顔で睨んでやる。
 すると、アイツは肩を震わせながら喋りだした。
「……ねぇ、私たちが何したって言うの?」
「身に覚えがありすぎて答えられないな」
「……どうして古泉君にあんなことしたの?」
「アイツのことが嫌いだからだよ」
「じゃあ古泉く……ううん。古泉はすぐに辞めさせるわ。今日付けで退部にする! 私もアイツのこと嫌いだったし、ちょうどいいわ!」
 沈んでいたと思ったら、何を元気に頓珍漢な事を言っているんだろうか。
 まぁ良い。少しからかってやろう。
「そうだな。古泉だけじゃなくてお前以外の二人も退部にしたら俺の退部は考えても良いぞ」
「本当!? 約束よ!」
 今度こそ本気で元気になったコイツは、目を爛々と輝かせながら「絶対だからね!?」と何度も言った後「ここで待ってて!」と残し、勢いよく教室から飛び出して行った。
 ここまで単純だと逆にすがすがしいね。

 それからしばらく。
 俺以外のクラスメイトは全員部活に行くか下校してしまってから少し。
 息を切らせながら、けれど元気に満ちた顔でアイツが教室に飛び込んできた。
 これ以上待たせたら帰ろうと思っていたところだ。変にタイミングが良いな。
「っ、はぁ……や、辞めさせてきたわよ!」
「そうか。ご苦労」
「これでアンタが戻ってきてくれるならお安い御用よ! だから、約束……」
「あぁ。ちゃんと考えてやるよ。……そして考えた結果、俺は戻らない。じゃあな」
 ひらひらと手を振りながら歩き出す。
 笑い出しそうになるのを堪えていると、制服を強く掴まれた。
 何だよいったい。 
「な、なによそれ! ふざけないでよ! 戻ってくれるって言ったじゃない! 約束したじゃない! アンタが戻ってくれるって言うから皆辞めさせた! アンタが居てくれたらそれで良いから、それだけで良いから……私にはアンタしか居ないんだからっ!」
 怒りつつ泣くという器用なことをしながら、なにやらとても愉快なことをぬかしやがる。
 泣きそうな顔なら見たことあるが、実際に泣いた顔というのは初めて見たな。感慨なんて物は無いが、流石に少し驚いた。コイツも人間並みの感情はあったのか。泣いている理由はよく分らないが。

「戻るじゃなく、考えるって言っただろ。俺は」
「知らない知らない知らない! わかんない! もう! 昨日からキョンが何言ってるのか全然わからないっ!」
 顔を真っ赤にして大粒の涙をぼろぼろと零し、イヤイヤと頭を左右にぶんぶんと振りながらヒステリックに叫ぶ。
「だから言ってるだろ。俺はお前の変な団体を抜けるって――」
「嫌よ! 嫌! 聞きたくないっ!」
「いい加減にしろよ! 聞けよっ! 俺は、」
「イヤイヤイヤイヤイヤイヤ嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌あああっ!! 
 そんなのっ、絶対に、いやぁあああああああっっ!!!」
「……っ」
 俺の言葉を聞こうとしない。両手で自分の耳を塞ぎ、壊れた玩具のように嫌と繰り返す。
 元々可笑しかった頭を辛うじて堰き止めていた取っ掛かりが取れちまったようだ。
 俺は大きく息を吸い込んで、
「何度も言わせるなよ! 辞めるんだよ! ていうかもう辞め――」 
 怒鳴るのを止めたと思ったら、ブツブツと呟きだしたコイツを見て血の気が引いた。
「キョンが居ないと意味ないの。キョンが居ないと嫌なの。キョンが居ないと面白くないの。キョンが居ないと悲しいの。キョンが居ないと辛いの。
 キョンが居ないと寂しいの。キョンが居ないと退屈なの。
 キョンが居ないと嫌なの。キョンが、キョンが。キョンキョン、キョン……」
「……たん、だよ」
 うわぁ。流石にこりゃ不味い。ヤバイ。いっちまってる。
 からかってたつもりが、どうやら良い感じにぶっ壊してたらしい。
 とりあえず何とかしないと。後ろから刺されるのもゴメンだし、自殺されるのも気分が悪い。退部は決定だが、この場を納めるくらいには折れよう。

「落ち着けよ。落ち着けって! おい!」 
 両手首を掴んで、真正面から怒鳴りつける。
「ハルヒ!」
 名前を呼びながら、身体を揺さぶってみる。
 しかしコイツ……ハルヒは、小声で「キョンキョンキョン」と不気味に俺の名前を呟き続けるだけだ。
「ハルヒ! ハルヒ! ハルヒっ!!」
 何度か繰り返すが、まったく効果が無い。
 糸の切れた操り人形のように体はぐったりとしてるものの、呟きは相変わらすだ。
 涙と鼻水を垂れ流し、虚ろな瞳で俺の名前を呼び続けている。
 マジカヨ。手遅れか? 死人が出るのか? バカ。バカハルヒ。俺はお前の眼の前に居るだろうが!

――白雪姫
――Sleeping Beauty

「……」
 それは天啓というか、悪魔の囁きというか。
 突如閃いた……というか、脳裏に過ぎったその二つの言葉は、確かに現状を打破できる天国への扉の鍵かもしれないが、同時に俺を奈落の底に叩き落す地獄の門を開く鍵でもあるだろう。 
 あぁ、だけど、やらない後悔よりやる後悔。
 今のハルヒに負けず劣らずイカれていた女の言葉を自分を誤魔化すための免罪符にして、俺は自分の唇をハルヒの唇に押し付けた。

「あ……、キョン?」
「クソバカ野郎。やっと落ち着いたか」
 僅かの逢瀬。あのときの、まだ楽しかった頃の記憶が完全に蘇らないうちに、俺は唇を離した。溢れていたハルヒの涎が俺の唇にも付着して、二人の間に橋をかけていたのが気持悪かった。
「……」
「……」
 図らずとして、見詰め合う。
 何が悲しくてまたコイツとキスなどせにゃならんのだろう。
 コイツや、何があっても涼宮主義な狂信者に耐え切れなくなって退部したと言うのに。クソクソクソ……どうして上手く行かないんだよ。
「……はぁ」
 溜息を吐き出す。まぁ、退部することには変わりない。こんな事があったからと言って、考えを変える気もない。しかし……少しコイツらとの接し方は見直すか。今回のような事が何度もあったなら堪らない。クソッタレの古泉にもやりすぎたと……いや、アイツはどうでも良いか。
 そんなことを考えていたら、宇宙言語よりも意味不明な言葉が聞こえてきた。

