8,彼女のやりかた、彼のありかた


 長門と分かれて部室へと向かう道すがら、一人になってようやく落ち着いてきた俺はしかし、整理してみるとどうにも腑に落ちない話ではないか。

 クリスマス以降の未来が無い。いや、これは別にいつものことだし正直「またか」以外に感想は無い。そこは良しとしよう。

 でもさ、そんな時空的世界の危機に瀕しているってのにだ、なーんで俺みたいな平々凡々、特記事項に書くことは「特に無し」以外に思い当たらない高校生が必要なんだ?


 しかも、どうやら俺は女の子と会うらしい。それで長門いわく問題は解決するようだが、ぶっちゃけ意味が分からない。って言うかどうにも線が繋がらない。乗っかってんのは事も有ろうに全世界の未来とやらだ。おい、世界。お前はそんな正直、他所様からしてみればどーでもいいにも程が有る色恋沙汰に左右される体たらくで本当にいいのか?

 ……まだ色恋沙汰と決まった訳ではないけどさ。

 女性――長門からはキーパーソンの性別だけを聞いただけだからな。例えばそれはどう見ても恋愛対象にはならない子供であったりだとか、逆にお婆さんである可能性も十分に残されている。あるいは年齢の概念が通用しない長門の同僚であったり。

 ……あー、それは有りそうな話だ。自分で言っててなんだが、核心を突いた感が半端ではない。となると、長門の言う俺が会わなきゃならない人ってのは朝倉か喜緑さん辺りだろう。

 納得。確かにあの二人なら世界を左右する事だって出来る。それにしたって喜緑さんはともかく……朝倉か。一筋縄ではいかないだろうなどと考えてしまうのは経験則からなのがうら悲しい。出来れば余り会いたくはないのだが、そんな俺の気持ちを規定事項とやらは一つも汲んではくれないのだからして、俺に出来るのは腹を括る事だけなのだ。いつだってな。

 と、そんな事を考えている間に部室前に到着。さて、こっからはもう一つの、地に足の付いた方の問題に頭を切り替えよう。ハルヒの相手ってのは上の空で出来るはずもないし。

 ノックしてもしもーし。

「準備は出来てるから入っていいわよ、キョン」

 中からハルヒの声が聞こえる。ふむ、確かに国木田の言う通り、注意深く聞いてみれば確かに上機嫌が声にも見え隠れしているか。具体的には文末に音符を配置して表現するのが適当、みたいな。

 アイツの機嫌が良いってのは、正直手放しに喜んでいいことではない。俺は古泉とは違うのだ。今度は何をやらかすつもりなのか、悪巧みは良いが巻き込まないでくれ、もう勘弁してくれないか等々、ハルヒの悪行(に困らされた俺の過去)は枚挙に暇が無い。

 そう言えば準備って結局何だったのだろうか、と思いながら部室の扉を開ける。そして俺は固まった。

 それはまあ、ハルヒの仕業と言えなくもない。が、どちらかというと俺自身に問題の根は有ったように思う。

「おい、ハルヒ」

 なんとか我を取り戻した俺は「用意されていた」席へと座り、これまた「用意されていた」お茶で胸の内の苦いものを飲み下すと少女を見据えた。眼に毒って程じゃあない。だが、それにしたって新しい。

 いや、自爆を承知で言うならば。俺は一瞬目を奪われてしまったんだ。

「何、キョン?」

 眼を細めて笑うソイツの姿に。

「どうしてお前、メイド服なんだ?」

 文芸部室で待っていた我らが団長、涼宮ハルヒは事も有ろうに朝比奈さんのメイド服を着て俺を出迎えたのだった。

「分からない?」

 挑発的に微笑むハルヒは、いやコイツのルックスが群を抜いて秀でているというのは分かっていた事であって今更驚く事じゃない。メイド服だって見事に着こなし、違和感無く似合ってしまうのだってハルヒなら当然だろうとは思う。思うが、しかしそれはとても新鮮だった。

「……ダメだ、分からん」

 あるいはこの格好にも少女なりの理屈が有るのかも知れないが、それが俺に理解出来る内容だとは思えない。過去を振り返ってそうだったのだから、現在進行形も右に倣えで、多分未来もそうだろう。実はも何もハルヒを理解出来る日なんて俺には一生来ないんじゃないか。

 メイド服を着た美少女を見て、俺はそう結論付けた。

「はあ……そんな格好で一体何がしたいんだよ、ハルヒ?」

「何って分からない?」

 今、ここでこれから何が行われようとしているのか分かるヤツが居たら今すぐここに連れて来い。俺はてっきり進路指導的な話が行われるのだとばかり思っていた。準備ってのは職員室からその手の資料を借りてくる時間だと考えていた。

 それがなんだ?

 予想外の展開も大概にしろ。型破りイコール面白いとでも思っているのだとしたら今すぐその考えを改めろ。っていうか現実を見て、もう少しで良いから常識に迎合しろ。してくれ。して下さいお願いします。

 この件に関しちゃ俺が悪い訳でもないのに平謝りしてしまえそうだ。

 胸の前で腕組みをした少女は背筋を伸ばし、俺に向けて高らかに宣言した。

「進路指導をするわよ、キョン!」

「ちょっと待て! その格好で!? なんで!?」

 さっぱり意味が分からない。そのメイド服はなんなんだ。カエルでもバニーでもナースでもなく、なぜにメイドなんだ。困惑する俺を涼宮ハルヒは三秒ほどジト目で睨み付けた。その目は「なぜ分からないのか」と雄弁に語っているが、当然俺には分かるはずもない。

「……まあ、いいわ。この格好の事なら気にしないで」

 無茶苦茶言ってくれるな、おい。それを気にしない事がどれだけ高いハードルなのか……棒高跳びの世界記録なんか目じゃないぜ。 

 部室の中はいつもとは少し様子が違っていた。椅子は俺が今座っているこれと、そして机を二つ挟んでその対面に有るもう一つ以外片付けられている。机も同様だ。部屋の中心にセットされていないものはことごとく隅に追いやられている。

 進路指導、とハルヒは言ったか。それはまあ予想通りの展開だ。恐らくマンツーマンで潔く向き合う事を俺に強制する目的で不要な机や椅子は団長の手ずから排斥されたのであろう。結構な重労働であったろうに、ご苦労な事だ。

 まあ、けれども俺はハルヒの誘導にあっさりと引っ掛かっちまったので、コイツの目的は果たされた事になる。そりゃそうさ、マイ湯呑みでお茶まで用意してあればそこ以外に座る選択肢なんて考え付きもしなかった。

 部室に少し遅れてこいと言ってまで時間が欲しかったのは着替えではなくこのセッティングに、なんだろう。

 で、だ。今更だがどうしてこんなお膳立てまでされてしっかりとハルヒに向き合う必要が有るのだろうか? 別にいつも通りでいいじゃないかと俺は思うのだが。

 大体だ。真摯に向き合う相手はこの場合、ハルヒというよりは俺の未来、俺自身相手って事になるんだろうしさ。

「ちなみにそれはこのアタシみずから淹れたお茶だから、心して飲みなさい」

 ハルヒに促され……一口啜って感想、俺は朝比奈産が一番美味いと思う。

「どう? おいしい? ちゃんとパワーも込めておいたの!」

「ぶっ!?」

 い、今コイツなに物騒なこと口走りやがった!? パワーを込めた? それってのはアレか? 長門や古泉すら凌駕するエキセントリックハルヒエネルギのことか……って、いやいや。

 待て。待つんだ、俺。冷静になれ。ハルヒに自覚は無いんだ。それはつまり異物が混入しているかどうかは神のみぞ……ああ、もうなんでもいいや。どっちにしろどうせ俺には真相など分かりはしないのだから。

