「ふう」
 

 生徒会室の、特別拵えの会長席に身を沈めた俺は、ひとつ安堵の息を吐いていた。
 つい先程、二学期終業式の全校朝礼での訓示、すなわち今年最後の大仕事を終えてきた所だ。生徒会長の役職にもそれなりに慣れたつもりだが、長々とした説教を丸暗記して噛まずトチらず、しかも上から目線の権力者然とした態度を崩さずに話し通す――となると、やはりそれなりの面倒事ではある。

 たかがスピーチにこれほど入れ込むなど、本来ならバカバカしいこと極まりないんだが、なにしろこれが世界を平和裏に維持していくために必要な任務のひとつ、という事になっているからな。こうして俺が脱力してしまうのも、大げさでは無かろうよ。
 

「お疲れ様でした。コーヒーでも淹れましょうか?」


 朗らかに訊ねてくる声に、俺は薄く目を開けた。会長席を挟んで、正面で穏やかな笑みを浮かべているのはもちろん、我が生徒会が誇る秀麗なる書記、喜緑江美里だ。鷹揚に彼女に頷きかけて、しかし俺はすぐに「あ、いや駄目だ」と首を振った。
 

「残念だが、のんびりお湯を沸かしている時間は無いだろう。この後すぐにホームルームだからな」


 順番に退出しなければならない全校生徒に比べて、訓示を終えてそのまま引き上げてきた俺達には少しばかりの余裕はあるが、それにも限度がある。ここでしばらくダラけていたい気分なのは山々だが、現実にはおとなしく教室に戻って、担任教師殿から恭しく通知表を受け取らなければならない。仮面優等生のつらい所だな。
 と、俺はそう告げたつもりだったのだが。

 

「そう仰られるだろうと思って、あらかじめ用意しておきました。どうぞ」


 にっこり微笑む喜緑くんの両手には、細身のステンレス水筒が握られており、当たり前のように彼女はその中身をカップに注いでいた。あー、うん。いつの間にとか、料理番組のアシスタントかお前はとか、そういう野暮な事はいまさら言うまい。なにしろコイツは宇宙人なのだから。

 半ば惰性的にカップを受け取り、口を付ける。うん、美味い。湯気は立っているが熱さはほどほどで飲みやすく、砂糖は少し多めで、くたびれた喉に心地よく染み渡って行く。明らかに、スピーチ後の俺の体調に照準を合わせてきた味だな。思わずカップ一杯、一息に飲み干してしまった。


「…さすがに抜け目ないな」
「あら、それはお世辞でしょうか。それとも――」
「世辞でも皮肉でもない。心からの感嘆だよ」


 お代わりを注いでくれる喜緑くんに、俺はそう応じた。この件に限らず、彼女の優秀さは否が応でも認めざるを得ない。今日の訓示の草案を書いたのも彼女だしな。
 俺が会長役に祭り上げられた経緯も先刻ご承知なので、しゃちほこ張った物言いをしなくても済むし、第一、美人が傍にいてくれるだけで目の保養になる。それだけでも余程ありがたいね。


「実際、助かっている。俺としては、なるべく『機関』の連中に借りは作りたくないんでな」
「『機関』の方々を、信用してはいらっしゃらないので?」

「“信用”はしている。目的のためなら非合法な手段でも押し通す、実行力だけは十二分にある組織だからな。だが“信頼”はしていない」


 二杯目のコーヒーを、今度はゆっくり味わってすすりながら、俺は言葉を続けた。


「連中の行動原理、涼宮ハルヒをこの世の根源神と見なす考え方は、俺にはどうも受け入れがたいんだよ。そして、その部分で同意に到れない以上は」
「…………」
「結局、俺と『機関』は同志足り得ない。互いに利用し、利用されるだけの関係でしかないのさ」


 ふん、なんだか話がつまらん方向へ逸れてしまったな。一旦カップを受け皿に置き、俺はいかにも今思いついた、とばかりに口を開いた。


「そうだ。今の内に渡しておこう」
「はい?」
「さっきも言ったが、キミの仕事ぶりにはずいぶん助けられたし、来年の働きにも期待している。その行賞とでも思ってくれ」


 ブレザーの内ポケットから、手の平に収まる程度の白い紙袋を取り出し、机越しに手渡す。心なしか、受け取った喜緑くんの表情は意表を突かれたもののように見えた。
 

「会長…? これは…このお金はもしかして…」
「うむ、まあ見ての通りの」
「このお金で、わたしに愛人になれと?」
「違ぇーよバカ! 何でそうなるんだよ誰がどう見てもお年玉だろそれはッ!?」
 