「ちょ、ちょっと! いきなり何するのよ、エロキョン!」
「――は?」
「誰も居ない教室に連れ込んで、ご、強引にキスするなんてアンタ変態よ! この後は何するつもりだったのよ!?」
 先ほどとは違うだろう意味で頬を赤くし、そっぽを向きながら巻くし立ててくる。
 涙と鼻水と涎をはっつかせた顔のままでだが、虚ろだった瞳には生気が戻ってきている。だが、何となくだが濁っていた。
「まったく。油断も隙もあったもんじゃないわね」
「……」

 あー。
 なるほど。
 手遅れだったのか。

「……アンタ、このまま襲うつもりなんでしょ」
 ちらちらと此方を見ながら、可哀想なことを言うハルヒ。
「……別にアンタとするのは嫌じゃないけど。もっとムードとか、順序とか色々大切なものがあるでしょうに」
 お前は大切なもんが壊れてるんだよ。
「……アンタ私のことどう思ってるのよ。それくらい言いなさいよ」
 嫌いだ。大嫌いだ。
「私はアンタの事が大好きよ……。ねぇ、体目当てでも何でも良いから、傍に置いてよ。捨てないでよ。約束してよ。そうしたら、何しても良いから。何でもしてあげるから」
「もう喋るな」
 言って、おもむろに抱きしめた。このままコイツの言葉を聞いているとこっちまで頭がおかしくなりそうだった。力に任せて、思い切り抱きすくめた。
「ちょっと! 痛い……って、あぁ、ふーん……なぁーんだ。キョンも私のことが好きなんだ。そうなんだ。よかったぁ、あはは」
 そっと俺の背中に手が回される。歪な笑い声が蟲のように俺の頭の中をカサカサと這い回っていた。

「ねぇ、しないのぉ?」
 しないよ。するわけないだろ。
「どうして?」
 どうしてもだ。
「私はキョンが好き。キョンも私が好き。何の問題もないじゃない」
「少し静かにしてろよ。拭きにくいだろ」
 このまま帰らせるわけにはいかないということで、俺はハルヒの顔を拭いてやっている。
 その間中ハルヒは俺のどんなところが好きだとか好きだとか好きだとか、そんなことばかりを喋っていた。頭がどうにかなりそうだった。
「あ……ぁ、あぁ、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
 俺が少しキツく言えばすぐにコレだ。この世の終わりみたいな顔をして、嫌いにならないでだの、捨てないでだの、傍に置いてだの、一緒に居てだの、何度も何度も何度もごめんなさいを繰り返す。
「捨てないよ。嫌いにならない。だから今すぐ止めろ」
「……うん。やっぱりキョンは優しいのねぇ。よかったぁ。うふふ」
 濁った目でえへへと笑うハルヒ。桜色の唇を小さく開閉させて、ちゅ、ちゅ、と音を立てるのがキスをせがんでいるのだと気がついたけれど――そんなこと出来ない。したくない。
 気づかない振りをして、制服の乱れも直してやった。

「むぅー」
 そんな顔されても、キスなんかしない。
 それよりそんな目で俺を見るな。何度も言うけどさっきから頭がおかしくなりそうなんだ。
「……恥しいじゃない」
 なら自分でやれよ……などと言うものなら、また泣き出してややこしいことになるので黙っていた。
「くすぐったいわよ。何処触ってるのよ、エロキョン」
「動くなって……ちゃんとしないと恥しいだろ」
「だから恥しいって言ってるじゃない」
「そういう意味じゃないって……ほら、終わったぞ」
 最後にスカーフを整えてやった。ぽん、と軽く肩を叩く。
 俺が制服を直している間じっとしていたハルヒは、はにかみながら笑い、
「やっぱりやっぱりキョンは優しいわぁ」
 重量がありそうなほどの大きな吐息を吐くと、頬にふんだんに朱を散らして目を細めた。
 背筋がぞくりときたね。色んな意味で。ストーカーにつけ狙われるってこういう気持なんだろうな。
 分りたくもなかったが。
「ほら、立てよ」
 冷や汗をかきつつ、手をとって立たせてやった。
 やおらしおらしいハルヒは「ありがと……」と、もじもじと指を絡ませている。
 はっきり言って不気味だ。奇奇怪怪だ。もっとお前らしくしろよ。俺の嫌いなお前で居ろよ。それじゃないと、俺はお前を悪者に出来ないだろ。
「……帰るぞ」
「うん。キョンがそうしたいんなら、良いわよ」 
 にこりと微笑んで、俺の左腕に腕を絡ませてくるハルヒ。振り払おうとして……止めた。また泣き出されたら堪らない。ハルヒに見えないところで、俺は顔を歪ませ歯軋りした。


 感情を昂らせないように気をつけつつ、何で俺がこんな目に遭わないといけないんだろうと恨めしく想いつつ、腕に感じるハルヒの柔らかさや温かさに劣情を感じぬよう、なるべく早足で歩いた。
 ……しかし歩きにくい。周囲からの視線も痛い。
「おい、ハルヒ」
「んー? なぁに、キョン」
 ご満悦なのか、生まれたての小鳥の羽毛のようにへらへら笑いながら上目遣いで猫なで声を吐くハルヒ。
 止めろ気持悪い。そう言えないのに腹が立ち、ストレスが溜まる。 
「歩きにくくないか」
「全然」
「なら暑いだろ。こんなにくっついてたら」
「そうね。でも平気。キョンが近くに居るって感じがして、嬉しい」
 何を言っても無駄なようだ。
 正直にキツく言えば離すだろうが、泣き出すだろう。……まいった。だから頬を染めるな。
「ねぇ、キョン」
「何だよ」
「このまま帰っちゃうの? 何処か行きましょうよ」
「課題が溜まってるんだ。勘弁してくれ」
 本当に課題が溜まってるし、こんなハルヒと何処かに行くなんて考えられない。
 ハルヒは「うー……」と唸っているが、俺の成績が芳しくないのを覚えているんだろう。駄々をこねるようなことは無かった。
 その成績が下がっている理由の半分はオマエラの所為だという事には……気がついている訳無いか。
 ていうか幼児退行してないか、コイツ。俺の気のせいか?
「分ったわ! じゃあ、私が手伝ってあげる!」
「……は?」
 と、俺がメノウなブルーに浸っていると、また宇宙言語並に意味不明なことを言い出した。