 魔法の言葉、明日どうにでもなーれ。

「むう、やっぱりみくるちゃんの淹れたお茶には勝てないわね……」

 ハルヒは眉間に皺を寄せて自分の湯呑みを見つめた。そりゃそうだろう。あの人はもうその道の探求者になりつつ有るからな。お湯の温度を測るといった細々した作業をまさかハルヒがしてるはずもなし。

 過程は必ず結果として現れるものなのさ。

「さって、キョン」

 跳び込むように対面の椅子へとに腰掛けた団長メイドは机に肩肘を突くと空いている方の手を俺へと伸ばした。中空でくいっと人差し指が動く。ちょっとツラ貸せよ的なアレだ、アレ。

「とりあえず、さっさと出すモン出しなさい」

 ……カツ上げされてる気分だぜ。何を要求されているのかは分かっちゃいるが、しかし金銭だったらどうしようなんて頭の隅で考えてしまう辺り、ハルヒの悪巧み顔は筋金入りのドロンジョ仕様だ。

「へいへい」

「へいは一回」

「へーい」

 言って俺は制服のポケットから少しくたびれた四つ折りの紙片を取り出した。勿論、例のSOS団式進路調査票だ。そこには俺の未来が詰まっている。未来は白紙だって名言を吐いたのは誰だったか。もう忘れちまったが、しかし手の中のそれが白紙票という訳でもないのは、こいつはどうにも矛盾だね。

「ちゃんと書いてきたんでしょうね」

「一応、空欄は無いはずだ。ケアレスミスなんかは勘弁して貰えるとありがたい」

「ふーん、そ」

 ハルヒに渡そうと伸ばした手が途中で止まる。これを見せてもいいものか、みたいな思いがそこに不可視の抑止力として働いたのだろうってのはすぐ察しが付いた。いや、別に恥ずかしい内容を書いた訳でも、出鱈目並べ立てたんでも無いが。

 俺なりにきちんと考えて、しっかりと悩んで、それでもってシャーペンを走らせたのだから胸を張ってもいいとさえ思う。だってのに、なんだろうな……気恥ずかしさ? それともここでもオトコノコとしてのプライドとやらがひょっこり顔を覗いたのか。

 未来。それは希望、もしくは夢と言い換えてもいいか。

 夢を語るのに恥ずかしいことなんて無いってこれも誰かが言っていたが、いやいや嘘も大概にしろよ。

 恥ずかしいぞ、コレ。普通に。

 しかしながら、だ。そういう感情の機微なんざちっとも気に掛けちゃくれないのが俺たちの団長様だ。ハルヒは颯爽と机に膝を乗せ、俺へと身を乗り出した。そして勢いそのままに俺の手から進路調査票を奪い……奪い……あれ?

 いつまで待ってもハルヒは最後の数センチを縮めようと動かない。

 奪い取らない? え? え?

 なんでだ? いつもの涼宮ハルヒならば煮え切らない俺に業を煮やして強奪に走る場面……のはずだろ。なんでそれを実行に移さないのか。容易いはずだ。得意技だ。なんか悪いものでも食べたのか? それとも宇宙人がハルヒの時間を停止させたのか?

 訳が分からず戸惑う俺に向けてハルヒはお世辞にも似合ってるとは言い難い優しい声で、

「渡しなさい」

 と、言った。

「アンタの意思で渡しなさい」

 と、言った。

 その目を――天の川を有りっ丈ぶち込んだようなその豪華絢爛な瞳を俺から決して逸らす事無く。視線が交錯する。

 アーモンド型に切り取られた宇宙は、それが本物の星空であるみたいに自分のちっぽけさを俺へと伝えていた。アンタの悩みなんてどうってことないと。まばたき一つ。宇宙に冴えない男子高校生の、冴えない表情が映り込む。

 あーあ。どうにも、だ。

 どうにも俺は情けない。進路も胸張って答えられないような、そんな俺で。

 そんな俺で。

 そんな俺で――良い訳無いだろ。

「ほら」

 最後の数センチは俺の方から埋めた。埋められたことが少しだけ誇らしかったって、本当に俺は小さいな。こんなことくらいで一喜一憂してさ。ま、愚痴ったところで直るとは思えないが。

「どうか笑ってくれるなよ」

「笑わないわよ」

 ハルヒは満足そうに微笑んだ。それは何が理由か。分かる気もするが、あえてここでは分からないって事にしておこう。

「まあ、アンタがどうっしようもない程アホな事書いてたら分からないけどね。あ、でもその場合は『笑う』よりも『呆れる』か。ん、まあいいわ。それで、アタシはこれを見る許可を得たって今の会話はそう解釈していいのかしら?」

「はあ?」

 おい、ハルヒ。お前、悪いモンでも食ったんじゃないのか、マジで。熱を測ろうと少女の額に伸ばした手のひらは目標に触れるよりも早く少女自身によって打ち落とされた。……ああ、クソ。地味に痛いぞ。手加減くらいしたらどうなんだ。

「何すんのよ!」

「いや、熱でも有るんじゃないかとだな」

「無いわよ、そんなモン!」

 どうだか。それにしちゃ顔がやけに赤く見えるけどな。そう言い募るとハルヒは席へと戻った。そして疑惑と共に右手で髪を払って。

「西日の仕業じゃない?」

 そう言って横を向いた。俺の夢や希望の詰まった吹けば飛びそうな紙切れはハルヒ側の机の上に四つ折りのままに置いてある。少女はトントンと人差し指で机を叩きながら言った。

「それで? さっきから聞いてるでしょ、読んでいいのかって。返事は?」

「いや、ここで俺が読まないでくれって言ったら、お前はそれでいいのかよ? 良い訳ないだろ?」

 分かってないわねとハルヒはどこか……どこか嬉しそうに溜息を吐いた。ちなみにどこがアイツの琴線に触れたのかは俺にはちっとも分からん。解説役の超能力者の同行を許可するべきだったかと後悔してももう遅い。

「良い訳有るのよ」

 ……おい、おいおい、おいおいおい。俺の目の前に居るこの少女、このクラスメイト。

 それでもコイツは涼宮ハルヒなのか?

 俺の知っている涼宮ハルヒはこんなに聞き分けがよくなかったように思う。俺に気を使う事なんてそりゃもう路傍の石ころよろしく有りはしなかった。少しは周りに気を払って欲しい、なんて思った回数だって両手両足の指で足りようはずもない。

 天上天下唯我独尊。どっかの暴走族の旗印みたいだが、俺はそんな不良連中よりもハルヒの方にこそよっぽど似合う文言だと思う。それくらいに俺はコイツから人を人とも思わぬような扱いをされ続けてきた。雑用係、などという不名誉な肩書きが俺に冠されているのが何よりの証左だ。

 そんなハルヒが。

 その身に有り余る好奇心へとブレーキを掛けている。正直、俺はこの現実が――少女の微笑が薄ら寒いものにしか思えない訳で。

「分からないな」

「何が?」

「こんなものを書かせておいて、どうして書かせた張本人がその内容を確認しようとしないのか、俺にはさっぱり理解出来ない」

「アンタ、ひょっとして本当は見て欲しくて仕方なかったりするの?」

「んなこたーない」

 ってか、出来れば見て欲しくはない。未成年の作成した自己申告制の未来予想図が一度でも痛々しくなかった例(タメシ)が有るか? どいつもこいつも未熟な自己評価から来る分不相応な内容でもって失笑をまとめ買いするのに必死だぜ。

 でもって、今回俺がハルヒに提出したものもその類なんだ。そこに書いてあるのは実現性に全力で目を背けた「夢」としか呼びようのないものだ。「希望」とは間違っても呼べないようなもの。そんなんを喜び勇んで他人に見せたいとは思えない。

