※※「涼宮ハルヒの驚愕」のネタバレが含まれます※※




















 あの大きな騒動が一段落し、僕はようやく普段のペースを取り戻しつつあった。
 団長閣下たる涼宮さんが発端となり、そして解決もさせた、一週間に渡る世界の分裂。
 我々の敵たる宇宙人周防九曜、未来人藤原氏、そして僕がその動向に目を光らせていたもう一人の超能力者、橘京子。
 彼女たち三名が一時的に結託し、<彼>の旧友である佐々木さんを、涼宮さんの代わりとして神に仕立て上げようとした、嵐のような事件――。
 最終的に主犯は未来人である藤原氏。彼による計画だったようだが、果たしてどこまでが予定通りに進み、またどこからが筋書きにない展開となったのか……あれから一ヶ月以上経った今でも整理がついていない。
 調査報告は上がりはじめている。何といっても「協力者」の存在が大きい。近頃は長門さんを初めとするTFEI陣営も、わずかながら我々――この場合は「機関」に、協力とまでは行かなくとも、いくらか情報提供をしてくれているからだ。特に天蓋領域に関する報告に関しては興味を惹かれた。情報統合思念体とは論理基盤が異なる彼らだが、今なお周防九曜を介して何をしようとしているのか不明のままらしい。今回は彼らについて「分からないということが分かった」段階に留まっていた。それが貴重な情報なのかと訝られるかもしれないが、途方もない叡智を有する者同士の折衝に、同じくらい巨大な不理解があったというのは、個人的に注目すべき現象だった。それに関して言うならば、情報統合思念体にも天蓋領域とは異なる目的があるはずだ。しかし、我々への情報提供の代償だろうか、これについての質問には一切答えてもらえない。本来所属している立場、機関の体表として接触すると、たとえ同じ団員同士と言えども、長門さんはつれない反応を見せるからだ。
 まあそれはいい。肝心なのは、僕がもはや機関の使者としてSOS団にいるというのでは、もはや説明しきれない思いを抱いていることにある。この一年以上、複雑に絡み合う関係の中で、僕は自分でも驚いてしまうほど、SOS団に対する愛着を深めていた。それはあのクライマックスというべき、混合閉鎖空間下の部室で、周防九曜を相手に立ち振る舞った時もそうだった。あれだけの感情を迸らせてしまったのは、言葉では到底表現しきれないあの四人への思いが、意図せずあふれてしまったせいかもしれない。<彼>が果たしてもおかしくないはずの役割を、今回は半分ほど僕が演じてしまったのも、そんな背景があったからだろう。「機関」を牽引し、日常を保持し、涼宮さんの安全を守る過程で、僕はすでに引き返せないほどSOS団へ個人的な感情移入をしてしまった、ということだろう。もはや何者であろうとも、あの部室に土足で踏み入り、日常風景を破壊しようとする者は許すわけにいかない。そのためならば、頭痛薬や滋養強壮剤の世話になることも、各関係者に折り入って相談依頼し頭を下げることも、涼宮さんを退屈させないために発案した企画を事前に根回しすべく、連日会議を開くことも苦労のうちに入らないだろう。
 先日の一件に関しては、もう一つ気になることがある。あの時、藤原氏がどういった理由から、成長した朝比奈みくるさんを「姉さん」と呼んだのか。これについて僕はずいぶん考えたものだった。思考の材料となるヒントはすでに多く与えられていたし、仮の結論を出すための時間もあった。それはこういうことだ。藤原氏は、僕らが知るところの朝比奈みくるとは別の時間軸から現代に来ており、やがて何らかの原因で、おそらくは天寿をまっとうせずに死を迎える朝比奈さんを蘇らせるために行動していた、というものだ。そのために無限の力、現在涼宮さんが所有している情報改変能力が必要だったのだ。たとえ自己を犠牲にしてでも、彼は彼女が生き続ける方法を取ろうとしていたようにも見えた。
 その姿には、いくらか自分が重なって見えた。僕自身、いざとなればまず自分が犠牲になることをいとわないだろうと思い始めている。立場上、彼は敵の位置にいたが、僕が彼だったとして、果たしてどのような行動を取ったか分からない。何と言っても、今回は僕も部分的に破壊行動に出たのだから。