「何だって?」
「だから。私が課題をするの手伝ってあげるって言ってるのよ」
 名案でしょ? と絡ませてきている腕に力が入る。
 嫌な記憶が蘇る。昔にもこういう事があったぞ。
「そうと決まったらこのままキョンの家に――」
「駄目だ。来るな。決まってない」
「良いじゃない。キョンの意地悪。……せっかく二人きりになりたかったのに」
「二人きりって……お前、変なこと考えてるだろ」
 頭痛がしてきた。
 本当にコイツは何なんだ。
「何よ何よ。先にキスしてきたのはキョンじゃない。しかも強引に」
「それはお前が……いや、でも、順序が大切とか言ったのはお前だろ」
「何よ何よ何よ。しても良いって言ったでしょ。好きって言ったじゃない。キョンは私としたくないの?」
 その通りだこの馬鹿野郎。
 そう怒鳴りつけてやれたらどんなにすっきりしただろうか。
「……ねぇ、キョン」
 畜生。声を震わせるな。目尻に涙を溜めるな。ぎゅっと腕にしがみ付くな。
 何でこう、変なところで妙に同情的なんだ、俺は。憐憫でも感じてるのか、コイツに。――そうかもしれない。あぁ、最悪だ。最低最悪だ。畜生。
「……したくなくはない」 
「本当……?」
「あぁ。ウソついてどうする」
「……へへぇ。そうよね! 私達、好きあってるんだもんね……うん。よかったぁ。やっぱりキョンは優しいなぁ」
 今日何度目だよ、それ。
 またもや俺はハルヒの見えないところで顔を歪ませた。見る人が見たら、俺から黒い瘴気が噴出しているのが見えただろう。

「じゃあな」
「うん。また明日ね、キョン!」
 申し訳程度に手を振ってやる。ハルヒは「さよならのキス」がどうのこうの騒いでいたが、どうやって嗜めたは覚えてない。覚えたくもない。
 腕がちぎれるくらいにブンブンと腕を振るその姿は、俺が曲がり角に消えるまでずっと其処に在った。

「最低だ……」
 溜息を吐き出して、自転車に乗ったまま道端の空き缶を思い切り蹴飛ばしてやった。
 もっとも、それくらいで晴れる苛々のモヤモヤでも無い。カランコロンという音にすら苛つくほどだ。
 明日から俺はどうすれば良いんだ?
 おかしな団体にはもう参加しなくて良いだろう。
 だが、ハルヒ……アイツには毎日顔を会わす。そのたびにさっきみたいな事をするのか?
 冗談。最低。最悪。
「毀しちまったのは俺だけどさ」 
 そもそも悪いのはアイツ等なのに。結局俺はこういう星の下でした生きられないってことなのか? えぇ、おい。クソッタレな神様よ。
「……はぁ」
 ……勿論神からの返答なんてものは無く。
 誰かさんの言うところでは神かもしれないハルヒはあんな状態。
 こんなところで無宗教を悔やむとはな。
 何でも良いから、縋れるものが欲しかった。

 誰か俺と入れ替わってくれないか。全財産なげうっても良い。
 溜息のバーゲンセールだ。欲しい奴は俺の所に来い。ただで売ってやる。
 こういうときに相談できる奴が居ない。何て俺は寂しい奴なんだろう。

――いっその事遊ぶだけ遊んで捨ててやろうか。今のアイツなら俺の言う事なら何でも聞きそうだ。
 
 そんな益体も無い事を考えつつ自転車を漕ぐ。
 最後のだけは少しだけ考えてみようか。……馬鹿か。
「……ん?」
 もう直ぐ家だというところで、俺の家の前に夕陽の中、北高の制服が突っ立っているのに気がついた。
「……お前か。接触してくるとは思ってた」
 自転車を止める。
 長門は微動だにせずに、何の感情も表情も無く口を開いた。
「今回の件に関して、情報統合思念体――特に急進派は高い興味を示している」
「……」
 相槌を打つ義理も、聞いてやる義理も無い。
 けれど俺は言葉に耳を貸さざるを得なかった。急進派という単語には、未だに感じるものがある。
「今回、我々は完全に観察に徹する。ほかの派閥も同意見。これは未だかつてない事態」
 ただ、と続け。
 珍しく長門は――ほんの数ミリだけ、眉をしかませた。
「私という個体は……」
 続きを聞かないように、俺は家に入り大きな音をたてて戸を閉めた。
 また朝倉のような奴が襲ってくることは無い、とそれだけ知れば充分だ。
「……あんな顔しやがって」
 玄関の戸にもたれかかり、俺は呟いた。
 馬鹿。馬鹿野郎。 
 俯いて前髪を掴む。こんなはずじゃなかったと、今更ながら俺の心は悲鳴をあげた。

「ねーえ、キョン君。猫なのにどうしてドッグフードなの?」
「あぁ。買うとき間違えちゃってな。でも捨てたら勿体無いだろ」
「ワンワン」
「あれれー? シャミの鳴声なんか変じゃなかった?」
「気のせいだろ」
「ニャンニャン」
 シャミセンを苛めても気分は晴れなかった。
 バリバリ引掻かれた。
 殴り返した。
 妹に怒られた。

 風呂に浸かって、ぼうっと天井を眺める。
 天井にぶつかった湯気が集まって水滴になり、自重が表面張力を上回って、湯船に落ちてきた。
 ぽちゃんという情けない音がヤケに浴室に響く。どうしてか、溜息が出た。湯気越しに見える灯りがキラキラと輝いてまったく綺麗だ。
「何やってんだかな、俺」
 色んなことに耐え切れなくなって、可笑しな部活を辞めた。
 アイツ等に冷たく当たって、キツくあしらって。そうしていれば、向こうから絡んでこなくなる……と、そういうはずだったのに。普通の高校生に戻れるとそう思っていたのに。
「ハルヒの奴、」
 大丈夫かな、という言葉を飲み込んだ。
 それだけは吐いてはいけない。この気持だけは持ってはいけないんだ。
 ――だったらどうして放課後の教室で俺はあんなことをしたのだろう?
「……本当に、何やってんだか」
 ハルヒの濁った目が、長門の――悲しそうな表情が、脳裏にこびり付いている。
 俺の問いに答えてくれそうな奴は、非常に残念なことに見当たりそうになかった。
 俺は優しくなんかない。