「なら、いいじゃない。これはプライバシって事で勘弁してあげようって言ってるんだから人の厚意は素直に受け取っておきなさい」

 いいや、よくない。そう俺の中のどこかで喚き散らすのは、これは何だ。決意表明でもしたいのか。それとも退路を断って背水の陣を気取りたいのか。俺自身にすらよく分からない。けれど、ここで俺の進路希望をハルヒに秘匿しておくのは、

「でもさ、それは逃げじゃないのか?」

 しまったと思えど時、既に遅く。頭で考えていたことがいつのまにか声に出てしまっていた。スローモーション映像でも見ているようにハルヒの口の端が持ち上がっていく。

 どうやら当たりを引いたらしい――それも、大当たりを。

「逃げかも知れないわね。けど、それはそれでキョンらしいって言えば『らしい』気がしない?」

「おい、どうにも馬鹿にされてる気がするぞ。謝罪と訂正を要求する」

「だったら、否定してみなさいよ。ま、どうせキョンには出来るわけないだろうけど!」

 罵倒に際して生き生きと。鬼の首を取って都へ凱旋する藤原頼光ですらここまでの得意顔はしていなかったに違いない。

「馬鹿なアンタにいいことを教えてあげるわ。逃げるのが下手だったら、成績が赤点すれすれの低空飛行なんてしてないのよ。だって、学校の勉強からも自分の未来からも逃げたくとも逃げらんないんだから」

 はあ、ぐうの音も出ないってのはこんな時使うんで合ってたか? 確かにハルヒの言う通り。これまでの俺は逃げてばっかりだったんだ。

「だから、ここで逃げたってアンタらしいって一言でアタシは済ませるつもりだったの。具体的には進路調査票の白紙提出ね。後は、当たり障りの無い事を並べ立てただけの内容だったり? ま、その様子だと一応アンタなりに考えてはきたみたいね。そこだけは褒めてあげる」

 ま、俺なりにな。一応じゃなくって出来る限り。無い頭を雑巾かグレープフルーツかって具合に絞ってはみたつもりなんだ。

 ああ、ハルヒにその中身を見せるべきだと喧しい脳内議会の少数派閥が何を求めているか、俺はここにきてようやく思い至った。

「アタシの目的は『だから』もう達成されてるの。アンタの態度見てれば分かったわ」

「目的?」

「鈍いわね、鈍キョン。つまり、具体的で現実味に溢れる進路をアンタ自身に真面目に考えさせて、それを明文化させる事で受験生としての自覚とこれからの益々の努力を促すのがアタシの目的だった、ってワケ! まったく、素晴らしい団長を持ってアンタは幸せよね」

 自分で言いやがった。しかも、結構マジで言っていそうなところが手に負えない。冗談にしてはちっとも笑えないし。

「だから、アタシがこの中身を見る見ないはどうでもいいのよ、割と」

 ハルヒが進路調査票を俺に突っ返してくる。四つ折りのままに。ん? よく見たらこの紙、プリントとかに使われてる薄いヤツじゃない……気のせいか? 裏から透けて見えないようにってんで紙まで吟味したんだとしたら、いや流石にそこまで気を回し――てくれたんだろうな。

 まったく、素晴らしい団長様だよ、お前は。でもさ、

「どうでもよくないだろ」

 未来を握り込んだハルヒの拳を手のひらで押し返しながら俺は言った。

「採点がまだだぜ、ハルヒ」

 その言葉の意味するところは、これは説明しなくても分かると思う。理由なんてものは説明出来ない。色々と折り重なってカオスっていやがるせいで長門風に言うところの「上手く言語変換できない」感じだった。

 だが、それでも。俺はちっぽけでも決意と呼ばれるそれをハルヒに見せて、話し合おうと思った。コイツ相手に相談が成立するとは考えちゃいない。しかし、何かを変える切っ掛けにはなるんじゃないだろうか、などと。ここまで来て未来の決定を他人に依存する、その未熟さに我ながら歯痒い思いは否めないが。

 変わろうと思うこの気持ちは本物だ。だから後押しが欲しかった。

「キョン? ……本当に見てもいいのね」

「三度は言わん」

 それ以上の意思確認は無かった。空気を読むなんて器用な真似がハルヒに出来るとはどうにも俺には思えないが、しかし心中を酌んでくれたのだろう。紙を開くガサガサ音はやけに耳につく。思わず少女の表情を注視した。

 笑われるのか。呆れられるのか。それとも……それとも満面の笑みで「やれば出来るじゃない」くらいは言って貰えるのだろうか。

 手元に視線を落としたまま不思議なくらいに表情を変えないハルヒ。そしてそれを神妙な顔で見つめる俺。時計の秒針の刻むリズムを心音が追い越していく。一体何を言われるのか。黙ったまんまで何を考えていやがるのか。予想はするだけ無駄だと知りながら、それでも脳は虎がバターになっちまいそうな速さで回る。

 やがて――そうだな、体感にして一分三十秒くらいか。実際はもっと短かったかも知れん――ハルヒは顔を上げた。

「質問が有るわ」

「あ、ああ、なんだ?」

「これ、本気なの? 胡麻すりとかじゃなくて?」

 そっか、そういう風に捉える事もハルヒの立場からは出来ちまう。これは盲点だったな。俺からすれば指摘されてようやく気付いたことではあれど、そんな事をハルヒが知るはずもない。だが、誤解はこの場合非常に面白くない。

「勿論、本気だ」

 ハルヒは進路希望票を開いたままに机に置いて、

「質問を変えるわ。アンタ、正気?」

 失礼なヤツだな、まったく。お前の目には俺の目が狂人のそれに見えるっていうのか。だとしたらそっちの方がよっぽど重症だぜ。今すぐ眼科に行って視力検査を受ける事をオススメする。

「死んだ魚みたいな目をしてるわよね、キョンって」

 うるせー、ほっとけ。

 言わせて貰えばな。お前が無駄にでかい目をしてるだけだ。俺の持ち物が人並みなんだよ。同様に俺の目が濁ってんじゃなくて、お前のが発光ダイアードでも埋め込んだみたいにって、何ゆっくり近付いてきやが、うおっ、顔が近い!

「……な、なんだよ」

 ハルヒは何も言わず俺の目を至近距離で見つめ、訂正、睨み付け続ける。俺はと言うと眼と眼を合わせてはハルヒの顔に吸い込まれそうになってしまうため、部室の中を飛んでいる蜂を追いかけるように視線をあっちこっちに彷徨わせていた。

 しかし、ヤマアラシのジレンマこと七十二センチを軽々と飛び越えるハルヒの胆力はどこが出所なのか。少女の瞳に内包された宇宙はやっぱり真空空間で俺の理性を余さず吸い込んでいく。ああ、近くで見ても美少女は崩れない。どころか眼の保養には持って来いだと……妄言だ、忘れろ。

 拷問のような時間はハルヒが顔を離すと同時に終わりを告げる。ヤバかった。もう少しで何でも白状するから勘弁してくれと喚き散らすところだった。いや、冗談だが。

「目は口ほどに物を言う、って言うじゃない? だからアンタの目に問い質してみたの」

 真顔でそんなことを言うか。呆れる以外のリアクションをお求めならハンバーガショップにでも行ってくれ。

「そんで? なんか分かったか?」

「別に。妹ちゃんと同じ遺伝子から出来てるのか心配になっただけね。自分の戸籍謄本とか見たことある?」

 地味に傷付くから親類縁者を巻き込むのだけは止めろ。特に妹と俺との絶望的な差異については本人的にも思うところは多々有るんだ。

「だから、直接アンタに聞くけど」

「ああ」

「短期と中期はとりあえず置いといて、この長期目標。大学でもSOS団を創る、っていうのは一体どういうジョーク?」

 ま、疑問を抱くとしたらそこだよな。気持ちは分かる。

 俺が珍しくハルヒの気持ちが分かるってんだから、俺より数段洞察力に優れたコイツが俺の気持ちを分からないってのはまさかまさか無いはずなんだ。ってことでその質問は確認作業でしかないのだろう、正しく。