 しかし、それらのこともここではひとまず置いておく。今日の相手は周防九曜でも藤原氏でもなければ、SOS団員でもないからだ。休日の午前中、僕が自ら彼女を呼び出した。
 その日はにわかに曇っていて、雨が降り出しそうだった。
「こんにちは。久しぶりです……」
 先に雨が降っているような声を出したのは、長年我々がマークし続けていた敵対組織の幹部を、今なお務めている女子高校生、橘京子。
「ご無沙汰しています。今日は来てくださってありがとうございます」
 僕は頭を下げた。
「こんな風に二人で顔を合わせるのは初めてのことですね」
 僕が言い、
「ええ」
 橘京子が頷いた。
「古泉さんからこんな風に呼び出しがあるなんて、正直言って、かなり驚いてます」
 彼女はいくらか緊張しているようだった。それは僕にしても同じだ。この四年間、水面下で少なからず折衝してきた僕らは、傍目に見れば高校生の男女でしかないだろうが、互いの存在に気がついてしまったあの日からずっと、それだけで片づけられない微妙な関係にある。
 集合場所に指定したのは、いつもの場所とは駅を挟んで反対側の小さな広場だった。あのいつものSOS団指定集合場所では、あまりにも「意図された偶然」が起こりやすい。今日の集合が、必要以上の余計な事態に発展するのを僕は望まない。
 他の場所に集まるのであれば、そうした作為的偶然ほとんど起こりえない。すべては涼宮さんだ。彼女が場所を指定すれば、それはたとえ何の変哲もないマンホールや横断歩道の上であろうと、特別な場所になりえる。
「そろそろ時期が来たのではと思いましてね。我々はしかるべきフェイズをいくつか踏みました。それが適切であったかどうかはともかく、今ならばあなたと一対一で会話する機会を設けてもよいのではないか、と思ったのですよ」
 僕は言った。橘京子は、どこか控えめな様子で頷いた。
「あたしもそう思っていました。だけど、なかなか踏ん切りがつかなくて」
「立ち話は何ですから、まずは場所を移すことにしましょう。と言っても、いつもの場所を使うわけにはいきませんが」

 常連となっている例の喫茶店とは反対方面にある店に僕と彼女は入った。いつも行く店よりいくらか照明が暗く、音楽はマスターの趣味なのか、クラシックではなくジャズがかかっている。こじんまりとした店内の、二人用の席に向かい合って座った。白い髭を生やした老人が出てきてメニューを置いた。
「お好きなものをどうぞ。奢らせていただきますよ」
 僕が提案すると、彼女はたちまち首を振った。
「いいえ、そんな。ここはあたしが持ちます」
 僕と彼女は視線を交わした。おそらく共通の思考が頭を駆け巡ったに違いない。
 すなわち、

 敵の組織の勘定でコーヒーなぞ飲んでたまるものか――!

「古泉さん。遠慮はいらないです。さ、何でも好きなものを、こちらが会計を持ちますから」
「いいえ。ここは色々な面を考慮して、我々が代金を持ちますよ。どうぞお気になさらず」
「あ、ほら。このチョコレートケーキおいしそうですよ。どうです?」
「僕は甘いものはそれほど好きではないのですよ。橘さんこそいかがですか。パフェもあるようですよ」
「パフェ!?」
 橘京子は目を輝かせた。しめた!
「うう……で、でもほら! このケーキ、ビターチョコみたいだし、あ、お腹空いてるならサンドイッチもあるみたいですよ?」
「残念ながら僕はしっかり朝食を摂ってきたため、あいにく現在食事を必要としてはいません」
「……」
「……」
 マスターが微笑ましげにこちらを眺めていた。いいえ、違います、そういうことではありませんから。
「では割り勘ということでいかがでしょう」
「賛成」
 最終的にそのように決まった。

 僕はホットブレンド、彼女はミルクティーとショートケーキを頼んだ。
「午前中ですが、甘いものを食べてよいのですか? レディにとってはカロリーの過剰摂取になるかと――」
「余計なお世話だと思います」
 さきほどの小競り合いが、我々の対立精神に火をつけてしまったからだろうか。橘京子はつれなかった。
「もしかして、涼宮さん相手にもそんなこと言ってるんですか? だとしたら、案外あなたのせいで閉鎖空間が生まれているのかもしれませんね」
「まさか。そんなことは億に一つも言いませんよ。相手に合わせた行動を取るのは基本中の基本です」
 橘京子はぴくりと眉を動かした。頬がひきつる。
「ということは、あたしには気遣い無用ってことですか? 古泉さんってそんなデリカシーに欠ける人だったんですね。がっかりしました」
 どうしてだろう。癪に障る。
 これでも涼宮さん率いるSOS団に在籍している身。微笑みの貴公子として、大抵のことは笑顔ひとつで受け流せる体質を保有しているこの僕が、一体なぜ。
 落ち着け、古泉一樹。ここは理性で制御すべきフェイズ。SOS団きっての参謀長たるこの僕が、ちょこざいな小娘の挑発に反応してなるものか!

