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4,三十分の一

 氷雨の中を逃げるように帰ってきた。制服の上着とコートを椅子の背凭れに放り投げて、ノンストップでベッドに四肢を投げ出す。ズボンに皺が出来るがそんなのは知ったことか。

 自室を片付けて掃除をして――といった当初の予定をこなす気も起こらない。教室を出る時、ハルヒの顔を見ておけばよかったかと思う。……いや、見なくてよかった。見ていたらきっと……なんでもない。

 ケータイにいつの間にか来ていた着信は古泉から。「何かありましたか?」という簡素なショートメールは修飾や回りくどさといったものを極限まで削り取ったようで、あの話好きからのメールとは思えない。とりあえず「お前には関係ない」と返信。

 即座に返信。「いつでもご相談下さい」との内容。どこまでも胡散臭さが付きまとうのは、これはもうあの男の持って生まれた性質なんだろうさ。とりあえず、ケータイは床に投げ捨てた。

 ……俺の部屋、こんなに広かったか?

 古泉は「何か有った」事に気付いている。それは言い換えれば「古泉の身に何か有った」って事に他ならない。ならば、今頃ハルヒが閉鎖空間で暴れまわっているのか――まあ、そうだろうな。それもきっと尋常じゃない暴れ方をしていやがるに決まっている。

 そうやってハルヒはストレスを発散しているって話だったからな。

「俺もサンドバックでも購入するかね」

 天井に向けて問い掛けてみても誰が答えてくれるワケもない。と、思っていたら「にゃーん」と返答が有った事に俺は少し驚いた。

「にゃあ?」

「シャミセンか……驚かすなよ、お前」

 どうやら部屋の戸をちゃんと閉めていなかったらしい。見ればわずかに隙間が開いており、それにしたってよくあれだけの間隙を縫って侵入出来たな、シャミセン。猫にしておくのが勿体無い。お前なら凄腕のスパイにだってなれるだろうに。

「なんだ、お前がサンドバックになってくれるのか――なんてな。冗談だよ」

 もしも言葉が通じていれば即座に逃げていただろうシャミセンは、しかし俺に擦り寄って臭いを嗅ぐのに余念が無い。こうなるとシャミセンを普通の猫に戻してしまったことが途端に悔やまれる。

 意思の疎通が出来たのならば、古泉なんかよりもよっぽど役に立つ相談相手になってくれただろうに。

 どうやらシャミセンは俺の部屋を今日の定宿に選んだようだった。座布団の上で丸くなったところから察するにスリープモードへと移行する気なんだろう。そののほほんとした様は何も悩みが無さそうで俺としちゃ心底羨ましい。

 今度生まれ変わる時は猫にしよう、うむ。

 ぐるりと転がって、天井向けて大きな溜息を一発……はあ。

 …………あーあ。

 …………やっちまったなあ。

 何やってんだか。いや、だが。これからの事を考えたら、そろそろ勉強に勤しまねばならない俺の足を引っ張るだけでしかないSOS団はここらが潮時だったんじゃないか――なんて言って自分を誤魔化せたらどんだけ楽だろう。

 生まれてこの方、気分のいい正論なんてものに出会ったことが無い。

 やってらんないよな。俺はいつの間にやらあの部室が結構気に入ってしまっていたのだ。自覚してもうそろそろ一年になる。

 宇宙人、未来人、超能力者が雁首揃えてボードゲームに興じるあの客観的に見て有り得ない空間を、そしてそこから巻き起こるあれやこれやのドタバタを、俺は楽しんじまっていた。

 一言で言って「大切」だったのだ。

 それを――何、自分から抜けてんだよ。

 ああ、返す返す。さっきの俺は馬鹿だった。アイツの一言くらい捨て置けばよかったんだよ。もしくは詰問されるがままハルヒにちゃんと説明して、至極当然と帰れば良かったんだ。

 「どうして」「なんで」をいくら積み重ねようと時間は巻き戻らない。

 同様に口から出した言葉は取り返しようがない。

「なあ、シャミセン」

「にゃあ?」

 既に寝ていると思われたソイツは、しかしどうやらリラックスしているだけのようだった。俺と同じだ。

「俺はどうしたらいいんだろうな?」

「……にゃぁお」

 分かるわけ、ないよなあ。溺れるものは猫にも縋る。また一つ新しい日本語を捏造してしまった。

 ……あ。

 これがホントの「猫の手も借りたい」か。

 ――キンコン、と。チャイムの音で眼を覚ました。どうやら布団も被らずに寝てしまっていたらしい。この季節にうたた寝なんてしていると風邪引くぞ、などと自分に言い聞かせてみる。とは言え、エアコンのお陰でそこまで寒いという事も無かった。

 昨日の教室で凍えていたハルヒの姿をなんとなく思い出す。……そこに意味なんてない。

 ぼんやりしていると階段を駆け上がってくる足音が耳に届いた。十中八九、妹だろう。

「キョーンーくーーん!!」

 バタン、と部屋の戸が開けられる。予想は当たり。何度言ってもノックするという習慣を身に着けない妹だ。かと言って看過する事も出来ん。

「ノックをしろ、ノックを」

「あ……てへっ。ごめーん。忘れてたー」

 そして三歩歩いてまた忘れるんだろう。それくらいは眼に見えていた。そんな妹は何事かを言う前に部屋の座布団で俺同様惰眠を貪っているシャミセンを目敏く発見した。

「シャミー! キョンくんの部屋に居たんだ。探してたんだよー」

 どうやら感動の再会らしい。言いながら猫をその胸に抱き、部屋を出て行こうとする我が妹。いや、お前は何をしに俺の部屋に来たんだよ。

「おい、何か用が有ったんじゃないのか?」

 妹は小首を傾げ、そして一昔前なら電球のマークが頭上に現れただろう笑顔で俺に告げた。

「そうだ。あのね、キョンくんにお客さんが来てるよー」

 ……そういう事は早く言ってくれ。反射的に机の上の時計を見れば、ああ、もうこんな時間か。来客に当たりを付ける。

「佐々木か?」

 立ち上がり、部屋を出る妹に追従しながら問い掛ける。シャミセンは迷惑そうな顔をしていた。

「うん、佐々ちゃん。久しぶりだねー」

 果たして妹の言うとおり、階段を降りればそこには玄関で所在無さ気に佇む親友の姿が有った。彼女は俺を認めると、髪を二、三回手櫛で梳いた後に微笑んで。

「眠そうだね、キョン」

 開口一番、鋭い観察眼を披露した。

「そんなに褒められるほどのものじゃないよ。ただ、寝癖が付いているってだけさ」

 それこそ褒められたモンじゃないな。ああ、少しだけ恥ずかしい。

「悪いな、ついさっきまで寝てたんだよ」

「だろうね、顔に書いてある」

 ばつが悪い俺に相反して少女は微笑を崩さない。

「あー……まあ、なんだ。とりあえず上がってくれ」

「うん。お邪魔します」

 脱いだ靴を几帳面にも揃えようとしゃがんだ佐々木であるが、

「……あ」

 正直俺としては眼のやり場に困った。スリムデニムって言うのか、身体の線が浮き彫りにも透かし彫りにもなる黒のパンツルックは、ソイツがしゃがみこんだだけでその柔和な丸みの全容を俺に強制的に妄想させる。頼みの綱の防寒具もその女性的な曲線を隠せない腰丈のショートコートだった日には……。

 ああ、俺は友人をどんな邪なる目で見てしまっているんだ。スマン。本当にスマン、佐々木。

 頭を掻きながら階段を上る俺に佐々木は付いてきた。背中から声が掛かる。

「部屋は昔のままかい?」

 そう言えば前に佐々木がウチに来たのはもう二年も前か。

「位置を聞いてるのなら回答は変わらず、だ。内装を聞いているんなら、流石に変わらないとはいかないな。色々、物は増えてる」

 言った後で、佐々木に家捜しを推奨しているようだと気付いた。が、冗談ではない。青少年御用達のあんなモンもこんなモンも隠蔽工作を施してはいないんだ。慌てて取り繕う。

「って言っても別に面白いようなものは無いけどさ」

 自然な感じで言えただろうか。自分では言えたと思う。少女はと言うと「そうかい」と四文字しか返って来なかったところから、何を考えているのかを俺に推測しろってのも無理な相談だ。

 さて。

 自室に同年代の美少女を招き入れる。

 それも複数ではない。一人だ。少女一人と、俺一人だ。なにかいけないことをやっている気分に俺がなってしまってもそれは致し方の無い話だと客観的に鑑みてもそう思う。

「なあ、佐々木」

「ん? なにかな?」

 部屋の前で立ち止まった俺に彼女は、しかし邪気の無い眼で見つめ返してくる。なあ、なんで俺が罪悪感に苛まれなければならないんだ?