「俺の渾身の未来予想図を冗談扱いしてくれるなよ、っと。書いてある通りだ。大学に進学してSOS団をまた創る。それが俺の目標で野望だ」

 これ以外、思い付かなかった。

 それくらい、俺の一年半は濃密だった。

 人生を決定付けるには十分過ぎる経験をした。

 世界は……俺の世界はハルヒ、長門、朝比奈さん、古泉によって大いに盛り上げられた。だから、これを。

 もう少し続けたいと願うのはいけないことだろうか。

「何? 大学に入ってSOS団を創って、今度はアンタが団長にでもなるつもり?」

 ハルヒがジト目で俺を見る。下克上をどうすれば未然に防げるのか考えている顔だな、それは。まったく、一々面白いヤツだ。

「なんでだよ。団長はお前だろうが、ハルヒ」

「はぁっ?」

 突然素っ頓狂な声を挙げられても困る。大体、俺は団長なんて向いてないんだ。そうさ、雑用係なんて下っ端がお似合いだってそれくらいには自分の性格を理解している。まあ、少しばかり人権を尊重して欲しいとはいつも考えているが。

「それともなんだ? お前、もしかして団長に飽きたのか? 雑用を替わってやってもいいが、その場合も繰り上がり昇進で団長は古泉になるな、俺じゃない」

「そうじゃなくって! そういう事を言ってるんじゃないのよ、アタシは!」

 あー、うん。ハルヒが何を混乱しているのか、実は分からなかった訳じゃないんだよ、俺も。だから、今のやり取りは少しからかっただけだ。意趣返しってヤツさ。お前の今までに散々やらかしてきた悪行に比べれば可愛いものだと大目に見てくれ。

「アンタ、もしかして」

 俺をビシリと人差し指で指し示し、

「一緒の大学に入るつもりなの?」

 そうさ、その通り。

「長門も、朝比奈さんも、古泉も、でもってついでにお前も。誰か一人でも欠けたらそれはSOS団と呼べないだろうが。言っても、朝比奈さんは今年で卒業しちまうが。だから、個人的にはSOS団は今年度いっぱいで一度お開きになっちまうだろうと思ってる」

 ハルヒが何か言いたげに口を開いたが、しかし何を言うでもなく少し悔しそうに唇を噛んだ。

「……続けなさい」

「ま、だから提案だな。同じ大学に皆で入って、でもってもう一度SOS団をやらないか、っていう俺からの」

 ハルヒは恐らくまだ知らないが。きっと長門も古泉も進学先はハルヒに追従するだろう。朝比奈さんはハルヒの進路を見越しての大学に先んじて入るつもりではなかろうか、と俺は考えている。であるならば、だ。

 後は俺だけ。足りていないのは俺だけなんだ。誰か一人でも欠けたらそれはSOS団と呼べない。自分で言っておいてなんだが、それが俺自身に当てはまるだろうかと言えば、それは自惚れに過ぎないかも知れず俺には何も答えられない。

 考えても詮無い事だな。要は俺が同じ大学に入学するだけで済むのだから。

 難しい顔をして少女は珍しく黙り込んでいた。声を掛けると、

「ちょっと待って。今、考えごとをしてるから」

 もしかしたらハルヒも実は進路で悩んでいたりしたのだろうか。有り得なくはない話だ。更にその上に俺なんかの進路相談まで請け負っている。いくら涼宮ハルヒであっても考え事の一つや二つ、状況の整理とまとめに時間がかかる事もあろう。

 俺は少女を見つめながらもう冷め切って大分経ったお茶を啜った。それは朝比奈さんの淹れてくれるものには流石に敵わないが、それでも俺たちの未来を憂う団長様が手ずから淹れたものだと思うと、まあ、その、なんだ、進路みたいな苦々しくも爽やかさに満ちた味がした。

 俺の視線の先でハルヒが顔を挙げた。その顔からは憂いが払拭されている。どうやら、考えが纏まったらしい。それもどうやら面白い方向(ハルヒゴノミ)にだ。やれやれ、話を振ったのは俺の方だがまたぞろ無理難題を言い出す気じゃないだろうな。

 悪巧みをしているような、以外の形容が付く笑い方を朝比奈さんから教えて貰ったらどうだ?

「悪くないわね。それどころか面白い発想だわ、キョンのくせに!」

 俺のくせに、とか言うな。どこの空き地でリサイタルを催すいじめっ子だ、お前は。キャラが被って見える辺りはもう手遅れだとは思うが、果たしてお前はそれでいいのか?

「ところでみくるちゃんの進路希望は聞いた、キョン?」

 いや、聞いていない。こういうのはプライバシだからな。どこか聞きにくい空気が漂っているモンなんだ。まあ、鶴屋さんと同じ大学にしようと考えているってのはどっかで小耳に挟んだ気がするからそこそこ良い大学に行くつもりなんだろうな、ってそんな程度さ。

「アタシ達が全員同じ大学で再会する場合、その大学はみくるちゃんの進学先になるわ。それくらいは分かるわよね」

 まあな。でもって、それはきっとハルヒにとって願ったり叶ったりの大学じゃないのかと、まあこれは口には出さないが。

 なんせ、朝比奈さんは未来人だ。しかもハルヒの保護観察が目的のな。いや、目的は時空なんとかの調査観測だったか? どっちでもいいが。どうせ、両者に違いなんてものはこれっぽっちも無いのだから。

「今のところ、みくるちゃんが希望している大学は、」

 ハルヒが続けざまに口にしたのは俺でも知っている隣県の有名国公立だった。有名、どころではない。俺みたいな自堕落受験生にしてみれば雲の上、天空の城ラピュタに行くぞって言われているのと大して変わりがないくらいの超ハイレベル。

 これは……余りに考えが甘かったか。そう思わざるを得ないくらいの。

 俺の顔が無様に引きつるのが手に取るように分かった。言葉が出ないとはまさにこの事だ。身の程知らずも意識が足らなかった。自意識過剰にも程が有る。

「この志望校、流石は鶴屋さんよね。でもってそこに付いて行けるだけの学力を保持しているみくるちゃんも立派だわ。団長として鼻が高い……んだけど、正直に言えば状況は最悪。まさかキョンのために進学先のレベルを下げて欲しいなんて言えるはずもないし」

 この口振りだとハルヒ自身はそこに進学するのも訳は無いようだ。長門は言うまでも無く、古泉も成績上位に食い込んでいる。

 今更だが、なんだ、この場違いな感じは。宇宙人、未来人、超能力者に囲まれている事を知った時よりも更に酷い。多分、問題が地に根差していることに由来するのだろうが、足元がぐらついている気がするぜ。

 マグニチュードは体感で七か八。震源地は文芸部室、俺。

「今のままで行けば、この紙は進路希望じゃなくて七夕に吊るす短冊でしかないわ」

 子供じみた願い事でしかない、という比喩の意味を理解して更に絶望は深くなる。

「今日は七月七日じゃないのよ、キョン。それとも十六年か二十五年、浪人してみる?」

「そんなのはゴメンだ」

 苦虫を噛み潰すように。吐き捨てるように。淡い希望を踏み潰すように。血を吐くように。

 ま、心のどこかで分かってはいたんだ。悲観するような事じゃ決して無い。

 所詮、現実なんてこんなものさと妥協して和解して生きていくことしか俺たちには出来ないって話さ。

 ん? いつだったかこんな内容をハルヒに話した事が有ったな。あれは……そうだ、まだ高校に入学したての頃。席替えで窓際にハルヒと前後に並んで、アイツが非科学的かつ非常識であればあるほど面白いみたいな事を言った返しに俺が。