 あまりと言えばあまりなボケに、思わず素の自分が出てしまった。くそ、『機関』からは「涼宮ハルヒのいかなる奇矯な言動にもたじろいだりしないよう、普段から己を律するように」と言い含められているというのに。俺とした事が。

 念のために確認してみるが、喜緑くんに渡したのは紛れも無くポチ袋だし、その中から取り出して彼女が「へえー」とか「わあー」とか言いながら広げて見入っているのは、俺が銀行で交換して貰ったピンピンの一万円札だ。うん、間違いない。
 

「だいたい、金で女を囲おうとする高校生とか嫌すぎるだろ。それも、たかだか一万円で現役女子高生を愛人にしようとか。一体いつ日本はハイパーデフレに突入したんだ」
「嫌ですね、会長ったら乙女のちょっとしたジョークを真に受けて」
「~~~っ!」
「そんなお顔をなさらないでください。…そもそも、どうして会長がわたしにお年玉を?」
 

 いや、単純な思い付きなんだが。文房具屋に行った際にたまたまポチ袋が売られているのを見かけて、そう言えば喜緑くんは一人暮らしだったな。親も親族もデータ上の存在でしかないのだろうし、ひょっとして誰かからお年玉を貰うという、当たり前の出来事も経験が無いのかもしれん。だったら…というそれだけの思い付、きッ!?
 俺の回想が妙な感じにぶった切られたのは、何かが俺の左腕に高速タックルをかまして来たためだった。そう、何か。今この生徒会室にいるのは俺とあともう一人だけなのだから、その“何か”が“誰か?”という疑問の答えは、おのずと決まっている。


「あーん、もう! 会長ったら、いつも本当にヤる事がニクいんですから!」

「いや待て、ステイステイ。落ち着こう喜緑くん、な? 何か腕に当たってるし」
「当ててるんだから良いんです。
 ええ、そうですそうなんですよ、わたしがいくら優秀でも、自分で自分にお年玉を渡すなんて出来ませんもの。情報統合思念体は、人間の風習なんかに興味ありませんし。
 そんなわたしの不遇を、ちゃーんと汲んで下さる。会長のそういう所って、大好きです!」


 いま自分で自分の事を『優秀』って言ったなコイツ。まあ優秀だけども。つか、女の子が簡単に好きとか口にするもんじゃない。誤解されたらどうするんだ。


「えー、誤解ってどういう風にですかー? 江美里わかりませーん」
「だから、わざと上目遣いでそういう口調をするんじゃない。いいから落ち着け、な、喜緑くん。思い出してみろ、そもそもキミが俺の傍に仕えているのは何のためだ?」
「はい、それはもちろん」


 ダッコちゃん状態で顔を上げた喜緑くんは、いつもの屈託のない笑顔で、俺の質問にこう答えてくれた。


「もちろん有事の際、速やかに会長を“処理”するためです!」


 ですよねー。
 これだよ、これさえ無けりゃな…。喜緑くんは可愛いしよく気が付くし頼りになるし、柔らかいし百合みたいな良い匂いがするし、本来ならすぐにでも押し倒…げふんげふん、こっちから口説き落としたいくらいなんだが。だが彼女は実際、俺の首に付けられた爆弾そのものなんだものなー。


「そうですね、爆弾という表現は、あながち間違いではありません。必要ならば手段を問わず、と上からは示唆されておりますので。
 『機関』が何を思ってあなたを強引に会長職に据えたのか、その真意はいまだ定かではありませんが、ともあれあなたの動向が、我々にとって都合の悪い影響を涼宮ハルヒに及ぼす可能性がある以上、いつでもそこに介入できる備えはしておくべきでしょう?」
「ふん、俺ごときにご苦労な事だ」
「まあ実際の所、会長の存在はデコイなのではないか、とは思われるのですけれどね」
 

 諜報活動の基本中の基本だな。007のような目立つスパイに注目を集めさせておいて、その裏で本命のスパイが活動する。単純だが有効な手だ。
 要するに俺は、『機関』の本隊連中から目を逸らせておくための囮役、らしい。ただの外部協力者に過ぎない俺には、その真偽は分からんがね。
 