「いや、その……だな。今更なんだが」

「もしかして、キョン。自室に異性を入れるのを戸惑っているのかい?」

 見破られていた。

 はあ。その言葉の意味を理解しているであろうにも関わらず、どうしてコイツは変わらず笑顔でいられるのか。俺には女という生き物がほとほと理解出来ない。

 佐々木然り、ハルヒ然りだ。

 俺の周りが特殊なだけだろうか。その可能性は十分に有る。国木田の「変な女」というフレーズがふと頭に過ぎった。

「……ふう」

 深呼吸。名探偵ホームズさんは読心術もお手の物らしいぜ。それともこれもやっぱり顔に書いてあったのかね。

「……まいった。ああ、その通りだよ。正直、戸惑っている。いや、誤解しないでくれ。家庭教師をしてもらうだけ、なんてのは分かってるし、勿論それだけのつもりなんだが……それにしたって、な」

 佐々木は友人である。親友と言って貰えているし、俺だってその関係を疑ってはいない。

 だが、だ。

 しかして俺は男であり、そして佐々木は言動、行動の端々でやはり確実に女なんだ。俺とコイツの間で間違いはあってはならないし、俺は何より佐々木に嫌われたくない。

「リビングで勉強って手も」

「キョン」

 俺の言葉は優しく遮られた。

「……寒いんだけど」

 屋内とは言え廊下は冷える。佐々木は俺から見ても演技だと分かるくらいにわざとらしく見せ付けて両手を擦った。

「君の煩悶は理解した。だから早く中に入れてくれないかな」

 本当に分かっているのか、いないのか。であっても俺に否定を言わせる気がないことを少女はその眼力でもって伝えてきた。

 ノーと言える日本人になりたいもんだ。はあ……どんな噂を立てられても俺は知らんぞ。

「分かった」

 戸を開けて中に入る。この部屋に誰かを招くなんてのはいつ振りだ? 夏休みに宿題の総浚いをSOS団全員でやった時か……ああ、十月に古泉とハルヒのことで作戦会議をしたな、そういや。

 椅子に腰掛ける。学習机のライトを点し、リモコンでエアコンの温度を調整した。鞄から筆記用具を取り出して……横を見ると佐々木が部屋の入り口で立ち尽くしていた。

「……どうした? 何か珍しいものでも有ったか?」

 物珍しいのはシャミセンの毛くらいだと思う訳だが。むしろ俺にとっては今の佐々木の方が珍しいものを見た、って感じだ。落ち着こうとして失敗しているような。少女の視線は右往左往して、別に室内に蝶なんかひらひらと飛んじゃいないんだけどな。

 まるで借りてきた猫だ。

「……いや、珍しいと言うか……ね。上手く言えないのだけれど」

「けれど?」

「キョンの部屋なんだな――と思って」

「なんだ、そりゃ?」

 当たり前のことを感慨深そうに言われてもな。正直、俺としちゃリアクションに困る。

「さっきも言ったが面白いものは何も無いぞ」

 有っても見せられる類じゃないしな。間違っても女子と二人で見るモンじゃない。そうは言っても俺にとっては聖書な訳だが……と、なんでもない。忘れろ。

「いやいや。なにか特定のものに関心を抱いているのではないよ、キョン。……さて、と」

 俺に向き直った時、佐々木はいつもの佐々木に戻っていて。少女が部屋の戸を閉める時に、何かを言いそうになったのはなんとか堪えた。二人きりを意識していると思われるのは癪だったし、二人きりだって俺自身あまり意識したくはなかったからだ。

「本来の目的をこのままだと忘れてしまいそうになる。早速だけど始めよう」

「おう。よろしく頼む」

 佐々木と俺の間に今更、性別なんてものを挟むのは野暮なだけだ。それこそ空気読まないってヤツだ。俺はそこまで鈍感なつもりは無い。

「……キョン?」

「ん、どうかしたか?」

「出来れば君の隣に座れるよう、椅子を用意して貰えると嬉しい」

 佐々木はコートを脱ぎながら、

「それとも、君のベッドにでも座っていようか?」

 そんな一言でベッドに横たわる親友の姿を想像しちまった俺は、ああ、最悪だ。妹の部屋から借りてくると言い残して慌てて部屋を出た俺の耳に少女の、喉の奥でくぐもるような独特の笑い声が聞こえた。


 佐々木先生の家庭教師は少なからず学校の教師よりも効果を実感出来るものだった。土台の反復練習から始まり、俺が指を動かしている間も読み聞かせは途切れない。後から聞くとそれは指と眼と耳と、使えるものを全て活用するというやり方らしい。

 一時間もすると俺は、今やった二十ページほどの内容からならばどのような問題を出されても答えられる自信を付けていた。なんだろうか、この達成感は。まるで魔法のようだ。

「佐々木」

「なんだい?」

 感想は素直に口を突いた。

「お前はいい教師になれる。俺が保障する」

 瞬間、佐々木が小さく吹き出した。人が真面目に言っているのにどうして笑い出すんだよ、お前は?

「飲み物を口に含んでいない時で良かったよ。危うく君の衣服を汚すところだった。――キョン。今度からそういった突拍子の無い事を言う時は事前に警鐘を鳴らしてくれ」

 無理を言うな。大体、俺は今面白いことを言ったつもりなんて欠片も無いっていうのに。

 どうしろってんだよ、実際。

「……もしかして俺が悪いのか?」

 微笑を浮かべる佐々木の眼は下弦の三日月を模して、意地悪く俺を糾弾した。

「もしかしなくとも、君が悪い」

 マジか。人を褒める行為すらTPO次第では悪行へと変貌してしまう現代社会に俺としては強く危機感を覚える。悲しいね。

「言わんとする事は分かる。けど、生業として教師を選んだ人たちと今の僕とではどうあっても比較にはならないよ」

 佐々木は冷めてしまったコーヒーを一口含んで、

「彼らは複数を相手に授業を行っている。三十人余といったところかな。キョンの学校も一クラスの人数はあまり変わらないだろう? つまり、単純に考えて伝える力は一人頭三十分の一まで落ち込んでしまうことになる。それで授業を成立させなければならないのだから、先生方には文字通り頭の下がる思いさ」

 三十分の一……まあ、そう聞くと確かに教師ってのは難儀そうだな。俺なんかが簡単に薦めて良いものじゃ、どうやらなかったらしい。

「なるほどな」

「とは言っても、だ。褒められた事それ自体は嬉しいよ。ありがとう。まあ、二年前の経験と反省を活かしているからね。多少、教え方も上手くはなっているという実感は有る」

 確かに。二年前は卓袱台に頭突き合わせて一緒に勉強して、分からないところを教えあうスタイルを取っていた。だが、今回の佐々木は違う。

 俺の向かいではなく隣に座り、ただ参考書を開いているだけ。まず、舞台が卓袱台じゃない。だから、その手に筆記用具は無いしそもそものノートを佐々木は持たない。

 その様はちっとも急ごしらえの家庭教師には見えないくらい堂に入っていた。

「しかし、これは八割方君のためだ。残りの二割はバイト代のためで、残念ながら家庭教師にも教師にも僕はなろうと思ってはいない。だから手際を褒められても、うん、ここまで言えば分かるだろう――僕が笑ってしまった理由も」

 的外れ、だな。

「その通りさ」

 そこで俺はふと疑問を抱いた。いや、どうって事もない、そりゃもう他愛もないクエスチョン。

 だが、最近俺の胸中に巣食っている元凶――なのかも知れないヤツ。

「つまり、佐々木よ」

「ん?」

「お前は将来なりたいものが有るのか?」

 佐々木は眼を細めて即答はせず、値踏みするように俺を見た後でくすり、笑った。

「キョン、君には無いんだね」

 多分、ざわついているのは「これ」なんだろう。原因か、遠因かは知らんが。

 俺は肯定した。否定なんて出来るはずもないしさ。

「なりたいものが僕には有るよ。確固として、なんて言えるはずもないけど。そうだね……出来ればなりたい、くらいの気持ちでしか今はない。けれどそのために今やれる事はそれなりにやっている。具体的に言えばそれは受験勉強で誰しもがやっている事になってしまうが」