 そうだ。で、それに対してハルヒはこう言うんだ。

「うるさい!」

 目の前の俺を叱咤する少女が一年半前と重なった。でも言葉の持つ意味は違う。圧倒的に違う。「黙れ」じゃない。「聞きたくない」じゃない。「どっか行け」じゃない。

「キョン! アンタ、どうにかなる事で早々に諦めてんじゃないわよ!!」

 「前を向け」と。これが成長じゃなくってなんだって言うのか。

「何にも努力してないのに、なんで『努力しても無駄だ』みたいに一人で後ろ向きな納得してんのよ! ふっざけんじゃないわ!」

 涼宮ハルヒは怒っていた、それも全力で。

 至らない俺のために。そうだ、忘れていた。他人のために、コイツは怒れる少女だった。違う、そういう少女に『なっていた』んだ。

「って言うけどよ」

「だってもへったくれも無い! いっちばんアタシが癇に障るのはね、アタシを差し置いて一人で勝手に結論出して納得した風にアンタがなっちゃってる事よ! どういうつもり!? キョンはアタシに進路相談をしてるんじゃないの!?」

 詰め寄って俺の胸を指で小突く。俺は堪らず椅子を倒しながら立ち上がった。ったく、この馬鹿力が。指一本だってのになんて圧力だ。

「だったらアタシの意見も聞きなさいよ。困ったんなら頼りなさいよ。悩んでんなら打ち明けなさいよ。それが出来ないなら……出来ないなら最初っから悩みが有るなんて甘えたこと言ってんじゃないわよ!!」

 小突く小突く。小突かれて俺は廊下側の壁に押し付けられた。ちょ、ちょっとタンマだハルヒ。俺が悪かった。これ以上は後ろに退がれん。痛い、地味に痛いからその暴力を止めろ!

「アンタの自虐趣味なんてこっちは知ったことじゃないの。ああ、見てるだけでイライラすんのよ。大体、アンタの脳味噌で良案が浮かぶなんて奇跡みたいな確率でしか無いって事くらいいい加減に気付きなさいよ。下手の考え休むに似たりって言うでしょうが。だからね! だから、いいから、」

 涼宮ハルヒは俺に向かって唾を飛ばしながら吠えた。

「いいからピンチの時くらいちょっとはアタシを信じてみなさいよ!!」

 信じているさ、なんて勿論言えるはずもなく、またその余裕も俺には有りはしなかった。とにかく俺はこの物理的な窮地から早く脱出したい気持ちでいっぱいだったのだ。密着まで十センチも無いお互いを傷付ける距離である。女子特有の理性に余りよろしくない類の香りが鼻腔をくすぐり意味も無く急接近意識してしまう。

 ロマンスのロの字くらいどっか道端で拾っておけば良かったと思う。そうしたらハルヒだって異性と、ボクシングのインファイトのごとく接近している事態に顔を赤らめたことだろう。我に返って離れていってくれたかも知れない。

「ピンチってなんだよ。俺にとっちゃ今、ハルヒに追い詰められている事の方がよっぽどのピンチだ」

「そうよ!」

 いや、肯定すんなよ。

「アンタが絶望してる内容なんてね、アタシに言わせればピンチでもなんでもないの! 一年以上も準備期間が有れば人間、大概の事は出来るようになるのよ。分かったらアタシを信じなさい!」

 言いたい事は思う存分口にしたのだろう、ハルヒはすうと大きく深呼吸した。ちなみに俺はまだ解放して貰えていない。人差し指一本でもって壁に押し付けられ続けている。処刑を待つキリストの気分が少しだけ分かる気がした。

 ハルヒに倣って俺も深呼吸をする。目叩きを一つ。目叩きした前と後で世界は変わる、と自分に言い聞かせて。

「分かった」

 右手でハルヒの人差し指を握り、それをゆっくりと遠ざける。有ると思っていた抵抗は無かった。

「信じるよ、ハルヒを」

 信じるものは救われるって言うしな。なあ、ハルヒ大明神さんよ。お前が学問の神、菅原道真の商売敵になったとはとんと初耳だが、それでもご利益だけは人一倍、いや神一倍だと、こっちは疑う余地も無い。なんせ今までさんざんハルヒパワーに巻き込まれてきたのだから。

 他でもない、俺だからこそ。そればっかりは疑えないよな。

 だから、言葉だけじゃなく、偽りじゃなく、ましてや脅されたからなんかじゃ決してなく、ただ信じる。ただただ信じられる。コイツならきっと俺の絶望をどうにかしてくれる。根拠は……根拠はそう、経験則ってヤツだ。

「二言は無いわね」

「無いさ、そんなモン」

 意志薄弱さはこの際、脇に置いておくとして生物学的には完全な男だからな。有言実行が座右の銘だ、なんて流石に言えやしないが。ちなみに俺は不言実行の方が好きだったりする。

「よろしい」

 そこでハルヒはようやくもう一度笑った。どうやら俺の回答はお気に召して貰えたらしい。ほっと胸を撫で下ろす。あのまま至近距離を継続されたら俺の理性を司る回路が焼き切れていたのは時間の問題だったからな。

 デリケートなんだよ、思春期だから。嘘だと思うなら想像してみろ。クラスで一番の美少女と夕暮れの教室で二人きりだぞ。しかもメイド服なんて特殊装備をしてだ。情熱を持て余しても仕方がない話なのはどなた様にも理解して頂けると思う。

「そうと決まれば早速具体的な話に移りましょ。って事でさっさと放しなさいよ、キョン」

「おっと、悪い」

 指を放してやるとソイツは俺から一歩距離を取った。そして俺に向かって今度は小指を突き出す。なんのつもりだ、なんて聞くまでもなかった。

「子供かよ」

「アタシたちは子供よ、実際。幼稚でガキだってのを否定できる社会的な根拠は無いの」

「そりゃ、まあ確かにな」

「だから、それを欲しがるのは自然と言えなくもないけどね。ピーターパンシンドロームくらいはもう卒業したでしょ、アンタも」

 ピーターパンシンドローム、ってのはいわゆる「大人になりたくない」の学名だ。正直、俺には理解出来ない精神病だな。だが、どう足掻いても時間は過ぎるし、身体は育つ。滝上りなんて非生産的かつ非効率な事に心血を注ぐヤツの気が知れんよ。魚類からやり直せと言いたいね。

「最初からんなモンには罹ってない」

「へえ……前向きなのね、キョンのくせに」

 あ、コイツまた言いやがったな。

「ま、なんでもいいわ。とにかく、子供っぽいとか大人びたとかそんなのに振り回されても意味は無いの。だから、はい」

 白くすらりとしたソイツの小指はやけに細く頼りなく見えた。メイド服には淑やかさのパラメータ補正めいた俺の知らぬ装備効果でも有ったりするのだろうか。ハルヒの日頃の豪腕が嘘みたいに思えてくる。

「約束しろって?」

「そうよ。ただしアンタはガキっぽいのが嫌いらしいから、大人ルールでいくわ」

「大人ルール?」

 急速に嫌な予感がしてきたぞ、俺は。

「破ったらハリセンボン鍋よ。勿論、針の処理はしないわ。ところでハリセンボンってフグの仲間よね。毒が有ったりするのかしら? ま、その時は古泉くんの知り合いに免許を持っている人が居たりしないか聞いてみましょう」

 やっぱりか! 嬉しそうな顔で何、物騒な事考えてやがる!