 浅い眠りを何度も繰り返した。
 当然寝不足だ。目の下にはうっすらとクマが出来ていた。
 ……憂鬱な気分を引き摺って登校する。
 心なしか自転車のペダルも重い気がした。天気も曇りだ。
 通いなれた筈の坂道が今更だが絞首台へ続く階段に見える。軽い眩暈。はぁ。
 しかし、そんな事より何よりも、
「キョン? 大丈夫? 顔色悪いわよ?」
 俺が家を出たときからずっと付いてくるコイツの声が一番鬱陶しい。
 玄関の戸を開けるなり、吃驚して尻餅をつくところだった。喜色満面の笑みをはっつけて「おはよ!」とのたまったコイツは、一緒に登校しようと思ってだとか何だとかで、三十分は俺の家の前で待っていたと言うのだ。
 その手に手作りの弁当まで引っさげて。
 ……また寒気を感じたね。それもおぞましい寒気。お前はストーカーかよ、という台詞を飲み込むのに苦労した。
「……寝不足なんだ。そういうお前は何時も元気だな」
「私の辞書に不調なんて言葉は無いのよ! ……そんなことより。駄目よ、夜更かししたら。風邪引いたらどうするのよ。まぁ、その時は私がつきっきりで看病するから大丈夫だけど……」
 嫌味だったんだが気がつかなかったようだ。
 それと看病なんか要らない。いや、出来るなら欲しいけど、お前だけはお断りだ。
「……頭に響くからもうちょい静かにしてくれ。割れそう、マジ」
 頭痛を堪えるような仕草をして、呻くように言った。
 そんな俺を見たコイツは、
「っ。その……う、ご、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい」
 案の定……俺の制服の裾を掴み、泣きそうな顔をしてごめんなさいを繰り返すのだ。
 大丈夫? 大丈夫? と俺の顔を覗き込んでくる。って良く見たら少し泣いてるじゃねーか。
 更に救急車を呼ぶだのと騒ぎだしたので、この辺で止めることにした。
「馬鹿、冗談だよ」
 言って、ポンと頭を叩いてやる。
 俺の顔は笑っているはずだが心の方はくすりとも笑っちゃいない。
 ハルヒはころりと表情を変え、うっとりとした声でやっぱりキョンは何だとか言い出した。幸せそうな顔だな、と思った。とても不幸せそうな顔だ。 
 二人で歩く坂道は、叩き潰した糞みたいに地獄だった。

 谷口やら国木田の能天気な顔が、髪の毛ほどの細い残像だけを残して、俺の記憶から消えた。
 ハルヒのことで何かからかわれたりしたような気がするが、覚えてない。
 俺の海馬には下らないことを刻む余剰スペースは生憎皆無なのだ。
 ハルヒが休み時間になるたびに何か喋りかけていたような気がするが、右の耳から入って左の耳から抜けていった、という事くらいしかこちらも覚えていない。
 あぁ、とか、うん、とか、そうか、と相槌くらいは打っただろうか。
 一度授業中にシャーペンで背中を突っついてきやがったが、睨みつけて「止めろ」と言うとお決まりのごめんなさいと共に大人しくなった。
「……やれやれ」
 漸く昼休みなった。漸くというのはおかしいかもしれない。ぼんやりとしていて、余り時間が流れていた実感が無い。
 だというのに、陰鬱で酷くよくない物が、俺の心の中に溜まっていくのは明確に感じ取れていた。
 そこに新たによくない物が追加される。
 朝、ハルヒが作ってきていた弁当だ。
 ……要らん、と突っぱねたら大泣きしたのでしょうがなく受け取ったが、喰わねばならんのか。
 鞄の中に鎮座する女の子した包みと、お袋が持たせてくれた御馴染みの包みを見比べて、溜息を吐いた。
 キンキンと癪に触る声がする。
「さぁキョン! 一緒に食べましょう!」
「……あぁ」
 料理の腕は何故か良かったからな、コイツ。と無理矢理に自分を納得させて、俺は鞄からピンクと白のチェック模様を取り出した。
 愛妻弁当じゃないのか、それ!? と騒いでいる馬鹿は誰だろう。良かったら変わってやろうか。寧ろ変われ。
「腕によりをかけたのよ!」
 ……蓋を開けて嘆息する。これだけ手の込んだ物、三十分やそこらでは作れないだろう。朝何時に起きたのだろう、コイツは。まぁ、そんなこと考えるだけ無意味だけど。
 機械的に箸を動かして、機械的に咀嚼した。
 悲しいことに美味かった。
「まぁまぁだな」
「そ、そう? よかったぁ。ありがと。えへへぇ」
 俺が食べている間は熊と対面したウサギのようだった顔に、向日葵が咲いた。