 親友の言葉は、眩しかった。正直に言ってしまえば――嫉妬。そう、俺は少女に嫉妬していた。

「俺には……俺にはそういうの、無いんだよな」

「そうか」

「なあ、佐々木」

「ん? なんだい?」

 親友の眼を見る。それはぶれない人間の持ち物だってのが一目で分かってしまう真っ直ぐなもので。

 俺に無いもので。

 佐々木が持っているもので。

 俺に無いもので。

 ハルヒもそういえば同じ眼をしていたか。

「お前らばっか、ずるいよ」

 情けないことを言っているのは分かっている。

 けど。

 知りたかった。同じ目線に立ちたかった。情けなくとも、みっともなくとも、それでも置いていかれるのはどうしても嫌だった。

「『そういうの』って、どうやって見つけるんだ?」

 目の前の親友以外にこんな事を吐露出来る相手なんて、俺にはいない。なあ、佐々木。春に再会した時にお前が言った、そのとおりじゃないか。

 親友。

 俺がそう呼ぶのは、実はも何もお前だったんだな。先見の明だ。ブラボー、ブラボー。拍手喝采。

 でもって、その明晰さで。

 どうか俺にも道を示しちゃ貰えないだろうか。

「……キョン」

 太ももの上でずっと開いていた参考書をパタンと閉じた佐々木は苦しいような嬉しいような、笑っているようにも泣いているようにも見える曖昧模糊な表情をした。もうあと一ミリ目尻が下がればそれは泣き顔になるだろうし、二ミリ口角が上がれば笑顔にだって見えるだろう。

「それは人に教えて貰えるものじゃない。分かっているだろう? 教えてあげられるものでもないんだよ」

「――だけど」

「だけども何も無いよ。例外も抜け道も裏技も無い。例えば僕が君に宇宙飛行士になりなさいって言って、君はそれを自分のなりたいものだと思えるかい? 思い込めるかい?」

「違う。そうじゃない。俺がなりたいものズバリそのものを教えてくれ、って言ってんじゃなくって、ええと、なんだ、もっと、その取っ掛かり――そう、取っ掛かりの部分をだな」

「だから、それがさ」

 佐々木は窓の外に視線を投げた。

「出来たら苦労しない、って僕はさっきからそう言っているつもりだったんだけど、分からなかった訳じゃないんだろう、キョン」

 ……だよな。自然と溜息が零れた。

「なんか、すまなかったな」

「いや、別にいいさ」

 思い返すとかなり恥ずかしい事を言っていた気がする。途端に自己嫌悪にどっぷり浸かりそうになって、いや、でもこんなんは俺ばっかりの悩みでもないだろと慌てて自己弁護に思考は走った。高校生なら普遍の議題であろう。

「気持ちはね、分かるんだよ」

 なりたいものが有ると、俺に向けてそう言い切った佐々木はけれどシンパシを抱けると。

 どういうことだ?

「ねえ、『そういうの』を僕が最初から持っていたと思うかい? キョンが今抱いている悩みは高校受験の時に僕が抱いていたものに、そっくりだよ」

 くつくつと、佐々木は笑って。それはなんだ? 俺の精神年齢がお前より二年ほど遅れてるってそういう――馬鹿にされているようにしか聞こえないぞ。

 もしかして俺、怒っていいのか?

「いやいや、こういうのは時期がバラバラで、それで当たり前さ。早い遅いは個人差で、そこに優劣は無い。人格の問題に転化するなんてのは以ての外だ」

「……そうか?」

「そうだよ。だから、恥じ入ることじゃない。むしろね。僕は非常に嬉しいんだ。こうして君から頼って貰えることが。こんな悩みをキョンから打ち明けられる自分を」

 佐々木は笑顔で。

「誇りに思う」

 つられて笑顔になってしまう俺がいた。

 まったく不思議だ。こんな悩みを打ち明けたのに。

 俺は佐々木に向けて笑えてしまっている。

「なんだよ、それ」

「おかしいかな? 僕としては非常に名誉なことなんだが。少々、個人的過ぎただろうか。いや、共感して貰おうなどとは露ほどにも思っていないさ。して貰いたくないとまで言ってしまえそうだ」

 せっかくだし独占したいじゃないか、と佐々木はほんの小さく呟いて。

「キョンもいよいよ受験生らしくなってきたね」

 俺の親友は満足そうにそう言った。

 佐々木はどうやら夕食をウチで食べていくようだ。という事は……アレ? 何時まで居るつもりなんだよ、一体。

「気の済むまで、だね」

「ちょい待ち。それは俺のか、それともお前のか?」

 それが問題だ。だってのに佐々木は事も無げに、

「両方」

 おいおい、簡単に言ってくれるじゃねえの。

「両者の合意をもって授業終了とする。本来、教育とはこう有るべきだと思わないかな?」

「思わないな!」

 本気と書いてマジで。佐々木はいつまで居る気なんだ? 現在時刻は十八時過ぎで夕食までは秒読みに入っている。いつもならそろそろ妹が呼びに来る頃だった。

「まあ、日付変更前にはいくらなんでも帰るさ」

「リミットが遅過ぎるだろ」

 呆れて言う俺に、佐々木は足を組み替えながら笑った。

「君の受験生としての自覚と果たしてどちらが遅いかな? ……っと、これは少し意地悪が過ぎたね。くっくっ」

 おちょくられている。なんとか言い返そうとしたが……ダメだ。口でコイツに勝とうとするその考えから既に間違っている事に気付いただけに終わった。

「まあ、実際問題としてだ。遅れている分を取り戻すのだから相応の時間は掛かる。覚悟しておいてくれ、キョン」

 因果応報。これまで碌に勉強してこなかった事がここに来てずっしりと圧し掛かる。しかも親友まで巻き添えにしてだ。情けないな、まったく。

「そう卑下しなくてもいいさ。さっきは君をからかうためにあえてああ言ったけどね。遅過ぎるなんて事はまるでない。この時期なら十分取り返せるさ」

「そうは言うけど佐々木よ」

 実際問題、俺はほぼ二年間の授業をまるまる溝に捨ててきたようなモンだ。その二年間を一年で取り返すなんてのは長門に時間でも操作して貰わん限り難しいだろ。

「言葉を返すようだけど」

 しかし、それでも俺の親友は言うんだ。言って、そしてそれは俺を納得させてしまえる。

 まるで、宇宙人のように。未来人のように。超能力者のように。異世界人のように。

「三十分の一だよ」

 説得力の塊。ユーモアの権化。それはまるでもう一人の――。

 いや。頭を振って馬鹿な考えを捨てる。

 佐々木は、佐々木だ。他の誰でもない。そうだろ?


 夕食の席で俺たち……否、俺はこれでもかとお袋にからかわれた。思い返すのも嫌になる。

 佐々木を伴っての食卓なのだから過去を振り返るまでもなくこうなるのは予想していたのだけれども、それにしたってしかしお袋には俺の予想を裏切って貰いたかった。勿論、いい意味でだ。

 歳を取ったら俺もこんな風に若者をからかわずにはいられなくなるのだろうか。いや、自分がされて嫌だったからこそ、それを反面教師としなければなるまい。うむ。

 しかしながら、テーブルへと今夜一番の爆弾を投げ込んだのはお袋ではなかった。なら誰だったのかと聞かれれば該当者なんて我が家に一人しかいないだろ?

