『敬愛のキス』



 突然だけど、男女の違いって色々あるわね。心身ともに。
 でもあたしは「女だから」という言葉があまり好きではない。
 だってその後に続く言葉たちは、あたしの行動を著しく制限させようとするものばかりだから。
 固定観念ほど煩わしいものはない。あたしはあたしなのに。
 あたしは自分のやりたいことは必ずやり遂げるし、一般論に捕われることもない。今までもこれからも。
 でも極稀れに、自ら限界を思い知るときもある。絶望にも近い憂鬱。なんであたしは「女」なんだろう。
 心身ともに。


 実は現在進行形で、そんな鬱々ど真ん中。
 何故かって?
 一つは、体。
 月一の厄介事が朝から始まってしまったから。今回に限って重い。下腹部の自己主張が激しい。薬飲もうかしら。
 もう一つは――
 あたしは机に突っ伏していた頭を少し上げ、目の前の紺色のブレザーを睨んだ。
 今は数学の授業中。教師が三角関数の合成の成り立ちを証明している。
 とどのつまりが、加法定理の逆バージョンでしょ。十五分も使うことかしら。
 キョンは理解――してないわね、絶対。こんな証明ノートにとったってテストでは何も役に立たないわよ。
 ホントバカなんだから――
 じっと見慣れた背中を睨み続けながら、あたしは心の奥底に閉まい込んでいた愁いの種を思考の表層に浮かべた。
――なんでペアになれないんだろう。
 恒例の土曜の不思議探索で、あたしはキョンと二人になったことが一度もない。見事なまでに。
 先週の土曜もなれなかった。
 折角くじ引き制にして、「偶然」という自然な形を作りたいあたしを嘲笑うが如く。
 みくるちゃんや有希、古泉君でさえ何度かキョンとペアの組になっているのに。
 どうして――
 そこであたしはまた机に突っ伏した。
 下腹部が定期報告のようにまた痛み出した、
 のもあるけれど、何よりそんなことでいちいち落ち込む自分に嫌気が差したからだ。
 このまま夢の世界に逃げてしまおう。どうせ授業はあと問題演習だけなんだから。



「ハルヒ」
 暗闇の中であたしを呼ぶ声が聞こえる。
 結局夢は見なかった。見たけど覚えてないのかもしれない。
 意識を覚醒させながら暗闇の中でその声を聞いて、少し苛立ちながらも喜んでいる自分を発見する。
 あたしを「ハルヒ」と呼ぶのは学校で一人だけ。それだけのことが、あたしの憂鬱をまぎらわす。
 あたしは瞼を開け、ノロノロと顔を上げた。
 教室はざわめいていて、どうやらいつの間にか休み時間になっていたらしい。
「なんか調子悪そうだな。大丈夫か?」
 キョンなりに気遣ってくれている。また私の心にわだかまっていた暗雲が薄らいだ。
 いつも何だかんだ文句を垂れるけどキョンはホントは優しい。無器用だけど。そこがまた安心する。
 でもキョンは鈍感だから、あたしの調子悪い原因はわかってないわね。
 いっそここで「生理中だから」と言ってみたら、どんな顔をするだろう。
――言ってみようか。
 視線を前に戻すと、キョンと目が合った。
「……」
「? どうした?」
 言おうとした台詞はキョンの目を見るなり喉の奥に張り付いて出てこなかった。
 確かにキョンがどんな反応をするか見てみたい気もしたけど、言ってしまった後自分にまで羞恥が降りかかってきそうだったのだ。
「……何でもないわよ」
 そっぽを向いて自分勝手な気恥ずかしさを誤魔化した。キョンはさぞかし怪訝な顔をしていることだろう。
 あたしは結局『女』なのだ。
 まだ付き合ってもいない、でも好意を寄せた異性に、自分が女である証をさらけ出すことができない普通の『女』。
 折角薄れてた憂鬱が復活して、あたしはキョンの「酷いようだったら保健室いけよ?」という言葉に何も応えなかった。