「そんなに深刻そうな顔しなくても大丈夫よ。このアタシが付いてるんだから大船に乗ったつもりで……あ、今の無し。死ぬ気で勉強しなさい、キョン」

 いかに涼宮ハルヒと言えど、そこまで楽観的にはなれないらしい。いや、ここで大丈夫の言葉に安心してしまえば俺が勉強に手を抜くんじゃないかとでも考えたのだろう。

「言われなくてもそのつもりだ」

「なら、……ほら。そろそろ小指が痺れてきたんだから、さっさと済ませなさい」

 これ以上の問答はどうやら無駄らしい。諦めて俺はハルヒの小指に小指を絡めた。少し俺よりも冷たい、気がする。男女で体温は違ったりするのだろうか。それとも気恥ずかしさが俺の体温を底上げしているのかも知れない。

「俺は何を約束すれば良いんだ? 大学合格か?」

「死ぬ気で勉強に励むことをアタシに約束しなさい。その結果として入試に失敗しても、それは怒らないから」

「……そっか。そうだな、分かった」

「アンタばっかり約束しても不公平だから、アタシも約束するわ。アンタを絶対にみくるちゃんの行く大学に合格させてあげる」

 ハルヒは真面目腐った顔で、

「絶対よ! 絶対の絶対!」

 はいはい、分かった。分かったから顔を赤くしてまで力説せんでもいい。精々頼りにさせて貰うさ、団長さん。

 そうして俺とハルヒは右手を上下にシェイクさせて未来を約束した。

「指切り」

「げんまん」

「嘘吐いたら」

「ハリセンボン」

「くーわすっ」

「怖っ! なにそれ、怖っ! 改めて想像したら超怖いんですけどっ!」

 頬の内側から突き出た針。口から血を流す俺の口へと無理矢理に凶器を押し込むハルヒ。多分、楽しそうに。

 嫌だ……嫌過ぎる。

「なら、死に者狂いで頑張りなさい。アタシがアンタの頑張りを認められるくらいに。二人揃って最後の晩餐なんてアンタもゴメンでしょう?」

 解ける指。離れる少女。小指が少し汗ばんでいた。

「ま、学校に居る間はアタシがしっかり勉強を見てあげるから。任せなさい。これでもアタシ、家庭教師のアルバイトならプロだから」

 アルバイトのプロってなんだ。まあ、言いたいことはなんとなく分かるが。ニュアンスでな。

「明日から始めましょ。ビシビシしごいてあげるわ。スパルタ式よ。何度だって千尋の谷に突き落とすつもりだから、明日までに覚悟を据えておきなさい!」

 ハルヒは喜色満面にそう告げた。女神の神託の皮を被った閻魔大王の判決の瞬間である。ああ、やっちまった、早まったなんて思ってもここまで来ちまえば後の祭り。これだけ良い笑顔を咲かせるハルヒを最早誰一人として止める事は出来ないのだ。なぜならば、それを誰あろうハルヒ自身が望んでいないのだから!

 どのみち、死ぬ気にはなるつもりだったが、本当に過労死したら俺は一生この競争社会、学力社会を恨むだろう。

 ……死んでるのに一生も有ったモンじゃないな。

 そういや、ハルヒよ。

「ん?」

「お前、どうしてメイド服なんて着てたんだ?」

 一日メイド団長は俺の質問に、ようやくといった様子で背筋を伸ばした。ってオイ、止めろ。その格好で胸部を強調するようなポーズを取られたら色々と、その……だな。

 情熱を、持て余す。

「団長としての威厳と威光を少しでも和らげるためよ。別にカエルでも良かったんだけど、アレじゃアンタの顔がよく見えないしね。それにみくるちゃん用に買ってきたけどフリーサイズだからアタシでも着れるのよ、この服。
 ま、つまりアタシなりの配慮ってことね。感謝しなさい、キョン。で、どうだった? 実際、話しやすかったでしょ? ……どこ見てんのよ、エロキョン」

 俺は両手を挙げた。

「黙秘権を行使する」


9,海はまだ凪いでいた


 世界ーー俺を取り巻く周囲はこの時、それなりに良い方向へ向かっていると思っていた。暫定的にでは有るが俺の悩みには一応の決着らしきものがついたし、もしハルヒが朝比奈さんの受験、及びそれに付随する自己を含めたSOS団の行く末に何らかの戸惑いを人知れず抱いていたのであれば、俺との個人面談はそれに対する解答とも成り得たであろう。

 何が言いたいかというと、だ。

 つまり、俺はなんとなく安心していたのだった。世の非常識めいた不条理は全てハルヒの不機嫌より始まるというのは、これはもうSOS団不思議対策委員会における共通認識と言っても過言ではなく(古泉なんかは特にその傾向が顕著だな)、逆説あの馬鹿が世界に対して特に不満を覚えなければそこそこに穏やかなる日常へと世界はまるでホメオスタシスを働かせたかのように回帰するのである。

 正直に言わせていただければ、この時点で俺は毎日に波風を立てるイベントには幾分食傷気味だった。まだ行く手にはクリスマスなどという難敵が待ち構えていたのではあるが、俺の未来におけるターニングポイントとなったであろうハルヒと佐々木による個人面接以上の事柄なんぞきっと起こりはしないさ。と、こんな風に考えていた。

 全く、我ながら浅はかだとしか言いようがないな。過去を振り返ってみれば分かるだろうに。世界が一度でも俺の心労を鑑みて展開に手を抜いてくれた事があっただろうか。いや、無い。

 何も終わってなどいなかったし、そもそも俺たちを語るのに避けては通れない超常的なあれやこれやはここまで全くと言っていいほどに形(ナリ)を潜めていたのであるからして、これはもう楽観的を通り越して一種破滅的と形容してしまえるくらい俺の脳味噌は蓮咲き乱れるお花畑だったのだと、後から思い返して途方に暮れる。そんなつもりはこれっぽっちもないのだが。

 という訳でいつもの通り、俺の知らない場所で事態は悪化の一途を辿っており、それが表層へと噴出する頃には消火器のようなその場凌ぎ程度では手が付けられなくなっているのである。火種の内の初期消火が重要だとはよく聞く話だ。耳が痛い。

 一言断っておかねばなるまい。それでも、この十二月の騒動は俺の未来についての話であるという枠内だけは決して逸脱していなかった。

 本筋、ってヤツだな。あるいは要旨と言い換えて貰っても結構だ。全ては俺の未来に起因し、また収束していくのである。因果応報なんて言葉をここで持ち出したくはないが、それにしたってこの件ばかりは他の誰かに責を求めるのも酷ってモンだろう。

 そう、ここまで言えば勘の良い方ならそろそろお気付きかも知れない。

 俺たちを語るのに決して外すことの出来ないあのお方ーー未来人は実はも何もずーっと出待ちを強いられていたという事実に。



 家に帰り着いたのは日も暮れ切った頃だった。時間で言うなら午後六時を少し過ぎたくらいで、既に玄関には佐々木のものと思しきスニーカが並んでいる。予想通り待たせてしまっているらしい。

 今後の対策ってヤツであの後もハルヒと色々話し込んじまったからな。一応、即席家庭教師様による個人授業は六時から開始って事になっているから遅刻したと言っても実際は十分もない。とは言え昨日は五時前には玄関のチャイムを鳴らした佐々木である。

 もしも一時間以上も他人の家に居たとすれば……まあ、心中は察するに余り有るな。

 せめて急いで救出してやらねばなるまい。主としてお袋の好奇心という名の魔手から。そう意気込んでいの一番にリビングへと向かったが、しかしそこに佐々木の姿は無かった。

 これはどうした事か。

「おい、佐々木はどこだ? もう来てるんだろ?」

 リビングのソファに座ってテレビに噛じり付いている妹に訪ねる。奥のキッチンではお袋が夕食の支度に忙しなく動いているのが見て取れた。あの様子ではラストスパートに掛かっているな。夕食はもうすぐらしい。

「あ、キョンくん。おかえりー」

「はいはい、ただいま。で、佐々木は?」

「佐々ちゃんならずっとキョンくんのお部屋に居るよー。キョンくんが帰ってくるまで一人でお勉強したいんだって。偉いよねー」

 妹が屈託無くそう言うも、……ちょっと待て。あのプライベート空間に親友とは言え異性が一人きりで一時間、だと。俺の脳味噌を最悪の予想が埋め尽くす。それはマズい、マズ過ぎるだろ。俺の尊厳とか外聞とかが。

 ああ、こんな事ならちょいとマニアックが行き過ぎたヤツらは見切りを付けて早めに焚書処分にしておくべきだったか! 谷口のヤツめ、廃品回収に来るなら早くしろってんだ!