「佐々ちゃん、いっそウチの子になっちゃいなよー」

 この一言には流石のお袋も凍りついちまった。この親にしてこの子有りってのはよく聞くが、それでも母親が余りにかわいそうだった為にこの場面で使うのは躊躇われたくらいだ。

 小学校六年生。もうそろそろその手の発言の深い意味は分かるはずだろう。弟妹が欲しいだの、赤ちゃんはどうやって産まれるのだのといった愛らしくも回答に困る具体例を持ち出すまでもなく年齢とともに禁句は増えるものなんだ。

 それでも。突発かつ緊急事態でありながらもあっさり無難に受け流した佐々木に俺は賞賛を贈りたい。俺ではとても穏便とはいかなかっただろう。

「しっかし、咄嗟によく出て来たモンだよな」

「出て来た? なんの話だい?」

 俺たちは夕食を終えて授業を再開していた。学習机に向かう俺の隣七十二センチという位置を少女は定位置としたらしい。近からず遠からず。全ゴルフプレーヤ垂涎の絶妙の距離感。古泉のヤツにも教えてやって欲しい。

「いや、さっきの。ウチの子にならないかに対して『その時はよろしくね』だったか。曖昧に濁すってのは例えば俺が同じ事をやろうとすると『考えておく』になるんだが、いくらウチの妹が相手とは言えやんわりとした否定だってのが丸分かりだ」

「……だね」

「お前のはさ、こう、肯定しているようにも取れなくはないっていうか、いや社交辞令なのは誰の眼にも明らかだが」

 しかしながら妹の眼(この場合は耳か?)には映らない絶妙のラインだった。参考書を眺めながら横目でチラリと少女の横顔を覗、ヤベ、眼が合った。

「ふーん、社交辞令。社交辞令か。キョンはそういう風に受け取るんだね。そうか……それは残念だな。僕は本当に脈無しらしい」

「……あのなあ」

 一体どこまで本気なのやら。

 まかり間違えて真に受けてしまいそうな、健全な男子高校生ならば深い意味とやらに自ら率先して取り違えにいきそうな。

 そんな表情と言い方を佐々木はしたわけだが……残念ながらそんな器用な勘違いは俺には無理な相談だ。なぜなら、俺は佐々木のことをそれなりによく知っているから、となる。

 このシリアスぶった顔は過去に何度か見ている。俺をからかっている時の顔だ。そうだろ?

「佐々木よ。多感な年頃の青少年を弄るのは決して良い趣味とは言えないな。ウチの母親とやってる事が大差無いぜ。玩ぶにしても、もうちょいと捻るべきだ」

 俺が言うと佐々木は破顔した。

「くっくっ。冷静だ。もう少し動揺してくれるのを期待していたんだけれど、流石はキョンと言うところかな。うん、面目躍如だね」

「お褒めに預かり、光栄だ」

 それでも内容の五割ほど馬鹿にされている気がする。いかんいかん。どうにも被害妄想気味だな。

 ……自虐、かも知れん。自分をいじめて喜ぶ変態趣味なんか持ってはいないはずなんだが。

 佐々木はニコリと笑った。そして口を開く。

「……それとも」

 今日、一番の爆弾が俺に向けて投げ込まれた。

「君を驚かすのは――涼宮さんの領分なのかな?」

「はあっ!?」

 叫んだ後で我に返る。しまった。口にも顔にも動揺がこれでもかと出てしまった。

「ど、どうしてそこでハルヒが」

 声が上ずる。

「ハルヒが出て来るんだよ」

「おや、どうしたんだい、素っ頓狂な声を出して。もう少しクールな性格をしているとキョンを評価していたのだが、どうも僕の中の君の人物像に若干修正の余地が有るようだ」

 汚名挽回、名誉返上。そんな言葉遊びで現実逃避を試みても、それこそハルヒの領分だ。どんだけ穴が有ったら入りたくとも、頭隠して尻モロ見えって具合に恥の上塗りも十分承知。

 つまり、ここは佐々木戦法、こちらから逆に乗っかっていって有耶無耶にするのがベストと俺は見た。

「豊かな感性の持ち主だと備考欄に加筆しておいてくれ」

「分かった。それで?」

「『それで』の意味が分からん」

「涼宮さんと聞いて目に見えて狼狽した、その理由について説明を求めてもいいかな?」

 眼を伏せた少女は……睫毛長いな。

「何か有った、のだろう? そうでなければいささか以上にキョンの態度はおかしい。
 涼宮さんとの、もしくはSOS団の間で問題ないし事件が起こっているのではないかな。君はそれに僕を巻き込みたくないと考えている。
 そう、僕は推理するよ。僕に対して涼宮さん関連の話は極力しないでおこうとさえ思っていたんじゃないのかな?
 思い返せば一時間以上顔を合わせていながら、僕と君との関係において彼女、もしくはその周囲の愚痴すら聞かれなかったというのは出来過ぎだ」

 対してお前は考え過ぎだと俺がたしなめる間もなく、佐々木の的外れな推理発表会は続く。

「これは君がわざとそれた方向に会話を誘導した結果だろう。ああ、自分を卑下する必要は無いからね、キョン。勉強に集中している振りは見事だったよ。君の天職は実は役者なのではないかと勘繰ってしまうほどだった」

 演劇部に興味が無いどころか、学祭でも演者ではなく裏方に徹していた俺に何を言っているのやら。

 それに勉強に集中していたのは本当であり、これまた天職ではないかと疑ってしまう佐々木のゴッドハンドっぷりに引きずられただけであるのだが、それを指摘してもこの親友は謙遜に謙遜を重ねるのだろう。

「君が話をずらしたのが故意ならば、僕が彼女の名前を出したのも故意だが。それでもここまでキョンが動揺するとは思ってみなかったのは本当だ。少しばかり僕も驚愕に釣られてしまったほどさ。
 端的に言ってあの反応は異常だね。確実にいつもの君ではない。となるといつもではない、何か特別な事情が君の方に存在していると見るのが筋だろう」

 ニヤリと笑うその眼にわずかばかりの期待を乗せて。

 おいおい、佐々木よ。何を考えているのかは俺にも心当たりというか身に覚えが有るというか、なんかそんなのなんだが、ここ半年でお前までハルヒズムに感染しちまってたんだとしたら、それは多少なりと俺の責任でも有るのだろう。

「はあ……やれやれ」

「その溜息の出所は僕絡みかい?」

 まあ、概ねその通りだ。だが、それだけでもなかった。足を組み直す佐々木は俺に向けて言う。

「それとも」

 それとも――、

「涼宮さんかい?」

 ズキリ。幻痛が胸を貫いた。溜息の出所は肺で間違いないことを痛みをもって俺に教えてくれている。

 ――今のは顔に出てしまっただろうか。かも知れない。そもそも俺は表情を隠すのが上手くないからな。豊かな感性の持ち主だし……と、そうい
う事にしておこう。

「どうやら図星のようだ」

「そういうお前はどうなんだよ」

「どう、って?」

「お前、なんだか嬉しそうだぞ」

 佐々木は耳の上を手櫛で軽く梳いた。

「まあね。はたで見ている分にはそこそこに刺激的なんだ、君達は。他人事だから楽しめるっていうのは、きっと渦中の本人に言うべきではないのだろうけど」

「全くだ……ま、でも」

 言われて気を悪くするのは、もう俺には無理そうだった。

 『窮地』は脱したのだから。

「俺、SOS団辞めちまったしな」

「え?」

 呆気に取られたような、口を半開きにする佐々木は俺が初めて見たかも知れない素の表情で、出来ればこんな話題で見たくはなかった。

「……ちょっと待ってくれ」

 佐々木は右手を、その手の平からエネルギー波でも放つように俺へと翳した。

「今、僕の耳にはSOS団を辞めた、と。そう聞こえた訳なのだが」

 なるほど。余りにも信じられなかったが為に、自分の聞き違えを疑ったのか。まあ、部活を辞めたってのは確かに大事件ではあるのかも分からん。しかし果たして見事なまでに個人的な内容のそれに佐々木が狼狽するような要素が有っただろうか。

 いや、無い。

「ああ、そう言った。俺は、SOS団を、今日、退部した」

 聞き直しが無いように一語一語を区切って強く発音する。音楽で言うところのクレッシェンドだ。あれ、スタッカートだったか? まあいい。

「今日? それはまた……どうして?」

 どうしてだろうなあ。後頭部をワシワシと掻き混ぜてみたが、該当はゼロ。直接的な理由はただの着火でしかないのは明白だった。

「焦り……だったんだろうなあ」

 置いて行かれたくないという漠然とした未来への不安。そしてそれを払拭する為の行動へと至れない自分の不出来。そういったものの理由付けに俺はきっと心の隅っこでSOS団を用いてきたのだ。

