「どれくらい愛しているかなんて重要じゃないと思うの」
ナツミはそう言って不機嫌そうにストローをくわえた。彼女のミルクティーはもう空だ。排水溝が詰まるような音が店内に響き渡る。
「そうだね。それについては僕も同感だ。大体、愛は測れるものじゃない」
「あふれ出てくるもの??」
「そういうこと」
ナツミはなにそれ、と鼻で笑って目を閉じた。溢れてくる愛をイメージしているのだろうか。オアシスの湧水のようなもの?洪水のようなもの?
僕には洪水のほうが皮肉にも的を得ているように思えた。愛とはときにやっかいなものだ。
「でもそれだけ愛されてるってことだよ。考え方がどうであれ」
「そうかな」
「幸せなことだ。愛されてるってのは素直に受け止めなくちゃ」
彼女は急に真顔になって僕の顔を見つめた。まるでそこにこの世のすべての答えが記されていて、それを読むかのように。
僕はジャケットのポケットからくしゃくしゃになったキャスターを取り出して、火をつけた。彼女は小さくため息をついた。
店内のスピーカーからはボブディランの歌声が聞こえていた。無言の二人を包むようにディランの歌がこの喫茶店という小さな世界を支配した。やがて曲が終わり、ビートルズのlucy in the sky with diamondsに変わった。
僕が灰皿に短くなったキャスターを押し付けるのと、彼女が席を立つのが同時だった。
「そろそろいかなくちゃ。急に呼び出してごめんね」
「全然いいよ。久しぶりに愛する幼なじみの顔を見れてよかった」
彼女はなにそれ、と笑った。
「そのわりに気づかないのね。あたし髪切ったんですけど」
ナツミと別れたあとでローソンでキャスターとジャンプ、ホワイトチョコレートを買った。
店を出て、帰り道を歩く。頭の中は彼女のことでいっぱいだった。
言うまでもなく僕は彼女のことが好きだ。それもずいぶん昔から。
こうして幼なじみのままでいるのは僕が過去に大きな過ちを犯したからである。
一月の風は冷たく乾いていた。
小さい頃、ナツミは向かい側の家に住んでいて僕と彼女は毎日をいっしょに過ごした。
彼女はボーイッシュという言葉が最も似合う女の子だった。髪は肩までで短く、少し茶色がかっていた。何故かいつもほっぺたが赤く、ミッキーマウスのTシャツに太めのジーパンというのが彼女のスタイルだった。顔立ちは小さい頃から端正で、普通にしていればかなりの美少女なのだけど、その言動が女の子らしさを打ち消していた。僕がいじめられると男相手にケンカを売っておまけに完全勝利する。そんな子が女の子らしいといったら、世界の大半の女の子は女の子らしいといわれるであろう。
彼女の逸話は数ある。例えば体育の授業で女子はテニス、男子はサッカーというプログラムなのにいつのまにかサッカーコートにいてゴールネットを揺らしていた。彼女には黄金の右手という通り名があった。右足ではない。右手だ。ディフェンダーの腹にボディーブローをしながら敵を抜いていくのだ。点を入れるたびに彼女は決まって叫んだ。「あたしは神様だ!!」
そんな彼女に僕は憧れていた。そして彼女と幼なじみなことを誇りに思った。
このままずっと一緒にいれると思っていた。
中学に入って少し経ち、ナツミの制服姿(それが彼女の人生初のスカートだった)も見慣れてきたころ。家でナツミとテレビゲーム(当時流行った大乱闘スマッシュブラザーズだ。ちなみに彼女はいつもドンキーコングしか使わない)をしていた。すると急に彼女の操るドンキーコングが動きを止めた。彼女は苦しそうな顔をしてコントローラーを置いた。
「なっちゃん??どうしたの??」
「少しお腹が痛いの。それもいつもと違う感じ」
彼女は本当に苦しそうにしていた。いつも元気な彼女の姿との対比で僕は不安になった。
「ちょっとトイレいってくるね。新しいキャラ出しといてよ。一人でするやつあるじゃん」
「わかった。なんかあったら呼んでね」
彼女はいつまでたっても帰ってこなかった。もう20分以上経つ。ネスとか言う少年のキャラも出した。彼女に早くそれを見せたかった。
ナツミはいつも僕を褒めるとき、あるいは慰めるときに僕の髪を手のひらでくしゃくしゃにしてすごいよ!、大丈夫!とか言葉をかけた。
僕はそれが大好きだった。今思えば母親がいなかったこともあったかもしれない。
トイレに行ってドアをノックした。
「なっちゃん??大丈夫??」
返事はない。僕はひどく心配になって悪いと思いながらドアを開けた。
彼女はスカートをくるぶしまでさげて座っていた。ナツミの白いパンツが目に入り驚いた。
見てはいけないものをみてしまった罪悪感もあったが、彼女のパンツは赤い血で染まっていた。
言うまでもなくそれが生理のはじまりなのだが、その事実を知るにはまだ僕らは幼すぎた。