「もちろん我々の方でも、その辺りを念頭に置いた配置はしております。でも仮に会長が単なる囮だとしても、全く無視する訳にも参りません。結局、わたしはあなたに張り付かざるを得ないのです。だとしたら」
「…………」
「好むと好まざるとに関わらず、会長のお傍に侍らなければならないのなら。ギスギスした関係で気を病みたくなどありませんね、わたしは。少なくとも、無闇に敵を作るのは愚者のする事です。
 会長だってそう思われたから、お年玉という形でわたしを労って下さったのでしょう?」
 

 喜緑くんのセリフに、俺はしばし黙考した。まあな。俺としても彼女を敵に回したくはない。なるべくなら良好な関係でありたい。なにせ美人だし。
 だのに彼女の好意を受け止めきれないでいるのには、理由がある。断っておくが、俺は決して高潔な人間ではない。普通なら、こんな可愛い娘にアプローチでもされたら、もうとっくにねんごろになっている。そうならないのは、喜緑くんに手を出せないでいるのは――単純に、彼女が怖いからだ。

 

 情報操作能力が、ではない。いやそれも怖い事は怖いが、本当に怖いのは彼女が宇宙人だという事だ。
 人類と全く相違ない外見のせいで見失いがちだが、確かに彼女には宇宙人的部分がある。倫理観や善悪観の欠如がそれだ。思慮分別はあるが、それは俺達の一般常識とは必ずも合致しないのだ。


 先程、彼女は『指示があれば、あなたを処理する』と言った。いつも通りの笑顔で。普通ならば「ちょっと痛い女の子」で済むかもしれないが、どっこい彼女はまったくの正気だ。実際に指示があれば、彼女はただちにそれを実行するだろう。
 そういう薄ら寒い部分を、彼女は内包しているのだ。その点からどうしても、俺は目を逸らす事が出来ない。今でこそ、だいぶ慣れたが…喜緑くん自身の口から、己が宇宙人である事とその目的について聞かされ、そして情報操作能力の一端を実際に見せつけられたあの日の放課後の事を思うと、内臓がキュッと縮み込むような、そら恐ろしい寒気をいまだに覚えてしまう。
 

 淑やかで気立ても良くてそれでいて二人の時は意外と甘えん坊な面も見せる彼女に、俺がいま一歩踏み込めないでいるのは、そういう訳なのだ。まあ宇宙人に人間の常識を求める方が非常識なのかもしれないが、俺にとってそれはやはり重大な問題で――。
 などと、割と真面目に考え込んでいた俺の逡巡をぶち砕くかのように。喜緑くんは突然、「あっ、イイこと思い付いた!」てな感じで朗らかに、パンと両手を合わせてみせた。


「そうだ。会長、今度のお正月にはぜひ、わたしの家に遊びにいらしてください!」
「は?」
 



「どうせなら、やっぱりお年玉はお正月に頂戴したいです。
 それにわたし、実は前々からおせち料理という物にも興味があったんですよね。広告で見かけて、美味しそうだなーとチェックしていたのがありまして」
「はあ」
「でも一人暮らしでわざわざおせちを揃えるというのも、かえって虚しいなというか、そんな躊躇がありまして。でも会長が遊びに来てくださるのなら、堂々と豪華で綺麗な宝石箱みたいなおせちを買い求める事が出来ます!」
 

 あー、女の子が一人では牛丼屋に入れないとか、そういう類のアレか? 一人暮らしなんだから好きな物買って好きなように喰えばいいだろうが、と男としてはそう思うんだがな俺は。
 だがもちろん、そんな意見を口にしたりはしない。デリカシーと配慮を欠くと、女という生き物は当然のように男を締め上げてくるから要注意だ、うん。俺がそう一人納得して頷いたのを、しかし肯定とでも受け取ったのか。喜緑くんはさらに、とんでもない意見を倍プッシュして来やがったのだった。


「いえ、もう何でしたら大晦日からうちに来てくださっても構いませんよ?」
「なにい!?」
「リビングの蛍光灯が一本切れかかってるのを交換して貰ったりとか、あと窓ガラスに結露防止用のテープを張ったり、プリンターのインクを交換したりとか。手伝って頂きたい事がいろいろあるんです。
 お礼に、年越しそばでも何でもご馳走しますから!」


 ぎゅうっと俺の左腕にさらに抱きつくようにして、喜緑くんはそう懇願してきたのだ。

 うん、ヤバい。これはヤバい。宇宙人だろうと何だろうと、女の子の弾むような瑞々しさには男の脳の働きを狂わせるパワーとでも言うべき物がある。何だよこの頬をくすぐる髪の匂い、それに唇の艶やかさ。チートだろ。つーかもうだいぶおかしくなっているような気がするが、だが待て、俺。冷静になれ。