 昼休みになるや否やあたしはポーチを取り出してトイレに向かった。
 厄介事の処理をした後洗面所の前で薬を取り出す。教室では取り出しにくいから。
 そのまま教室に戻ってポーチだけカバンに閉まい、また教室を抜け出した。学食に向かう。
 いつもより足が重く、あまり食欲もない。案の定、学食に着くと混んでいて、並ぶ気も失せた。回れ右をして自動販売機に向かう。
 オレンジジュースを2個買った。どこで飲もう。
 教室に戻る気はなかった。
 多分あの席でご飯も食べず突っ伏し続けていたら、キョンが見兼ねて保健室に連れ込みかねない。
 そんな気遣いは嬉しいけれど、今回は勘弁してほしい。なにせ原因が原因なのだから。
 仕方なく部室に向かう。
 扉を開くとやっぱり有希がいた。
 あたしが入って来てもまったく無反応で、黙々とページを捲り続けている。
 あたしは団長席ではなくて、いつもキョンが座っている席に腰をかけた。
 一つ目のオレンジジュースを飲み干した辺りで、また鈍痛の波が来た。堪らずポケットの薬を飲み下す。
 しかし飲んだ薬が速攻で効くわけもなく、あたしはしばらく長机に顔を伏せて、痛みをやり過ごしていた。



 何分経っただろう。
 ふと視線を感じた。
 僅かだけ顔を上げると、有希がさっきまで本に向けていた透明な目でこちらを見ていた。
「……何?」
「具合いが、悪い?」
「生理中なの」
 キョンには言えなかった台詞がサラリと言えた。有希は同性だし気兼ねするような関係でもないしね。
「生理とは月経のこと?」
 確認をとるような有希の言葉。
「そうだけど……」
「そう」
 有希の反応が普通とちょっと違うのは前からだけど……
 あたしは訝しんだ。
「有希だって『ある』でしょ?」
 有希はあたしの言葉に僅かに首を傾げた。横に。
「もしかして……まだなの?」
 これには縦に首を傾げた。やっぱり微かに。
 なんかその事実は有希らしいと言えば有希らしいんだけど、高校生になっても生理が来ないのは問題なんじゃないの?
 これは一度みくるちゃんも交えて話し合う必要があるわね。
――今は無理だけど。
 痛みが少し収まっていた。
 代わりに頭が重い。睡魔が襲ってきたのだ。
 昼休みはまだあるし、少し眠ってしまおう。今日は寝てばかりね。



 覚醒時ってまず聴覚が働くみたい。
 暗闇の中あたしは遠くに野球部の掛け声やら、どこぞの運動部のジョキングの掛け声、知らない女子の「じゃあねー」という高い声を聞いた。
 その外部情報によって脳がある事実を叩き出す。
 あたしはその事実を確認すべく暗闇から脱出――つまり、目を開けた。
 夕焼けに染まった部室。今は放課後なのだ。しかも日が随分傾いているから、もうすぐ下校時間ね。なぜか有希もみくるちゃんも古泉君もいないのは置いといても予想通りの光景、
 と言いたい所だけど、目を開けて一番に飛びこんできた映像はあたしの予想外どころか想像の範疇も超えていた。

 なんなのかしら、これ。

 目前30センチにキョンの寝顔があった。
 マヌケ面。でもいつもあたしに向けるしかめ面より愛嬌があるわね。
 実は夏の合宿のとき撮った寝顔もあたしの宝物の一つになっている。その宝物の実物版が目の前にある。いつの間にか心臓が早鐘を打ちはじめていた。
 さらにあたしの心拍数を撥ね上げる事実が一つ浮上した。
 あたしとキョンの顔の間には、お互いの手が置いてあった。
 正確に言えば、机に置いたあたしの左手にキョンの右手が重ねてあった。