彼女は泣いていた。不安そうな顔で僕を見ていた。
その日から僕と彼女は遠い存在になった。
お互いに妙に意識しあい、あいさつも交わさなくなった。
僕は後悔した。僕が見てしまったから怒っちゃったのかな、と。
すごい寂しかった。ナツミの姿を目で追い、そらし、追った。
中2の秋に彼女は引っ越した。家まで遠くなってしまったのだ。
中3になったころ、剣道部の先輩と付き合ってるって話を友達から聞いたときにもショックをうけた。
そうして卒業式の日は来た。あっけなく終わってしまった。制服のボタンはサッカー部のマネージャーにあげた。一つだけボタンのついた不格好な姿で帰路についた。入学式の時にはナツミと一緒に登校した。そう思うとすごく胸が苦しかった。
そうだこの道で写真をとったんだっけ、、そして彼女を見つけた。
並木道の向こうに息を切らしたナツミが立っていた。僕の目をじーっと見ている。頬は真っ赤に染まっていた。
彼女が走りだした。僕に向かって。僕は口を開けたまま立っていることしかできなかった。
タックルのように彼女は僕を抱きしめた。あおむけに倒れた僕に馬乗りになって彼女は僕にキスをした。力強いキスだった。
くちびるを離して、彼女は僕に怒鳴った。
「幼なじみに一言もあいさつなしでユウは卒業すんのかっ!!」
彼女は泣いていた。ぽろぽろと涙を流して唇を噛んでいた。
「ごめん、、俺のこと嫌いになったと思って・・・」
「あたしの生理パンツ見たから?!」
「い・・いや、それは」
「覚えてるんだ。エッチ」
彼女は涙をふいて笑った。久しぶりに聞く少し鼻にかかるナツミの笑い声。
「あたしね・・あのね・・いま、すっごい聞きたい言葉があるの。ユウから。きっとユウならわかると思う」
「え、、わかんないよ。。何??」
「よく考えて!ユウが言いたいことを言ってほしい」
まっすぐに僕の目を見ていた。僕は目をそらす。
「わかんないよ。卒業おめでとう??」
「・・・バカ!!もういいよ・・・」
僕はわかっていた。何を言うべきか、何を言いたいか。それなのに
「あのね、、あたしユウに会えて本当によかった。友達っていいなと思ったのもユウがいたから。神様がもしいたら感謝したいぐらい。神様なんていないけどね・・・てへ」
「ぼっ・・・僕もうれしいよ!!本当にうれしい!!」
それが情けない僕の精一杯の言葉だった。
「うん・・・うん・・。ありがとう」
ナツミは立ち上がってスカートの砂を払った。
「じゃあ!元気で!!」
彼女は笑いながら泣いていた、鼻水をたらして歯を食いしばって、手を振り、そして走って行った。
僕は彼女を追いかけた。今、言わなければ・・・!!今!!
だが彼女はすぐに町の雑踏にまぎれて見えなくなった。
彼女を泣かしたのは誰だ。それは許すべきあいてじゃない。
僕は自分を責めた、彼女を泣かした自分を責めた。
家に帰り、制服をハンガーにかけて眺める。ボタンがついてない制服はなんか変な感じだった。
僕は右目から一粒だけ涙を流した。一粒だけの冷たい涙。
それから6年後僕と彼女は再会した。
僕は出版会社に勤めていた、仕事ももう慣れて友達と飲みに行ったり、それなりに充実した日々を送っていた。
アプローチを受けたりしたこともなんどかあった。でも、全部断った。ありがたいことだけど、しょうがないことだった。
仕事の帰り、道駅の構内に入ったところ。
すれちがった瞬間にわかった。
「ひさしぶりだね」
彼女は振り向かずに言った。全然変わってない昔と同じ声だった。
彼女はくるりと前を向いて、笑った。八重歯がそのまんまだった。
僕はおもわず笑ってしまう。
「何、笑ってんのよ。久しぶりに蹴りでも入れてあげようか??股間に」
そういって彼女は笑った。僕も笑った。こうやって笑いあえる日がくるなんて。。
「こんなこと言ってるから彼氏に怒られるんだよね、なんちて」
彼氏。。そうだよな。この年齢ではおかしくない。
「彼氏がお気の毒だな」
「言うようになったね。あたしの生理パンツ見て逃げ出したユウがさ」
「あ!・・・あれは・・・」
「あ・れ・は??覚えてるんだー、エッチ」
そう言って意地悪そうな笑顔を見せた。
暗い遊歩道を歩きながらナツミの笑顔を思い浮かべた。
今でも間に合うだろうか??あのとき言えなかった言葉を。
僕は冬の高い空を見上げた。星が悲しいほどたくさん光っている。
「なあ、神様よ・・」
「呼んだ??」
驚いて振り向いたそこには、黄色いカチューシャをした女が立っていた。
「あんたどことなくあたしの知り合いに似てるわね。すっとぼけた顔とかたたずまい。顔もちょっと似てるかも。よし決まり!あたしが力を貸したげる!代わりにあんたも力になってもらうから!」
そういって偉そうな神様は微笑んだ。
つづく・・・