 テストが出来なかったのは超能力的な世界平和に貢献していたからだ。

 勉強時間が取れなかったのは宇宙的な侵略計画へ異議申し立てを行っていたからだ。

 通知表が散々なのは未来的な平行世界増殖を未然に防ぐため奔走していたからだ。

 俺が何もしてこなかったのはSOS団に在籍していたからだ。

 少しもそんな風に思っていなかったと、言えばソイツは嘘になる。そして隠れ蓑にするには「そこ」は楽し過ぎた。不安が育ち切るまで眼を背け続けられるくらいには。

「……焦り、か」

 俺に一体何が有ったのかの、その八割くらいは理解してしまっているような深い感情を佐々木はたった一言に乗せた。

「だから、まあ、口にするのすら情けないが退部の理由は八つ当たりだ」

 八つ当たり。なんて身も蓋も、そして救いようすら無い理由だろうか。けれど今更仕方が無い。弁解なんて出来ないし、復縁も考えちゃいない。

 だから逃げるように今はただ勉強に打ち込みたかった。佐々木の黄金色の手腕は、そういう意味じゃ俺にとって渡りに豪華客船だった訳だ。

「……そう、八つ当たりだ」

 自分に言い聞かせるように繰り返した。それから俺は佐々木に向けて何を口にしただろうか。言葉少なくぽつりぽつりと低空飛行を続ける成績への愚痴を吐き散らしていたような気もするし、自分の不甲斐なさを重低音でわめき散らしていたかも知れない。

 正直この辺りは感情のままに喋っていたせいで内容をよく覚えておらず、もし佐々木に酷い事を言っていたとしても一つとして不思議じゃない。覚えてないってのはなんて万能な、そして誠意の欠片も見られない言葉なんだろうとよくよく思うよ。

 本当に思い出したくもない。それは……これは――、

「逃げてるだけじゃないか」

 ハッとする。我を取り戻して佐々木を見上げれば(いつの間にやら下を向いていたようだった)、少女はそれでも俺に微笑みかけていた。こんだけ無様な男を前にして「女神かコイツ」などと思ったりもしたが、いやいやその比喩は心底笑えない。

 佐々木は慈愛に満ちた女神なんかじゃない。それを俺に再確認させるように、その眼は一つも笑っていなかったし語気は有無を言わさない厳しさに満ちていた。

「今度は僕を逃げ場にする気かい、キョン?」

「そんな……そんなつもりは」

 違う。そうじゃない。まったくの誤解だ。真逆と言ってもいい。俺よりも数段賢いお前が分からない訳ないだろ?

 ハルヒプロデュースのファンタジィから現実への着地をしようとしてんのに。応援して貰えるものだと、歓迎してくれるだろうと思っていたのに。
 どうして……どうしてそれをたしなめられなければならないんだ。本来、そうであるべきものじゃないのか、人間ってのは。地に足を付けて生きるものじゃないのか。

「涼宮さんはファンタジィじゃない」

 なんてこった。

 俺は、ハルヒを。

 ハルヒをいつの間にかそんな色眼鏡で見てしまっていた事に――気付かされた。

 そんな当たり前のことを俺は見失っている。大前提だったはずで、長門も朝比奈さんも古泉も色眼鏡を外せない中、唯一そういったこと抜きに向き合っていける「俺」ってのが必要とされているんだと。

 薄々気付いていた。SOS団に何の取り得も無い平凡な俺が招かれた理由。だってのに。

「僕としてはね、君が勉学に励む決心をしてくれたのは自分の事のように嬉しい。それが未来への不安に駆り立てられてというのも、それはそれで別に間違ってはいないとも思っている。
 自分から勉強と向かい合える高校生なんてものはごく稀だ。嫌々やらされていても別にいい。好きこそものの上手なれと言うが、それはしかし苦手は上達しないと言い切っていない。希望を摘み取るなんて無粋な真似を先人はなさらないさ。
 いや、なに。キョンを貶しているのではないんだ。むしろ君はこれから先よく伸びると思っている。勉学――未来の為に君が熟慮の結果、SOS団を辞めると、そう決めたって構わない……元々僕には何を言う権利もないしね。けれども、だ」

 佐々木はそっと目蓋を閉じた。稚児に道徳を説くようにゆっくりと続きを話す。

「それと、涼宮さんに当たる事とは無関係だ。無責任と言い換えてもいい。義理を果たさない友人を僕は持ったつもりなんて無いよ。だから、君には退部という結論に至るまでの経緯を彼女にきっちりと説明する義務が有る」

 義務、と言われて甦る苦い台詞。

「なぜ俺はお前に洗いざらい白状せねばならんのかと言っているんだ」。

 心情を吐露するというのは中々にハードルが高い。ほら、一番正直なところは言えないだろ、何事も。人間の本音ってのは鋭過ぎて傷付ける事しか出来ないんだ。腹を割ったら話もまともに出来ず、死ぬ。

「心の内をさらけ出せとまでは僕だって言っていないさ。あくまで事務的に、淡々とでいい。僕の見る限り涼宮さんは決して話の分からない人ではないよ。君が受験勉強のために――しいては自分自身の未来のために一番良いと思われる選択をしたと、そう知ればきっと彼女も認めるはずさ」

 どうだか。お前は知らないかもしれないがアイツは中々に嫉妬深いし独占欲も強い。素直に「はい、そうですか」とご納得頂ける様子が俺にはとんと想像付かん。また変な理屈を捏ね回すだろうってのに三千点。

 そもそも俺はSOS団を辞めたいってんでもないしな。

「知ってるよ」

 何を知っているのか。何もかもか。その慧眼は俺なんかに向けられるのが本当に勿体ない。

 ハルヒじゃないが、これこそ大いなる世界の損失ってヤツだと思う。うむうむ。

「キョン、君は一度涼宮さんとちゃんと話をしてみるべきだと、そう僕は思うよ」

 以上、佐々木大先生のお言葉に愚直に従って俺は、午後十一時現在、ハルヒへの謝罪文をしたためて電子メールへと乗せた。流石に佐々木の見ている前で文章を考えるなんて恥ずかしい真似は出来なかったと言えば分かるだろうが、もう少女は帰宅済みだ。

 送信ボタンを押す時に指が震えた。この文面でいいのか、そもそも電子メールという伝達方法でいいのか。悩み出したらキリが無い。

 それでも「今日はすまなかった」というタイトルだけは佐々木の入れ知恵で、最初にこちらが下手に出ておけば意地っぱりな少女であってもすんなりと文章に入っていけると……そんなに簡単なものでもないと思うが。

 しかして縋る対象としては藁やシャミセンよりもよほど適正なのも事実であり。迷った挙句、最終的に異性の考えることなど俺にはさっぱり分からんと下手な考えは山の向こうへと放り投げ、佐々木を信じることとした。

『タイトル通りだ。悪かった。出来れば釈明をさせてくれたら助かる……ってメールでこれもないか。以上、一方的に書き散らすつもりだ。読んでもらえることを願うしか俺には出来ん。
 最近、クラスになんともシリアスな雰囲気が漂っている事にお前は気付いているか? 好意的に言語変換するとアレは受験生としての自覚ってのの表れの一種だ。そして、どうやらソイツは伝染性を持っているらしい。
 ここまで言えば賢いお前のことだ。なんとなく察しは付いただろ。でもって俺も類に漏れず感染――朱に交わっちまったらしいんだな、コレが。ああ、流され体質だと今回ばっかりは笑ってくれていいぞ。
 率直に、かつ素直に言えば俺は焦っていたんだ。勉強を疎かにしていた事だとか、今まで何をのんきに自堕落かつ無目的に過ごしてきたんだお前は、みたいなアレコレ。自業自得だよな。
 自業自得なのに、だ。それでも今日、お前に当たっちまった。本当に悪かった。明日、顔見て謝れるかどうか分からないから、こうしてメールにしてみたが、出来ればちゃんと眼を見て謝りたいし、経緯だってもっと詳しく説明させて欲しい。
 もしも、お前が俺を許してくれたとしても、これから足はSOS団から少しづつ遠のくと思う。一応、この身の振り方も俺なりに考えた結果だ。それが気に入らないなら、団長はお前なんだ、退部にしてくれ。

 ごめん』

 思っている事をそのまま打っただけだった。推敲をしようとも思ったが、しかしそのままの方がこういうのはむしろ伝わるんじゃないのかとベッドの上で煩悶した時間は優に六百秒を越えた。結局、追記は最後の一言に留まって、ほぼ原文ママである。

 しかし、俺は本当に文章力が無いな……全体を通じて一貫性に欠けるのは、まるで俺という人間の意志薄弱を写し込んでいるようだ。

「……やれやれ」


5,vision

 あの後、どうやら俺はケータイを放置して寝てしまったようだった。時間も時間だったし、慣れない頭脳労働は余程堪えたのだろう。メールの着信にも気付かないくらい俺は爆睡してしまっていた。

 夢を見た。

 それはいつぞや見たことの有る夢で、大学生になった俺がハルヒの膝枕で眠ってしまっていたという思春期の妄想を最大限まで増幅したようなこっ恥ずかしーシロモノだったのだが、いやいや、こんな甘酸っぱいものが俺の深層心理の鏡だなんて。