 腹ごなしの散歩は日課だ。
 これから夕食までの間にお袋の弁当も片付けないといけないので、体育の授業が無いのが恨めしい。
「腕組みも、手を繋ぐのも駄目だからな」
「分かってるわよ。学校だもんね。TPOは弁えないとね」
 ……当然のように、ハルヒはくっ付いて来ていた。 
 俺が弁当を喰ったのがよほど嬉しかったのか、スティックスの『Come sail away』のサビを繰り返し口ずさんでいる。鬱陶しいことこの上ない。
 着いてくるなと言うのは簡単だったが、泣いたコイツを嗜めるのは簡単じゃない。
 人目のない所、例えば体育館裏などでガツンと言ってやろうか――家の前で待つな、弁当作ってくるな、喋りかけるな――とも思ったが、そんな所につれて行けば、頭の回路が全部ショートしたコイツは、
「……良いのよ? ここでしても」
 濁った瞳を濡らして、そんなふざけた事を言い出しそうで。
 連日コイツの”女”の顔を見るなんて気持の悪いことをしたくない俺は、ストレスやフラストレーションを溜め込むしかできないのだった。どの口がTPOだなんて高尚なもんを吐き出してんだ、馬鹿。
「明日は土曜日ね」
「……」
「キョン? どうしたの、また気分悪くなった? 保健室行く?」
 一度無視しただけでこれか。
 どうやら覚えていない休み時間の俺は、相槌だけはきちんと返していたらしい。
「ぼうっとしてて聞こえなかっただけだ。心配すんな」
「そう? それなら良いんだけど」
「で、何だって」
 不思議探索だとか抜かしたらどうしてやろうか。
「あ、うん……あ、明日の事なんだけど。キョン、暇かなぁ、って」
 頬を染めて、胸の前で指を絡ませたり、離したり。俯いて自分のつま先を見ていただろう瞳が、「って」の所で上目遣いに俺を見た。
 悪寒が背筋を走るのを感じながら、俺は即答していた。シークタイム一ミリ秒以下。
「用事がる。大事な」
「……大事な、用事?」
「あぁ。メチャクチャ大事な用事だ」
 もしも俺が暇だと返答すれば、その次にデートとかそういう類の台詞が飛び出すに決まっていた。
 大事な用事など無いが、ここで突っぱねておかないといけない。傷口が広がる前に。
 だとういうのに、
「……あたしよりも、大事?」
 自分の制服の裾をぎゅっと握り締めて、ハルヒは上目遣いの瞳をふるふると震わせている。
 マスカラで縁取りした安物の黒曜石にはありありと恐怖が浮かんでいた。
 ――こいつ、化粧してるのか。
 意味の無い思考が頭を駆け巡った。どうしてお前は自分で自分の傷口に塩を塗るんだ。
 そんなこと聞かずに「そうなんだ」で済ませば良いじゃないか。また暇が出来たら教えてね、と当たり障り無いことを言って、話題を変えれば良いじゃないか。
 あぁ、お前よりもな。
 と言われるかもしれない事を自分でも予期しているから。だからそんな目をしているんだろう? この糞馬鹿野郎。
 自分に自信が無いから。いつも根拠のない自信と傲慢に溢れていたお前が、紋章めいてすらいたそれらをどこかに落としてしまっていたから。
「……ねぇ、キョン」
 蚊細い声。
 俺はお前なんか大嫌いなのに、お前がぶっ壊れているから、
「馬鹿。そんな訳あるか。それに、明後日なら空いてる」
 反吐を吐く気持でそんな事を言ってしまうんだ。

「本当!? よかったぁ!」
 大好きよ、キョン! と。
 抱きついてくるハルヒを、俺は無感動に抱きとめた。

 午後の授業時間は、午前中に輪をかけてぼんやりと流れていった。
 背後からは如何にも「私しあわせです」というオーラが漂ってきている。クラスの皆からは、微笑ましい視線や恨めしい視線が集まってきている。
 首元には、生暖かい吐息の温もりが残っている。
 もうどうにでもなれ、と全部投げ出せたらどんなに楽だろう。
 でもそれでは負けだ。完敗だ。だから、俺は踏ん張らないといけない。
 弱い俺をたたき出して、冷徹で冷酷な俺に生まれ変わって、可笑しなヤツ等と決別しないといけない。
 そう決めた。そして退部した。……だというのに、俺は一番嫌いだった――だった?――奴と、今は格別にぶっ壊れてしまったソイツと、日曜日にデートする約束なんかをしてしまっている。
「――」
 脳裏に過ぎるその考えは、滑るような自然さで俺に降って来たものだ。 
 ……この状況は、アイツの能力によるものなんじゃないか。
 その考えは、ていのいい逃げ道のようであり、それでいて気を抜けばストンと腑に落ち納得してしまうようなシロモノだ。
 天高く張られたロープの上を命綱無しで歩くような危うさがあり、一度足を踏み外せば、奈落の底に落ちて行く。
 その考えを――この今の俺の状況が、本当にアイツの力の所為だとすれば、まさしくこの世は地獄だ。
 俺がどんなに抗おうと、結局はアイツの望む状況と結果にしかならないのだから。
 どんなに誇り高い決意で臨もうと、俺の目的が果たされることが無い世界。ただひたすらに、アイツが”しあわせ”になるよう成っている世界。
「……はぁ」
 答えは出ない。俺が弱いのか、あいつの力の所為なのか。分らない。
 こんな事になるなら、ニヤケ野郎を殴るんじゃなかった。それともヒューマノイドに聞けば分かるだろうか。ただ、アイツは観察に徹すると言った。それに、もうあんな顔は見たくない。
 溢れそうになる陰鬱に何とか蓋をしながら、俺は机の中に入っていた一枚の便箋に視線を落とした。
『放課後、部室に来て下さい。お話があります。朝比奈みくる』
 ――今起こっている出来事は全て既定事項です。
 そう言われたら、俺の頭も狂うだろうか。

 終わりのホームルームが終わる。
 岡部が昨日学校の近くに不審者が出たから気をつけろ、と真面目な顔で。
 なんでも例のお嬢様学校の生徒が被害にあったらしい。
 いつにない岡部の態度だったからか、何故か耳に残った。背筋の裏にぞくりという嫌な予感は、気のせいだろう。不審者も何が悲しくて俺のような男を襲うんだ。……男を襲うから不審者なのかもしれないが。
「キョン! 一緒に帰りましょ!」
「帰らない。少し用事がある」
 100ワットから、一気にブレーカーダウンへ。
 あたしよりも大事なとか抜かす前に、俺はハルヒの頭にぽんと手を置いた。
「中庭かどっかでジュースでも飲んで待ってろ」
「う、うん……」
 ころりと変わる表情や態度に、単純なやつだと心内で失笑する。
 ――俺の気もしらないで。
 このまま頭を掴んで机に叩き付けたやりたいという衝動は、理性がおさえ込んだ。
 うっとりとした顔で自分の頭を摩るハルヒを残し、手を洗ってから、俺は部室に向った。