 ほら、ノラ犬やノラ猫だって、いくら人懐っこくても後先考えずにお持ち帰りとかしてはいかんだろう? この件も同様だ、安易な判断をしては、かえって喜緑くんを悲しませるような結果になりかねん。まだ覚悟が出来ていない今は、なんとかこの誘惑をやり過ごすのだ。


「いや、だからな、喜緑くん? 外聞とかそういう物も考えたまえ。一人暮らしの女の子が、男を簡単に家に上げたりしては…」
「はい、わたしは一人暮らしをしておりますので歳末のこの時期、男手があると何かと助かります」


 自分の邪心が恥ずかしくなるくらい、快活な笑顔で喜緑くんはそう答える。その上で、彼女はさらにこう続けた。


「それにこれって、お互いにとって都合が良い話ではありませんか?」
「都合?」
「はい。会長が遊びに来てくださると、わたしは家の雑事が片付きますし、人並みのお正月気分というものを味わう事も出来ます。そして会長は…」
「俺は?」
「のんびり穏やかにお正月を過ごす事が出来ます。『機関』の存在に煩わされずに」

 

 ぐ、と俺は言葉を詰まらせた。図星だ。さすがに監禁までされたりはしないが、いつでも連絡は取れるように、それから不用意に繁華街へ出掛けて涼宮ハルヒと鉢合わせしたりする事のないように、と『機関』からは厳命されている。
 つまりは事実上、軟禁されるも同然だ。この年の瀬、俺は孤独に新年を迎える事を強いられる。まあ最初からそういう契約ではあるし、会長職にある間はそれもやむ無し、と覚悟してはいたんだが…。


「でもわたしなら何か起こったとしても、すぐにお知らせする事が出来ます。会長は『機関』の影に追われず、存分にお正月を満喫できますよ?」
「うん、そしてキミはいつ上から指示が来ても、すぐさま俺を“処理”できる訳だ。なにせ一緒にテレビを見たり、おせち喰ったりゲームしたりしてるんだからな」
「ええ、とっても合理的ですよね。それに――」


 パッと離れて軽快に正面に回り、机に両手を突いてぐっと身を乗り出してきた喜緑くんのにこっとした微笑みに、俺は正直ドキリとさせられた。普段の上流階級の貴婦人のような笑みとは、それはどこか、何かが違って見えた。
 

「みっともなくジタバタ逃げ惑う会長とか、わたし、見たくありません。もしも指示が出たのなら、その時が来てしまったなら…『キミに処理されるなら、俺も本望だ』と、会長にそう仰って頂けるような、わたしはそういう関係でありたいのです」
「…………」
「どうせなら、お互い気分良く最期を迎えたいですよね。今度のお正月はそんな、会長から多少の“信頼”を勝ち取る良い機会ではないかと、そう思ったのですけれど。わたしの考えって、何かおかしいでしょうか?」

 



 おかしいよ。最期を前提とした考えって、未来ある高校生の思考パターンじゃないだろ普通。
 まあ宇宙人に人間の思考パターンを求める俺の方がおかしいのかもしれな…。いやいや、やっぱりおかしいぞ。彼女は彼女なりに前向きなのかもしれないが、ここで雰囲気に流されたりするとドツボに嵌ってしまう。うむ、やはりここは毅然とした態度で。


「あーーーっ、もう!
 分かった行くよ、行く! 謹んで訪問させて頂きます!」


 ………おや?
 気が付くと俺は彼女の家を訪れる旨を宣言しており、正面の喜緑くんは制服の胸の前で両手の指先を合わせて、「まあ」と顔をほころばせていた。
 

「その代わり、覚悟しとけよ!? 一人暮らしの女の家に男を上げたら、どうなるか! もうアレだ、あひんあひん言わせて、俺の事しか考えらないような身体にしてやる! 情報統合ナントカの事なんざ欠片も思い出せないくらい、頭の中真っ白にしてやるぞ!?」
「あら、なんて恐ろしい♪ では勝負ぱんつを履いてお待ちしてますね」