 認めたくないものだな、若さゆえの過ちってのは。

 そして、それには続きが有って。そこには長門に古泉、更には朝比奈さんと佐々木の姿まで有った。以上、それが俺の願望だってのに異議申し立てし難いという……まあ、それが未来であったのだとしたら確かに喜ばしいものではある。

 誰一人欠けず。SOS団は不滅だってハルヒの言が、願望が真実になってしまうのだとしたら。それはまあ、歓迎すべきなんだろう。というか否定する要素がない。

 しかし、その為には俺には圧倒的に力が無いな。現実は夢と違って怠惰に厳しい。

 っと、そうだ。メールの内容を紹介しなければならん。夜の内に届いたのは四通。その内訳は二通が迷惑メールだった。いや、三通と言うべきだろうか。古泉から届いたモノに関しては閉口しかリアクションが取れなかったからな。

『貴方の選択と決定を機関としては全面的に支持し、バックアップしていきます。お力になれる事が有りましたら遠慮無く言って下さい』

 今日、古泉に会った時に言う第一声は決まっていた。それはつまり「プライバシ侵害で訴えるぞ」だ。

 あの超能力野郎、マジふざけんな。

 で、もう一通は言わなくても分かると思うがハルヒからだ。受信時刻は日付が変わって午前一時過ぎ。アイツ、今日は絶対に寝不足だな。

 少女が夜更かしをした責任の一端を担っているのは誰でもない俺自身であり、そこに罪悪感が無いかと言えばそりゃ勿論有るに決まっている。

 今日一日くらいは睡眠学習を敢行するハルヒを起こさないように努める、くらいしか俺に出来ることは無さそうだが、ま、それくらいはやってやろう。お詫びとしちゃいささか地味過ぎるのは……こういうのは心が大事なんだ。

 さて、皆様注目であろうそのメールの本文であるが、勿体振るのすら馬鹿らしい。古泉からのメールをも越えて簡素極まりない内容だった。

『分かった』

 ……四文字って。

 ……四文字ってどうなんだよ、お前。人として。女子高生として。

 どこまでも深読み出来そうな文章であり、果たしてこれを文章と呼んでいいのかすらから俺にはもう怪しいのではあるが、しかしまた短過ぎて深く掘る以前にスコップの先が入らなかった。

 作者の感情を読み取るどころの騒ぎではない。要旨を抜き出すにしろ、これ以上どこを削れというのか。現国の授業はここに来てその応用範囲の狭さを露呈したことになる。まあ、高校の授業がこれからにどう役に立ってくるのか、俺としては常日頃からの疑問で……と、話が逸れたな。

 それにしたって、このメールを俺はどのように受け止めればいいのだろうか?

 まるで意図が読めんのだが。

 面倒くさかったのか。はたまた、まだご立腹を継続させていらっしゃるのか。……多分、ハルヒ的にはどっちかだろう。もしかしたら万が一にでもあっさりと機嫌を直しているんじゃないか、って希望的な可能性はこれで塵と消えたことになる。

 根に持つヤツだとは別段思ってはいない。むしろ陰険って言葉がこれほど避けて通る相手も珍しいくらいのヤツなのであるが、それにしたって退部を告げた相手をそう簡単に許せるはずもないのは俺にだって心情的に理解出来る。

 ああ、学校へと向かう足取りも重い。こんな日に限って空は俺を嘲笑うように久々の晴天。憎々しいと思ってしまうのは俺が捻くれ者だからなのか? 自覚が無い訳じゃないけどさ。

 それでも、電車は事故も無く順風満帆の定期運行、地獄の上り坂も氷が張っている素振りは無し。俺の登校を阻むものは何も無いのだから、当然足を止めない限り教室前まで辿り着けてしまう。

 そして戸の前で最後の一歩を躊躇した。

 ここまで来ていながら揺らいでしまう程度の覚悟なら、最初から自主休校しておくべきだったんだよなあと考えても後の祭り。

「今度は僕を逃げ場にする気かい?」。なーんて佐々木の声が脳内で追再生される。ああ、分かった分かった。分かりましたよ。逃げ腰じゃ何も始まらない。前を向かなきゃ進めない。

 せめて風当たりが少しでも弱まるようにと心の中でハルヒ大明神へ割と本気で祈りつつ、俺は合戦場への最後の一歩を踏み出したのだった。

 ……俺はどうも勘違いをしていたらしい。

 いや、思い違いだろうか。

 涼宮ハルヒという少女の特異性。

 出会って間もない頃の話だ。宇宙人、未来人、超能力者を探している理由を俺が尋ねた時、ソイツはなんて答えたか。俺はよく覚えている。人間とはここまでシンプルになれるものなのかと、内心深く感動したものだった。

「その方が」

 シンプルとは決して貶し言葉ではない。その後に続くのは「イズベスト」が定型句。

「その方が面白いじゃない!!」

 好奇心と書いてハルヒズムとルビを振ったところで、間違いではないくらい。

 少女は常日頃から面白いことに飢えている。

 てっきりハルヒは俺と眼を合わさないように顔を外に向けて机に突っ伏し、寝た振りをしているものだとばかり思っていた。もしくは俺との接触を極力断とうとしてチャイムぎりぎりに登校してくるんじゃないかと。

 そんな場合における俺の身の振り方を登校中の脳味噌で繰り返していた訳なのだが。

 冗談じゃない。

 すっかり忘れていた。ハルヒ相手にシミュレーションなんてものが通じた事が一度でも有っただろうか。経験則に裏打ちされた鋼鉄製の「ノー」の文字。俺の卑小な脳味噌などでアイツが収まり切るはずもないのだ。

 なぜそんな簡単な事をまるっと忘れてやがったんだよ、俺。

 ああ、それは。いつか見た。久々に見た。

 至極ご満悦な悪代官を思わせる笑みをその端正な顔に勿体無くも浮かべて、身体は廊下を向けて椅子に横座り。右肘を背凭れに寛げて足を組み、これで左手でワイングラスでも転がしてりゃ完璧だ。

 その顔には透明な墨汁でデカデカと「待っていたわ」なーんて書かれていた。

 何をする気なのか。何をやらされるのか。ペナルティ? 罰ゲーム? そんなプラス要素の欠片も見当たらない言葉ばかりがぐるぐると頭上を衛星軌道で周回する。まだ一言だって口を聞いちゃいない。ハルヒは俺の姿を認めるとニンマリ微笑んだだけなのだ。

 だってのに。俺は恐れおののいていた。あの顔をしたハルヒはロクな事を言い出したためしが無い。今度は何を思いついた? ああ、今すぐ詰め寄って白状させてやりたい衝動に駆られる。いや、違う。逆だ。出来れば聞きたくない。聞かなかった振りをしてやり過ごしたい!!

 一歩、二歩。断崖絶壁、自殺の名所に近付いていく心持ちだった感は否めない。しかしながら俺の席はその先端にぶら下がっているのだ。退路は無い。やっぱ今日ばっかりは自主休校しておくべきだったか。第六感はきちんと警鐘を鳴らしてくれていたというのに、俺ってヤツは。

 男の子としてのなけなしのプライドは、貫いた場合大抵悪い方向にしか導いてくれない。これも経験則。

 ……足、震えてないよな。

 登校時の心臓破りの坂が可愛く思えるほどにその五メートルは茨の道だった。途中「用件を思い出した」とか言って回れ右をしようと二回くらい思ったのは、ひとえにハルヒの眼力が原因だ。

 銀河系をまるごと詰め込んだようなアーモンド型の大きな瞳は、狙った獲物を逃がさない。確か北欧辺りの神話に一睨みしただけで敵を殺せる神様だか悪魔だかが居たはずだ。バタールとかバザールとかそんな名前の。

 涼宮ハルヒは恐らくソイツの化身であろう。そうに決まっている。蛇に睨まれた蛙の慣用句と俎上の鯉が同時に俺の脳裏を過ぎったのは冗談にしても笑えない。

 ラスボス目前、七十二センチで立ち止まる。ビビって声が出ないなんて情けない真似だけはしないように大きく息を吸い込んだ。

「おはよう」

 しまった。第一声はメールと同じく謝罪から始めるはずだったのをすっかり忘れていた。それもこれもあれもどれも、全部ハルヒのチェシャ猫笑いが原因で、それによって調子を狂わされているのは分かっているのだが、どうにも身体のコントロールが上手く司令部に戻ってこない。

「ああ、おはよ。遅かったじゃない、キョン」

 いつもと変わらぬ……いや、鼻歌でも今にも聞こえてきそうにいつにも増して上機嫌なハルヒは、ハッキリ言おう、気味が悪い。だってそうだろ? 俺は昨日、コイツと喧嘩したばっかりなんだぜ?