「……っと」
 ノックをしかけた手を慌てて引っ込める。
 何で気を遣わないといけないんだ。それに、アイツの言う分には退部になったのだから着替えてるわけであるまいし。
 チッ。舌打ちする。それを習慣としてまだ覚えている俺の頭や身体に。忌々しい。
「入りますよ」
 一応の上級生に対する礼儀でそれだけ言いつつ、返事もないうちに扉を開けた。はじめから返事を聞くつもりはないが。
 ……それにしても。
 話ならどこでも出来るだろうに、わざわざこの部屋を指定したのは俺に対するあてつけか嫌がらせだろうか。天然役立たず未来人のことだから、そこまで考えてるとは思わないが。
 アンタの無能ぶりに嫌気がさしたんだよ! とでも言ってやろうかと考えていた俺の目に飛び込んできたのが、
「え、あ、キョンくん、やぁ、だめぇ」
 なかなか扇情的な下着姿だった。
「……」
 ――しばしの間、唖然。なんともいえない空気。
「……はぁ」
 沈黙の天使を溜息で吹き飛ばして起動再開する。
 思わず「すいませんでした!」と叫んで部室から飛び出しそうになる軟弱な俺を追い出して、無言で俺はパイプ椅子に腰掛けた。
「うみゅうぅ……」
 下着姿のまま固まって、真っ赤な顔で意味不明言語を呻く未来人さん。
 瞳を潤ませて俺を見つめているが、誘っているんだろうか。んなわけない。出てって欲しいんだろう。生憎だがそうしてやるつもりはもう無いが。
「固まってないでさっさとして下さいよ」
 呼び出したのはそっちだろ、と。机の上に置かれていたメイド服に目をやりながら、呟いた。
 コイツもさっきの俺のように「習慣」に囚われているんだろう。この部屋にきたら着替えて給仕活動しなければならないとかそんなのに。まったく律儀というか馬鹿というか単純というか。
「あうぅ……」
 やたら白くて柔らかそうな肌までほんのり朱に染めつつ、のろのろと動く未来人さん。
 素早く動くことは出来ないんだろうか。着替えるのかと思ったら、メイド服で身体を隠しはじめるし。
「で、でてってぇ」
 俯いて、耳まで真っ赤にして、クリオネが水をかく音のように小さく。
 少し前までの俺ならパブロフの犬の如く言われたとおりにしただろうが、今は苛々するだけだ。早くしてくれと言っただろう。
「どうして俺がアンタの言うことを聞かないといけないんですか」
 言いつつ、上から下まで舐めるように見てやった。視姦とでも言おうか。そんな趣味は無いと想いたいが――しかしまぁ、劣情を抑えるのが困難な体だった。性犯罪者にはなりたくないが。
「――犯されたくなかったら、さっさと着替えて下さい」
 なんなら手伝いましょうか? と笑顔で言ってやったら、かたかたと震えながらも物凄い速さで着替え始めた。途中何度か転んだりしたが。
 ……出来るんなら最初からしろよ。まったく。
 やれやれ、と肩をすくめた。一応言っておくが、犯す云々は冗談だからな。
「……ご、ごごめんなさいぃ」
 着替え終わるやいなや、縮こまってぺこぺこと頭を下げてくる。  
 何がごめんなのか。今までの俺を巻き込んだ騒動の全部か、それとも着替えが遅かったことに対してか。知るヨシもないが、その程度で許しが降りる訳が無いのだけは確実だ。
「ふひゅっ!」
 目を合わせただけで気持悪い悲鳴と共に後じさる。
 俺を見る半べその目には、羞恥と恐怖がごっちゃになっている。だから冗談だってのに……扱いづらいというか、面倒な。
 さっさと話だけ聞いてこの場を後にしたいと言う俺の願いはこのままでは確実に達せられそうにない。
 ――その話の内容如何によっては、頭が狂って本当に犯してしまうかもしれないが、とにかく冗談だと言ってやることにした。
「一応言っておきますけど……」
 びくん、と肩を震わせて俯く未来人さん。
「犯すとか冗談ですから。当たり前じゃないですか」
「ふぇ?」
 意味不明の呻きとともに、頭をゆっくりと上げる。
 あからさまにほっとしたような顔。
 そして「で、ですよねぇ」と小さな笑い、胸に手を置いてはふぅと息を吐いた。天然もここまで来ると脳に欠損があるんじゃないかと思えてくる。
 そんな可哀想な天然さんは俺が呆れているのにも気がつかず、
「あ、お茶淹れますね」
 てとてととコンロの方へ駆けて行き、がたごとと急須やら茶缶やらを弄りだす。
「この前買ったのは……あれぇ?」
 ふりふりと左右に揺れる形の良いお尻を眺めながら、溜息を吐いた。
 どうやらさっさと話をする気は毛頭ないらしい。
 暫くして「はい、どうぞ」と出されてきた湯のみを手に取り――そのまま投げつけてやろうと思ったが、これで最後だと一口だけ飲んだ。
「すご。まず。店で出されたら店長呼んで怒鳴りつけますね」
 本当は悲しいことに美味かったが。
「飲めたもんじゃないです。俺のこと馬鹿にしてるんですか」
 また半べそをかきだした未来人さんは、俺が茶の残りを床にぶちまけると本気で泣き出した。これ以上此処に居る気は無い。付き合ってられない。詰め寄って、俺は不機嫌な声を絞り出した。
「話ってなんですか。いや、一つ教えてくれるだけで良いです。これは”既定事項”なんですか?」
 口ではさらりと言ったが、内心は戦々恐々としていた。
 違うと言ってくれと懇願している俺とそれでも別に良いという投げやりな俺が混在している。
「どし、てぇ……ひどぃ、え、ぐぅ、ひっく、うぅ……ひっく、うぅ」
 恐かった。本当は答えなど聞きたくなかった。むき出しの心臓にナイフを突きつけられているような恐怖感。膝が震えるのを我慢しなかった。
「ひっく、ふぅ、うっく、うひゅぅ……」
 俺は今正常と狂気の境界線に立っている。どちらに一歩を踏み出せば良いのか。
 ぶっ壊れたハルヒの相手などしたくもない。
 それでも俺はしてしまっている。
 その原因は何なのか。俺が弱いだけなのか。それともそうなるように成っているのか。
「ひゅっく、うぇ、えぐ、ううぅ……」
 言ってくれ、早く。アンタの顔も見たくないんだ。泣いてる場合じゃないだろ、えぇ、おい。
「どうなんだよ! おい!」
 怒鳴りつつ服を掴んで前後に揺さぶった。
 小さな頭の真っ赤な顔がぐわんぐわんと揺れ、零れる大粒の涙が散らばって、はじける。
 メイド未来人は嗚咽を大きくするだけで、俺の問いには答えようとしない。くるしぃと呟くだけだ。
 ……苦しい?
 違う。違う違う違う。苦しいのは俺だ。アンタじゃない。何時も何時も苦しいのは俺だった!
「腹を刺されたのも、車にはねられそうになったのも、全部俺だろ!」
 ……どうしてか泣きそうだった。
 一時は楽しかったかもしれない思い出が、今は忌々しい単なる記憶でしかない。
「あ、ぐぅ、えふっ、ごめん、なざいぃ……」
「ごめんなさいで――」
 済むのかよっ! という、言葉を飲み込んだ。
 今はそのことはどうでも良い。今はこれが既定事項かそうでないのか、それだけ知れれば良い。
 それに――