「ばれてしまっては仕方がないですね。ええ、そうなんですよ。僕は狡猾な人間ですから、目的を遂げるためには手段を選ばないのです」

 乗ってしまった――――!

 橘京子は、まるで尊敬していた教師が実は救いようのないロリコンだったと知り衝撃を受けた時のような顔を浮かべ、ハンカチまで取り出して演出じみた悲哀を滲ませた。
「古泉さん……あなたを一度だって尊敬したあたしがばかでした。あなたにはこう、自己犠牲的な博愛精神があふれているような気がしていたのに……っ」
 僕は笑った。これはそう、SOS団内では決して浮かべない種類の笑顔。
「世の中結果がすべてです。結果さえ出せるのなら、日ごろ他の場所でどのように振舞っていようが何も問題ありません。事実、今回あなたは敗北を喫し、我々は勝利しましたから!」
 橘京子はテーブルを両手でばしんと叩いた。
「ああもう最悪です! 一ヶ月間ずうっと気にしてたことなのに、そんな言い方! こんな偽善者にあたしたちが負けた? そんなこと……あってたまるものですか!」
 そこで注文が運ばれてきた。マスターが賢者のような穏やかな笑顔を浮かべていたので、僕と彼女はクールダウンせざるを得なくなった。
「……ごめんなさい」
「いえ、こちらこそ失敬。取り乱してしまいました」
 立ち上がりかけていた僕と彼女は、しおれた植物のようにへなへなと椅子に座った。
 どうも、彼女が相手だと僕は普段と違うキャラクターを発現させてしまうらしい。
 しかし、どちらかと言えばこちらのほうが本来の僕に近かった。
 涼宮さんの力によって超能力が覚醒した四年前まで、僕はそんな風にして生きていた。その頃はまだ、クラスメートの冗談に軽口を返すような、楽天的な性質も持っていたのだ。
 長らく封印されていたはずのそんな一面が、どういうわけか今、このライバルを前に飛び出してきた。それは不思議なことだった。
 橘京子は、舞台で忘れていた台詞を思い出した役者のようにこう言った。
「ホントは、あんな風になるなんて知ってたら、初めから計画自体を取りやめにしてました。佐々木さんはずっと乗り気じゃなかったし……」
 僕は努めて冷静に、普段の調子を取り戻した。
「あなたは粗忽なところもありますが、基本的には考える頭を持った賢い人です。だから僕としては、なぜあのような計画に加担してしまったのか、それを意外に思っていたところだったのですよ」
 橘京子は視線を落とした。温かいミルクティーから、白い湯気が立ち昇っていた。
「それなんですけど」
 彼女は続く言葉をためらっているようだった。何か、本当に言っていいことなのかどうか、自分では判断がつきかねるとでもいうように。
 まる一分彼女はそうしていた。それからやっと、決心したようにこんなことを言った。
「藤原さんに、どうしてもって頼まれたんです。それまではずうっと命令みたいなことしか言わない人だったのに、あの一回だけは、手まで合わせてあたしに懇願してきたんです。その時は、理由までは言ってくれなかったんですけど……」
 彼女は窓辺に降りそそぐ淡い、青みがかった光を見つめた。どこか物憂げな表情に、何を回想しているのかすぐに察しがついた。例の閉鎖空間で起きた、最終局面。
「あの人の最後の表情が忘れられないんです。てっきり冷酷な人なんだって思っていたのに。ホントはそんなことなかった。ちゃんと血の通った人なんだって。だからあれ以来、あたしは何か正しいのか、さっぱり分からなくなってしまったの」
 彼女は目を伏せた。
「橘さん……」
 僕は、彼女に手を差し出した。