 そりゃ後になってメールで謝ったりもしたが、それにしたってこの対応は俺の常識じゃ有り得ない。常識で語れないから涼宮ハルヒ? かも知れん。

 ああ、忘れていた。なんかいつの間にやら「理解した」気になっていたが、「どうかしてた」の間違いだ。

 コイツは――それでもコイツは涼宮ハルヒなんだ。

 ハルヒの前を行過ぎて自分の席へ向かおうとする。なぜだ? なぜ、ここでさらりと昨日は悪かったの一言が出て来ないんだ、俺!

 こんな事じゃ昨日の二の舞だろ!

 そんなの当然分かってる。分かってんのに身体が勝手にハルヒへ背を向ける。口が上手く動かない。

 俺から切り出した精一杯の挨拶は、けれど二の句を継げやしない。だれだ、挨拶は人間関係の潤滑油だなんて言い出したのは。ピリオドになっちまってるこの状況に対して俺は謝罪と賠償を要求するぞ。

 そんな俺の煩悶を知ってか知らずか。

 不意に背中に声が振った。

「昨日は……その、悪かったわね。上に立つ者として配慮に欠ける言い方だったわ。一応、反省してる」

「……は?」

 それは余りに衝撃的で。ああ、憎々しい青空はこの霹靂のための前振りだったんだろうなあ、なんて咄嗟にそんな、トビキリどーでもいいことを考えちまうくらいに俺は驚いて。

「は、じゃないわよ。悪かったって謝ってんだから……こっち向いてなんとか言いなさいよ」

 火中のトウモロコシが爆ぜるみたいに俺は座ったまま振り向いて、ああ、こういうのは勢いだ。勢いで割と人生なんとかなっちまうって、これはハルヒから教えて貰ったんだけどな。

「お、俺も!」

 ハルヒの机に両手を付いて頭を下げ……ようとしたんだが、どうにもそこまでは踏み切れないのはこれもまた「オトコノコ」とやらが邪魔しているのか。きっと、そうだろう。

 窓の外、晴れ渡る空に明後日を見ながら、なんとかかんとか言葉を紡いだ。

「俺も、昨日は悪かった。その、メールにも書いたんだがどうも最近……」

「ストップ」

 のべつ幕無し、捲くし立てようとした俺だったがそれはハルヒの右手によって阻まれた。その手には一枚の紙切れが握られている。

「その話は放課後、ゆっくりと聞かせて貰うつもりだから。とりあえず、キョン。アンタは放課後までにコレを書いておきなさい」

 少女がひらひらとこれ見よがしに揺らす紙には「進路調査票」と手書きで書かれていた。

 ……進路調査票?

 えっと、進路調査票って「あの」進路調査票? それなら俺、一月くらい前に書いたんだが……いや、待て。そうじゃないだろ。そうじゃなくて、まずはきちんと謝ってからだな。

「あ、そういうメンドいのはもういいから」

「いいのかよ!」

「だってお互い悪かったって思ってんなら、もう引っ張るだけ尺の無駄よ」

 尺とか言うな。せめて時間の無駄と言え。

「意味、同じじゃない」

「耳当たりが違う」

 ハルヒは細かい男ねと俺をねめつけた。が、なんてーか、そのいつも通りな視線が今日はなんだか心地良かった。一応俺の名誉の為に付け加えておくが、俺は同年代の女子に罵倒されて喜ぶような特殊な趣味は持っていないので誤解しないように。

「ところでハルヒ」

「何よ。話なら放課後って言ってるでしょ。有希と古泉くんには今日は部活無いってメールしてあるからゆっくり愚痴でも相談でも聞いてあげるわ」

 ええい、胸を張るな。朝比奈さんとまではいかなくとも「そこそこ」の持ち主であるお前がそんなポーズを取ると、健全な思春期男子である俺としては眼のやり場に困るんだ。きょろきょろと視線を彷徨わせる挙動不審のレッテルは欲しくない。

「ああ、それは助かる。確かにあまり吹聴したい内容でもないしな」

 朝比奈さんに連絡してないのは……まあ、いいか。彼女ならどうせ今日も鶴屋さんと一緒に自習室で受験勉強だろう。

「そうじゃなくて、コレ。進路調査票って書いてあるが、学校で配布されてるのと形式が違うからな。書き方を聞いておきたい」

 普通なら第一から第三志望までを書く欄が有って、っつーかそれしか無いのだが。ハルヒから渡された紙には志望なんて字は一つも書かれていなかった。

 代わりに、「短期目標」「中期目標」「長期目標」の三つを書き込む欄が設けられている。なんだ、これ?

 俺は別にどこの中小企業の経営者でもない、そんじょそこらのただの学生なんだが。

「アンタねえ……少しは頭使いなさい。もし仮に第一志望から第三志望を書けって言われて、アンタはなんて書くのよ。どうせ適当に知ってる大学の中で『これなら高望みって言われないかな』ってヤツを選んで書くだけでしょ? そんなモンに蚊ほどの意味も無いわ」

 一寸の虫にも五分のなんとか。これまで教師が行ってきた受験生へのアンケートの意義を平手でぴしゃりと打ち落としたのは、やはりその豪腕であった。合掌。

「もしくは、そうね。『進学』『就職』『結婚』とでも書いておく? そんな漠然とした内容を見せられても査定するこっちとしては評価のしようがないけど。ああ、この子は就職が進学より上に来るんだー、とかその程度の理解じゃ人を教え導くなんて夢のまた夢よ」

 いつもながら、ハルヒの言う事には妙に説得力が有る。まあな、なんて適当に相槌を打つと少女は眼に見えて生き生きとその眼を輝かせた。

「やっぱアンタもそう思う? 大抵、こういった問題点は進学先や就職先を具体的に書くことで解決になっちゃうんだけどね。でも、それは教師の都合だと思わない?
 進路なんて現時点では考えられもしない子だって居るのに期限決めて無理矢理に書かせて、それで教師は納得しちゃう」

 あー、確かに。なんか俺の知らないところでこの人勝手に俺の進路考えてんなー、って思った事は有る。岡部には悪いが、でも思っちまったモンはもう覆せないわけで。

「気持ちは分かるのよ。願書出す辺りで自分の学力に見合った大学に行けば良いやーって。就職組なら教師が探してきた中から選ぶだけだから、尚更夢の無い話よね」

「……現実を突きつけられるってのは、正直胃が痛いな」

 それでも、言っている事は文句の付けようがない。日ごろ、ともすれば不思議ちゃんのカテゴリに属しかねないハルヒの口から、まさかこんな話が聞けるとは思ってもみなかった俺である。

 こうして話してみれば、俺よりもよっぽど地に足を付けている印象さえハルヒに抱いてしまう。そう言えば古泉がハルヒは常識人だとか言っていたが、アレは本当だったのか。

 なんだ、こう……「凄いな」と。そう思ってしまった。

「だから、そんな茫洋としたものは要らないの。とりあえずアンタは」

 目標。だからこその、進路調査票。

「これから一ヶ月の目標、半年の目標、卒業までの目標をここに書いておきなさい。良いわね?」

 この紙は、涼宮ハルヒのなけなしの優しさなのかも知れない。

 ホームルームの鐘が鳴り、生徒達が自分の机に帰っていくのを見てハルヒは外を向いた。続きは放課後って意思表示なのだろう。俺としてはまだまだ聞いておきたい事も有ったのだが、教壇に立った岡部に睨まれたくもなかったために渋々ながら前を向いた。

 無用な注目は欲するところではない。ハルヒの真似事は一般生徒には荷が勝ち過ぎる話だ。

 それにしても――意外だった。意外性ってのは涼宮ハルヒという少女を構成するなくてはならない要素の一つと言い切ってしまえるのは確かであるが、しかし今回は方向性がいつもとは真逆であり……面食らったって表現がともすれば一番的を射た表現だったりするのか?