 非常にわざとらしく怯えてみせる喜緑くんの演技に、俺は思わずこめかみの辺りを押さえて呻いた。怖がり方が完全にまんじゅうこわいのそれだよ、チクショーなめられてんな俺。まあ誰がどう見たって、強がってるようにしか見えないだろうけどさ。
 と、俺が気恥ずかしさの裏返しで、さらに憤激しかけたタイミングで。ちょうど予鈴のチャイムが鳴った。その途端。

 

「もうこんな時間ですね。詳しい話は、また後ほどいたしましょうか。
 ああ、残りのコーヒーも良かったらお召し上がりください。水筒は放課後にでもお渡しくだされば結構ですので」


 あっという間に喜緑くんは、いつもの清楚で上品な彼女に戻っていた。こういう時の女の切り替えの早さというのは、まさに驚嘆すべきものがある。うん、別に痺れもしないし憧れもしないが。ツッコむのも何なので、俺もそれに合わせておく。
 

「分かった、そうしよう」
「それでは、お先に失礼します」


 そう一礼して、喜緑くんは粛然と生徒会室を去って行く――かと思いきや、ドアの取っ手に手を掛けた所で、彼女はピタッと動きを止めた。


「あの、会長、そのですね…」
「どうした、忘れ物か?」
「ええ、まあ言い忘れと申しますか。
 その…わたしの家に遊びに来てくださる時は、こちらでいろいろと用意しておきますので、会長は手ぶらで全然構わないのですけれど…」
「うん?」
 

 なんだ? うつむいてぼそぼそ話したりとか、喜緑くんらしくないな。あと、気のせいか妙に顔が赤い気がするが。


「すみませんが、ゴムは会長の方で用意してくださいね? わたしが買い求めたりするのは、さすがに恥ずかしいので…」

 

 それだけ言い残すと、喜緑くんはそそくさと出て行ってしまった。あー、うん、そういう事ね。
 って、おい。なんでぱんつは平気なのに、こっちの話題では耳まで真っ赤になるんだ。この耳年増め、可愛いじゃないかちくしょう。


 ふう、と背もたれに身を預けて、俺は生徒会室の天井を見上げた。つい先程、冷静であれ沈着であれと考えていたのに、あっさり彼女の招待に乗ってしまった理由がようやく分かった気がした。
 愚かしい事に、俺は彼女の力を見くびっていたのだ。情報操作能力? 常識離れした宇宙人的思考? 彼女の恐ろしさはそんなものではない。真に恐ろしいのは…喜緑くんは可愛い、という事だ。外面的なものも内面的なものも、諸々ひっくるめて、愛らしい。だから俺はつい、彼女を喜ばせたいと考えてしまう。
 

(指示が出て、いずれ誰かに“処理”されるなら。結局そうなるのなら、喜緑くんに“処理”されてやっても良いんじゃないか?)


 あの瞬間、俺はうっかりそう思ってしまったのだ。文房具屋でポチ袋を見かけた際に、彼女にお年玉をくれてやったらどんな顔するかな、と何となく考えてしまった時と同じように。


 すっかり冷えたコーヒーの残りを飲み干した俺は、頭をがりがりと掻きながら席を立ち、鍵を掛けて生徒会室を後にした。断っておくが、俺は諦めが悪い方だ。若い身空で“処理”される事を受け入れた訳でもないし、彼女の誘いに乗ってしまった事を、こうしている今も多少後悔している。そりゃあ、この年末年始はイイ思いが出来るかもしれないが、その代わりに余計な期待やら何やら、背負わされる物もある訳で…分かるだろう? 

 まあ、どこか晴れやかな気分も無い訳ではないがね。負けて悔い無し、俺は何かを失ったかもしれないが、代わりに得られる物もきっとあるのだろう。そう、たとえば。たとえば――?
 水筒を小脇に教室に向かっていた俺は、その時ある事に気付いて、「あ」と小さく声を上げた。


(そう言えば喜緑くん、『やっぱりお年玉はお正月に頂戴したいです』とか言っていたな。俺がさっき渡した奴は、しっかり収めていたはずだが…。年明けにもう一度よこせという事か、ちゃっかりしてんなあ)


 俺は再び、頭をがりがりと掻いた。彼女と付き合い続ける限り、やはり俺は、何かを失い続けるのかもしれない。
 とりあえず、ポチ袋をまた買い求めなければならないが、今日のと同じので良いのか、それとも別のデザインの物を買った方が良いのか。そんな他愛も無い事に頭を悩ませながら、俺は師走の冷え込む廊下を歩いて行ったのだった。




お年玉にまつわるエトセトラ   おわり


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