「……そのケーキ、一口もらえませんか」

「へ?」
「実物を見たら何だか食べたくなってきてしまいました。とはいえ一切れ丸々では多いので、追加注文ははばかられます。できればそれを一口僕に……」
「だ、ダメです! ダメ! これはあたしのです!」
 おのれ橘京子、さすが我がよきライバル。
 僕は仕方なく首を振り、本題に戻るべく、こう言った。
「で、何の話でしたっけ」
「最悪ですね古泉さん」
 橘京子は口をへの字に曲げた。僕はぽんと相槌を打った。
「ああ、思い出しましたよ。あなたがそのケーキを僕に一口進呈したいという話ですね」
「違います!」
 僕は溜息をついた。
 ……もちろん、分かっていますとも。
「彼には、思いのほかプライヴェートな事情があったようですね。我々にしてみれば衝撃の事実も、追いつめられた彼の突然の振る舞いも、彼自身にしてみれば道理の通った、ことさら人間的感情に突き動かされた結果の行動だったのでしょう」
 僕がそう言うと、橘京子はまたテーブルを見つめた。そして、ミルクティーを一口だけ飲んだ。
「そう、ですよね……」
 白い指で、カップをソーサーに置いた。
「あたし、あの人のことを何にも分かっていなかったみたい。いっつもばかにされてたせいでしょうか。でも、いなくなってみると何か、こう、」
 彼女は肩を落とした。沈黙が舞い降り、春の深まる午前のひとときを満たした。
「元気を出してください」
 僕は言った。
 橘京子は口をぽかんと開け、トレードマークの二つのおさげを振ってこちらを見た。
「古泉さん」
「僕が言えたことではないと思いますが、それでも近頃、余計なことを言わずにはいられなくなった身として、これを言わせてください。確かに彼、藤原氏のしたことは、こちらにしてみれば愚にもつかない許しがたい行為です。僕の百倍以上怒っていた人間を一人知っているのでね。彼だったら弁解の余地すら与えないかもしれません。何せ涼宮さんをあんな目に遭わせたわけですから」
 橘京子は唇を噛んだ。僕の気のせいでないのなら、彼女は泣くのを我慢しているように見えた。
「しかし、ですね。あくまでも結果的にではありますが、今回の一件、誰一人として負傷者は出ていません。偶発的な出来事がいくつも重なったがゆえの産物と見ることもできるでしょう。ですが僕は、どんな仮説よりもこう考えたい。要するに、涼宮さんはそんな悲しい展開を望んでいないのですよ。……かつて、我々SOS団は文化祭で映画を撮影したのですがね、あれはいかにも涼宮さんらしいコミカルさに満ちていました。そして何と言っても、こうでなくてはならないとでもいうようなハッピーエンドと共に、物語は幕を下ろすのです」
 僕はコーヒーを一口だけすすった。そしてこうつけ加えた。
「だから、いかなる関係者であっても、たとえ敵に該当する立場の者であろうと、その存在が不幸になることを彼女は決して認めません。それはたとえ、立場上の敵役になっていたあなたがたであっても同様です。そしてこれは、団長様だけではなく、僕としても意見を一致させたいところなのですよ」
「古泉さん……」
 橘京子はハンカチを取り出した。そして、ぐす、という音と共に顔を覆った。長い間そうしていた。やがて顔を上げると、彼女は無理矢理作ったような笑顔を浮かべ、こう言った。
「ずるいなあ、そんなの。だって、あなたたちは選ばれたほうの人たちなんですよ? 祝福されているほう。日の当たる場所。それは、あたしたちのいる所とは違うの」
 僕は<彼>の真似をするように首を振った。
「そんなことはないと思いますよ」
 そして言葉を止めた。
 ここから先のことを言うのは、僕の心情的にためらわれることだった。
「……僕たちにも、やがて悲しい時間は訪れるでしょう。すべてのことがそうであるように、現SOS団もまた、永遠に存続するわけではないからです。その時が来ればきっと、おそらくは今が楽しければ楽しいほどに、つらい別れを経験することになります」
 これは今まで、誰にも言ったことのない、僕の本心だった。
 これから先も、彼らに言うことはないだろう。
 僕の名前は古泉一樹、SOS団の副団長にして「機関」のリーダー。
 本来、このような心情吐露が許される立場ではないのだから。
「だけど、でも……」
 橘京子も僕も、それからしばらく何も言わなかった。
 言葉を介さず、同じ空気を共有することで、長い間存在しつづけていた塊が、かすかに溶けていくような、そんなイメージを僕は抱いた。
「解りました」
 やがて彼女は言った。
「全然納得できないし、詭弁のようにも聞こえるけど、それでも解りました。ねえ、古泉さん。あなたたちってどうしてそう理想主義なのかしら? 苦労をたくさんしているはずなのに、いつまで経ってもそんな風なんですもの。……呆れちゃう」
「それはお互い様、ではありませんか?」
 僕と彼女は笑った。それは長い間続いていた、この相容れない関係において起きた、ひとつの小さな奇跡かもしれない。
「だから、ここは一つ友好の印にですね」
 僕はここで万感の願いを込めた。
 決すべきときは今!

「そのケーキをひとくち――」
「だーめです! だめ! ふふふ」
 彼女は笑顔を取り戻した。

 その日の午後、雲の間から、太陽の光が覗いた。
 

 <了>
 


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