 担任の岡部が日常の枠からはみ出さない当たり障りプラス面白みに欠ける話を始めるも、正直そんなのは右から左である。今考えるべきはハルヒの心境、ひいては俺自身の進路だって事はよーく分かっている。

 反省、と背後のクラスメイトは言った。これがまず衝撃的かつ劇的な変化であることは違いない。涼宮ハルヒを多少なりと知っている人ならば何かの言葉を聞き間違えたかと、自分の聴覚を訝しむであろう。失礼な話だな、まったく。

 成長。

 昨日の俺はそれがハルヒに見られなかったことに軽く絶望していた。現実とハルヒが共に歩み寄る未来は俺の独りよがりな儚い希望でしかなかったと勝手に思い込んでSOS団での活動が途端に空しくなってしまった。

 ――だが、違った。

 涼宮ハルヒは確実に、着実に進歩していた。良い方向へと歩き続けていた。今のハルヒは自分が悪いと気付けたのならばちゃんと謝る事が出来る。それがたとえ一日遅れであってもだ。手遅れでさえ無ければいい。

 そうさ、俺たちの一年半が少女の中にしっかりと芽吹いている。何も無駄では無かった。

 ハルヒは大丈夫。大丈夫じゃない時も、ソイツの世界を大いに盛り上げるヤツらが居る。

 とすれば、後は俺の問題ばかり……って、あれ? ハルヒの心配をしてる場合じゃ実際無い……よな。そんな余裕が有るようにはどれだけ楽観的な視点を用いようとも見えちゃこない。自分で言ってて悲しくなるね。

 ここが年貢の納め時、とでも言っとくか? いや、こういう時の俺の常套句は決まってる。腹を括って、息吸い込んで。苦悩を、なるようにならない現実を、吐き出す呼気にありったけ搭載して。

「はあ……やれやれ」

 後ろ向きを自分の中から追い出すように。さて、そんなら他の誰でもない俺の未来と、そろそろ真面目に面と向かってみようじゃないか。脳内で展開されるどうにも冴えない未来予想図をポスターカラで塗り潰して。

 バラ色なんて単色や、

 虹色なんて七色じゃてんで足りない、

 二百五十六色や三万二千色すら越えて無限に広がるフルカラの。

 そんなクリアでビビッドな未来を夢見ても、一度くらいは良いんじゃないかって思うんだよな。これもハルヒの影響か。多分、きっとそうだ。

 でも、きっと良い影響。

 でも、きっとそれで正解だと俺の心は囁いた。


 決意を新たに望んだ一限の授業はいつもならば欠伸を片手に睡魔とよろしく仲良くする古文だった。「新たに」って言った初っ端に出鼻を挫かれるような「古文」は確かに俺の苦手な教科の一つで、英語と並んで学習意欲への攻撃力が高い難敵である。

「社会に出て何に使えるんだ、こんなモン」。

 きっと誰もが思ってる――そんな風に一人思い込んでいた。

 きっとこんな風に思ってるのは俺だけじゃない――そんな考えを免罪符にしてきた。

 勉強をするのは俺で、なら勉強する内容は俺自身が決める。他の誰かが決めることじゃない。押し付けられるのは勘弁だ。

 なんて、そんな浅はかな胸の内は全部佐々木にはバレバレだった。中学の頃にそんな話をした覚えもないのにだ。身近なテレパシストが俺に言った台詞を思い出す。

「役に立つんじゃない。色付けるのさ」。

 反芻して前を見る。

「食物が血肉になるように、知識は君の外側を豊かにする。身体が大きくなれば出来ることが増えるように、見えなかったものが見えてくれば出来ることは当然増える」。

 黒板に書かれている文字。教師が口にするハイエンド死語の数々。散っていった価値観。今でもまた共感出来る精神。それを今まで不要を割り切って「眺めて」いた俺。

「言葉は人類最大の発明の一つだ。その価値を今更君相手に語る必要が有るかい?」。

 だけど、今日は網膜に映すだけで終わらせるつもりはない。それでは何も変わらない。相手はツールだ。言葉は道具だ。キングオブツールズとの呼び声高い「コミュニケーションツール」。

「ならば、さ。それが日常生活に応用出来ない道理が無い事まで分かるよね」。

 佐々木の声を脳内再生しながら「見つめ」た、チョークで刻まれた八百年前の恋の歌は、教師の解説を得て共感を産む。促されて現代語訳を考え……ああ、これは告白の文句に悩んでいるのと何が違うのだろうか、なんてはたと気付いたらオカしくてたまらなくなった。

 同じ事を世界中の高校生がやっているのだと。

 後ろの、かつて恋愛は精神病の一種なんてバッサリいった少女だって、口をアヒルみたいに歪ませながらもどう詩的に告白しようか考えていたりするのだと。

 なんだろうな。なんて言えば……いいのだろうか。

 誤解を恐れずに言うならば俺は今日、初めて自分の意思で勉強をしている気がした。

「言葉は面白いに決まっているさ。ねえ、キョン」。

 俺はまだそこまで――「面白い」とまでは割り切れない。ただ、ちょっと楽しみ方の端っこを摘まんだかもなってそんな程度だ。でも、それだけですら劇的で刺激的なビフォーアフタ。眠くないってだけでも驚愕だ。

 心の持ちようでガラリと様変わりするのはこれはなんだ? 恋をして世界が色付くなんて使い古しの擦り切れた喩えを持ち出すほど俺も恥知らずじゃないが。それにしたって、おいおい、これは。

 ちょっとちょっと、と言っている間に「印刷された紙の束」が「教科書」にメタモルフォーゼ。

 俺がいつの間にか失っていた感覚。多分小学生くらいで満たされ切っちまったんだろう旺盛な知識欲は、どこにも家出なんてしちゃいなかった。どころか満たされてなんて全然いなくって。

 ソイツはずっと心の中で燻って、火が点くのを今か今かと待っていたんだ。

 佐々木大先生は言った。そこに意思が伴えば何一つ、無駄にはならないと。それは俺たちSOS団がてんやわんやの右往左往した一年半が涼宮ハルヒという少女の精神に確かな変化を産んだ事を引き合いに出すまでもないのだろう。

 この時間を無駄にしない、そう思って毎日を生きるのは結構苦しいのかも知れない。今日が初日の俺に偉そうな事は何も言えない。それでも。

 充実の実感は、そこそこ悪くないものだった。


 四限が終わっての昼休み。ハルヒは早々に弁当を持って教室から消えた。恐らく文芸部室でネットサーフィンでもしながら昼食を取るつもりなのだろう。その行動は言外に「放課後まで考える時間を与えてあげる」と俺に告げていた。

 無論、俺だって忘れてはいない。進路調査票のことだ。半日を過ぎていまだに白紙の紙切れは、中々、こう……いざ空欄を埋めようにも悩ましいものがあった。

 短期目標――一ヶ月の間に何を成す事を俺の目標とすべきか。学校が冬休みに突入する事も考慮すれば年内目標になるだろう。実質二週間とちょい。現実的なことを言えばなんらかの変化を自覚するにしたって短過ぎる感が有った。

「まあ、これは後でもいいか」

 紙切れを上着のポケットに入れて立ち上がると近付いて来た国木田に話しかけられた。

「あれ? キョン、どこか行くの? 一緒にお弁当を食べようと思ったんだけど」

「ああ、悪いな。ちょっと呼び出し食らっててさ」

「岡部先生? ……え、でも進路指導はもう全員回ってたよね? 二回目?」

 俺は首を振る。

「古泉だ」

「あー……ああ……ああ」

 なんだ、その微妙な納得は。俺だってな、出来ればこの寒い中、上着を羽織ってまでテラスに出て行こうとは思わん。アイツからの呼び出しが珍しいから付き合ってやるだけだ。

「行ってらっしゃい」

「おう」

 そう、繰り返しになるが古泉から呼び出しってのはかなり珍しい。基本、部活以外ではノータッチであり、しかもそれを徹底している事からノータッチはアイツの信条か何かなのだろうと薄々気付いているのだが。

 だからこそ、そのメールに嫌なものを俺は感じて仕方が無かった。

 そろそろ何かが起きるんじゃないか、という予感は有った。ハルヒの近くに居ながら最近は穏やかが過ぎたとも思う。エックスディも迫っている。誰かさんが活発になるのならば、このタイミングだ。

 宇宙人か、未来人か、超能力者か。

 それとも……大本命にして大本営、涼宮ハルヒ。ソイツの振るう豪腕は今度は何を吹き飛ばすつもりなのか。


 俺はワクワクしていた。

 それがいけない事だと知りながら。

 今度は何をやらかしてくれるんだと。

 心の底で待ち構えていた。
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