「けふっ、うぐっ、う、けほっ」
 手を離す。青白くなったコイツ……朝比奈さんの顔を見て、少しだけ罪悪感。何も首を絞めるような真似はしなくてよかった。泣き喚かせる必要も無い。ただ、答えだけ聞けば良い。
 それなのにこんな事をしてしまったのは、昨日からハルヒがらみでストレスが溜まっていたからだろう。

 ――つまるところ、俺も既にどうにかしているのだ。

「すいません。俺、どうかしてるみたいです……」
 反吐を吐く気持で謝罪の言葉をひねり出す。
 解放されるや床に蹲った朝比奈さんの肩をそっと抱いて、背中をさすってやった。
 こんなことをした手前だ。嫌がれるかと思ったがそんな事は無かった。
「ううん。ごめんね。ごめんなさい、キョンくん……」
 それどころか、俺に謝る朝比奈さん。分らない。謝られる筋合いはふんだんにあるが、この状況でどうしてそんな台詞が出てくるだろうか。
「私、何も知らない、出来ない……だから、今までいっぱい迷惑かけたもんね。キョンくん怒ってもしょうがないもんね……」
 今日だって、私が呼び出したのにぐずぐずしてたから。お茶淹れるのも下手糞だから。
 と、泣きながらごめんなさいを繰り返す。俺の服をやんわりと掴み、鼻にかかった声で連呼する。
 ハルヒといい、朝比奈さんといい、昨日今日はこんなのばかりだ。
「――」
 何も言うことは無い。朝比奈さんの言うその通りだったし、今更謝られてもどうしようもない。
 ……まぁ、お茶をぶちまけたのと首を絞めた形になってしまったのは俺が悪かったが。
 だからと言ってもう一度謝る気にもなれず、俺は無言で背中を摩るのを続けた。
 本当に、どうしようもない。

「んしょ」
 時間にすれば五分も無かったかもしれない。けれど、酷く長い時間が流れたような気分だった。落ち着いたらしい朝比奈さんは、俺の腕の中からよろよろと立ち上がると、メイド服の裾で顔を拭った。
 俺もならって立ち上がる。とつとつと朝比奈さんが語りだす。
「お話っていうのはね、キョンくんの退部のことと涼宮さんに辞めなさいって言われたことだったの。どっちもいきなりで吃驚しちゃって……」
 あぁ、なるほど。それだけで理解する。
「――つまり、これは既定事項では無いんですね」
「はい。少なくとも私達の歴史とは違います……ついでに言っちゃうと、涼宮さんの力も関係ありません。古泉君がそう言ってました」 
「そうですか。良かった」
 ほっと息をつく。そんな俺を見て、朝比奈さんはぷりぷりと怒り出した。
「良くないです。このままじゃ私たちの未来が……あっ」
 言ってからしまったという顔をする。強張った俺の顔を見てびくんと肩を震わせる。やれやれ。分かっているんだったら言わなければ良いのに。
「――俺の未来は俺が作るもんですから」
 聞きたいことは聞いた。これ以上どうにかなる前に、俺は部室を出た。
 その間際に――本当にごめんなさい――悲しそうな声が聞こえた気がしたが、気にしなかった。

 中庭にも何処にもハルヒの姿はなかった。
 そんなに長い時間が経ったとは思わないが、待ちくたびれて帰ったのだろうか。
 そんなことを思いつつ、下駄箱まで来て俺は鼻から息を吐いた。そうだよな。帰ってるわけないな。
「……ふん」
 俺の靴箱の前でハルヒが体育座りをしていた。
 片手にオレンジジュースのパックを握り締めて。
「あ、キョン! 用事はもう終わったの?」
 俺を見つけるやいなや、立ち上がって飛びついてくる。
 新しい玩具を買って貰った幼児のように嬉しそうだ。相変わらず瞳の濁りはあったが、本当にしあわせそうな顔をしている。
 ……あぁ。どうしてだろう。ハルヒの笑顔につられて、俺の顔も僅かだけ綻んでしまった。
 俺の頭もハルヒと同じくらいに壊れてしまっただろうか? それとも既定事項ではないと聞いて気分が良かったのか。分らない。けれど、嬉しそうな奴の機嫌を損ねてやろうという気分にはならなかった。
「待ったんじゃないか? 悪かったな」
「う、ううん。良いの。ちゃんと来てくれたから」
「来ないかも、って心配だったのか」
 だから下駄箱で待っていたんだろうな。靴を履き替えないと帰れない。
 ハルヒは困ったような顔をしながら、少しだけ、と呟いた。
「心外だぜ。俺は約束は守る男だぞ」
「そう、そうよね。ごめんなさい。キョンは優しいもんね」
 約束を守るのと優しいのは関係ないと思うが、まぁ良いか。
「喫茶店にでも寄って日曜日のこと話すか」
「う、うん……」
「……?」 
 おかしいな。喜ぶかと思ったが、何故か歯切れが悪い。おまけに怪訝な顔をしている。
 不思議に思っていると、ハルヒは俺の身体に鼻を近づけて、すんすんと匂いを嗅いだ。
 何してるんだ? と今度は俺がいぶかしむ。
 俺から離れたハルヒはそれまで怪訝だった顔を――眉を顰め、目を吊り上げ、不機嫌にしたと思ったいなや、
「……この香水の匂い、用事って、あの女と会ってたのね!」
 地獄の底から響く怨嗟のような声で、そう叫んだ。

「え?」
 何を言っているのか一瞬分らなかった。理解できなかった。
 豹変したハルヒの表情と剣幕に思わず一歩二歩と無意識に後ずさる。
「何を――」
 言っているんだ、と続けられなかった。
 ハルヒは呆然としている俺に詰め寄ってきて、物凄い力でネクタイを引っ張った。急激に首を絞めた苦しさよりも、恐怖の方が大きく沸き起る。
 俺の顔に自分の顔を近づけ、ハルヒはまた叫ぶ。
「どういうことなのよっ!?」
 耳を劈く怒声。 
「……い、いや、朝比奈さんに、呼び出されて」
 それに対し、俺は反射的に答えていた。
「部室に、行ってた」
「キョンの方から誘ったんじゃないのね……?」
「あ、あぁ」
 かくんと首を折るようにして頷く。
 言い訳をしたり、とぼけるといった選択肢は浮かばなかった。浮かぶ筈がなかった。
 鬼気迫るとはこういう事を言うのだろう。
 あの頃のハルヒでも見せたことの無いような、激怒も憤慨も通り越した感情の爆発だった。
 本能的に悟る。
 ヤバイ。ヤバイバイ。下手を打つな。恐い。誤魔化さず本当の事を言え。
「昼休みの間に、机に、手紙が入って、たんだ。その、退部のことで話が、って……」
 息苦しさに耐えて、声を絞り出す。
「……」
 ハルヒは濁った瞳を見開き、俺の瞳を覗きこんだ。
 決して視線を逸らしてはいけないと警鐘が鳴る。気持悪さと恐怖に負けそうになる。だが、逸らしてはいけない。その瞬間、咽喉元に噛み付かれてもおかしくないのだから。それほど――そう思うほど、今のハルヒは異常だった。
「――」
 心臓の鼓動する音が、早く、そしてやけに大きく聞こえた。
 ――ドクン、ドクン。
 耳の内に心臓があるかのような錯覚を覚える。締められ、渇いた咽喉。けれど唾液を飲み込むことすら出来ない。