 ホントなんなのかしら、これ。

 まず顔が赤くなったのが自覚できた。そのあと体の隅々まで熱っぽくなっていく。重ねられている左手まで。
 めちゃくちゃ恥ずかしいわよ、めちゃくちゃ。
 まず自分の左手をキョンの右手から救い出そう。キョンを起こさないように。
 だってこの状態で起きたら、コイツはしなくてもいい言い訳並べて、あたしの気分を急降下させるに違いないから。
 あたしは左手をゆっくり自分の方にスライドさせ始めた。
 余談だけど、昼休みからずっとこの体勢で、尚且つキョンの手の重みも加わって、結構痺れてる。だから動かしづらい。
 結構苦労した挙句あと少しでキョンの右手から抜け出せる、と思ったとき、
 またしても驚くべきことが起きた。
 今にも逃げ出そうとしていたあたしの左手は一瞬の内に、キョンの右手に捕まり拘束されて――つまり強く握られていた。
 あたしは思わず「ふぇ!?」とかみくるちゃんみたいな声をあげてしまう。

 なななななななんなのよ、これー!!
 キョンの顔を見ると相変わらずマヌケ面で寝ている。
 つまり寝惚けて、あたしの左手を離すまいとした……子供みたいに。
 知らず口元が緩む。
 ダメ、完敗。コイツやるわね。
 あたしはそろりと体を起こした。背中がちょっと痛い。でも、薬のお陰か下腹部の痛みは潜まっていた。
 まあ薬のせいで放課後まで寝てしまったんだけど。
 そこであたしは自分の肩からずり落ちるものに気付いた。
 紺色のブレザー。誰の?
 答えは簡単。
 体を起こしたことで視点が変わり、キョンはブレザーを着ていないことに気付いた。
 ここであたしは嬉しいと思うより先に、「コイツらしくないわね」と苦笑した。もちろん嬉しいことには変わりないんだけど。
 空いてる右手でブレザーを掛直す。すっぽり肩が包まれた。なんか心地好くて安心する。
 やっぱりあたしより大きい。手も何もかも。キョンは男なんだ、と改めて感じる。
 しばらくそのままキョンの寝顔を眺めていた。ぼんやり何でコイツ一人で残っているのか考えを巡らせる。
 いつも通りみんなは部室に来て、あたしが寝ているし具合いも悪そうだったから今日は解散しようとキョンが言って、3人のうちの誰かがキョンにあたしが起きるまで待っててあげろと言った。で、なかなか起きないあたしの側でコイツも寝てしまった、てところかしら。
 ブレザーはキョンの無器用な優しさ。午前中から具合い悪そうに見えたあたしに対する気遣い。
 ホント変なところで律儀なんだから。
 重ねられていた手については……考えるだけで恥ずかしいから止めておこう。
 右手の人指し指でキョンの頬をつついてみた。
 起きない。
 妹ちゃんから聞いてたけど、ホントに一度寝たらなかなか起きないみたい。
 イタズラ書きでもしてやろうかしら。
 まあ今回だけは肩のブレザーに免じて勘弁してあげるけど。
 頬をつついていた指をキョンの右手の甲に移動させた。あたしの左手を握ったままの大きくて華奢な手。
 ああ、キョンの手って結構好きかも。あたしはその甲を撫ぜた。

――なにしてんの、あたし。

 我に変えるとかなり恥ずかしいことをした気がする。なんかヤラシイわ。
 うーん、でも……
 もうちょっと触れたい。
 あたしは自分の右手でそのままキョンの右手の指を包みこむ。
 ドキドキする。今からすることを意識すると顔が赤らんでしまう。
 でも今したいのよ。
 あたしは意を決して、キョンの右手の甲に自分の唇をあてた。
 敬愛の印。
 あんたの無器用な優しさに対するね。



 さて暗くなってきたことだし、そろそろ叩き起こして帰るとしましょ。
 もちろん家まで送ってもらうわ。



 だってキョンは男であたしは女なんだから。



──終わり




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