 佐々木の事は信じているし、アイツも俺のことを親友だと言ってくれている。アイツの性格を考えれば「親しき仲にも礼儀有り」を実践してくれているはずだ。ハルヒとは違い、家捜しを敢行するような無礼さを持っているとは思えない。

 けれども、可能性は可能性でしか無い。物理学で有名なアウシュビッツ系可哀想な猫は箱を開けるまでその生死は確認出来ず、この世に絶対なんて絶対に無いのだと俺は知っている。

 万が一はハルヒに出会ってからこっち阿呆みたいに頻発しているからな。

 リビングを出て階段を急いで上る。背後で妹が何事か非難めいた事を口走った気がするが知ったことか。お前に構っている十秒そこそこですら惜しいんだよ、こっちは。一刻を争うなどと悠長な慣用句も有ったものだと思うぜ、いやマジで。

「……はあっ」

 部屋の前で深呼吸。そうだ、冷静に、いつも通りでいいんだ、俺。なにも佐々木が家捜しをしたって決まった訳じゃないんだから。むしろそんな非生産的な事をするアイツじゃないだろ。だから、そうさ。扉を開けたら俺の机にでも座って問題集でも開いているに決まっている。

 だから、堂々とだ。そう、堂々と。俺の部屋なんだから普通に、気だるい感じを前面に押し出して……。

 そんな事を考えながらドアを開けた。そして俺は見た。

「猫くん、猫くん。君のご主人様は一体いつになったら帰ってく……」

 俺の部屋の、俺のベッドに仰向けに寝転がり、我が家の飼い猫を「高い高い」でもしているように持ち上げて満面の笑みで独り言を無為に生産する親友の姿を。

 どうやら見てはならない場面に出くわしたようだ。気まずい空気が二人の間に流れる。

「よ、よお。今帰ってきた」

 返事の代わりに返ってきたのは凍り付いた笑顔のみーー恨みがましい視線が痛い。

「あー、その……悪い、遅くなったな」

 動揺をひた隠すというのは古泉や長門の持ちネタであって、他人の領分を侵す趣味は俺にはない。きっとやっちまった的な焦燥は余すところ無く顔に出ちまっていたんだろうね。少女は一つ溜息を吐いた。

「はあ……おかえり。出来れば、ノックくらい欲しかったかな」

 佐々木は子供のいたずらを見咎めるように言った。その頬にほんのうっすらと朱が見て取れるのは、やはりコイツも油断した瞬間を見られるのは余程恥ずかしかったのだろう。

 すまん。上手いフォローは出来そうにないが、代わりにさっき見たものは全て忘れるつもりなんで安心してくれ。

「助かるよ。しかし、気に病むことはないからね、キョン。よくよく考えればここは君の家で君に割り当てられた部屋さ。自分の部屋に入るのにノックする人はいない。少なくとも僕はそんな真似をした例が無い。自分が出来ないモノを人に強制するなんて無恥も甚だしいだろう。となると、落ち度が有るのは僕ばかりさ」

 言いながら上半身を起こした佐々木の腕の中から世にも珍しいオスの三毛猫がうなぎのようにヌルリと抜け出して、開けっぱなしの扉から廊下へと出ていった。シャミセンは賢いからな、重苦しい部屋の雰囲気から自分が責められているとでも判断してそそくさと退散したのだろう、きっと。

 単に腹が減っただけかも知れん。

「猫、好きなのか? そういや、昔一度だけお前の部屋に入ったが、テディベアとか飾ってあったっけな」

 朧気な記憶を手繰り寄せる。ぬいぐるみとその横に並んでいた小難しそうな哲学書とのコントラストに少なからず俺は困惑したものだ。

「僕に可愛いものは似合わない、とでも言いたいのかい。笑ってくれても結構だが、僕の不評を買うのは避けられないと思ってくれ」

「いや、そんな事は無いぞ。むしろ、お前に女の子らしい一面が有ることに俺は内心ほっとした」

 佐々木とは、ともすれば国木田や谷口辺りを相手にする時となんら変わらないやり取りをしてしまっている事すら有る仲だ。性別を感じさせない……と言うよりも、ある種超越してしまっている印象を俺は抱く事すらまま有る。だからこそ再確認というか、コイツを異性として認識する度に俺は……変な話だが少しばかり安心してしまえるのだった。

 普通は逆だろうって? 分かってるが、しかしこれが俺と佐々木の関係だからな。別に理解して貰おうとは思っちゃいないさ。

 愉快な誤解は勘弁だが。

「なんならシャミセンを一泊二日でレンタルしてやってもいいぜ」

 シャミセンとはウチの三毛猫の名前だと注釈を付け加える。猫好きには魅力的な提案だと思ったのだが、どっこい佐々木は首を横に振った。

「あまり……そういじめないでくれよ」

 人聞きの悪い事を言うな。誰がいじめた、誰が?

「君以外に誰か該当人物が居るかな、キョン?」

「何を責められているのかさっぱり分からん。冤罪だ」

「……くっくっ。僕も色々と複雑なんだよ。異性として見られる事に抵抗を感じるし、そしてまた相反するものも胸の内に多少確認出来る」

 「恋愛は精神病」が持論の少女ソイツは左耳に掛かった髪を掻き上げた。

「こういったものには出来れば余り気付きたくはなかったけれどね。だから、そういう事ーー性別を加味した発言を君にされるとなかなかどうして表情に困るのさ」

 嘘吐け。いつも通りの微笑じゃねえか。その下で何を考えているのかは生憎、俺には分からんよ。

「そうか。なら、君もいつまでも動揺していないで早く席に着いたらどうだい? そう立ち尽くされていると落ち着かないのは、何も君だけじゃないのだよ。ああ、授業開始を十分もオーバしてしまった。これでは君のご母堂に合わせる顔が無い」

 佐々木はわざとらしく天井を見上げて、やれやれと呟いた。本家本元の嘆息は、俺みたいな冴えない男子高校生がやるそれに比べてとても映える。美少女ってのは基本何をしていても絵になるものなのは知っていたが、それにしたって神様もちょいと依怙贔屓が過ぎると俺は思った。

「僕の顔に何か付いてるかい?」

「ん……前髪にシャミセンの抜け毛が付いてるな」

 机に着いて鞄から今日やった佐々木お手製のプリントを出す。少女は俺の隣、昨日と同じ位置、同じ椅子に座った。手を伸ばせばお互い触れられる距離、ってそんなのは当たり前か。

「ほら、取れたぞ。こんな所に毛がくっつくなんて、一体どんだけアグレッシブな戯れ方をしてたんだよ、お前は」

 俺の質問は佐々木の鋭い視線によって無惨にも打ち砕かれた。どうやらシャミセンとの蜜月は本気で触れられたくないらしい。女子が可愛いものを愛でて何が悪いのかと俺は思うのだが……親友はというとどうもそんな風には思えないようで、政府お抱えの凄腕狙撃手よろしく眼を細くしていた。

「キョン、その話は止めだ。これ以上続けるというのならば、この部屋に隠されている有害図書について僕も言及しなければならなくなる」

 オイ、それって……いや、なんでもない。俺は信じてるからな、佐々木を。思春期の男子高校生ならば誰もが所持しているという統計に則ってかまを掛けただけなんだ、そうに決まっている。

 そう思いこむぞ、俺は。

「存外、奇抜な趣味をし……」

 言わせはせん!