「……そうよね。うん、そうに決まってる」
 ――時間が流れるのが遅かった。
 永遠にも感じた数秒間の後、ハルヒはぼそりと呟いて、何度も頷いた。
 何かに酷く納得したようだった。俺の言い分を聞き入れたのだろうか?
 般若のような形相が、元の表情に戻っていく。ネクタイを握る力をふわっと緩まった。いや、離した。
「げ、ほっ、ごほっ、……けほっ、つはっ、はぁ――」 
 首が解放され、スムーズに呼吸できるようになる。
 足に力が入らなかった。よろめき、方膝をついて、咽喉に手を当てて思わず咳き込んだ。
 ドクンドクンと、心臓はまだ高鳴っている。恐怖も消えず、鼓動も暫く治まりそうに無かった。
「……キョンは誰にでも優しいから、勘違いしてるんだわ、あの女」
 ふと、よく分らないことをつぶやき出す。
 怪訝に思う。いったい、何を言っている……? 
 気味の悪いことに、声音には何の感情も含まれていなかった。
 目線だけをゆっくりと上げて、ハルヒの顔を見る。
「キョンは私の物なのに、あの体で誑かして……」
 顎に手をあてて、ぶつぶつと。
 言っていることはオカシイが、その姿は一見落ち着いたように見える。
「……嫌がるキョンに無理矢理せまったのね」

 ――見えただけだった。

「ムカツクわね。ムカツクムカツクムカつく……ッ!」
 
 忘れてはいけない。
 コイツはとっくにぶっ壊れているのだ。
 
「……意地汚い雌豚、殺してやる」

 濁り澱んだ黒く昏い瞳。焦点をあわせず、ただ虚ろに何かを見ている。
 ――能面のような顔には、狂喜があった。
  
「うん。そうよ。それが良いわ。名案だわ」  
 ――ねぇ、キョン? 貴方もそう思うでしょ?

「……」
 ハルヒは虚ろだった焦点を俺に合わせて、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
 背筋を何かとても嫌なものが這い上がるのを感じた。その問いに、俺はなんと答えたのだろうか。

 馬鹿、そんなこと止めろ――?
 思わない。何考えてるんだ、お前――?
 そうだな。それが良いな――? 

 分らない。分りたくもない。ただ、血の気が引く音が聞こえたのだけを覚えている。酷く昔の記憶が瞬間だけ、脳裏を掠めていった。涼宮ハルヒはあれでいてとても常識的だと。人が死ぬことなんて望んでいないと。誰が言ったのか。知らない。でも、俺も同調していた気がする。
 でも、今は。
 世界が反転した。俺は何も言っていなかった。口は間抜けに半開きになったままで、言葉を発していなかった。呆然とハルヒを眺めている。正視していない。ただ、視界の中に入っていたのがソイツだっただけ。あやふやだった。
 でも、今のコイツは。
 本気でやりかねない。いや、コイツは本気で朝比奈さんを殺すつもりだ。本気で名案だと思い込んで、本気で俺に同意を求めている。いやがるのだ、狂気の渦に、俺を巻き込もうとしている。
「……っ!」
 俺は辺りを見回した。――灰色になっていないか?
 立ち上がり素早く視線を巡らせた。けれど、世界は正しいままだった。
 グラウンドの方からは運動部の掛け声が聞こえ、下校せんと脱靴場を出て行こうとする後姿、笑い声。
「何してるの、キョン? ねぇ、どう思う?」
 ハルヒが近づいてくる。能面に歪な笑みをはっつけて、三日月に吊りあがる口は骨で作った釣り針のよう。くすくすくすと笑いがなら、俺に手を伸ばしてくる。
「……来るな」
 本当に俺の物なのかと思うほど、低い声だった。
 ……気持が悪い。恐い。
 ……気味が悪い。逃げろ。
 本能も理性も、満場一致で同意見……本気でコイツには拘わってはいけない。
「……キョ、ン?」 
 ハルヒが何を言われたのか分らないと、怪訝な顔をしている。
 何だ、聞こえなかったのか?
 何度でも言ってやる。そして、いい加減にしろ。本当に手遅れになる前に。いや、そんなことはどうでもいい。そんな顔で俺に近づくんじゃない!
「何言ってるんだよ、お前。殺すとか意味わかんねぇよ、冗談にしちゃあ趣味が悪すぎるぞ!」
 俺はハルヒの手を思い切り叩いて払いのけ、大声で叫んでいた。
「じょ、冗談なんかじゃ……」
「……なぁ、止めろよ。そんな顔するなよ。そんな声出すなよ! 止めろよっ! 来るな、寄るな、触るな、馬鹿野郎っ!!」
 すがり付いてこようとするハルヒを避ける。
 伸ばされてきた手を、再び思い切り払う。痛いよキョン、という妄言。止めろ。
「止めろ、止めろ、止めろぉぉぉおおおっ!!!」
 叫んで、咽喉の震えるままにありったけの感情を吐き出して、俺は駆け出していた。
 上靴のまま外に飛び出して――すれ違う間際のハルヒの顔は死人のようで――全速力で走った。
 自転車に跨って漕いで漕いで家に着き扉に鍵を閉めるまで、一度も後ろを振り向かなかった。
 振り向けばそこにアイツが立っていて、にこりと微笑み、または泣きながら、

――私の物にならないキョンなんか、死んじゃえ。

 狂気に任せ、凶器を突き出してきそうで。
 そんなものは幻覚だと言い聞かせても、夕飯も咽喉を通らず、まともに眠ることすらできなかった。電話は、鳴らなかった。

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