「なんだか急に学習意欲が湧いてきた。さ、いつまでもくっちゃべってないで勉強しようぜ」

 と、ようやく両者が休戦協定に判を押した、丁度そのタイミングで階下から俺たちに夕食を告げる声が聞こえ、俺と佐々木は顔を見合わせて笑った。

「今日のところは痛み分けにしておこう」

「……だな」

 傷付け合う関係よりは傷を舐め合う関係の方が健全かつ賢明な気がするとか、どうでもいい事を俺は階段を下りながら考えていた。

 夕食はカレーだった。いつもより具材がアップグレードしていたのは、きっと佐々木が居たからだろう。思わぬところで収穫が待っているものだ。これが続くようなら是非とも、佐々木には長く家庭教師をやって頂かなければなるまい。

「それは君次第だよ、キョン。言っただろう、僕が正式採用されるかどうかは二週間後に迫った二学期末試験の君の点数の伸びをもって判断されるって」

 夕食を終えて出来ればのんびりとソファで横になってテレビでも見ていたい俺だったが、佐々木が居る前でそんな事が出来るはずもない。そもそも死ぬ気で勉強すると日中ハルヒに誓ったばかりだというのに、何をいつも通りの自堕落メニュを律儀にこなそうとしているんだろうな、俺は。これが慣習ってヤツか。骨の髄まで染み込んでいる行動パターンは、もしかすると受験戦争における最大の敵であるのかも分からん。

「そうだね、君の場合はまず机に着く事を習慣付ける事から始めるべきだと思う。君だってテスト前くらいは勉強していただろうけれど、それは机でやっていたかい?」

 まるでタイムマシンに乗って過去を見てきたかのように話すんだな。いや、確かにベッドに寝ころんで教科書を眺めるってのがもっぱらだったが。

「だと思ったよ。いや、机が余りに綺麗だったからね。使われていた痕跡がほとんど見受けられない。それにほら、隅に埃が貯まっているだろう?」

 ホームズ先生に肩を並べる観察眼には恐れ入ったが、しかし埃くらいは普通じゃないのか?

「考えてもみてごらん。集中している時は時計の音ですら障るものなのさ」

 部屋の片づけをしていたら、昔の雑誌を発掘してつい読み耽ってしまうあの現象の親戚だな。

「ああ、そうだ。机の隅のちょっとした埃であってすら神経を逆撫でするものなのさ。勉強があまり好きではないらしい君ならば尚のことだろう」

 勉強が好きじゃないって……いや、まあ実際その通りなんだけどさ。しかし、そんな風に言われると、なんだかストレートに馬鹿と言われる何倍も傷付くな。佐々木に罵倒するつもりがない、ってのが尚更そこに輪を掛けやがる。

「キョン、前から薄々は思っていたんだが、君にはやはり被害妄想の気が有るよ、うん」

 ……やっぱりか。俺ももしかしたらそういう事も有るかも知れんとは薄々気付いてはいたんだ。観察眼で俺と比ぶべくもない佐々木の言うことなら、その見解でおおよそ正しいのだろう。でも、自分の悪癖なんて出来れば一生知りたくなかった。くそっ。

「なあ、その被害妄想とやらは『奥ゆかしい』なんて伝統美溢れる日本語にはどうしても置き換えられないものなのか?」

「物は言いようだね。と、話を戻すけど、」

 俺の要求をあっさり流しやがった。

「キョンに足りないのは学習意欲だと僕は考えている。未来、なんて漠然としたものが相手だとどうしたって息は続かないし、努力に見合った対価が確約されていないから僕らの年齢では中々割り切れないだろう。仕方ない事だ。だが、仕方ないと諦めて対抗策を講じないのは、これはまた別の問題だね」

 それは昨日までの俺を皮肉ったんだな、そうなんだろ、佐々木。あ、コイツ聞いてねえ。

「例えば僕を引き合いに出すと、モチベーションを維持する為に一定の修学ごとに自己の下らない欲求を一つ満たすことを許可している。僕としては君にもそういったものが有るとベスト――とまでは言わずともベターではないかと考えているんだが」

 ……なんだか馬を走らすのに人参を鼻先にぶら下げるみたいな話だな。脳味噌の構造が草食動物代表と余り変わらないのは、まあ、忌々しいが認めるさ。

「みたい、じゃないね。まったく一緒の事さ。我ながら安易が過ぎるとは思うよ。だけど実際これが一番モチベーションを維持させるのに適した方法だと、これは色々な試行錯誤を繰り返した僕なりの結論だ。即物的だと自分でも笑ってしまう」

 くつくつと自嘲混じりに笑う少女だったが、その語る内容とは裏腹に俺にはどこかその姿が朗らかに見えていた。その姿にどこか違和感を覚える。

 なんだろうか、これは。

「なんか、お前変わったか?」

「ああ、それは……まあ、君になら話してもいいか。恥ずかしい話さ、自身の精神性の幼さを僕はそれなりに受け入れてしまってね。どころか自己分析するとどうやらそんな自分を楽しんでいる節すら見受けられるほどなんだ。中学の頃とはその辺りが確かに変わってしまったかも知れないな」

 十分に大人びてるだろ、お前は。うちのお袋よりも、ともすれば精神的に老成していると俺はお前を評価しちまっているくらいなんだぜ。

「それは流石に間違っていると言い切らせて貰うよ、キョン。それとも家族だから君には近過ぎてちゃんと見えていないのかな。君のご母堂は僕なんかでは及びも付かないしっかりした方さ」

 いやいや、そんなことはないぞ。メモを持って買い物に行って、メモの存在を忘れて二度手間とかはしょっちゅうだしな。

「そんなのは心の成熟とは何の関わりもないよ、キョン」

 心の成熟、ねえ。

「余裕、とでも言い換えるべきかな。知識と経験から来る広い安全域の事さ。僕にはどちらも足らない」

「悪いが俺にはよく分からんな。心臓に毛が生えるとは何が違うんだ……と、終わったぞ。答え合わせと間違ったトコの解説を頼む」

 一字一句に至るまでボールペンで書かれた佐々木お手製のプリントは、いつこんなものを作成しているのかと睡眠時間を本気で危ぶむくらいのクオリティだった。文字をパソコンで打ち直すか、長門に清書でもさせれば十分に店で売れるだろう。

「いや、それはキョンに合わせて作ったものだから他の人に転用は利かないさ。君の理解が及んでいる、もしくは口頭での説明で十分だと思った内容に関しては飛ばしてある。飛び石のようなものでね」

 ふむ、つまりRPGで言うなら経験値の高いモンスターに的を絞った狩りが出来るようになっているわけだな。

 ……やっぱりお前、寝てないんじゃないか。

「目の下に隈でも出来てしまっていたかな?」

「見当たらん。だがな、昨日の家庭教師終了時刻やらを考えればソイツは自明の理だ」

 根を詰めるな、と続けると佐々木は微笑んだ。いや、笑うところでは決してないぞ、ココ。

「困ったな、キョンに心配をさせるつもりはなかったのだけれど」

 そう言う佐々木が一つも困っている顔に見えないのは、俺の目が知らぬ内にとんぼ玉か何かにすりかえられちまっているせいだろうか? 節穴という可能性も捨てきれない。

「君の期末テストまでは推察の通り、少々睡眠時間を削減する予定だよ。平時より一時間削るだけだからそう重荷に感じないでくれ」

 一時間で作れる量のプリントじゃないだろ、これは。未来人か宇宙人の手でも借りないと無理だ。

「そんな事はしないさ。僕ら学生にのみ許された『内職』という特権の方は十分に活用させて貰っているけれども。そういえば」

 少女は軽快に走らせていた赤ペンの動きを止めると俺の顔を見た。まるで値踏みするように。そしてまた、楽しそうにも見える表情で。

「涼宮さんとの関係は修復出来たかい?」

 と、問うのだった。

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